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【電子版連載】社会学者・富永京子さんとイドバタ会議――若者と祈り vol.2 2025年11月30日

 池田華陽会・ヤング白ゆり世代の読者と共につくりあげる連載「社会学者・とみながさんとイドバタ会議」。今回のテーマは「若者と祈り」です。20代・30代の女性読者の中から3人に協力してもらい、社会学者で立命館大学准教授の富永京子さんとイドバタ会議を行いました。
 前回は、「祈り」が何をもたらしているかについて“個人”の視点を中心に、3人と富永さんの語らいの中で、ひもときました。今回は、“共同体”という視点で「祈り」について考えます。

〈vol.1はこちらから読めます〉

一緒に祈る意味

 vol.1で、祈ること=自分と向き合うことであることがイドバタ会議の語らいの中で鮮明になった。だが、自己と対峙することへの怖さや、葛藤を抱く人も少なくないだろう。内田さんは、「人間関係など悩んではいたんですけど、そのままそれを祈るってことが、どうしてもできない自分がいました」と過去に抱いていた思いを語ってくれた。他にも、「一度、大きく悩んでいることについては祈るのをやめて、別のことを祈ってみたりした」など、試行錯誤してきた経験談もあがった。

 そうした中で、3人が共通して語ったのは、“一人では、唱題する気持ちになれない時もある”ということ。そして、“自由唱題会や同盟唱題など、みんなと一緒に題目をあげることで、自分が祈るきっかけを得られる”ということだった。
 増田さんは学会3世で、これまで信仰に対する反発心はなく、題目の力も実感していたものの、自分一人ではなかなか祈れなかった経験もあると言い、そういった時、皆で祈るタイミングがあると、「この機会に、この悩みを祈ってみようかなと思えました」と語った。
 こうした語らいを踏まえて富永氏は、共同体として祈る意味について語った。例えば、信仰を持たない人であれば、自分を見つめたり癒やしたりするために、ジムへ行ったり、ピアノを弾いたりするのかもしれない。しかし、それでは、結局、自分一人で解決しようとしているにすぎない。一方で、信仰における共同体のバックアップがあれば、自分以外の誰かが祈ってくれていることを想像できる。それは、一人であれば抱いてしまいかねない不安を安心に変える。さらに、自己と対峙する恐怖に対しては、そっと背中を押す力になっているのではないだろうか、と宗教のバックグラウンドがある共同体としての強みについて言及した。
 
 しかし、共同体で祈るからこその悩みはないのだろうか。富永氏からは、「祈りっていうのは、自分と他人を比べてしまったりはしないんですか」との質問が。それに対し志岐さんは、「何か相談を受けたりしたときに、良かったら一緒に祈らない?と言うことはありますが、強制したりはしないですね」と返答。「祈る時間も、誰かと比べて焦るということはあまりないですね。自分がすっきりするまで祈る時間は、他人と比べられないので」という声も。
 共同体だからといって、「祈り」に強制力が働いているわけではない。唱題の時間やタイミング、実践するか否かまで個人に委ねられている。
 3人が言ってくれたことを踏まえ、「こうしたストレッチが効いていることも良さではないか」と富永氏は関心を示した。

自分のためが、自分のためじゃない

 3人それぞれが語った“祈り”のエピソードで、もう一つ共通していたことは、「祈られている」ことについてだ。
 内田さんは、「発心するまでは、おばあちゃんが祈ってくれているからいいやと思っていたこともありました(笑)」と語りつつ、自分で祈るようになってからも「祈りがかなった瞬間、自分の祈りだけじゃないなと実感することがあります」と続けた。
 志岐さんや増田さんも、他のメンバーの祈りに支えられた経験がある。志岐さんは、自身の友人が対話の末に入会に至った際、入会するまでの間、地域の同志が友人の幸福を祈ってくれている姿を目の当たりにした。そして“自分が入会した時もこうして自分の幸せを祈ってもらっていたんだ!”と感謝が湧いた。「温かく迎えてもらったと感じていたんですけど、それは、皆さんが本当に祈ってくれていたんだなと実感できて、私も恩を返していこうと思いました」と話した。

 他者に「祈られる」ことは一体どんな意味を持っているのか。

 富永氏は、海外の友人から「日本人は、自分の成功も失敗も自分自身のものにしてしまう」との指摘を受けたとのエピソードを紹介し、次のように語った。
 「祈りって、自分のためであるようで、自分のためだけじゃないんだなと。つまり、皆が自分を祈ってくれているし、自分も皆のために祈るっていう。まさにそれ自体が共同体と個人をつなぐ行為ですよね」
 さらに、祈るという行為それ自体が、共同体を維持することにつながっているのではないかとも指摘。たとえ、個々の悩みや願いについて祈っているとしても、「個々バラバラな感じがないのは、やはり“広宣流布”という大きな軸があるからなんでしょうね。全体の大きな目標があるから、エゴイスティックではない」と所感を述べた。

内田さん
内田さん
「祈っているよ」は伝えた方がいい?

 自身が祈ること、そして他者から祈られることを繰り返している彼女たちだが、信仰を持っていない友人たちからはまだまだ“受け入れられない”現実があることも話題になった。志岐さんは、「“祈る”って言葉が強いんですかね……。“願ってるよ”とかだったら受け入れられたりするのか、とちょっと気にしています」と。
 
 そこで、記者がかつて友人に、「祈っているよ」と伝えたところ「祈らないで」と言われた経験をしたという話を紹介。「相手も、どのように祈られて、どんな結果が出るのか怖いのかな。その気持ちも分からなくもないですかね(笑)」と志岐さん。増田さんは、職場の人が体調不良だったりすると、自分ではその人の健康を祈ったりするものの、「どんなふうに受け取られるか分からなくて、なかなか祈っているよとは伝えられない」と。

 一方、富永氏は、「私は、祈ってると伝えた方がいい派です(笑)」と語る。個人化が進む現代社会だからこそ、他者の幸福を祈る“共同体”の価値に自信を持った方がいいのではと強調した。そして、「競争社会の中では、友人が自分の幸福を祈ってくれていることって、社会を幸福なつながりでつなぎ直すために重要だと思うんです。『祈っている』とか『願っている』とかは、むしろ表に出していくべき価値だと思います」と述べ、イドバタ会議を締めくくった。

 ◇◆◇
 今回のイドバタ会議終盤、富永氏の「祈り」についての印象を聞いた。
 「イメージがだいぶ変わりました。おそらく、多くの日本社会の人は“祈る”っていうことを結構、誤解しているんじゃないでしょうか。多くの人が、祈りを、何もしていない行為あるいは何とかしてもらうものだと思っていると思うんです。でも皆さんの話を聞いて、祈るって、すごくラジカル(急進的)。人を能動的な考え方にする一つのプログラムですよね。自分も、もっと精神の世界を生きなきゃと思いました」

 次回は、今回のイドバタ会議を踏まえて富永さんのインタビュー記事を掲載します。

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