• ルビ
  • 音声読み上げ
  • シェア
  • メール
  • CLOSE

「学びの社会」を創ることによって 主体性のある人の連帯は広がる――インタビュー㊦ 東京大学名誉教授 神野直彦さん 2025年7月6日

  • 〈危機の時代を生きる 希望の哲学〉

 私たち一人一人が「主体性」をもって、健全な民主主義を取り戻すためには、何が必要でしょうか。
 財政学者で東京大学名誉教授の神野直彦さんは、そのキーワードとして「教育」を挙げます。
 人間を「手段化」するためではなく、一人一人の「人間的能力を開花させる」教育こそが、日本社会を根底から創り直す最も確かな道である――と。
 4日付のインタビュー㊤に続き、㊦を掲載します。(聞き手=中谷光昭、村上進)
  
 ※インタビュー㊤の記事はこちらから。

 ――日本が「民主主義の危機」に陥った原因の一つに、「中間層の衰退」があると言われています。
  
 日本社会では、貧困層が広がる一方で、ごく一部の富裕層が圧倒的な富を手にするという、極端に不均衡な構造が形成されつつあります。こうした社会では、民主主義が健全に機能しなくなります。
  
 歴史的に見ても、民主主義は安定した中間層の存在を前提に成立してきました。互いの利害が調整され、公共の意思決定が成り立つのは、共通の土俵があってこそです。
  
 新自由主義では市場経済のもたらす格差は、積極的に肯定されます。所得の格差は「その人の能力」を反映しているから公正である――と。それはつまり、「あなたが貧しいのは、あなたの能力が足りないからだ」と言っているのと同じです。
  
 日本ではこれまで、できるだけ職務を単純化し、賃金を抑制することで国際競争力を高めようとしました。それにより非正規従業員は増え、ますます所得格差が広がったのです。
  
 新自由主義は、この考え方を正当化するため、学校教育にも「競争原理」を浸透させていきました。
 子どもたちにテストの点を競わせ、貧しくなりたくなければ、成績を良くして、偏差値の高い大学に入って、給料の良い会社に就職して……という幻想を教え続けた。
 市場における効率性を優先するあまり、人間を「魂をもった存在」としてではなく、「使えるか・使えないか」という有用性で評価するようになってしまった。
  
 もちろん、成長する上で「競争」も大切な要素です。しかし、そればかりが過度に強調され、「協力すること」の価値を教える機会が減ったことに問題があるのです。
  
 また、「この問題」には「こう答える」と機械のようにインプットして、それを再現することが、学校教育の評価軸になっていきました。「なぜそうなるのか」「それについて、どう思うか」よりも「○○を書いたのは誰か」「○○年に何が起きたか」といった事実の断片ばかりを丸暗記させられてきたのです。
  
 かつて、経済学者の正村公宏先生は小・中学校教育における最も重要な目的は「みずから社会を構成する主体となる力を身につけさせること」と指摘しました。
 しかし、新自由主義的な暗記型の詰め込み教育では、そのような主体性が育つわけがありません。

昨夏、東京・八王子市の創価大学で行われた、通信教育部の夏期スクーリングの開講式。幅広い世代の学生が向学心を燃やす
昨夏、東京・八王子市の創価大学で行われた、通信教育部の夏期スクーリングの開講式。幅広い世代の学生が向学心を燃やす
■盆栽型と栽培型

 ――機械化された経済システムに順応できる人を育てるために、早押しクイズに答えるような「条件反射」を身につけさせる教育が行われてきた、ということでしょうか。
  
 その通りです。人間を「機械化」していくのですから、「主体性」が失われていくのは当然です。
 「経済学の父」と謳われるアダム・スミスもまた、教育は「職業に就くための手段」としてよりも、「受けること自体」に意味があると強調しています。
 政府が教育を提供する意義は、生産活動が分業化され、労働が単純化することによって生じる社会の亀裂を解消し、社会統合を実現していくところにあると考えていたのです。
  
 「教育」の語源であるラテン語の「エデュカチオ」には「引き出す」という意味があります。
 教育とは本来、単に知識を詰め込んでいくものではなく、「その人らしさ」を引き出す営みのはずです。
  
 東京大学名誉教授の折原浩先生は、教育の手法を「盆栽型」と「栽培型」に分け、対比されています。
 盆栽型は、子どもを“型にはめる”教育です。盆栽の枝を、曲がりたくもない方向に針金で矯正するように、子どもの個性や可能性を無視して基本的訓練だけを徹底し、一定の型に押し込めていく手法です。
  
 一方、栽培型は、子どもが伸びたい方向を重んじ、サポートする教育です。
 あらかじめ決められた“理想像”に従って育てるのではなく、その子の関心や好奇心を内面から引き出すように行われる手法です。
 経済学者で東大名誉教授だった宇沢弘文先生もまた、教育は「人間として成長することをたすけるもの」として、「栽培型」の教育観に立っていました。
 宇沢先生は人間を生産要素に過ぎないとみなす人的資本論を、きわめて非人間的、反社会的だと痛烈に批判されていました。

■「協力」を教える

 ――競争や詰め込み学習の先には、激しい受験戦争が待っています。こうした環境では「協力」の価値を実感することは難しいですね。
  
 アメリカの哲学者ジョン・デューイの教育哲学を継承する宇沢先生は、学校教育における「社会的統合の原則」を強調されていました。
 教育において最も重要なのは、異なる背景をもつ子どもたちが、学校という同じ空間に集い、共に学び、遊ぶ中で、“同じ仲間なんだ”という意識を育んでいくことである――と。“共に生きる感覚”を養うことこそが、学校教育の目的であるということです。
 競争原理を植え付けようとする新自由主義は、まさに真逆のことをしているわけです。
  
 人間は、「競争」によって生かされているわけではありません。誰しもが赤ちゃんの頃、多くの人に支えられたように、人間が生きるためには「支え合い」が不可欠です。
 であるならば、子どもたちに教えるべきことは、他者への親近感、思いやり、相互理解や寛容性であるはずです。
  
 他者の成功に献身すれば、自己も成功するという「協力原理」を教えなければいけないのです。
 たとえ、他の家庭の子であっても、その子が能力を伸ばし、生き生きと働き、税金を納め、地域を支え、より良い社会づくりに貢献してくれれば、それは社会全体の利益となり、結果的に自分の家庭や自分の子どもも恩恵を受けます。他者の成功が巡り巡って自分の幸福につながる――そのことを、学校教育は教えるべきなんです。
  
 人間的な成長や協力原理を無視した教育が続けば、子どもたちはますます孤立し、「生きる意味」を見失ってしまいます。日本は先進諸国の中でも、子どもの死因としての自殺率が最も高い。どうして子どもたちが競争に駆り立てられ、絆を引き裂かれ、苦しまなければならないのか。強い憤りを抱いています。

神野さんの著書『増補 教育再生の条件 経済学的考察』
神野さんの著書『増補 教育再生の条件 経済学的考察』
■リカレント教育

 ――近年、日本の学校教育では探究型学習など、子どもたちの興味関心を引き出す挑戦がなされています。今後、学校教育だけでなく、日本社会が、人々の「主体性」と「協力原理」を引き出していくために、どのような取り組みが重要になるでしょうか。
  
 学校教育は、「協働的」「互恵的」な学びを重視し、拡充する必要があります。
 その上で、学校教育が基軸となって、社会全体の教育的な機能をもつ、つまり、誰もが何度でも学び直せる「学びの社会」を創りあげていくことが重要です。
  
 学びの社会の柱には「シティズンシップ教育」――市民として積極的に社会に参加し、責任ある行動を取るための知識や能力を育む教育――を据えることが大切です。
  
 スウェーデンでは社会全体で「教育の場」を創り出しています。地域の人々が主体的に参加する学びの場として「学習サークル」が開かれ、語学、音楽、文学などを自主的に学び、政治や社会、生活について話す機会が生まれている。社会と生活と学びが、分かちがたく結ばれているのです。
 このようなサークルは民主的な方法で運営されており、地域に根差した学習の営みが民主主義を下支えしています。
  
 人間は本来、「学びの人」であり、仲間と学び合いながら「自己変革」を遂げる主体です。「学びたい」という内発的な意欲を丁寧に引き出していくような環境が今、求められています。
  
 ――創価学会の第3代会長である池田大作先生は、恩師・戸田城聖先生の言葉を通しながら、“創価学会は、さまざまな分野において、社会の繁栄、人類の平和のために、献身的に活躍する人材を育て上げる教育的母体になっていかねばならない”と語っていました。どんなに優れた制度や機能があっても、それを生かせるかどうかは結局、人間にかかっている。だからこそ誰もがアクセスできる、学びの機会が大切になります。
  
 そうです。民主主義も同じです。せっかく、民主的なシステムがあっても、形骸化したり、皆が不幸になっていく方向に流されたりしては何の意味もありません。
  
 「学びの社会」を創るということは、「人間が人間として生きることのできる社会」を実現することです。
 人は「学ぶ」ことで、人間として高まり、喜びを感じます。「学び合う」ことで、その喜びは倍加し、主体性をもつ人の連帯が広がります。その中で民主主義は健やかに育ち、「賢い財政」を実現していくことができるのです。
  
 「学びの社会」を創るために欠かせないのは「誰でも、いつでも、どこでも、ただで」の原則です。特に大切なのは「ただで」ということ。経済的な貧富の差によって、「学びの機会」が奪われるようなことがあってはなりません。誰でも、いつでも、何度でも学び直せる社会を創る。そのためには「無償」が必須要件なのです。
  
 日本では、学校を卒業した後の教育といえば、「リスキリング(新しいスキルを習得し、職業能力を再開発する取り組み)」が主流になってきたと思います。
 しかし、これからはスキルの習得にとどまらず、社会の一員として自分の役割を問い直す「学び直しの場」が必要です。「リカレント教育(学校教育を終えた後も生涯にわたって学び続け、必要に応じて就労と学習を繰り返すこと)」を地域・社会にどう広げていくかが、重要な課題となるでしょう。
  
 その点において、宗教は、地域ごとに人と人を結び、学びや語らいの場を提供し、共により良い社会を模索していくための土壌になってきた歴史があります。
 「学びの社会」を創出する上で、創価学会の皆さんが発揮できる力、果たせる役割も増えていくのではないでしょうか。

 じんの・なおひこ 1946年、埼玉県生まれ。財政学者。東京大学経済学部教授、地方財政審議会会長、日本社会事業大学学長、日本財政学会代表理事等を歴任。東京大学名誉教授。2009年に紫綬褒章を受章。著書に『財政と民主主義――人間が信頼し合える社会へ』(岩波書店)、『増補 教育再生の条件 経済学的考察』(岩波書店)ほか多数。

 ●ご感想をお寄せください。
 kansou@seikyo-np.jp
 ファクス 03-5360-9613
  
 ●こちらから、「危機の時代を生きる」識者インタビューの過去の連載の一部をご覧いただけます。

動画

SDGs✕SEIKYO

SDGs✕SEIKYO

連載まとめ

連載まとめ

Seikyo Gift

Seikyo Gift

聖教ブックストア

聖教ブックストア

デジタル特集

DIGITAL FEATURE ARTICLES デジタル特集

YOUTH

劇画

劇画
  • HUMAN REVOLUTION 人間革命検索
  • CLIP クリップ
  • VOICE SERVICE 音声
  • HOW TO USE 聖教電子版の使い方
PAGE TOP