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電子版連載〈Chronicle〉 池田先生の若き日を学ぶ 2025年3月10日

  • 第11回 核時代の始まり

 1950年代、東西冷戦の対立を背景に、熾烈な核開発競争が始まります。世界が核兵器の脅威にさらされる中、戸田先生は、57年9月、「原水爆禁止宣言」を発表しました。連載「クロニクル」(年代記)の第11回は、戸田先生、池田先生、そして私たちへと続く創価学会の核廃絶運動の原点に光を当てます。
  
  

戦後の国際社会を規定した「冷戦」
東西冷戦の象徴とされる「ベルリンの壁」。1961年に東ドイツ政府によって建設された(DPA/共同通信イメージズ)
東西冷戦の象徴とされる「ベルリンの壁」。1961年に東ドイツ政府によって建設された(DPA/共同通信イメージズ)

 第2次世界大戦後、戦勝国のアメリカとソビエト連邦は、ヨーロッパの戦後処理などをめぐって対立を深めた。その影響は世界全体に波及し、多くの国々を巻き込んでいった。こうしてアメリカを中心とする資本主義陣営とソ連を中心とする社会主義陣営との対立は、直接には戦火を交えない「冷戦」(Cold War)と呼ばれ、1940年代後半から90年代前半までの国際社会のあり方を形づくっていった。
  
 冷戦の間、米ソ間やヨーロッパでは戦争が行われなかったものの、両陣営がアジア、中東、アフリカなどの地域紛争や対立に介入。「朝鮮戦争」や「ベトナム戦争」など、資本主義陣営と社会主義陣営の「代理戦争」が各地で発生した。
  
  

核兵器開発競争、そして反対運動
被災した「第五福竜丸」。強い放射能を含む「死の灰」を浴び、静岡県・焼津港に帰港した(1954年3月)
被災した「第五福竜丸」。強い放射能を含む「死の灰」を浴び、静岡県・焼津港に帰港した(1954年3月)

 東西冷戦を象徴する存在が「核兵器」である。1949年8月、アメリカに続きソ連が核実験を成功させて以降、米ソによる核開発競争が激化する。51年、アメリカはネバダ核実験場で集中的な核実験に着手。52年に841発だった同国の核弾頭数は、60年に1万8638発にまで増えた。核兵器開発は米ソにとどまらず、52年にイギリスが核実験を成功させ、第三の核保有国に。その後、フランス、中国が核保有国となっていく。
  
 54年3月、遠洋マグロ漁船の第五福竜丸の乗組員が、アメリカのビキニ環礁での水爆実験に巻き込まれ、被ばくする。水爆実験の影響は大きく、放射能に汚染された魚が水揚げされ、放射能を含んだ雨(放射性雨)が南太平洋の島々をはじめ、日本各地にも降り注いだ。
  

日本の英国大使館前で行われた原水爆実験反対のデモ(1957年5月)
日本の英国大使館前で行われた原水爆実験反対のデモ(1957年5月)

  
 この事件の衝撃によって日本の世論が沸騰し、世界の核兵器開発競争に反対する運動が巻き起こる。2024年にノーベル平和賞を受賞した「日本原水爆被害者団体協議会」(日本被団協)も「第五福竜丸事件」の2年後に結成された。1955年には、イギリスの哲学者バートランド・ラッセルと、アメリカの物理学者アルベルト・アインシュタインが中心となり、核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表。核兵器廃絶運動は世界的な潮流になった。
  
 米ソが核戦争に踏み切る一歩前までいったのが、62年の「キューバ危機」だ。キューバに核ミサイルを搬入しようとするソ連に対し、アメリカは海上封鎖で対抗。緊張は極度に高まったが、ソ連のミサイル撤去で危機は回避された。89年に「冷戦終結」が宣言されたが、核兵器の拡散は続き、実戦で使用される危険はかつてないほど高まっている。
  
  

ただただ恩師の遺訓のままに
横浜・三ツ沢の競技場で行われた「若人の祭典」に出席した戸田先生と池田先生(1957年9月8日)
横浜・三ツ沢の競技場で行われた「若人の祭典」に出席した戸田先生と池田先生(1957年9月8日)

 「マグロから雨にまで、放射能が発見される地球にしてしまったことを、人びとは、もはや一瞬も忘れることはできなくなってきた。原水爆について、人びとが健忘症に陥ったその時、人類は自殺への道を急ぐことになるだろう。恐るべき運命を、人類は、いつか握ってしまったのだ」(小説『人間革命』第8巻「明暗」の章)
  
 1954年の「第五福竜丸事件」が起こった直後、日本各地で原水爆反対の機運が高まり、署名運動などが活発に行われるように。その中で、戸田城聖先生は、核兵器廃絶運動の根底には、人類の“生命そのものの変革”が不可欠であることを喝破していた。「彼自身の今日に至る宗教活動の実践を、広宣流布の戦いとして口に叫んできたが、その目的とするところは、すべての人びとの生命の変革による、全人類の恒久平和の実現にほかならなかった」(同)
  
 その後、戸田先生は、55年秋の大阪の堺支部総会で「核兵器全廃を訴えていくことが、唯一の被爆国たる日本の使命」と主張。翌56年6月には、福岡で「原爆などを使う人間は最大の悪人だ!」と訴えた。そして、57年9月8日、横浜・三ツ沢の競技場で開催された、青年部の東日本体育大会「若人の祭典」の席上、戸田先生は青年への“遺訓の第一”として、「原水爆禁止宣言」を発表する。核兵器を、人間の尊厳と生存の権利を脅かす「絶対悪」とし、その廃絶を青年に託したのである。
  
 「たとえ、ある国が原子爆弾を用いて世界を征服しようとも、その民族、それを使用したものは悪魔であり、魔ものであるという思想を全世界に広めることこそ、全日本青年男女の使命であると信ずるものであります」
  
 この「原水爆禁止宣言」は、創価学会の平和運動の「原点」となった。池田先生は、核兵器なき世界を目指して生涯にわたって行動してきた。「ラッセル=アインシュタイン宣言」に署名した科学者の一人である、ジョセフ・ロートブラット博士をはじめ、多くの識者・指導者との対談を行った。また、1・26「SGI(創価学会インタナショナル)の日」記念提言など、平和や核兵器廃絶に関する声明を発表した。
 池田先生が一貫して続けてきた核兵器廃絶への挑戦。その根底にあるのは、自身の戦争体験とともに、「師への誓い」であった。先生は、恩師の「原水爆禁止宣言」への思いを次のようにつづっている。
  
 「私はただただ恩師の遺訓のままに、世界の平和にこの身を粉にして行動する以外にないと決めている。単純であろうが、この決意こそ、だれよりも強いことを、私は知っているつもりである」(『私の履歴書』)
  

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