フランスのアラン・ポエール元上院議長は、大統領代理も務めた政界の重鎮だった。池田先生をたたえ、「平和のために行動する人は、人類に対する最大の貢献者です」と評している。先生が議長についてつづったエッセーを抜粋して掲載する。〈『私の世界交友録』読売新聞社(『池田大作全集』第122巻所収)から〉
フランスのアラン・ポエール元上院議長は、大統領代理も務めた政界の重鎮だった。池田先生をたたえ、「平和のために行動する人は、人類に対する最大の貢献者です」と評している。先生が議長についてつづったエッセーを抜粋して掲載する。〈『私の世界交友録』読売新聞社(『池田大作全集』第122巻所収)から〉
人生、戦うことはできる。むずかしいのは戦い続けることである。初心を忘れないことである。戦い続けた人の言葉には、千鈞の重みがある。
「私は、生きて囚われの身となるよりは、たとえ死んでも、一人でも多くの人を救いたかったのです」
フランス上院のポエール議長(会見当時)は、反ナチ・レジスタンスの闘士であった。
一九四〇年、ダンケルクの戦い。ナチスの猛攻が、北フランスの港町を襲った。
「激しい爆撃が続きました。私は懸命に防空壕を掘って、兵士を退避させました。ともかく皆を救いたかった。二千人以上を助けたでしょうか」
しかし――と議長は息をつがれた。
「ある一人の兵士を救えなかった。……彼は、私の友人でした」
苦渋の体験を話してくださったのは、リュクサンブール宮殿(パリ)にある議長公邸である。八一年以来、五回の会見はすべて、この歴史の館にお招きを受けたものである。
宮殿の四百年の重みは、自然のうちに、“時を超えて輝く何か”にだけ、人の思考を誘う力があるようであった。
「必死の救出作業のなかで、私はあることに気づきました。それは自分には人々を安心させる力があるということです。そこから私の政治家への道が始まったといえるでしょう。この話をするのは初めてです。ここにいる孫娘たちも聞いたことがありません」
議長にとって、政治とは「人を救う」ことであった。人を安心させ、幸福にすることであった。その初心を八十五歳を超える今日まで貫いてこられた。
その間、二十五年にわたって上院議長を務め、大統領代行も二度(六九年、七四年)。文字どおり、フランス政界の重鎮であり、良心であられる。
いつも温厚な大人の議長であるが、ナチスのことを語るときだけ、目が厳しく光る。
「とうとう奴らに、つかまる日が来ました」
ナチスに捕らえられた同志を救おうとして見つかったのである。
同志とともに、学校の校庭に引きずり出された。夏だった。建物の窓や戸が開けっぱなしになっていた。
「処刑せよ」。いきなり将校が命令した。こんなにも早く? みせしめか? 復讐心にかられたのか?
ナチス兵が近づいてきた。自分の死を知ったときの家族の悲しみを思った。愛する妻を思った。胸に銃口が突きつけられた。「死」の顔を間近に、ありありと見た。
――そのとき、轟音が空を満たした。サイレンの音が続いた。舞台が一転した。連合軍の爆撃が始まったのだ。ナチスの兵士は、たちまち逃げ出した。
あと数秒、引き金を引くだけの時間があれば確実に死んでいた。
議長は、しみじみと言われた。
「祖父がかつて私に教えました。『明日のことは、わからないものだ』と。若かった私は、そのとおりだとは納得できなかった。しかし今は本当によくわかります。
多くの友が亡くなったなか、不思議にも私は生きのびました。大戦中、イギリスに渡ったときも、頑丈な輸送船に乗った人々ではなく、小さな漁船に乗り込んでいた私のほうが助かったのです」
ゆえに議長は「青年は希望を失ってはいけない。何があろうと、未来を信ずることだ。勇気をもって『未来に参加する』ことだ。絶対に悲観主義ではいけない。楽観主義でいくべきです」と声を強められた。命をかけて購った宝の言葉であった。
◇ ◇ ◇
「人間は何のために地球上に生まれたのか。その意味を考えるべきです。人間は、自分より不幸な人を助けるべきなのです。それが人間としての責任であり、政治の使命なのです」
議長は、貧しい学生時代にもパリの難民の救援運動を展開された。助けられた家族からは半世紀の後も毎年、手紙が届いたという。
こういう方が政界のリーダーであったことは、何と幸福なことであろうか。
かくも高潔な議長は、政治の現状を憂いておられた。
「今や『政治家』という言葉はもともとの高貴な意味を失い、悪い響きをもつようになってしまいました。たんに議席や地位をねらうだけというところまで目的観が下がってしまった。
社会の課題に対しても、『こうすれば解決できる』という確信をもっていない。政策案はもっていたとしても、もっとも根本的な課題への思索や探究がない。変化の激しさに振り回されて、本質的な問題を考える心の余裕がなくなっているのです。
『考えない』政治家ばかりになって、次第に『イメージ』だけに左右される傾向が強まっています。これは憂慮すべきことです」
この世には、苦しんでいる人々がたくさんいるではないか! その人々を前に、何を自分のことばかり考えているのか。
◇ ◇ ◇
崇高な闘争の人生の結論として、議長が語ってくださった魂の言葉を、私は後世に残しておきたい。
「人生には、生きていくうえでの基本の軌道、『道』が必要です。心のままに振る舞うだけではいけない。人生の不変の知恵を伝える宗教の必要性もそこにあります。確かな宗教をもつ人は、ドラマに富んだ人生を生き抜くうえで、他の人にはない力を得るのです」
「他の人に奉仕し、自分を犠牲にすることは、結局、自分のためになります。ゆえに、エゴイストであってはならない。これが長い人生を振り返っての私の実感なのです」
人生の満足とは。勝利とは。栄光とは。――私は思う。
何があろうと戦い続けた、その信念の歴史にこそ「幸福」はある、と。
人生、戦うことはできる。むずかしいのは戦い続けることである。初心を忘れないことである。戦い続けた人の言葉には、千鈞の重みがある。
「私は、生きて囚われの身となるよりは、たとえ死んでも、一人でも多くの人を救いたかったのです」
フランス上院のポエール議長(会見当時)は、反ナチ・レジスタンスの闘士であった。
一九四〇年、ダンケルクの戦い。ナチスの猛攻が、北フランスの港町を襲った。
「激しい爆撃が続きました。私は懸命に防空壕を掘って、兵士を退避させました。ともかく皆を救いたかった。二千人以上を助けたでしょうか」
しかし――と議長は息をつがれた。
「ある一人の兵士を救えなかった。……彼は、私の友人でした」
苦渋の体験を話してくださったのは、リュクサンブール宮殿(パリ)にある議長公邸である。八一年以来、五回の会見はすべて、この歴史の館にお招きを受けたものである。
宮殿の四百年の重みは、自然のうちに、“時を超えて輝く何か”にだけ、人の思考を誘う力があるようであった。
「必死の救出作業のなかで、私はあることに気づきました。それは自分には人々を安心させる力があるということです。そこから私の政治家への道が始まったといえるでしょう。この話をするのは初めてです。ここにいる孫娘たちも聞いたことがありません」
議長にとって、政治とは「人を救う」ことであった。人を安心させ、幸福にすることであった。その初心を八十五歳を超える今日まで貫いてこられた。
その間、二十五年にわたって上院議長を務め、大統領代行も二度(六九年、七四年)。文字どおり、フランス政界の重鎮であり、良心であられる。
いつも温厚な大人の議長であるが、ナチスのことを語るときだけ、目が厳しく光る。
「とうとう奴らに、つかまる日が来ました」
ナチスに捕らえられた同志を救おうとして見つかったのである。
同志とともに、学校の校庭に引きずり出された。夏だった。建物の窓や戸が開けっぱなしになっていた。
「処刑せよ」。いきなり将校が命令した。こんなにも早く? みせしめか? 復讐心にかられたのか?
ナチス兵が近づいてきた。自分の死を知ったときの家族の悲しみを思った。愛する妻を思った。胸に銃口が突きつけられた。「死」の顔を間近に、ありありと見た。
――そのとき、轟音が空を満たした。サイレンの音が続いた。舞台が一転した。連合軍の爆撃が始まったのだ。ナチスの兵士は、たちまち逃げ出した。
あと数秒、引き金を引くだけの時間があれば確実に死んでいた。
議長は、しみじみと言われた。
「祖父がかつて私に教えました。『明日のことは、わからないものだ』と。若かった私は、そのとおりだとは納得できなかった。しかし今は本当によくわかります。
多くの友が亡くなったなか、不思議にも私は生きのびました。大戦中、イギリスに渡ったときも、頑丈な輸送船に乗った人々ではなく、小さな漁船に乗り込んでいた私のほうが助かったのです」
ゆえに議長は「青年は希望を失ってはいけない。何があろうと、未来を信ずることだ。勇気をもって『未来に参加する』ことだ。絶対に悲観主義ではいけない。楽観主義でいくべきです」と声を強められた。命をかけて購った宝の言葉であった。
◇ ◇ ◇
「人間は何のために地球上に生まれたのか。その意味を考えるべきです。人間は、自分より不幸な人を助けるべきなのです。それが人間としての責任であり、政治の使命なのです」
議長は、貧しい学生時代にもパリの難民の救援運動を展開された。助けられた家族からは半世紀の後も毎年、手紙が届いたという。
こういう方が政界のリーダーであったことは、何と幸福なことであろうか。
かくも高潔な議長は、政治の現状を憂いておられた。
「今や『政治家』という言葉はもともとの高貴な意味を失い、悪い響きをもつようになってしまいました。たんに議席や地位をねらうだけというところまで目的観が下がってしまった。
社会の課題に対しても、『こうすれば解決できる』という確信をもっていない。政策案はもっていたとしても、もっとも根本的な課題への思索や探究がない。変化の激しさに振り回されて、本質的な問題を考える心の余裕がなくなっているのです。
『考えない』政治家ばかりになって、次第に『イメージ』だけに左右される傾向が強まっています。これは憂慮すべきことです」
この世には、苦しんでいる人々がたくさんいるではないか! その人々を前に、何を自分のことばかり考えているのか。
◇ ◇ ◇
崇高な闘争の人生の結論として、議長が語ってくださった魂の言葉を、私は後世に残しておきたい。
「人生には、生きていくうえでの基本の軌道、『道』が必要です。心のままに振る舞うだけではいけない。人生の不変の知恵を伝える宗教の必要性もそこにあります。確かな宗教をもつ人は、ドラマに富んだ人生を生き抜くうえで、他の人にはない力を得るのです」
「他の人に奉仕し、自分を犠牲にすることは、結局、自分のためになります。ゆえに、エゴイストであってはならない。これが長い人生を振り返っての私の実感なのです」
人生の満足とは。勝利とは。栄光とは。――私は思う。
何があろうと戦い続けた、その信念の歴史にこそ「幸福」はある、と。
アラン・ポエール 1909年~96年。パリ大学、パリ政治学院卒。「人間は、自分より不幸な人を助けなければならない」との信念で、第2次世界大戦後の1946年、上院議員に。蔵相、外相を歴任した。68~92年、上院議長。69年と74年には、臨時大統領を務めた。池田先生と友情を育み、こう語っている。「私が池田SGI会長を尊敬し、深い親しみを覚える理由は、会長が『平和』をもたらしてくれる使者と思うからです」
アラン・ポエール 1909年~96年。パリ大学、パリ政治学院卒。「人間は、自分より不幸な人を助けなければならない」との信念で、第2次世界大戦後の1946年、上院議員に。蔵相、外相を歴任した。68~92年、上院議長。69年と74年には、臨時大統領を務めた。池田先生と友情を育み、こう語っている。「私が池田SGI会長を尊敬し、深い親しみを覚える理由は、会長が『平和』をもたらしてくれる使者と思うからです」
交流の足跡
交流の足跡
わが身を犠牲にしても人を救いたい
わが身を犠牲にしても人を救いたい
――ユゴーも反対勢力によって“流刑”されたのだったね――
1981年6月15日、フランス上院にある「ユゴーの部屋」を訪れた折、池田先生が語った。フランスが誇る世界的文豪は、人間愛あふれる上院議員でもあった。
この2年前の79年、先生は第3代会長を辞任。背後に嫉妬の反逆者、忘恩の輩がうごめいていた。ユゴーが亡命生活で次々と名作を生み出したように、先生は幾つもの励ましのドラマをつづった。
訪問は、ポエール上院議長の招きによるもの。上院本会議場には、ユゴーの席があった。先生は椅子に手を置き、思いを巡らせ、議場内をゆっくりと見わたした。
その後、議長の公邸で初めての出会いが結ばれた。語らいは3時間にも及んだ。議長は笑みを浮かべ、「今まで池田先生がソ連やブルガリアを訪問し、政府要人とも対談してきたことを知っています。池田先生は“平和の使者”だと思っています」と。
先生は自らの信念を語った。
「平和や生命尊重という課題については、売名や観念ではなく事実の行動こそ大切である、との信念で動いているつもりです。そうでなくしては、次代を担いゆく青年達への、真実の波動にはなりません」
公邸で計5回の会見。87年の3回目の会談で、先生は議長の豊かな人生経験に学びたいと述べ、年を重ねた時に最も重要なことは何かと意見を求めた。議長は答えた。
「要するに、我々が何のために、この地球上に存在しているのか。その意味を自覚することが大切である。しかし、これらはすべて池田SGI会長自身、常に実践し、身をもって教えられていることである」
89年の会談でも、議長は先生への賛辞を惜しまなかった。
「わが身を犠牲にしても人を救いたい。また戦争には絶対に反対である。SGI会長も、その信念で行動されてきた。私も同じです。人間は自分より不幸な人を、助けなければならない」
91年6月20日、二人の語らいは、オープニングを間近に控えた「ビクトル・ユゴー文学記念館」が話題に。フランス・ビエーブル市の同記念館は、ユゴーの精神を後世に伝えるため、創立された。手稿や遺品などユゴー関連の資料約6500点を所蔵する。
この日の会談で、先生は記念館設立の“秘話”を披露する。
「設立の着想は、実は10年前、議長と初めてお会いした時に生まれたものなのです」
「あの時、私は決意したのです。偉大な文豪の業績を、英雄の激闘の生涯を後世の歴史に残そうと――。記念館設立への第一歩でした。それも、議長のご好意に発端があるのです」
議長は笑みをたたえ、記念館にはユゴーのエスプリ(精神)が見事に象徴されていると思います、と。先生は、反ナチ・レジスタンス運動の闘士であった議長の半生と、独裁者と戦い続けたユゴーの人生を重ね合わせながら、「議長こそ、ユゴーのような信念と勇気を備えた“強き心”の人です」と、深き敬意を表した。
日本とフランス。文化は異なっても、同じ“人間”として、二人は平和への熱誠を語り合い、固い友情を結んだ。
議長は語っている。
「私は世界がナチに支配されることを恐れ、戦った。また、フランスとドイツの和解・交流のために奔走してきた。今、SGI会長は、核の脅威と戦い、平和のために奮闘しておられる。現代にあって、これ以上、尊い行動はない」
――ユゴーも反対勢力によって“流刑”されたのだったね――
1981年6月15日、フランス上院にある「ユゴーの部屋」を訪れた折、池田先生が語った。フランスが誇る世界的文豪は、人間愛あふれる上院議員でもあった。
この2年前の79年、先生は第3代会長を辞任。背後に嫉妬の反逆者、忘恩の輩がうごめいていた。ユゴーが亡命生活で次々と名作を生み出したように、先生は幾つもの励ましのドラマをつづった。
訪問は、ポエール上院議長の招きによるもの。上院本会議場には、ユゴーの席があった。先生は椅子に手を置き、思いを巡らせ、議場内をゆっくりと見わたした。
その後、議長の公邸で初めての出会いが結ばれた。語らいは3時間にも及んだ。議長は笑みを浮かべ、「今まで池田先生がソ連やブルガリアを訪問し、政府要人とも対談してきたことを知っています。池田先生は“平和の使者”だと思っています」と。
先生は自らの信念を語った。
「平和や生命尊重という課題については、売名や観念ではなく事実の行動こそ大切である、との信念で動いているつもりです。そうでなくしては、次代を担いゆく青年達への、真実の波動にはなりません」
公邸で計5回の会見。87年の3回目の会談で、先生は議長の豊かな人生経験に学びたいと述べ、年を重ねた時に最も重要なことは何かと意見を求めた。議長は答えた。
「要するに、我々が何のために、この地球上に存在しているのか。その意味を自覚することが大切である。しかし、これらはすべて池田SGI会長自身、常に実践し、身をもって教えられていることである」
89年の会談でも、議長は先生への賛辞を惜しまなかった。
「わが身を犠牲にしても人を救いたい。また戦争には絶対に反対である。SGI会長も、その信念で行動されてきた。私も同じです。人間は自分より不幸な人を、助けなければならない」
91年6月20日、二人の語らいは、オープニングを間近に控えた「ビクトル・ユゴー文学記念館」が話題に。フランス・ビエーブル市の同記念館は、ユゴーの精神を後世に伝えるため、創立された。手稿や遺品などユゴー関連の資料約6500点を所蔵する。
この日の会談で、先生は記念館設立の“秘話”を披露する。
「設立の着想は、実は10年前、議長と初めてお会いした時に生まれたものなのです」
「あの時、私は決意したのです。偉大な文豪の業績を、英雄の激闘の生涯を後世の歴史に残そうと――。記念館設立への第一歩でした。それも、議長のご好意に発端があるのです」
議長は笑みをたたえ、記念館にはユゴーのエスプリ(精神)が見事に象徴されていると思います、と。先生は、反ナチ・レジスタンス運動の闘士であった議長の半生と、独裁者と戦い続けたユゴーの人生を重ね合わせながら、「議長こそ、ユゴーのような信念と勇気を備えた“強き心”の人です」と、深き敬意を表した。
日本とフランス。文化は異なっても、同じ“人間”として、二人は平和への熱誠を語り合い、固い友情を結んだ。
議長は語っている。
「私は世界がナチに支配されることを恐れ、戦った。また、フランスとドイツの和解・交流のために奔走してきた。今、SGI会長は、核の脅威と戦い、平和のために奮闘しておられる。現代にあって、これ以上、尊い行動はない」