1988年8月6日、関東と長野の代表が集まった研修会。池田先生のユーモアに友の笑顔がはじけた(軽井沢の長野研修道場で)
1988年8月6日、関東と長野の代表が集まった研修会。池田先生のユーモアに友の笑顔がはじけた(軽井沢の長野研修道場で)
長野研修道場がオープンして10周年の夏だった。1988年8月6日、関東の各部代表のメンバーが同道場に集い、池田大作先生が出席しての研修会が行われた。
先生は、「一生成仏」という根本の目的を目指して、最後まで真っすぐに信心の歩みを運んでほしいと望んだ。
研修会には、長野の友も参加していた。小野恭子さんも喜び勇んで駆け付けた。
恭子さんは、父の顔も、兄の顔も知らない。東京大空襲で家を焼かれた両親は、父の郷里・新潟へ疎開した。そこで恭子さんが生まれた。翌月、父が結核で他界。兄も病死した。
相次ぐ不幸の中で、母は心の病を患い、入院を余儀なくされた。その生活は50年に及んだ。恭子さんは2歳の頃から施設を転々とし、小学校に入ると親戚の家に引き取られた。
母は生きていた。けれど、一緒には暮らせなかった。家族がほしかった。甘えたかった。寂しくて、いつも泣いていた。
14歳の時、近所の人に誘われ、創価学会の会合へ向かった。学会について何も知らない。ただ、自分に声をかけてくれたことがうれしかった。
会場に足を踏み入れると、驚いた。若い女性たちが笑顔で迎えてくれた。紹介されると、拍手が湧いた。自分を歓迎してくれる人たちがいた。信心に励めば、必ず幸せになれる――。その言葉に心を動かされ、恭子さんは入会した。
暮らしの苦しさは変わらなかった。昼は親戚が営む食堂で皿を洗い、出前に走った。夜は定時制高校へ。冬には働きづめの手にひび割れができた。
家路を急ぐ。家々の窓から明かりがこぼれていた。その向こうにある家族の団らんを思うと、涙が出そうになった。何のために自分は生まれたのだろう。ただ暗闇から抜け出したかった。
人前で話すことさえ苦手だった。恭子さんは強盛に祈り、学会活動に励み、校内の弁論大会で入賞した。そうした姿に触れ、多くの友人が信心を始めた。
67年10月8日、長野市内で行われた記念撮影会に参加。池田先生の隣に座ることに。思い切って、胸の内を打ち明けた。
「学会活動を思う存分やって、幸せになりたいんです……」
先生は力強く答えた。
「なるよ! 幸せにならないわけがないじゃないか!」
先生はマイクを手に、女子部(当時)の友を励ました。
「若くして信心に励む姿は、世間のいかなる地位、名声よりも、百千万億倍も尊い。女子部の時代に、将来の大福運を積む土台を築いてほしい」
幸せになれるだろうか……。そう案じてきた。師の激励に、不安は一掃された。恭子さんは心に決めた――必ず幸せになる!
72年、恭子さんは結婚。夫の力男さんは11歳で父を失い、病床の兄の代わりに、中学生の時から農業に精を出し、一家を支えた。中学校卒業後、間もなく母を亡くす。苦労を重ねながら、懸命に働いてきた人だった。
長野研修道場がオープンして10周年の夏だった。1988年8月6日、関東の各部代表のメンバーが同道場に集い、池田大作先生が出席しての研修会が行われた。
先生は、「一生成仏」という根本の目的を目指して、最後まで真っすぐに信心の歩みを運んでほしいと望んだ。
研修会には、長野の友も参加していた。小野恭子さんも喜び勇んで駆け付けた。
恭子さんは、父の顔も、兄の顔も知らない。東京大空襲で家を焼かれた両親は、父の郷里・新潟へ疎開した。そこで恭子さんが生まれた。翌月、父が結核で他界。兄も病死した。
相次ぐ不幸の中で、母は心の病を患い、入院を余儀なくされた。その生活は50年に及んだ。恭子さんは2歳の頃から施設を転々とし、小学校に入ると親戚の家に引き取られた。
母は生きていた。けれど、一緒には暮らせなかった。家族がほしかった。甘えたかった。寂しくて、いつも泣いていた。
14歳の時、近所の人に誘われ、創価学会の会合へ向かった。学会について何も知らない。ただ、自分に声をかけてくれたことがうれしかった。
会場に足を踏み入れると、驚いた。若い女性たちが笑顔で迎えてくれた。紹介されると、拍手が湧いた。自分を歓迎してくれる人たちがいた。信心に励めば、必ず幸せになれる――。その言葉に心を動かされ、恭子さんは入会した。
暮らしの苦しさは変わらなかった。昼は親戚が営む食堂で皿を洗い、出前に走った。夜は定時制高校へ。冬には働きづめの手にひび割れができた。
家路を急ぐ。家々の窓から明かりがこぼれていた。その向こうにある家族の団らんを思うと、涙が出そうになった。何のために自分は生まれたのだろう。ただ暗闇から抜け出したかった。
人前で話すことさえ苦手だった。恭子さんは強盛に祈り、学会活動に励み、校内の弁論大会で入賞した。そうした姿に触れ、多くの友人が信心を始めた。
67年10月8日、長野市内で行われた記念撮影会に参加。池田先生の隣に座ることに。思い切って、胸の内を打ち明けた。
「学会活動を思う存分やって、幸せになりたいんです……」
先生は力強く答えた。
「なるよ! 幸せにならないわけがないじゃないか!」
先生はマイクを手に、女子部(当時)の友を励ました。
「若くして信心に励む姿は、世間のいかなる地位、名声よりも、百千万億倍も尊い。女子部の時代に、将来の大福運を積む土台を築いてほしい」
幸せになれるだろうか……。そう案じてきた。師の激励に、不安は一掃された。恭子さんは心に決めた――必ず幸せになる!
72年、恭子さんは結婚。夫の力男さんは11歳で父を失い、病床の兄の代わりに、中学生の時から農業に精を出し、一家を支えた。中学校卒業後、間もなく母を亡くす。苦労を重ねながら、懸命に働いてきた人だった。