〈ワールドトゥデイ〉 ドイツ・ベルリン 「壁」の崩壊から35年
〈ワールドトゥデイ〉 ドイツ・ベルリン 「壁」の崩壊から35年
2024年11月9日
- 分断の地を融和の象徴へ
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かつて分断の象徴だった「ブランデンブルク門」に集ったベルリンの同志。桜梅桃李の個性を輝かせ、人間主義の哲理を社会に広げる(本年10月)
かつて分断の象徴だった「ブランデンブルク門」に集ったベルリンの同志。桜梅桃李の個性を輝かせ、人間主義の哲理を社会に広げる(本年10月)
ドイツの首都ベルリンには、東西冷戦を象徴する「ベルリンの壁」があった。1989年11月9日に壁が崩壊してから、きょうで35年。分断の歴史を越えた地で、社会に信頼の根を張る学会員を取材した。(記事=萩本秀樹、写真=石井和夫)
ドイツの首都ベルリンには、東西冷戦を象徴する「ベルリンの壁」があった。1989年11月9日に壁が崩壊してから、きょうで35年。分断の歴史を越えた地で、社会に信頼の根を張る学会員を取材した。(記事=萩本秀樹、写真=石井和夫)
ベルリン市内に延びる「ベルナウアー通り」。かつてこの道は、東ベルリンと西ベルリンを分かつ境界線だった。仕事へ、学校へ、買い物へと、1日に数十万人が、東と西を行き来していた。この境界線沿いに、ある日突然、現れた「ベルリンの壁」。家族や友人を、日常を、目の前で引き裂いた。
第2次世界大戦で敗れたドイツは、ソ連(当時)が占領する「東ドイツ」、アメリカ・イギリス・フランスが占領する「西ドイツ」に分割された。さらに、東ドイツに位置する首都ベルリンも東西に分かれることに。アメリカ・イギリス・フランスが管理する「西ベルリン」が、ソ連統治下に、飛び地のように誕生した。
やがて政治的、経済的理由から、東ドイツの住人が西ドイツへと流出するように。その数は毎週、数千人に上り、多くが西ベルリンを経由していた。人口流出をせき止めるため、東ドイツ政府は1961年8月13日、西ベルリンを取り囲むように「ベルリンの壁」の建設を開始した。
厳しい監視体制が敷かれ、亡命を試みた多くの人が命を落とした。越境管理を巡る犠牲者は、少なくとも140人といわれる。
池田大作先生が西ベルリンを訪れたのは、欧州初訪問時の61年10月8日。その数日前にも、数日後にも、亡命者が射殺される事件が起きていた。「絶対に行かないほうがいい」と言われた、当時のベルリン。それでも先生は、ベルリンに行くことこそが欧州訪問の目的と、周囲に語っている。
先生はブランデンブルク門を視察し、「30年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう」と。さらに、生々しい弾痕が残るベルナウアー通りも訪れ、壁の犠牲者にささげられた花束の前で、追善の題目を唱えた。
壁なき未来を展望し、平和への誓いを深くした先生。その師の思いに呼応して、人々の心と心を結ぶ弟子たちの挑戦が、ベルリンの地で広がっていった。
ベルリン市内に延びる「ベルナウアー通り」。かつてこの道は、東ベルリンと西ベルリンを分かつ境界線だった。仕事へ、学校へ、買い物へと、1日に数十万人が、東と西を行き来していた。この境界線沿いに、ある日突然、現れた「ベルリンの壁」。家族や友人を、日常を、目の前で引き裂いた。
第2次世界大戦で敗れたドイツは、ソ連(当時)が占領する「東ドイツ」、アメリカ・イギリス・フランスが占領する「西ドイツ」に分割された。さらに、東ドイツに位置する首都ベルリンも東西に分かれることに。アメリカ・イギリス・フランスが管理する「西ベルリン」が、ソ連統治下に、飛び地のように誕生した。
やがて政治的、経済的理由から、東ドイツの住人が西ドイツへと流出するように。その数は毎週、数千人に上り、多くが西ベルリンを経由していた。人口流出をせき止めるため、東ドイツ政府は1961年8月13日、西ベルリンを取り囲むように「ベルリンの壁」の建設を開始した。
厳しい監視体制が敷かれ、亡命を試みた多くの人が命を落とした。越境管理を巡る犠牲者は、少なくとも140人といわれる。
池田大作先生が西ベルリンを訪れたのは、欧州初訪問時の61年10月8日。その数日前にも、数日後にも、亡命者が射殺される事件が起きていた。「絶対に行かないほうがいい」と言われた、当時のベルリン。それでも先生は、ベルリンに行くことこそが欧州訪問の目的と、周囲に語っている。
先生はブランデンブルク門を視察し、「30年後には、きっと、このベルリンの壁は取り払われているだろう」と。さらに、生々しい弾痕が残るベルナウアー通りも訪れ、壁の犠牲者にささげられた花束の前で、追善の題目を唱えた。
壁なき未来を展望し、平和への誓いを深くした先生。その師の思いに呼応して、人々の心と心を結ぶ弟子たちの挑戦が、ベルリンの地で広がっていった。
ベルナウアー通り沿いの展望台から旧・東ベルリンを望む。西側への流出を防ぐために、二重構造の壁や監視塔が建設された
ベルナウアー通り沿いの展望台から旧・東ベルリンを望む。西側への流出を防ぐために、二重構造の壁や監視塔が建設された
ソ連を中心とする「東側」の社会主義陣営と、アメリカを中心とする「西側」の資本主義陣営。ベルリンは、東西冷戦の緊張が高まる最前線だった。
「壁は、敵である資本主義から私たちを守るためにある」。東ベルリンで生まれたイェッテ・クリューガーさん(婦人部副本部長)は、学校でそう教わった。
西側のテレビ番組を見れば、華やかな生活が描かれていた。「もちろん、ロックバンドを見たいなとか、パリに行ってみたいなと思ったこともありました。でも、東側の私たちにも、温かな共同体や友人に囲まれた暮らしがありました」
1985年、結婚を機に西ベルリンへ。故郷の母と会えなくなり、壁の不条理を感じた。仏法の話を聞いたのは、その頃だった。
「願いが必ずかなう信心」。それならと、母との再会を願って題目を唱え始めた。すると翌86年、母が年金受給者になったことで、西側への渡航が許されるように。功徳の実感が求道の心を深めた。
ソ連を中心とする「東側」の社会主義陣営と、アメリカを中心とする「西側」の資本主義陣営。ベルリンは、東西冷戦の緊張が高まる最前線だった。
「壁は、敵である資本主義から私たちを守るためにある」。東ベルリンで生まれたイェッテ・クリューガーさん(婦人部副本部長)は、学校でそう教わった。
西側のテレビ番組を見れば、華やかな生活が描かれていた。「もちろん、ロックバンドを見たいなとか、パリに行ってみたいなと思ったこともありました。でも、東側の私たちにも、温かな共同体や友人に囲まれた暮らしがありました」
1985年、結婚を機に西ベルリンへ。故郷の母と会えなくなり、壁の不条理を感じた。仏法の話を聞いたのは、その頃だった。
「願いが必ずかなう信心」。それならと、母との再会を願って題目を唱え始めた。すると翌86年、母が年金受給者になったことで、西側への渡航が許されるように。功徳の実感が求道の心を深めた。
イェッテ・クリューガーさん
イェッテ・クリューガーさん
学会活動に励む中、クリューガーさんの祈りは膨らんでいった。自分だけではなく、全ての人たちのために、壁よ、なくなれ――。61年、池田先生はどれほど深い思いで、ブランデンブルク門の前に立たれたのか。心からの感謝が湧いた。
「先生の訪問の翌年に、東ベルリンの地で私は生まれました。私にしかできない使命が必ずある。毎日、胸中の先生と一緒に、世界平和を祈り続けています」
学会活動に励む中、クリューガーさんの祈りは膨らんでいった。自分だけではなく、全ての人たちのために、壁よ、なくなれ――。61年、池田先生はどれほど深い思いで、ブランデンブルク門の前に立たれたのか。心からの感謝が湧いた。
「先生の訪問の翌年に、東ベルリンの地で私は生まれました。私にしかできない使命が必ずある。毎日、胸中の先生と一緒に、世界平和を祈り続けています」
アメリカ出身のモーリス・ペリーさん(副方面長)は、80年に西ベルリンに移り住んだ。イタリアから、東ドイツを通過する列車に乗った。犬を連れた警察官が列車の周りを検査し、銃を持った兵士が至る所にいた。「教科書で学んだ分断の歴史を、一気に目の当たりにした思いがしました」
当時すでに、テレビに出演するなど人気のダンサーだった。渡独後、東ベルリンでも舞台に立った。それでも、この成功はいつまで続くのかと、常に不安だった。
83年、仕事仲間から折伏を受ける。広宣流布に情熱を注ぐ中、不安に揺るがぬ自身を確立していった。紹介者と共にダンススタジオを経営し、数百人の生徒に指導。その中で、信心を始めた人も多くいた。
アメリカ出身のモーリス・ペリーさん(副方面長)は、80年に西ベルリンに移り住んだ。イタリアから、東ドイツを通過する列車に乗った。犬を連れた警察官が列車の周りを検査し、銃を持った兵士が至る所にいた。「教科書で学んだ分断の歴史を、一気に目の当たりにした思いがしました」
当時すでに、テレビに出演するなど人気のダンサーだった。渡独後、東ベルリンでも舞台に立った。それでも、この成功はいつまで続くのかと、常に不安だった。
83年、仕事仲間から折伏を受ける。広宣流布に情熱を注ぐ中、不安に揺るがぬ自身を確立していった。紹介者と共にダンススタジオを経営し、数百人の生徒に指導。その中で、信心を始めた人も多くいた。
モーリス・ペリーさん
モーリス・ペリーさん
東か西か。社会には、不信や憎悪が渦巻いていた。ペリーさんは、その両側の人々と接していた。「誰もが幸せを求めていました。その心に、東も西もありませんでした」
多くの青年が入会した80年代。88年には、西ベルリンで青年部総会が開催された。テーマは、「自己の壁を破れ!」。壁が崩壊する前年のことである。
平和の建設を、自分のこととして主体的に捉える。分断の歴史を背負ったベルリンでも変わらない、創価学会員の姿だった。
東か西か。社会には、不信や憎悪が渦巻いていた。ペリーさんは、その両側の人々と接していた。「誰もが幸せを求めていました。その心に、東も西もありませんでした」
多くの青年が入会した80年代。88年には、西ベルリンで青年部総会が開催された。テーマは、「自己の壁を破れ!」。壁が崩壊する前年のことである。
平和の建設を、自分のこととして主体的に捉える。分断の歴史を背負ったベルリンでも変わらない、創価学会員の姿だった。
旧・東ベルリンの街並み
旧・東ベルリンの街並み
壁が崩壊したのは、89年11月9日。この日の夜、東ドイツの政治局員が記者会見を開いた。国外旅行の規制緩和について発表するはずだったが、内容をよく理解していなかった彼は、不用意に、「今すぐに」「西ベルリンとの検問所を経由して」、出国が可能と口にしてしまった。
東西のベルリン市民が、壁に殺到した。一晩で、全ての検問所が開放された。建設が始まってから、28年後のことだった。
その日、クリスチャン・ヤーブルクさん(本部長)は、仕事で東ベルリンを訪れていた。「ニュースを聞いた仕事仲間の一人が、『壁が開いたぞ!』と叫びました。皆、驚きのあまり、言葉が出ませんでした」
西ベルリンで、83年に信心を始めた。国営放送局に勤務し、職業柄、東ベルリンでの仕事も多かった。「同じ言語を話すのに、東と西には全く異なる世界が広がっていました。後から分かったことですが、シュタージ(東ドイツの秘密警察)は、どこで誰と会ったかなど、私の行動を記録していたようです」
壁が崩壊したのは、89年11月9日。この日の夜、東ドイツの政治局員が記者会見を開いた。国外旅行の規制緩和について発表するはずだったが、内容をよく理解していなかった彼は、不用意に、「今すぐに」「西ベルリンとの検問所を経由して」、出国が可能と口にしてしまった。
東西のベルリン市民が、壁に殺到した。一晩で、全ての検問所が開放された。建設が始まってから、28年後のことだった。
その日、クリスチャン・ヤーブルクさん(本部長)は、仕事で東ベルリンを訪れていた。「ニュースを聞いた仕事仲間の一人が、『壁が開いたぞ!』と叫びました。皆、驚きのあまり、言葉が出ませんでした」
西ベルリンで、83年に信心を始めた。国営放送局に勤務し、職業柄、東ベルリンでの仕事も多かった。「同じ言語を話すのに、東と西には全く異なる世界が広がっていました。後から分かったことですが、シュタージ(東ドイツの秘密警察)は、どこで誰と会ったかなど、私の行動を記録していたようです」
クリスチャン・ヤーブルクさん
クリスチャン・ヤーブルクさん
“異世界”に分断された人たちを、信頼で結びゆく挑戦。その社会的難題に、ドイツの学会員も向き合った。壁の崩壊後は、旧・東地域で、会合や文化的行事を積極的に開催。東からも西からも、参加者がいた。
「ヨーロッパには、ヒューマニズム(人間主義)の伝統が息づいています。それは、仏法とも響き合うものです」とヤーブルクさん。出会う一人一人の可能性を信じながら、対話と友情を広げ続けている。
“異世界”に分断された人たちを、信頼で結びゆく挑戦。その社会的難題に、ドイツの学会員も向き合った。壁の崩壊後は、旧・東地域で、会合や文化的行事を積極的に開催。東からも西からも、参加者がいた。
「ヨーロッパには、ヒューマニズム(人間主義)の伝統が息づいています。それは、仏法とも響き合うものです」とヤーブルクさん。出会う一人一人の可能性を信じながら、対話と友情を広げ続けている。
90年10月3日、東西ドイツは統一した。以来、ドイツは欧州の大国として、政治、経済で存在感を放ちながら、格差拡大や移民受け入れ、環境問題など、いくつもの課題に向き合ってきた。
首都ベルリンには、世界中から人々が集う。ドイツ北部の都市ハンブルクで生まれたミツオ・カネマキさん(副支部長)は、2017年からベルリンに住む。
統一から30年以上たった今もなお、かつての東地域と西地域の間には、失業率や賃金、生活水準などの格差がある。不満を感じる若者を中心に、とりわけ東部では、排外主義を掲げる右派政党が勢いを増している。ベルリンでもその傾向が強くなっていると、カネマキさんは感じている。
学会員の家庭に生まれ育ち、未来部でも多くの思い出を刻んだ。「ドイツでは、同世代の仲間と語り合ったり、悩みを聞いてもらったりする身近な場所が、どんどん少なくなっています」。垣根を越えて集う学会の社会的意義を、今ほど実感する時はない。
90年10月3日、東西ドイツは統一した。以来、ドイツは欧州の大国として、政治、経済で存在感を放ちながら、格差拡大や移民受け入れ、環境問題など、いくつもの課題に向き合ってきた。
首都ベルリンには、世界中から人々が集う。ドイツ北部の都市ハンブルクで生まれたミツオ・カネマキさん(副支部長)は、2017年からベルリンに住む。
統一から30年以上たった今もなお、かつての東地域と西地域の間には、失業率や賃金、生活水準などの格差がある。不満を感じる若者を中心に、とりわけ東部では、排外主義を掲げる右派政党が勢いを増している。ベルリンでもその傾向が強くなっていると、カネマキさんは感じている。
学会員の家庭に生まれ育ち、未来部でも多くの思い出を刻んだ。「ドイツでは、同世代の仲間と語り合ったり、悩みを聞いてもらったりする身近な場所が、どんどん少なくなっています」。垣根を越えて集う学会の社会的意義を、今ほど実感する時はない。
ミツオ・カネマキさん
ミツオ・カネマキさん
20年、カネマキさんは長年勤めた会社を辞め、心機一転、教育者を志した。「民主主義や平和を正しく理解するために、教育は欠かせない。そう強く思います」
今、教壇に立つ小学校には、ウクライナ、アフガニスタン、シリア、トルコ、アメリカなどから来た子どもたちがいる。創価三代の会長を手本に、子どもの幸福を第一に掲げた「人間教育」の実践に挑戦する毎日だ。
ロドルフォ・イノカワさん(男子部本部長)は、ブラジル・サンパウロ生まれ。オーケストラに所属し、バイオリニストとして活躍している。
13年、初めて来たベルリンは、町じゅうが音楽であふれていた。15年、身の回りの物を売り払い、渡航費を工面してベルリンに移住。地下鉄のホームで、バイオリンを演奏しながら生計を立てた。
経済難に加えて、言語や文化の違いなど、苦労の連続だった新天地での暮らし。創価家族に支えられた。「私を私のまま、温かく受け入れてくれたことに感謝は尽きません」。今、自身が担当する本部でも、異なる文化背景を持つ同志が、仲良き団結で進む。
20年、カネマキさんは長年勤めた会社を辞め、心機一転、教育者を志した。「民主主義や平和を正しく理解するために、教育は欠かせない。そう強く思います」
今、教壇に立つ小学校には、ウクライナ、アフガニスタン、シリア、トルコ、アメリカなどから来た子どもたちがいる。創価三代の会長を手本に、子どもの幸福を第一に掲げた「人間教育」の実践に挑戦する毎日だ。
ロドルフォ・イノカワさん(男子部本部長)は、ブラジル・サンパウロ生まれ。オーケストラに所属し、バイオリニストとして活躍している。
13年、初めて来たベルリンは、町じゅうが音楽であふれていた。15年、身の回りの物を売り払い、渡航費を工面してベルリンに移住。地下鉄のホームで、バイオリンを演奏しながら生計を立てた。
経済難に加えて、言語や文化の違いなど、苦労の連続だった新天地での暮らし。創価家族に支えられた。「私を私のまま、温かく受け入れてくれたことに感謝は尽きません」。今、自身が担当する本部でも、異なる文化背景を持つ同志が、仲良き団結で進む。
ロドルフォ・イノカワさん
ロドルフォ・イノカワさん
ドイツ社会で増える移民や難民。「どこから来て、どういう見た目をしているかではなく、その人の人間性を知ってもらいたい」とイノカワさん。それが当たり前の社会を築いていくために、自分にできる行動をと誓う。
ドイツ社会で増える移民や難民。「どこから来て、どういう見た目をしているかではなく、その人の人間性を知ってもらいたい」とイノカワさん。それが当たり前の社会を築いていくために、自分にできる行動をと誓う。
友情の舞台は「目の前」に
友情の舞台は「目の前」に
ドイツ統一後の教訓を、メルケル元首相はこう結論づけている。「出逢いに臆病にならず、お互いに興味を持ち、自分のことについて語り合い、違いを認めてください」(藤田香織訳『アンゲラ・メルケル演説選集 私の国とはつまり何なのか』創元社)
壁を生み出したのが人間である以上、壁なき世界を守り続けていくのも人間だ。
分断の象徴だったベルリンの地で、創価学会員が持つ使命とは――。
マリーナ・ボイマーさん(方面婦人部長)は、「親睦を深めることです。心の壁や偏見を取り払うのは、何よりまず友情だと思うからです」と。
連日、ニュースでポピュリズムの台頭を見聞きする。新たな分断を指摘する声もある。「だからこそ、信心を持った私たちが、自分の内側から始まる変革を広げていきたい。その一歩が、隣人や同僚との対話です」
カリーナ・ゾックスさん(方面女子部長)は、「ベルリンがこれほど多様な都市になった歴史を、意識的に振り返り、あるべき目標として掲げ続けていくことが大切」と言う。
特に若者には、壁のないベルリンが“当たり前”。豊かな文化や価値観が花咲く今日のベルリンは、日常的な努力なくしては持続し得ないと、彼女は実感している。女子部の活動で心がけているのも、「誰も置き去りにしないこと」。どの言語で進行するのか、どんなテキストを学ぶのか等、こまやかな配慮を欠かさない。
意見を否定せず、何でも言い合える雰囲気をつくる。苦労もあるが、「この雰囲気を皆が誇りに思っています」とゾックスさん。自分が自分らしくいられる場所。その温かさに触れて、入会を決める人も多いという。
ドイツ統一後の教訓を、メルケル元首相はこう結論づけている。「出逢いに臆病にならず、お互いに興味を持ち、自分のことについて語り合い、違いを認めてください」(藤田香織訳『アンゲラ・メルケル演説選集 私の国とはつまり何なのか』創元社)
壁を生み出したのが人間である以上、壁なき世界を守り続けていくのも人間だ。
分断の象徴だったベルリンの地で、創価学会員が持つ使命とは――。
マリーナ・ボイマーさん(方面婦人部長)は、「親睦を深めることです。心の壁や偏見を取り払うのは、何よりまず友情だと思うからです」と。
連日、ニュースでポピュリズムの台頭を見聞きする。新たな分断を指摘する声もある。「だからこそ、信心を持った私たちが、自分の内側から始まる変革を広げていきたい。その一歩が、隣人や同僚との対話です」
カリーナ・ゾックスさん(方面女子部長)は、「ベルリンがこれほど多様な都市になった歴史を、意識的に振り返り、あるべき目標として掲げ続けていくことが大切」と言う。
特に若者には、壁のないベルリンが“当たり前”。豊かな文化や価値観が花咲く今日のベルリンは、日常的な努力なくしては持続し得ないと、彼女は実感している。女子部の活動で心がけているのも、「誰も置き去りにしないこと」。どの言語で進行するのか、どんなテキストを学ぶのか等、こまやかな配慮を欠かさない。
意見を否定せず、何でも言い合える雰囲気をつくる。苦労もあるが、「この雰囲気を皆が誇りに思っています」とゾックスさん。自分が自分らしくいられる場所。その温かさに触れて、入会を決める人も多いという。
マリーナ・ボイマーさん㊨とカリーナ・ゾックスさん
マリーナ・ボイマーさん㊨とカリーナ・ゾックスさん
35年前――世界中が驚嘆し、歓喜に湧いたあの日。かつての「壁」は、もうない。今、目の前に広がるのは、分断の地を融和の象徴へと転じゆく友情の舞台である。
35年前――世界中が驚嘆し、歓喜に湧いたあの日。かつての「壁」は、もうない。今、目の前に広がるのは、分断の地を融和の象徴へと転じゆく友情の舞台である。
ベルリン市内で開かれたグループ座談会。友人も参加し、歌や演奏などもにぎやかに(本年10月)
ベルリン市内で開かれたグループ座談会。友人も参加し、歌や演奏などもにぎやかに(本年10月)
〈取材に協力してくださった方々〉ユキコ・ゴトウ・ヒンツェさん、タエコ・グレーニンガーさん、トヨ・エガワさん、ナオコ・タナカさん、トーマス・ズントハイムさん、カローラ・デデッカーさん
〈取材に協力してくださった方々〉ユキコ・ゴトウ・ヒンツェさん、タエコ・グレーニンガーさん、トヨ・エガワさん、ナオコ・タナカさん、トーマス・ズントハイムさん、カローラ・デデッカーさん
【参考文献】クリストファー・ヒルトン著『ベルリンの壁の物語 上・下』鈴木主税訳・原書房、アンドレアス・レダー著『ドイツ統一』板橋拓己訳・岩波新書、『民衆こそ王者――池田大作とその時代 11』潮出版社
【参考文献】クリストファー・ヒルトン著『ベルリンの壁の物語 上・下』鈴木主税訳・原書房、アンドレアス・レダー著『ドイツ統一』板橋拓己訳・岩波新書、『民衆こそ王者――池田大作とその時代 11』潮出版社
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kansou@seikyo-np.jp
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