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【特集】戦後81年 継承――家族と! 友人と! やってみよう「フォトランゲージ」ワークシート
【特集】戦後81年 継承――家族と! 友人と! やってみよう「フォトランゲージ」ワークシート
2026年7月21日
※原画に書き込まれている説明をワークシート用に生成AIで消去したもの
※原画に書き込まれている説明をワークシート用に生成AIで消去したもの
写真や絵を見て、そこに写る人々の気持ちや状況・背景を想像し、感じたことや気付きを共有する。それが、「フォトランゲージ」です。
ここでは、「沖縄戦の絵」を題材としたワークシートを掲載します。
戦後81年の夏。家族や友達と、「沖縄戦の絵」を見て思ったことや考えたことを語り合ってみませんか。
写真や絵を見て、そこに写る人々の気持ちや状況・背景を想像し、感じたことや気付きを共有する。それが、「フォトランゲージ」です。
ここでは、「沖縄戦の絵」を題材としたワークシートを掲載します。
戦後81年の夏。家族や友達と、「沖縄戦の絵」を見て思ったことや考えたことを語り合ってみませんか。
〈ポイント〉
〈ポイント〉
・正解、不正解はありません
・異なる意見を否定せずに語り合いましょう
・正解、不正解はありません
・異なる意見を否定せずに語り合いましょう
〈フォトランゲージのやり方〉
〈フォトランゲージのやり方〉
①タイトルをつけてみよう(5分)
②絵の中で気が付いたこと・想像したことを書いてみよう(10分)
(何が起きているのか、描かれている人の気持ち、何をしているところか、など)
③自分の気付きを、他の人と話し合ってみよう(2分)
①タイトルをつけてみよう(5分)
②絵の中で気が付いたこと・想像したことを書いてみよう(10分)
(何が起きているのか、描かれている人の気持ち、何をしているところか、など)
③自分の気付きを、他の人と話し合ってみよう(2分)
〈この作品について〉
〈この作品について〉
東風平村にあった壕内の野戦病院。壕内は湿気と人いきれで死臭が鼻をついた
東風平村にあった壕内の野戦病院。壕内は湿気と人いきれで死臭が鼻をついた
※解説を見た後で、自分の考えがどのように変わったかも、ぜひ、語り合って、書き出してみてください。
※解説を見た後で、自分の考えがどのように変わったかも、ぜひ、語り合って、書き出してみてください。
作者・宮里親輝さん(当時21歳)の証言
作者・宮里親輝さん(当時21歳)の証言
私は日本軍の防衛隊でした。1945年4月14日に米軍との戦いで右足に銃弾を受けて、次の日に東風平村富盛にあった野戦病院の壕に運ばれました。壕の中は狭く、真ん中の通路も人がやっとすれ違えるくらいでした。
私は壕の入口の近くに収容されましたが、階級の高い兵士は、奥のほうの安全な場所に入れられていました。敵が上陸してまだ2週間ほどなのに、壕の中はけが人でいっぱいでした。壕は二つの段に分かれていて、下のほうには動くこともできない重いけがの人、上のほうにはそれより少し軽い人が入れられていました。
空気の流れが悪く、血やうみ、体の臭い、トイレの臭い、薬やろうそくの煙などが混ざり、とても臭くて息が苦しくなるほどでした。でも外に出ればすぐ命があぶないので、その臭いを我慢するしかありませんでした。シラミにもとても悩まされました。
重いけがの人は、うめき声をあげたり、ずっと眠り続けたりしていて、まるで地獄のような場所でした。特に、高い熱で意識がおかしくなった人は、大声で叫んだり暴れたりして、看護する人たちはとても大変でした。
食事は、命がけで用意された小さなおにぎりが、1日に2回ほどでした。1回しかもらえない日もありました。ある日、あまりの空腹に思わず「おなかがすいた」と言ってしまうと、隣にいた年上の兵士に「言うな」と強く叱られました。
そんな中でも、県立第二高等女学校(那覇市松山)の白梅看護班の学生たちは、けが人の世話や、汚れた物の片付けなどを、一生懸命続けていました。「看護婦さん、水をください」「看護婦さん、便器をください」と、次々に声が上がり、看護隊の人たちは一日中、休む暇もなく動き回っていました。
私は日本軍の防衛隊でした。1945年4月14日に米軍との戦いで右足に銃弾を受けて、次の日に東風平村富盛にあった野戦病院の壕に運ばれました。壕の中は狭く、真ん中の通路も人がやっとすれ違えるくらいでした。
私は壕の入口の近くに収容されましたが、階級の高い兵士は、奥のほうの安全な場所に入れられていました。敵が上陸してまだ2週間ほどなのに、壕の中はけが人でいっぱいでした。壕は二つの段に分かれていて、下のほうには動くこともできない重いけがの人、上のほうにはそれより少し軽い人が入れられていました。
空気の流れが悪く、血やうみ、体の臭い、トイレの臭い、薬やろうそくの煙などが混ざり、とても臭くて息が苦しくなるほどでした。でも外に出ればすぐ命があぶないので、その臭いを我慢するしかありませんでした。シラミにもとても悩まされました。
重いけがの人は、うめき声をあげたり、ずっと眠り続けたりしていて、まるで地獄のような場所でした。特に、高い熱で意識がおかしくなった人は、大声で叫んだり暴れたりして、看護する人たちはとても大変でした。
食事は、命がけで用意された小さなおにぎりが、1日に2回ほどでした。1回しかもらえない日もありました。ある日、あまりの空腹に思わず「おなかがすいた」と言ってしまうと、隣にいた年上の兵士に「言うな」と強く叱られました。
そんな中でも、県立第二高等女学校(那覇市松山)の白梅看護班の学生たちは、けが人の世話や、汚れた物の片付けなどを、一生懸命続けていました。「看護婦さん、水をください」「看護婦さん、便器をください」と、次々に声が上がり、看護隊の人たちは一日中、休む暇もなく動き回っていました。