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〈許すまじ核の爪――戦後80年 信仰体験〉 母よ 平和よ 師弟の空よ 2025年7月24日

元気はつらつ、ひまわりのような竹内さん
元気はつらつ、ひまわりのような竹内さん

 【広島市中区】入道雲の湧き立つ空を見上げるたび、記者には一つの後悔が浮かぶ。それは、夏の暑い日に祖母が遠くを見てつぶやいた一言。「こんな日も死体を運んだな」。触れてはいけない話だと思い、聞くのをためらった。やがて祖母が旅立った。残すべきはずの記憶が消えた思いがした。あの時、詳しく聞いていれば……。青春の後悔を胸に沈め、広島で記者となった。被爆3世として自分に何ができるのか。そんな思いを抱き、戦後の記憶をとどめる市営アパートの一室を訪ねた。(中国支社)

基町高層アパートの所々で改修工事が行われている(竹内さんの自宅から)
基町高層アパートの所々で改修工事が行われている(竹内さんの自宅から)

 巨大なびょうぶを並べたように、基町高層アパートが、くの字型にそびえ立つ。
 「原爆スラム」と呼ばれたバラック群の跡地に立ち、復興の象徴となってきた高層住宅。見上げると、白いコンクリートに縁取られた空が青の静寂をたたえていた。
 
 暮らしをぎゅっとしたコンパクトな部屋で、竹内幸惠さん(93)=女性部副本部長=が「大邸宅じゃけえ、くつろいでください」と迎えてくれた。
 上品な赤毛に、張りのある肌ツヤ。「褒めても何にも出ませんよ。私が出せるのは、あくびくらい」。肩をすくめて、くしゃっと笑う。
 
 柔和なまなざしで、自らの来し方を淡々と振り返る。だがその瞳の奥には、癒えぬ戦火の記憶が潜んでいる。

 1945年(昭和20年)8月6日。
 「さっちゃん、おばあちゃんを見とってくれんかいね」
 祖母の容体が悪く、母から看病を頼まれた。父は出勤し、県庁職員の母も空襲の延焼を防ぐため建物疎開作業へ向かった。
 
 午前8時15分。当時13歳の竹内さんは爆心地から約10キロの緑井村(現・安佐南区)の自宅で、南の空に「獣のような雲」を見た。
 
 翌日、両親を捜しに、祖父と弟と市内へ向かった。路上に横たわる亡きがらをいくつも見た。両親かどうかを確認するため、顔を恐る恐るのぞいた。
 皮膚が垂れ、目が飛び出している。視線をそらすと、祖父から「顔をよう見い」と怒鳴られた。
 「あの地獄を思い出したら、夜も寝られんようになる」
 1週間して大やけどを負った父が、大八車に乗せられて帰ってきた。だが、母はついに帰らなかった。

旧県庁跡の慰霊碑を訪れた竹内さん。名録碑に刻まれる母親の名前をそっと指でなぞった
旧県庁跡の慰霊碑を訪れた竹内さん。名録碑に刻まれる母親の名前をそっと指でなぞった
●墓に納めたブローチ

 戦争が終わり、22歳で清さんと結婚した。優しくて子煩悩。そこまでは良かったが、ギャンブルに走る人だった。
 給料日に競輪で財布を空にし、借金を持ち帰る。何度も別れを切り出したが「子は、かすがい」。保険を解約して生活を切り詰めた。

 泣き泣きの日々の中、知人から「宿業の因縁が深い家じゃけえ、信心しんさい」と折伏された。「子どものためなら」と61年に創価学会に入会。
 すると、同居のしゅうとが青筋を立てた。竹内さんは御本尊をお返ししたように見せかけ、たんすの中の着物に挟んだ。

 一人になると、そっとたんすを開け「御本尊様、ごめんなさい」と御安置し、勤行を欠かさなかった。会合にもこっそり参加した。

 忘れもしない63年。県立体育館(当時)で壇上に立つ池田先生を見つめた。
 「不幸の人を救いきり、大聖人様の弟子とし子供とし、幸福にさせていくことが創価学会のただ一つの目的である」
 師との出会いを誉れとし、竹内さんは広布の翼を広げた。
 
 題目で毎日を彩り、笑顔で義父母に尽くし抜く。そんな妻を見て、清さんも創価家族となった。借金生活に終止符を打ち、平穏な暮らしに包まれた。そんな中でも8月が来ると地獄の底にたたき落とされる気がした。

 骨を拾うことすらかなわず、墓には母がいつも着けていた四角いブローチを納めた。
 戦後の生活に追われ、寂しいと思う余裕すらなかった。自分のことを「薄情な娘」と思いながらも、母の匂いを風に探した。

 母とよく買い物へ出かけた。ワンピースに袖を通し、鏡の前でふわりと回る。「似おうとるね」と笑ってくれた。「どこかで今も、母の帰りを待っとるような感覚がある」

「大変な時代を生き抜いてきとるからね。どんなことがあってもへっちゃらですよ」
「大変な時代を生き抜いてきとるからね。どんなことがあってもへっちゃらですよ」

 切ない記憶の影に、やわらかな光が差したのは75年。広島市の平和記念公園を訪問した池田先生が被爆者の冥福を祈る姿を、聖教新聞で見た。
 「池田先生の祈りに、母も包まれているんだ」と思うと、涙が浮かんだ。

 核兵器を“絶対悪”と断じた戸田先生の原水爆禁止宣言。池田先生は「原爆許すまじ」の厳粛な使命を教えてくれた。
 〈妙法という大思想は、核兵器の力より強い。原爆の影などに怯えるな! 断じて恐れるな!〉。平和の大闘争の先頭に立つ師に、どこまでも付いていこうと思った。

「モデルが良すぎて花がかわいそう」とユーモアたっぷり
「モデルが良すぎて花がかわいそう」とユーモアたっぷり
●何もないことの幸せ

 40代後半になり、基町高層アパートに入った。19階から眺める夜の街は美しくきらめいていた。
 約4500戸のマンモス住宅で、同志と希望の種をまいて歩いた。勢いづく信心の広がり。「いつもどこかしらで、カレーの匂いに乗って、題目が響いていた」

 誰もが懸命に戦後を歩き、戦争の影と戦っていた。「みんなが幸せにならんと、戦争は終わらん」。竹内さんは原爆症に苦しむ住人のもとで、涙と笑顔を重ねた。
 竹内さん自身も入市被爆者。原爆への怒りを祈りに変え、大思想に生き抜いた。

 夏が来ると鼓膜が思い出すのは、「さっちゃん」と呼ぶ母の声。あの日、竹内さんは学徒動員で手りゅう弾を作りに行くはずだった。
 「おばあちゃんの看病を断っとったら、母は家にいて死なずに済んだかもしれん」
 運命の交錯。母が守ってくれた命に感謝を染め、竹内さんは天真らんまんに、幾年もの夏を笑って歩いてきた。

「趣味がないと退屈」と、小学生の時から使っている裁縫箱を取り出し、刺し子を楽しむ
「趣味がないと退屈」と、小学生の時から使っている裁縫箱を取り出し、刺し子を楽しむ

 93歳になった。「乙女の笑顔」と褒められ、「まあ、もう一回お嫁に行こうかしら」
 ベランダからは昨年開業したサッカースタジアムを望むことができ、孫は「ばあちゃん、特等席じゃ」と言う。竹内さんは「ちと、騒がしい」と笑いながら、夜風が運ぶ歓声に、何げない今日の平和を思う。

 毎年8月6日には、母の名が刻まれる旧県庁跡(中区加古町)の原爆犠牲者慰霊碑へ手を合わせに行っている。
 「何もないことが幸せじゃけえ」と、竹内さんは言った。その言葉には、言葉以上のものが宿っていた。命の風鈴を鳴らすように、平和の祈りに満ちた母への想い。その声を、その祈りを、明日へと渡していきたい。

 現在、被爆者の平均年齢は86歳を超えた。今も「あん時の話は言いとうない」と、取材をお断りになる方もいる。
 踏み込めない記憶と痛みがある。それでも頭を下げ、たった一言でもいい、その胸にしまう言葉に、耳を澄ませていきたい。(枝)

戦後、焼け残ったクスノキの根元でネコがくつろぐ
戦後、焼け残ったクスノキの根元でネコがくつろぐ

 核兵器を正当化する狂気に対し、戸田先生は「その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい」と糾弾した。平和の王者である池田先生を先頭に、創価に受け継がれる「原水爆許すまじ」の大誓願。広島、長崎の魂の叫びを、本連載で紹介する。

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