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〈池田先生 永遠の指針〉 8・15「終戦の日」――寄稿「終戦62年に念う」から 2025年8月15日

  • 一切の不幸と悲惨をなくしたい
  • 民衆と心を結び不戦の連帯を!

 きょう、終戦80年を迎えた。8月15日は、戦没者を追悼するとともに、不戦と恒久平和を誓う日である。ここでは、池田大作先生が、終戦当時の様子をはじめ、平和闘争に連なる同志への真情をつづった寄稿「終戦62年に念う」(聖教新聞2007年8月20日付)を抜粋し掲載する。

沖縄平和記念墓地公園の「永遠平和の碑」の前で、すべての戦争犠牲者の冥福と、平和への祈りを捧げる池田先生(1999年2月)
沖縄平和記念墓地公園の「永遠平和の碑」の前で、すべての戦争犠牲者の冥福と、平和への祈りを捧げる池田先生(1999年2月)

 悲劇なる
  歴史の彼方に
   栄光の
  平和の舞台の
   原点 創れや
  
 今年は終戦から62年。第2次世界大戦で犠牲になられた方々は、じつに6000万人にも及ぶと言われる。
 8月15日の終戦記念日には、日本そして全世界のすべての戦没者の方々に、私は妻とともに懇ろに追善回向の題目を捧げさせていただいた。
 学会本部では、青年部を中心に「世界平和祈念 戦没者追善勤行法要」が厳粛に執り行われた。
 昭和48年(1973年)に、私の提案で始まった行事である。わが青年部は、不戦の誓いと祈りを、厳として継承してくれている。
 ◇ 
 わが家も、長兄の喜一がビルマ(現ミャンマー)で戦死した。29歳の若さであった。まじめで誠実な、12歳年上のこの長兄を、私は心から慕っていた。
 長兄の出征は昭和12年(37年)の春。リウマチの大病を患っていた父が、ようやく回復へ向かいつつあった矢先であった。
 一家の若き柱として家計を支えていた長兄を、突然、軍隊に奪われたのは大きな打撃だった。
 さらに翌年の昭和13年(38年)春には、次兄の増雄と三兄の開造が相次いで徴兵されていったのである。
 小学5年生の私も、海苔製造の家業を手伝い、6年生からは、新聞配達も始めた。
 昭和19年(44年)4月には、すぐ上の四兄・清信が出征。軍用列車に乗り込む兄を品川駅で見送った。
  
 ◇ ◆ ◇

 わが家は、もともと東京の蒲田区(現・大田区)糀谷3丁目の2階建ての屋敷に住んでいた。
 広い敷地には鯉や鮒が泳ぐ大きな池があり、楓や欅や桜、さらにイチジクやザクロも植えられていた。
 とんぼ捕りなど、幼き日の楽しい思い出が光るこの家も、昭和13年(38年)、兄たちの出征と相前後して人手に渡り、軍需工場へと変わった。
 昭和20年(45年)3月の東京大空襲では、江東方面で10万人もの命が奪われた。寒い夜であった。そしてまた4月は東京南部にも大空襲があり、命からがら逃げ延びた。
 年老いた夫婦たちが、恐怖に怯え、夜中の空爆のなかを曲がりくねりながら逃げていった、あの哀れな姿は、永遠に忘れることはない。
 糀谷2丁目に移り住んだ立派な家も、東京大空襲の後、空襲の類焼を防ぐために取り壊されることが決まり、強制疎開させられた。そこで、当時、田園が広がる大森区(現・大田区)馬込のおばの家に、一棟建て増しさせてもらい、移り住むことになった。
 5月24日。新しい家ができあがり、荷物もリヤカーで運び終え、あすから皆で暮らせるという、その夜のことだった。
 「落っこちた! 落っこちた!」と、防空壕の皆が騒ぎ始めた。
 無情なる空襲によって焼夷弾が、わが家に命中した。完成したばかりのわが家は全焼してしまったのである。父と母が人生をかけて築き上げてきた大切な幸福の城を、戦争は、ことごとく破壊してしまったのである。
 なんとか運び出した長持ちに入っていたのは、たくさんの「ひな人形」だった。それでも、「このおひなさまが飾れるような家に、きっと住めるようになるよ」と皆を励ましてくれる母の明るさが、わが家の希望の光となった。
 ◇ 
 その後、急ごしらえのバラック住まいで迎えたのが8月15日の「終戦の日」。暑いほど晴れわたる夏空の日であった。
 ラジオの玉音放送は、ザーザーと雑音が入って何を言っているのか、わからなかった。勝ったのか、負けたのかも、全く、わからなかった。
 弟が、どこかで聞いてきたのか、「日本が負けた、日本が負けた」と、泣きながら、わめきながら帰ってきた。
 「ああ、戦争が終わった……」。ほっとしたというのが、私の正直な実感であった。病気との戦いで、身体的にも、ぎりぎりの限界にきていたからである。
 もはや空襲の飛行機の音を、気に病む必要もない。「こんなに静かなのか」という安堵感が心に大きく広がった。
 灯火管制も解け、自由に明かりをつけることができた。
 母は「明るいねえ。電気がついたよ。明るいね」と乙女のように喜びながら夕食の支度をしてくれた。
  
 ◇ ◆ ◇

 日本が戦争に負けた夏、父は57歳。母は49歳。私は17歳だった。父は顔を紅潮させて、兄たちの名前を一人一人挙げながら、「みんな、帰ってくるよ。ビルマから1人、中国から3人、帰ってくるよ」と、嬉しそうに、そして涙を流しながら叫んでいた。
 しかし――出征した兵士たちの復員が始まっても、兄は、なかなか帰ってこなかった。
 三兄の開造が復員したのは、昭和21年(46年)の1月10日。
 四兄の清信は、同8月17日。栄養失調で、あまりにも痩せ衰えた姿であった。中国の戦地からである。
 さらに、その1カ月後の9月20日には、次兄の増雄が帰還した。これも中国からである。
 父も母も、そして私たち兄弟も、ひたすらに、長兄の帰るのを待ち続けた。
 いつか、いつかと待ちわびて、終戦から2回目の夏を迎えようとしていた昭和22年(47年)の5月30日。戦死公報が届いた。昭和20年1月11日、ビルマで戦死――とあった。
 その通知を握りしめ、小さくなった体を震わせて慟哭していた母の後ろ姿が、私の瞼から消えない。
 わが家だけではない。このような悲劇が、どれほど多くの家庭に襲いかかったことか。
 私は、青年たちの命を奪い、母たちを悲しみの淵に突き落としてきた権力者の魔性を、魂の奥底から憎んだ。絶対に戦争は反対である。
  
 ◇ ◆ ◇

 断固たる
  平和を築けや
   仏法の
  正義の大道
    我らは開かむ
  
 2回目となる「終戦記念日」の前夜。すなわち昭和22年の8月14日、私は戸田先生に初めてお会いした。この折の座談会で、戸田先生は「立正安国論」を講義されながら、叫ばれた。
 「700年前にお書きになったものが、まるで敗戦後の我々のために、お書き遺しくださったかのようだといってよい。個人であれ、一家であれ、一国であれ、この仏法哲理の根本に立たない限り、一切のことは始まらない」「一家のことを、一国のことを、さらに動乱の20世紀の世界を考えた時、私は、この世から、一切の不幸と悲惨をなくしたい。これを広宣流布という。どうだ、一緒にやるか!」
 この戸田先生の言葉を、私は信ずることができた。
 当時の私には、世の指導者を峻別する、絶対に譲れない基準があった。
 それは、軍部権力と戦ったか、どうか。この一点であった。ここに、確かに信じ、そして、人生を懸けても悔いのない師がおられる――仰ぐべき大樹を求め続けてきた私は、直観したのである。
  
 ◇ ◆ ◇

 東西冷戦を終結させた立役者であった、ゴルバチョフ元ソ連大統領は、私に、こう語っておられた。
 「『戦争の子ども』である私たちの世代こそ、戦争の愚かさ、非人間性、不条理性をあばいていかなくてはいけません」
 この「戦争の子ども」の世代の“長兄”の存在が私たちである。私たちより上の世代は、あまりにも多くの青年たちが戦場に散ってしまった。
 私も一度、差し入れをもって、茨城県の霞ケ浦にある予科練(海軍飛行予科練習生)の先輩を訪ねたことがある。
 予科練といえば、当時の少年たちの憧れであった。
 しかし、その先輩は、私に真剣に語ってくれた。
 「体の弱い君は、絶対に志願などしてはならぬ。
 ここは、話で聞くような、いい所では絶対ないよ」
 私たちは、生きて戦後を迎えた。だからこそ、あとに続く後輩たちのために、絶対に「戦争のない世界」を、そして、「平和な世界」を、先頭に立って建設していく使命がある。責任がある。そう心に決めていた。
 その実現のための確固たる哲理と行動を、私に教えてくださったのが、師・戸田城聖先生である。
  
 ◇ ◆ ◇

 勇敢に
  断固と恐れず
    指揮を執れ
  平和の革命
     我らの正道
  
 大聖人は仰せになられた。
 「第六天の魔王は、十の魔軍(魔の軍勢)を起こし、『生死(迷いと苦悩)の海』の中にあって、この娑婆世界を取られまい、奪おうとして、法華経の行者と争っている。
 日蓮は、第六天の魔王と戦う(法華経の行者の)身に当たっており、大兵を起こして戦うこと二十余年である。その間、日蓮は一度も退く心はない」(全1224・新1635、通解)
 この現実世界は、仏と魔との戦場である。人間を不幸のどん底に陥れんとする「第六天の魔王」に対して、人類を平和へ、幸福へ、希望へと導かんとする「仏」の勢力は、断じて勝たねばならない。
 戸田先生は言われた。
 「広宣流布の戦だけは、絶対に負けるわけにはいかない。たじろぐことは許されない。
 負ければ、人類は、永遠に闇に包まれてしまう。民衆救済の尊い使命ある学会は、何があろうと負けてはならないのだ!」
 「戦争をなくすためには、社会の制度や国家の体制を変えるだけではだめだ。
 根本の『人間』を変えるしかない。
 民衆が強くなるしかない。
 民衆が賢くなるしかない。
 そして世界の民衆が、心と心を結び合わせていく以外ない」
  
 ◇ ◆ ◇

 私が、かつて読んだトルストイの文章で、深く感銘を受け、今でも記憶している言葉がある。そのなかから、三つ申し上げたい。
 それは――
 「人生とは、自身の心を広げることである」
 「幸福とは、心を、どれだけ大きく広げ、そして成長させたかにある」
 まさに、人間革命である。
 さらに――
 「戦争とは、圧制の産物である。圧制がなければ、戦争はありえない。圧制が戦争を生み出し、戦争が圧制を支える。
 しかるに、戦争と戦おうと思う者は、圧制と戦わなければならない」
 その通りだ。
 人権の弾圧と戦い、「信教の自由」を護り抜くことは、平和闘争の根幹である。
 そして――
 「不滅の魂には、同じように、不滅の行いが必要である。その行いとは、自身と世界を常に向上させることである。それが魂に与えられたものである」
 全世界の希望の太陽であり、平和の闘士たる、わが同志に一首を贈り、私の所感を結びたい。
  
 暗闇の
  千変万化の
    この社会
  世紀を照らせや
    偉大な君らよ
  

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