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〈新企画 文化は平和への扉〉第1回 真の芸術は語る
〈新企画 文化は平和への扉〉第1回 真の芸術は語る
2026年5月14日
- 民衆自身が学び
- 知恵と力を発揮して
- 社会建設の主役と
- ならねばならない
- 民衆自身が学び
- 知恵と力を発揮して
- 社会建設の主役と
- ならねばならない
“戦争の世紀”から“平和の世紀”へ――池田大作先生は、文化・芸術を振興し、魂の感動をもって人と人の心を結び、平和に貢献してきた。かつて先生はつづった。「平和とは戦争がないことではなく、暴力がないことだ。差別がないことだ。魂の美徳が薫ることだ。だから、心の花を咲かせる芸術は、平和の行進の先頭なのである」「力は、外から、人を動かそうとする。文化は、内から、心の扉を押し開ける!」。平和とは何か、文化はいかに平和に貢献できるか――新連載「文化は平和への扉」では先生の文化運動の足跡をたどり、その一端を探る。
“戦争の世紀”から“平和の世紀”へ――池田大作先生は、文化・芸術を振興し、魂の感動をもって人と人の心を結び、平和に貢献してきた。かつて先生はつづった。「平和とは戦争がないことではなく、暴力がないことだ。差別がないことだ。魂の美徳が薫ることだ。だから、心の花を咲かせる芸術は、平和の行進の先頭なのである」「力は、外から、人を動かそうとする。文化は、内から、心の扉を押し開ける!」。平和とは何か、文化はいかに平和に貢献できるか――新連載「文化は平和への扉」では先生の文化運動の足跡をたどり、その一端を探る。
「文化は、一部の特権階級のためのものではない。全人類に共通の宝である」――池田大作先生の信念のもと、東京富士美術館が開館したのは、1983年11月3日のことだった。
創価大学の開学前から、美術館ないし博物館の設置構想があった。先生は、創価教育の父・牧口常三郎先生の遺徳をしのび、美術館を設立しようと語っていた。
牧口先生は『創価教育学体系』第1巻で、当時、一般的であった知育・徳育(道徳教育)・体育の3区分法を批判し、知育と体育の2つに分けた。そして、知育を成すものの一つに、美育(芸術教育)を挙げる。先生は、人間の幸福は「美・利・善」の追求にあるとし、「美」である文化を重視した。
戦時中、牧口先生を投獄した軍部政府は、文化を規制し、創作・批評活動に大きな制約を加えた。戦後の日本は一転して、「文化国家の建設」を掲げる。
フランス文学者の渡辺一夫氏は、「敗戦が、私に解放感を与えた」(「老耄回顧」)と述懐。その一方で、戦後の経済復興を遂げた後、責任なき自由がはびこり、自制の伴わない消費などが見られるようになったと述べ、「何か大切なことが忘れ去られている」と警鐘を鳴らした。
氏が問うたのは、「人間の生き方」であろう。文化は人間の“より良き生”を育む力であり、宗教は優れた文化を生む土台である。
池田先生は若き日、「戦争の悲劇から精神的に立ち上がるのは、文化しかない」と痛感していた。人生の師となる戸田城聖先生と出会い、その信念はさらに確かなものとなった。
「最高の文化は、最高の知恵によらなければできない」と強調した戸田先生は、こう喝破している。
「民衆が、自己の教養を外にして、一部分の文化人に引きずられていくということは、文化国家の姿ではない」
この言葉を通して、池田先生は「民衆自身が学んで賢明になり、知恵と力を発揮して、社会建設の主役とならなければ、どうして真の文化国家といえようか」と。
第3代会長に就任以降、先生は“文化を民衆の手に”との思いで行動を続けていった。
「文化は、一部の特権階級のためのものではない。全人類に共通の宝である」――池田大作先生の信念のもと、東京富士美術館が開館したのは、1983年11月3日のことだった。
創価大学の開学前から、美術館ないし博物館の設置構想があった。先生は、創価教育の父・牧口常三郎先生の遺徳をしのび、美術館を設立しようと語っていた。
牧口先生は『創価教育学体系』第1巻で、当時、一般的であった知育・徳育(道徳教育)・体育の3区分法を批判し、知育と体育の2つに分けた。そして、知育を成すものの一つに、美育(芸術教育)を挙げる。先生は、人間の幸福は「美・利・善」の追求にあるとし、「美」である文化を重視した。
戦時中、牧口先生を投獄した軍部政府は、文化を規制し、創作・批評活動に大きな制約を加えた。戦後の日本は一転して、「文化国家の建設」を掲げる。
フランス文学者の渡辺一夫氏は、「敗戦が、私に解放感を与えた」(「老耄回顧」)と述懐。その一方で、戦後の経済復興を遂げた後、責任なき自由がはびこり、自制の伴わない消費などが見られるようになったと述べ、「何か大切なことが忘れ去られている」と警鐘を鳴らした。
氏が問うたのは、「人間の生き方」であろう。文化は人間の“より良き生”を育む力であり、宗教は優れた文化を生む土台である。
池田先生は若き日、「戦争の悲劇から精神的に立ち上がるのは、文化しかない」と痛感していた。人生の師となる戸田城聖先生と出会い、その信念はさらに確かなものとなった。
「最高の文化は、最高の知恵によらなければできない」と強調した戸田先生は、こう喝破している。
「民衆が、自己の教養を外にして、一部分の文化人に引きずられていくということは、文化国家の姿ではない」
この言葉を通して、池田先生は「民衆自身が学んで賢明になり、知恵と力を発揮して、社会建設の主役とならなければ、どうして真の文化国家といえようか」と。
第3代会長に就任以降、先生は“文化を民衆の手に”との思いで行動を続けていった。
フランスのルーブル美術館を視察する池田先生(1964年10月)。もとは宮殿だった建物が、フランス革命のさなか、美術館として市民に一般公開された
フランスのルーブル美術館を視察する池田先生(1964年10月)。もとは宮殿だった建物が、フランス革命のさなか、美術館として市民に一般公開された
「モナ・リザの微笑」
「モナ・リザの微笑」
61年10月、ヨーロッパを初訪問した池田先生は、パリのルーブル美術館を訪れ、未来に思いをはせた。「芸術の創造のためにも、また、民族、国境を超えて、民衆と民衆の相互理解を深める交流のためにも、いつの日か、美術館をつくりたい」
この構想を実現するため、先生は、日本はもとより海外訪問の折にも、その地にある美術館などを視察した。ルーブル美術館へは初訪問以降、幾度も足を運んでいる。
市民が主役の社会を目指したフランス革命。その理想のもと、1793年に同美術館は開館した。当時、美術品の多くは王族や貴族の所有物だったが、それを広く民衆に公開した。
所蔵品の一つに、レオナルド・ダ・ビンチの「モナ・リザ」がある。イタリア・ルネサンスを代表する名品だ。独特のぼかし技法を用いた「モナ・リザ」は、見る角度や光の加減によって表情が変わって見える。その“永遠の微笑”に世界中の人が魅了されてきた。
1972年8月、先生は、「モナ・リザの微笑」と題する一文を、岐阜日日新聞(当時)に寄せた。
「(『モナ・リザ』を)見る人は、自分の心の中のさまざまなヒダをこの不明瞭な部分に投影させて絵の中の婦人の表情を見る」
先生は、そこで用いられた技法は、日本の伝統的な文化に通じると指摘。日本文化は、「包み、かくした、その中から湧き出してくるものを尊ぶのである」と記した。
それから2年後の74年4月、「モナ・リザ」が日本で初めて公開された。同展開催の折、来日した人物が、フランスの世界的な美術史家ルネ・ユイグ氏である。池田先生はこの時、初めて氏と出会いを刻んだ。以来、2人は対談を重ね、環境破壊や戦争の脅威などについて議論を交わした。
その語らいは、「モナ・リザ」の微笑みには東洋仏教の影響がある、との氏の言葉から始まった。後に発刊された対談集『闇は暁を求めて』で、氏は言及した。
「ジョコンダ(モナ・リザ)の微笑と仏陀の微笑のあいだに、ある種の関係が認められる」
「もしかしたらレオナルドは極東の芸術についてある種の知識をもっていたかもしれない」
61年10月、ヨーロッパを初訪問した池田先生は、パリのルーブル美術館を訪れ、未来に思いをはせた。「芸術の創造のためにも、また、民族、国境を超えて、民衆と民衆の相互理解を深める交流のためにも、いつの日か、美術館をつくりたい」
この構想を実現するため、先生は、日本はもとより海外訪問の折にも、その地にある美術館などを視察した。ルーブル美術館へは初訪問以降、幾度も足を運んでいる。
市民が主役の社会を目指したフランス革命。その理想のもと、1793年に同美術館は開館した。当時、美術品の多くは王族や貴族の所有物だったが、それを広く民衆に公開した。
所蔵品の一つに、レオナルド・ダ・ビンチの「モナ・リザ」がある。イタリア・ルネサンスを代表する名品だ。独特のぼかし技法を用いた「モナ・リザ」は、見る角度や光の加減によって表情が変わって見える。その“永遠の微笑”に世界中の人が魅了されてきた。
1972年8月、先生は、「モナ・リザの微笑」と題する一文を、岐阜日日新聞(当時)に寄せた。
「(『モナ・リザ』を)見る人は、自分の心の中のさまざまなヒダをこの不明瞭な部分に投影させて絵の中の婦人の表情を見る」
先生は、そこで用いられた技法は、日本の伝統的な文化に通じると指摘。日本文化は、「包み、かくした、その中から湧き出してくるものを尊ぶのである」と記した。
それから2年後の74年4月、「モナ・リザ」が日本で初めて公開された。同展開催の折、来日した人物が、フランスの世界的な美術史家ルネ・ユイグ氏である。池田先生はこの時、初めて氏と出会いを刻んだ。以来、2人は対談を重ね、環境破壊や戦争の脅威などについて議論を交わした。
その語らいは、「モナ・リザ」の微笑みには東洋仏教の影響がある、との氏の言葉から始まった。後に発刊された対談集『闇は暁を求めて』で、氏は言及した。
「ジョコンダ(モナ・リザ)の微笑と仏陀の微笑のあいだに、ある種の関係が認められる」
「もしかしたらレオナルドは極東の芸術についてある種の知識をもっていたかもしれない」
“根源的なるもの”へ
“根源的なるもの”へ
大戦下、ルーブル美術館の絵画部長だったユイグ氏は、ナチス・ドイツのパリ侵攻から美術品を守るため、約4000点の絵画を地方の城館に避難させる。その中に「モナ・リザ」もあった。
ナチスは氏に「美術品を全てよこせ」と脅したが、氏は銃殺の危険にさらされながら言い放った。「ここにある美術品はフランス一国の文化遺産ではない。全人類の財宝だ」
氏は知恵を絞って交渉にあたり、時間を稼いだ。そして、終戦の日まで、ルーブルの至宝に指一本、触れさせなかったのである。
芸術は「神聖なもの」であり、描かれた「見えるもの」を通して、より高い「見えないもの」へと人間を引き上げてくれる――それが氏の信条であった。
75年5月20日、パリで氏と再会した先生は語った。
「戦争は文化のみならず人間自身をも破壊する。美というものは人間性を最高度に昇華する」
それを受けて、氏は続けた。
「私たちの感覚がとらえる物質の存在の背後に、無限に大きく、無限に深い実在があります。この深い実在を“根源的なるもの”と呼んでいいと思う。“美”の追求は、すなわち芸術は、そういう深みに向かうものなのです」
先生は応じた。
「その深みを仏法では『仏界』と呼びます」
先生は後年、氏との対談を振り返って、こう呼びかけた。
「生命のすばらしさ、尊極さへの厳粛な認識の感銘」「この思いへのめざめ、覚知こそ、この地上に平和と幸福をもたらす基盤であると叫びたい」
氏は東京富士美術館の開館にも協力を惜しまなかった。83年11月3日、オープニングを飾った「近世フランス絵画展」には、ルーブル美術館をはじめ、名だたる美術館の傑作が出展された。
開館に当たって先生は、「世界を語る美術館」との指針を贈った。現在、同美術館は国内外で制作された幅広い時代の美術品を約3万点収蔵。特に西洋絵画コレクションは、国内屈指の充実度だ。
戸田先生は「一流に触れ、自身を高めよ!」と語った。池田先生はその言葉通りに自身を磨き、絢爛たる民衆文化の華を育てた。
先生は述べた。
「真の芸術は、見る一人ひとりに語りかけ、励まし、教える」
芸術は人間性を高め、対立・分断を超えて、共感・融和をもたらす。先生は文化交流に力を注ぎ、人と人を結び、平和を創出する挑戦を続けていった――。
大戦下、ルーブル美術館の絵画部長だったユイグ氏は、ナチス・ドイツのパリ侵攻から美術品を守るため、約4000点の絵画を地方の城館に避難させる。その中に「モナ・リザ」もあった。
ナチスは氏に「美術品を全てよこせ」と脅したが、氏は銃殺の危険にさらされながら言い放った。「ここにある美術品はフランス一国の文化遺産ではない。全人類の財宝だ」
氏は知恵を絞って交渉にあたり、時間を稼いだ。そして、終戦の日まで、ルーブルの至宝に指一本、触れさせなかったのである。
芸術は「神聖なもの」であり、描かれた「見えるもの」を通して、より高い「見えないもの」へと人間を引き上げてくれる――それが氏の信条であった。
75年5月20日、パリで氏と再会した先生は語った。
「戦争は文化のみならず人間自身をも破壊する。美というものは人間性を最高度に昇華する」
それを受けて、氏は続けた。
「私たちの感覚がとらえる物質の存在の背後に、無限に大きく、無限に深い実在があります。この深い実在を“根源的なるもの”と呼んでいいと思う。“美”の追求は、すなわち芸術は、そういう深みに向かうものなのです」
先生は応じた。
「その深みを仏法では『仏界』と呼びます」
先生は後年、氏との対談を振り返って、こう呼びかけた。
「生命のすばらしさ、尊極さへの厳粛な認識の感銘」「この思いへのめざめ、覚知こそ、この地上に平和と幸福をもたらす基盤であると叫びたい」
氏は東京富士美術館の開館にも協力を惜しまなかった。83年11月3日、オープニングを飾った「近世フランス絵画展」には、ルーブル美術館をはじめ、名だたる美術館の傑作が出展された。
開館に当たって先生は、「世界を語る美術館」との指針を贈った。現在、同美術館は国内外で制作された幅広い時代の美術品を約3万点収蔵。特に西洋絵画コレクションは、国内屈指の充実度だ。
戸田先生は「一流に触れ、自身を高めよ!」と語った。池田先生はその言葉通りに自身を磨き、絢爛たる民衆文化の華を育てた。
先生は述べた。
「真の芸術は、見る一人ひとりに語りかけ、励まし、教える」
芸術は人間性を高め、対立・分断を超えて、共感・融和をもたらす。先生は文化交流に力を注ぎ、人と人を結び、平和を創出する挑戦を続けていった――。
2008年4月、池田先生は八王子市の東京富士美術館と、創価大学のキャンパスにカメラを向けた。新たな人間文化の担い手として、若き知性が学ぶ
2008年4月、池田先生は八王子市の東京富士美術館と、創価大学のキャンパスにカメラを向けた。新たな人間文化の担い手として、若き知性が学ぶ