電子版連載〈“レジェンド世代”を取材してみた!〉 今は分からなくても、結果は必ず表れる――広布へ駆けた71年
電子版連載〈“レジェンド世代”を取材してみた!〉 今は分からなくても、結果は必ず表れる――広布へ駆けた71年
2025年8月22日
横浜・三ツ沢の競技場前に立つ飛田さん
横浜・三ツ沢の競技場前に立つ飛田さん
草創期から創価学会を支える先輩を取材する連載「“レジェンド世代”を取材してみた!」。困難と試練のただ中を、なぜ先人たちは戦い抜くことができたのか。信心の確信とは何か。今回は、青年世代の記者が、飛田健治さん(93)=横浜市、旭総区、区主事=に率直な質問をぶつけました。
草創期から創価学会を支える先輩を取材する連載「“レジェンド世代”を取材してみた!」。困難と試練のただ中を、なぜ先人たちは戦い抜くことができたのか。信心の確信とは何か。今回は、青年世代の記者が、飛田健治さん(93)=横浜市、旭総区、区主事=に率直な質問をぶつけました。
【解説】原水爆禁止宣言
【解説】原水爆禁止宣言
1957年(昭和32年)9月8日、横浜・三ツ沢の競技場で青年部による「若人の祭典」が開催され、約5万人が集結した。同大会の席上、戸田城聖第2代会長は、青年部に託す遺訓の第一として「原水爆禁止宣言」を発表。核兵器を「絶対悪」とし、「勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきである」と断じた。
当時は冷戦下にあり、米ソを中心とした核兵器の開発競争は激化の一途をたどっていた。両陣営による、たび重なる核実験は、核戦争への恐怖を募らせ、反核の機運は世界的な高まりを見せていた。
仏法者として死刑制度に反対だった戸田先生が、あえて「死刑」という言葉を用いたのは、核兵器を容認する人間生命の元品の無明と対決するためであった。
池田先生は小説『人間革命』第12巻「宣言」の章でつづっている。「彼の原水爆禁止宣言の特質は、深く人間の生命に潜んでいる『魔』を、打ち砕かんとするところにあった。当時、原水爆禁止運動は、日本国内にあっても、大きな広がりをみせていたが、戸田城聖は核兵器を『魔』の産物であるととらえ、『絶対悪』として、その存在自体を否定する思想の確立こそが急務であると考えたのである」
以降、この日は創価学会の平和運動の原点となり、歴史に大きな意義をとどめることになった。飛田さんは当時、同大会に参加し、恩師の遺訓を聞いた一人だ。
1957年(昭和32年)9月8日、横浜・三ツ沢の競技場で青年部による「若人の祭典」が開催され、約5万人が集結した。同大会の席上、戸田城聖第2代会長は、青年部に託す遺訓の第一として「原水爆禁止宣言」を発表。核兵器を「絶対悪」とし、「勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきである」と断じた。
当時は冷戦下にあり、米ソを中心とした核兵器の開発競争は激化の一途をたどっていた。両陣営による、たび重なる核実験は、核戦争への恐怖を募らせ、反核の機運は世界的な高まりを見せていた。
仏法者として死刑制度に反対だった戸田先生が、あえて「死刑」という言葉を用いたのは、核兵器を容認する人間生命の元品の無明と対決するためであった。
池田先生は小説『人間革命』第12巻「宣言」の章でつづっている。「彼の原水爆禁止宣言の特質は、深く人間の生命に潜んでいる『魔』を、打ち砕かんとするところにあった。当時、原水爆禁止運動は、日本国内にあっても、大きな広がりをみせていたが、戸田城聖は核兵器を『魔』の産物であるととらえ、『絶対悪』として、その存在自体を否定する思想の確立こそが急務であると考えたのである」
以降、この日は創価学会の平和運動の原点となり、歴史に大きな意義をとどめることになった。飛田さんは当時、同大会に参加し、恩師の遺訓を聞いた一人だ。
“国士”を目指した青年時代
“国士”を目指した青年時代
――今日は人生の大先輩から勉強させていただく思いで来ました! まず飛田さんが信心に出合ったきっかけを教えてください!
僕は両親に捨てられて、おばあさんに育てられたんです。“ド”がつくほど貧乏だったけど、一生懸命育ててくれた。だから、中学を卒業したらすぐに、長野の小さな村から川崎まで、半ば強制的に労働に出なければいけなくなってね。
川崎に来てからは、酒屋の小僧として、毎日働いていた。店を辞めて不良にでもなってしまおうかと考えたりもしたけど、おばあさんを悲しませたくなかった。
でも半年後におばあさんが亡くなってしまって。訃報を聞いた瞬間、実家に飛んで帰ったよ。父と母の両方の役割を担ってくれていた存在だったので、喪失感がすごかった。なんでこんなメチャクチャな人生なんだろうと思ったら、心にぽっかり大きな穴があいてしまってね。信心の話を聞いたのはそんな時だった。同僚から座談会に誘われて。そこで供養の話が出たんだ。「この信心でなければ、本当の供養はできない」って言われて。その確信こもった言葉が、妙に自分の心に刺さった。それで22歳の時に入会を決意したわけ。
――今日は人生の大先輩から勉強させていただく思いで来ました! まず飛田さんが信心に出合ったきっかけを教えてください!
僕は両親に捨てられて、おばあさんに育てられたんです。“ド”がつくほど貧乏だったけど、一生懸命育ててくれた。だから、中学を卒業したらすぐに、長野の小さな村から川崎まで、半ば強制的に労働に出なければいけなくなってね。
川崎に来てからは、酒屋の小僧として、毎日働いていた。店を辞めて不良にでもなってしまおうかと考えたりもしたけど、おばあさんを悲しませたくなかった。
でも半年後におばあさんが亡くなってしまって。訃報を聞いた瞬間、実家に飛んで帰ったよ。父と母の両方の役割を担ってくれていた存在だったので、喪失感がすごかった。なんでこんなメチャクチャな人生なんだろうと思ったら、心にぽっかり大きな穴があいてしまってね。信心の話を聞いたのはそんな時だった。同僚から座談会に誘われて。そこで供養の話が出たんだ。「この信心でなければ、本当の供養はできない」って言われて。その確信こもった言葉が、妙に自分の心に刺さった。それで22歳の時に入会を決意したわけ。
青年時代の飛田さん
青年時代の飛田さん
――壮絶で言葉になりません。入会してからの生活はいかがでしたか?
男子部になってからは本当に忙しかったなあ。当時は、男子第一部隊の分隊長として、会合、個人指導、折伏の毎日。輸送班もやってたからね。日をまたいで家に帰ることなんかザラにあった(笑)。
当時、酒屋もあと数年働いていれば、昇進できることになっていたけど、より活動に専念できるように職を変えたりもした。
“学会に骨を埋める”って腹を決めていた。だから「つらい」「休みたい」なんて思いは一度もなかったなあ。
――ものすごい決意ですね。なぜそこまでの決意で取り組んでこられたのでしょうか。
そうだね、当時、青年部は戸田先生が発表した「国士訓」を命に刻んで、戦っていたからね。「国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである」。国を救う人材になるための訓練だと捉えていた。生半可な気持ちじゃダメなんだよ。本当に学会について、守る覚悟がなければ、国士にはなれない。そういう思いで戦ってきた。
――壮絶で言葉になりません。入会してからの生活はいかがでしたか?
男子部になってからは本当に忙しかったなあ。当時は、男子第一部隊の分隊長として、会合、個人指導、折伏の毎日。輸送班もやってたからね。日をまたいで家に帰ることなんかザラにあった(笑)。
当時、酒屋もあと数年働いていれば、昇進できることになっていたけど、より活動に専念できるように職を変えたりもした。
“学会に骨を埋める”って腹を決めていた。だから「つらい」「休みたい」なんて思いは一度もなかったなあ。
――ものすごい決意ですね。なぜそこまでの決意で取り組んでこられたのでしょうか。
そうだね、当時、青年部は戸田先生が発表した「国士訓」を命に刻んで、戦っていたからね。「国に十万の国士あらば、苦悩の民衆を救いうること、火を見るよりも明らかである」。国を救う人材になるための訓練だと捉えていた。生半可な気持ちじゃダメなんだよ。本当に学会について、守る覚悟がなければ、国士にはなれない。そういう思いで戦ってきた。
――戸田先生、池田先生との出会いで、印象に残っていることはなんですか?
当時は毎週、豊島公会堂で、戸田先生の御書講義があって、よく参加していたよ。戸田先生の講義は本当に面白かった。爆笑の嵐だったね。ユーモアを交えて分かりやすく指導してくれたから、御書の意味が面白いくらいに理解できた。だから毎回が楽しみで、仕事が終わるとさっそうと駆けつけてたよ。
また男子部で役員として旧学会本部(信濃町)の警備も担当していた。ある時、2階の会長室から戸田先生の怒号が聞こえてきてね。相手は池田先生。内容は分からなかったけど、とにかく扉を越えて廊下中に響き渡っていた。顔も姿も見えないけど、すさまじい気迫を感じた。隣にいた当時の部隊長から「相手がお前たちだったら、腰を抜かしてしまい、1週間は立ち上がれないだろ」って言われて(笑)。
今思い返せば、戸田先生が、自らの生命を池田先生に注ぎ込むような、厳粛な瞬間だったって感じるね。池田先生だから、全力で受け止めることができたんじゃないかな。
――戸田先生、池田先生との出会いで、印象に残っていることはなんですか?
当時は毎週、豊島公会堂で、戸田先生の御書講義があって、よく参加していたよ。戸田先生の講義は本当に面白かった。爆笑の嵐だったね。ユーモアを交えて分かりやすく指導してくれたから、御書の意味が面白いくらいに理解できた。だから毎回が楽しみで、仕事が終わるとさっそうと駆けつけてたよ。
また男子部で役員として旧学会本部(信濃町)の警備も担当していた。ある時、2階の会長室から戸田先生の怒号が聞こえてきてね。相手は池田先生。内容は分からなかったけど、とにかく扉を越えて廊下中に響き渡っていた。顔も姿も見えないけど、すさまじい気迫を感じた。隣にいた当時の部隊長から「相手がお前たちだったら、腰を抜かしてしまい、1週間は立ち上がれないだろ」って言われて(笑)。
今思い返せば、戸田先生が、自らの生命を池田先生に注ぎ込むような、厳粛な瞬間だったって感じるね。池田先生だから、全力で受け止めることができたんじゃないかな。
世界中に広める
世界中に広める
――飛田さんは、横浜・三ツ沢の競技場で行われた「若人の祭典」に参加されたと聞きました。当時の様子を教えてください。
ああ、体育大会ね、懐かしいな。あれは25歳の頃だったよ。当日の半月くらい前に、部隊長から「種目は5000メートルに出場するように」と言われてね。陸上経験がなかったものだから、学会活動の後、毎晩8000メートルくらい走り込みをしたよ。まだ若かったからね(笑)。
当日は完走を目指して無我夢中だった。途中、息が上がって苦しかったけど、戸田先生から見られてると思うと、うれしくて、走りにも力が入った。
会場は、終始熱気がすごかった。皆、「自分たちが時代を創っていくんだ」っていう気概にあふれていて。戸田先生の青年訓にも「新しき世紀をつくるものは、青年の熱と力である」ってあるけど、それを体現したようだった。やっぱり、若さは力だよ。
――聞いてるだけでも当時の熱が伝わってきます。戸田先生は閉会式で「原水爆禁止宣言」を発表されました。飛田さんは何を思われましたか。
競技の合間に、「今日は大事な発表があるらしい」って人づてに話が回ってきて。僕は何が何だか分からなかったから、あまり気にかけていなかった。だけどそれが、「原水爆禁止宣言」だった。
核兵器を使用するものを「悪魔」とか「サタン」とか強烈な言葉で批判していて、衝撃を受けたのを覚えてる。僕は戦時中、まだ中学生だったから直接、戦闘を経験したわけじゃなかったけど、戦時中は、誰もが、国のために死ぬことが幸せだと考えてた。おやじも赤紙が届いて、戦地に向かった。もちろん僕も中学を卒業したら、軍に志願しようと思っていた。そうした幸せと不幸がひっくり返った、狂った時代に産み落とされたのが、核兵器なんだ。だから、世界中に戸田先生の考えを広めようと誓った。そのためには広宣流布をするしかない。この決意で、今日まで自分なりに戦ってきたよ。
――飛田さんは、横浜・三ツ沢の競技場で行われた「若人の祭典」に参加されたと聞きました。当時の様子を教えてください。
ああ、体育大会ね、懐かしいな。あれは25歳の頃だったよ。当日の半月くらい前に、部隊長から「種目は5000メートルに出場するように」と言われてね。陸上経験がなかったものだから、学会活動の後、毎晩8000メートルくらい走り込みをしたよ。まだ若かったからね(笑)。
当日は完走を目指して無我夢中だった。途中、息が上がって苦しかったけど、戸田先生から見られてると思うと、うれしくて、走りにも力が入った。
会場は、終始熱気がすごかった。皆、「自分たちが時代を創っていくんだ」っていう気概にあふれていて。戸田先生の青年訓にも「新しき世紀をつくるものは、青年の熱と力である」ってあるけど、それを体現したようだった。やっぱり、若さは力だよ。
――聞いてるだけでも当時の熱が伝わってきます。戸田先生は閉会式で「原水爆禁止宣言」を発表されました。飛田さんは何を思われましたか。
競技の合間に、「今日は大事な発表があるらしい」って人づてに話が回ってきて。僕は何が何だか分からなかったから、あまり気にかけていなかった。だけどそれが、「原水爆禁止宣言」だった。
核兵器を使用するものを「悪魔」とか「サタン」とか強烈な言葉で批判していて、衝撃を受けたのを覚えてる。僕は戦時中、まだ中学生だったから直接、戦闘を経験したわけじゃなかったけど、戦時中は、誰もが、国のために死ぬことが幸せだと考えてた。おやじも赤紙が届いて、戦地に向かった。もちろん僕も中学を卒業したら、軍に志願しようと思っていた。そうした幸せと不幸がひっくり返った、狂った時代に産み落とされたのが、核兵器なんだ。だから、世界中に戸田先生の考えを広めようと誓った。そのためには広宣流布をするしかない。この決意で、今日まで自分なりに戦ってきたよ。
「若人の祭典」で記念のカメラに納まる青年たち
「若人の祭典」で記念のカメラに納まる青年たち
まずは人生の土台づくりから
まずは人生の土台づくりから
――自分(記者)は今23歳です。人生の大先輩として、若いうちに取り組むべきことを教えてください。
23歳かあ。目の前で起きていることに一喜一憂したくなることがあるかもしれないけど、30歳、いや50歳にならないと結果が見えてこないこともある。でも必ず功徳はある。パッと今、この場で功徳は証明できないから困っちゃうけど(笑)。でも目に見える形ではっきり結果は表れてくるから。今日まで信心してきて、これが僕の結論だね。
だから、まずは人生の土台になるための人格を磨いていくといい。自分の一凶を真正面から見つめて、人間革命していく。これからたくさんの人に出会って、さまざまな経験を積むと思う。でも縁に紛動されて、負けちゃいけない。お題目だよ。「御本尊様、私は負けません。負けません」と祈り抜けば、乗り越えられない壁はない。
――自分(記者)は今23歳です。人生の大先輩として、若いうちに取り組むべきことを教えてください。
23歳かあ。目の前で起きていることに一喜一憂したくなることがあるかもしれないけど、30歳、いや50歳にならないと結果が見えてこないこともある。でも必ず功徳はある。パッと今、この場で功徳は証明できないから困っちゃうけど(笑)。でも目に見える形ではっきり結果は表れてくるから。今日まで信心してきて、これが僕の結論だね。
だから、まずは人生の土台になるための人格を磨いていくといい。自分の一凶を真正面から見つめて、人間革命していく。これからたくさんの人に出会って、さまざまな経験を積むと思う。でも縁に紛動されて、負けちゃいけない。お題目だよ。「御本尊様、私は負けません。負けません」と祈り抜けば、乗り越えられない壁はない。
――ありがとうございます! 頑張ります!
もう僕は、毎日が楽しいんだよ。天涯孤独だった身からすると、恵まれすぎてるって思ってる。子どもたちも親思いで、常に僕を気にかけてくれる。地域の老人会で副会長もやってる。そこで友達もたくさんできた。人と会って話す。これだけで楽しい。
最近、町内の集まりで、カラオケをやってるんです。100曲くらいレパートリーがある。だから皆の人気者になっちゃった(笑)。もう最高だよ。これ以上のもの、ある? この世の中に。これが功徳かなあって思う。
とにかく、今は根気強く広宣流布、世界平和に徹して頑張ってください。僕も命ある限り、池田先生にお応えするために戦うから。
――ありがとうございます! 頑張ります!
もう僕は、毎日が楽しいんだよ。天涯孤独だった身からすると、恵まれすぎてるって思ってる。子どもたちも親思いで、常に僕を気にかけてくれる。地域の老人会で副会長もやってる。そこで友達もたくさんできた。人と会って話す。これだけで楽しい。
最近、町内の集まりで、カラオケをやってるんです。100曲くらいレパートリーがある。だから皆の人気者になっちゃった(笑)。もう最高だよ。これ以上のもの、ある? この世の中に。これが功徳かなあって思う。
とにかく、今は根気強く広宣流布、世界平和に徹して頑張ってください。僕も命ある限り、池田先生にお応えするために戦うから。
●最後までお読みいただき、ありがとうございます。ご感想をお寄せください。
メール youth@seikyo-np.jp
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