〈回顧録 いのちの翼を ハンセン病を生きる〉 明日もまた 人間主義の旗高く
〈回顧録 いのちの翼を ハンセン病を生きる〉 明日もまた 人間主義の旗高く
2026年1月20日
- 元・厚生労働大臣 坂口力さん
- 元・厚生労働大臣 坂口力さん
当時を振り返る坂口さん。穏やかなまなざしの奥に、揺るぎない信念が宿っていた
当時を振り返る坂口さん。穏やかなまなざしの奥に、揺るぎない信念が宿っていた
【香川県高松市】総理官邸へ向かう車中で、ざわつく胸の内を抑えきれなかった。――2001年(平成13年)5月11日、ハンセン病を巡る国家賠償請求訴訟で、“国の隔離政策は憲法違反”であったとし、国は全面敗訴した。当時、小泉内閣で厚生労働大臣を務めていた坂口力さん(91)は、政府として控訴するか否か、その判断を担う立場にあった。(岡山支局)
【香川県高松市】総理官邸へ向かう車中で、ざわつく胸の内を抑えきれなかった。――2001年(平成13年)5月11日、ハンセン病を巡る国家賠償請求訴訟で、“国の隔離政策は憲法違反”であったとし、国は全面敗訴した。当時、小泉内閣で厚生労働大臣を務めていた坂口力さん(91)は、政府として控訴するか否か、その判断を担う立場にあった。(岡山支局)
サザンカの花言葉は「困難に打ち勝つ」
サザンカの花言葉は「困難に打ち勝つ」
5月23日朝、毎日新聞の1面に大きな見出しが躍る。
「坂口厚労相が辞意」
長女が新聞を手に、慌てて部屋に駆け込んできた。
「お父さん、辞めるの?」
前日も深夜まで記者からの電話が途切れなかった。23日は、ハンセン病国賠訴訟における政府の方針が発表される極めて重要な日。連日の報道は「官邸は控訴で固まりつつある」と伝えていた。
――やはり、控訴以外に道はないのだろうか。総理官邸に向かう車中で、坂口さんは流れる景色をただ見送っていた。
「法務省と厚生労働省の幹部が用意した筋書きは、“一度、控訴してから話し合う”というものでした」
政府中枢が控訴へと傾く中、「控訴断念」を主張した坂口さんは、「山が濁流をのみ込むような迫力に、恐怖さえ覚えました」と振り返る。眠れない日が続き政府内で孤立した。
5月23日朝、毎日新聞の1面に大きな見出しが躍る。
「坂口厚労相が辞意」
長女が新聞を手に、慌てて部屋に駆け込んできた。
「お父さん、辞めるの?」
前日も深夜まで記者からの電話が途切れなかった。23日は、ハンセン病国賠訴訟における政府の方針が発表される極めて重要な日。連日の報道は「官邸は控訴で固まりつつある」と伝えていた。
――やはり、控訴以外に道はないのだろうか。総理官邸に向かう車中で、坂口さんは流れる景色をただ見送っていた。
「法務省と厚生労働省の幹部が用意した筋書きは、“一度、控訴してから話し合う”というものでした」
政府中枢が控訴へと傾く中、「控訴断念」を主張した坂口さんは、「山が濁流をのみ込むような迫力に、恐怖さえ覚えました」と振り返る。眠れない日が続き政府内で孤立した。
坂口さんのモットーは「生涯青春」
坂口さんのモットーは「生涯青春」
1934年(昭和9年)、坂口さんは三重の山村に生まれた。体が弱く、母の手をよく煩わせた。山や川で走り回る時間が何よりの楽しみだった。村には教員が少なく、教師を志して大学に進学。しかし、母が医師を望んでいたことを知り、大学を中退。岩盤に爪を立てるような思いで勉強を重ね、浪人を経て三重県立大学(現・三重大学)医学部に入学した。
65年、三重県赤十字血液センターに勤務し、献血事業の充実に尽力。しかし結婚後は、習慣性流産で妻の妊娠が難しいことに悩んだ。
その頃、親戚の勧めで妻が創価学会に入会し、坂口さんも続いた。ほどなくして2人の子宝に恵まれる。
72年、公明党から衆議院議員に初当選。2001年(平成13年)1月、省庁再編により、初代厚生労働大臣に就任した。
1934年(昭和9年)、坂口さんは三重の山村に生まれた。体が弱く、母の手をよく煩わせた。山や川で走り回る時間が何よりの楽しみだった。村には教員が少なく、教師を志して大学に進学。しかし、母が医師を望んでいたことを知り、大学を中退。岩盤に爪を立てるような思いで勉強を重ね、浪人を経て三重県立大学(現・三重大学)医学部に入学した。
65年、三重県赤十字血液センターに勤務し、献血事業の充実に尽力。しかし結婚後は、習慣性流産で妻の妊娠が難しいことに悩んだ。
その頃、親戚の勧めで妻が創価学会に入会し、坂口さんも続いた。ほどなくして2人の子宝に恵まれる。
72年、公明党から衆議院議員に初当選。2001年(平成13年)1月、省庁再編により、初代厚生労働大臣に就任した。
「苦難の時ほど、自らの信念を貫いてほしい」と坂口さんは語った
「苦難の時ほど、自らの信念を貫いてほしい」と坂口さんは語った
回復者との面会に心固め
回復者との面会に心固め
坂口さんが「控訴断念」に固執したのには、明確な理由がある。国賠訴訟の判決を見据え、5月の連休をすべて費やしてハンセン病関連の文献を読み込んだ。読み進めるほど、隔離政策の悲惨な実態にがくぜんとした。何度もページを行き来した。自らの不勉強を恥じた。
戦後、ハンセン病は“治る病”となっていた。それにもかかわらず、断種や堕胎といった非人道的行為が、日本国憲法の下で公然と行われてきた。そして、その政策を支持したのは医師だった。医師でもある坂口さんは怒りに震えた。
“これ以上の苦しみを、誰にも味わわせてはならない”
その決意をさらに深めたのは、ハンセン病回復者との面会である。今も鮮明に残るのは、一人の女性の壮絶な体験だ。療養所で夫と結婚し、子どもを授かった女性は、妊娠8カ月で早産を強いられた。産声を聞いた瞬間はうれしかった。愛する子どもを抱き締めたかった。しかし、赤ん坊はどこかへ連れ去られた。「それが最初で最後でした。あの産声が、今も耳から離れないんです」
その言葉には、悲しみと絶望を越えてなお残る悔しさが、にじんでいた。国が犯した罪の重さを、別の言葉で突きつけられたようだった。胸が締めつけられ、赤ペンでメモを取る手が止まった。感情を抑えるべき立場でありながら、涙をこらえられなかった。
面会の最後に代表者が言った。「今日はおわびを聞こうとは思いません。それは、控訴断念が決まってからにしてください」。坂口さんは何度も頭を下げた。
「私はまだ竹にもなっていない未熟な“タケノコ医者”であり“タケノコ大臣”でした。しかし、人権だけは守る人間でありたいと思ったのです」
坂口さんが「控訴断念」に固執したのには、明確な理由がある。国賠訴訟の判決を見据え、5月の連休をすべて費やしてハンセン病関連の文献を読み込んだ。読み進めるほど、隔離政策の悲惨な実態にがくぜんとした。何度もページを行き来した。自らの不勉強を恥じた。
戦後、ハンセン病は“治る病”となっていた。それにもかかわらず、断種や堕胎といった非人道的行為が、日本国憲法の下で公然と行われてきた。そして、その政策を支持したのは医師だった。医師でもある坂口さんは怒りに震えた。
“これ以上の苦しみを、誰にも味わわせてはならない”
その決意をさらに深めたのは、ハンセン病回復者との面会である。今も鮮明に残るのは、一人の女性の壮絶な体験だ。療養所で夫と結婚し、子どもを授かった女性は、妊娠8カ月で早産を強いられた。産声を聞いた瞬間はうれしかった。愛する子どもを抱き締めたかった。しかし、赤ん坊はどこかへ連れ去られた。「それが最初で最後でした。あの産声が、今も耳から離れないんです」
その言葉には、悲しみと絶望を越えてなお残る悔しさが、にじんでいた。国が犯した罪の重さを、別の言葉で突きつけられたようだった。胸が締めつけられ、赤ペンでメモを取る手が止まった。感情を抑えるべき立場でありながら、涙をこらえられなかった。
面会の最後に代表者が言った。「今日はおわびを聞こうとは思いません。それは、控訴断念が決まってからにしてください」。坂口さんは何度も頭を下げた。
「私はまだ竹にもなっていない未熟な“タケノコ医者”であり“タケノコ大臣”でした。しかし、人権だけは守る人間でありたいと思ったのです」
国が控訴を断念し、人権を回復する一歩となった
国が控訴を断念し、人権を回復する一歩となった
5月23日朝、坂口さんと法務大臣が官房長官に呼ばれた。坂口さんの胸ポケットには、筆でしたためた「辞表」が用意されていた。その覚悟をもって、坂口さんは改めて控訴しない意向を伝えた。「それは、厚生労働省の意見ですか」と問われると、胸を張って答えた。
「いいえ、官僚の意見とは違います。しかし、大臣は私です。私の意見が厚労省の意見です」
夕刻、小泉純一郎総理(当時)から、「控訴はしないことに決めました」と告げられた。初めて人道の光が差し込んだ瞬間だった。
その後、坂口さんは全国の療養所を訪れ、入所者への謝罪を続けた。岡山の長島を訪れた際、入所者が施設を案内してくれた。陶芸や音楽を楽しんでいた。悲しみや怒りをぶつける人は誰もいなかった。つつましくも、たくましく生きる姿がそこにはあった。判決後、園の退所を希望する入所者はわずか2%だという。
今年で歴史的な「控訴断念」から25年となる。今も家族や親戚への差別を恐れ、故郷に戻れない人が全国の療養所で暮らしている。坂口さんは入所者への思いを口にした。
「若い頃の大変なご苦労、本当に申し訳ありません。皆さん、どうか朗らかに、ゆっくりと時間をお過ごしください。今を、より良く生きていただきたいのです」
5月23日朝、坂口さんと法務大臣が官房長官に呼ばれた。坂口さんの胸ポケットには、筆でしたためた「辞表」が用意されていた。その覚悟をもって、坂口さんは改めて控訴しない意向を伝えた。「それは、厚生労働省の意見ですか」と問われると、胸を張って答えた。
「いいえ、官僚の意見とは違います。しかし、大臣は私です。私の意見が厚労省の意見です」
夕刻、小泉純一郎総理(当時)から、「控訴はしないことに決めました」と告げられた。初めて人道の光が差し込んだ瞬間だった。
その後、坂口さんは全国の療養所を訪れ、入所者への謝罪を続けた。岡山の長島を訪れた際、入所者が施設を案内してくれた。陶芸や音楽を楽しんでいた。悲しみや怒りをぶつける人は誰もいなかった。つつましくも、たくましく生きる姿がそこにはあった。判決後、園の退所を希望する入所者はわずか2%だという。
今年で歴史的な「控訴断念」から25年となる。今も家族や親戚への差別を恐れ、故郷に戻れない人が全国の療養所で暮らしている。坂口さんは入所者への思いを口にした。
「若い頃の大変なご苦労、本当に申し訳ありません。皆さん、どうか朗らかに、ゆっくりと時間をお過ごしください。今を、より良く生きていただきたいのです」
当時を語る坂口さん。歳月を超えて、眼光はなお力強い
当時を語る坂口さん。歳月を超えて、眼光はなお力強い
譲るべき時 貫くべき時
譲るべき時 貫くべき時
孤立無援の状況で、なぜ坂口さんは「控訴断念」を貫けたのか。その核心に迫った時、静かに口を開いた。
「人には譲るべき時と貫くべき時があります。人権に関わる問題においては貫かねばならない。その判断は、人間主義の生命観に依拠します」
坂口さんの胸には、かつて、公明党の創立者である池田大作先生と出会った際の言葉が、厳然とあった。
“何が大切なことなのかを、明確にしていくことです――”
座右の銘は「先憂後楽」。民に先んじて、世の行く末を憂い、自分の安楽は後回しにする、という意味。坂口さんは、政治家を引退後、医師として免疫療法の支援などに力を尽くしてきた。再生医療をさらに充実させ、保険適用を実現することが今の目標だという。
自著『タケノコ医者』に回想がつづられている。「乱高下するカーブを揺れながら歩いてきた/いくつもの岐路を悩みながら選択してきた/恥ずかしいことの連続であり/その対応も不満足の積み重ねであり/人に語れるほどの人生ではなかったけれど/敗者といえども/復活する道のあることを/先輩達に教えられた人生だった/明日もまた/不測の道が待っていることだろう/不変なのは/タケノコ医者であることだけだ」
91歳。時の節目を幾つも超え、青竹は天高く伸び続ける。
孤立無援の状況で、なぜ坂口さんは「控訴断念」を貫けたのか。その核心に迫った時、静かに口を開いた。
「人には譲るべき時と貫くべき時があります。人権に関わる問題においては貫かねばならない。その判断は、人間主義の生命観に依拠します」
坂口さんの胸には、かつて、公明党の創立者である池田大作先生と出会った際の言葉が、厳然とあった。
“何が大切なことなのかを、明確にしていくことです――”
座右の銘は「先憂後楽」。民に先んじて、世の行く末を憂い、自分の安楽は後回しにする、という意味。坂口さんは、政治家を引退後、医師として免疫療法の支援などに力を尽くしてきた。再生医療をさらに充実させ、保険適用を実現することが今の目標だという。
自著『タケノコ医者』に回想がつづられている。「乱高下するカーブを揺れながら歩いてきた/いくつもの岐路を悩みながら選択してきた/恥ずかしいことの連続であり/その対応も不満足の積み重ねであり/人に語れるほどの人生ではなかったけれど/敗者といえども/復活する道のあることを/先輩達に教えられた人生だった/明日もまた/不測の道が待っていることだろう/不変なのは/タケノコ医者であることだけだ」
91歳。時の節目を幾つも超え、青竹は天高く伸び続ける。
坂口さんの書籍。今も原稿を書き続けている
坂口さんの書籍。今も原稿を書き続けている
四国研修道場から瀬戸内海を望む
四国研修道場から瀬戸内海を望む