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〈文化〉 世界を席巻した日本人指揮者・小澤征爾 2025年8月18日

  • 挫折を乗り越え、最高峰に到達
  • ノンフィクション作家 中丸美繪さん

 昨年2月に亡くなった世界的な指揮者・小澤征爾。オーストリア・ウィーン国立歌劇場やボストン交響楽団で音楽監督を務めた「世界のオザワ」は、存命であれば、9月1日に90歳の誕生日を迎えます。彼はいかにして、音楽界の頂点に上り詰めたのか。評伝『タクトは踊る 風雲児・小澤征爾の生涯』を著したノンフィクション作家の中丸美繪さんにつづってもらいました。

1972年6月、民主音楽協会の定期公演(日本フィルハーモニー交響楽団)で、グスタフ・マーラー作曲・交響曲第2番「復活」の指揮をとる小澤征爾=民音提供

師・齋藤秀雄の指導法

 サイトウ・キネン・オーケストラを中心とした長野県松本市のフェスティバルが、今年も開催されている。小澤は恩師・齋藤秀雄の名を冠したこのフェスティバルの総監督として、逝去4カ月前にも車椅子姿でステージに現れた。言葉を発することもできず、拍手の両手が合わず、嬉し涙を流した姿をメディアで目にした方々も多いだろう。
 私にとって小澤は、豊かな髪を振り乱し、スポーツをした後のような大汗にまみれ、楽屋では「征爾」と書かれた浴衣に着替えて客に応対するエネルギーの塊だった。だからその光景には違和感を覚えたが、小澤のステージへの執着は20代から最期まで変わりない。
  
 桐朋学園音楽科創設者の一人、齋藤秀雄は世界でも類例を見ない発想で、指揮を七つの基本動作に分類し『指揮法教程』を著した。さらに音楽を言語別に分析する画期的な演奏解釈で、音楽の「文法」を生徒たちに教え込んだ。
 まず弦楽器の門下生らが海外へ飛び出し国際コンクール優勝・入賞の成果を出し、指揮では小澤が先陣を切った。世界がまだ遠く感じられた昭和という時代に、小澤は齋藤指揮法の「実験」として、世界の檜舞台をめざすミッションを与えられたといってもよかった。
 こうして世界中に散らばった演奏家を集め、齋藤の没後10年につくられたのがサイトウ・キネン・オーケストラである。
  
 拙著『嬉遊曲、鳴りやまず――斎藤秀雄の生涯』出版後、昨年の没後50年には秋山和慶らに新たに取材をし『斎藤秀雄 レジェンドになった教育家』(決定版)を刊行。その間に私は指揮者・朝比奈隆、ピアノ界全盛を築き「天皇」と敬愛された井口基成・妹愛子・妻秋子らの評伝を書き、音楽界の高い山脈に分け入った。そこでは知られざる小澤の姿も語られ、未発表資料が託された。人間・小澤征爾は徐々に輪郭を持ち始めた。彼の成功には、出会いの運、魅力的な人柄、「ダメでもともと」という胆力が欠かせない。
 巡り合わせは齋藤の弟子になったことに始まり、桐朋音楽科創立に尽力した三井不動産社長・会長の江戸英雄、さらにフジサンケイグループの基礎をつくり「財界四天王」と呼ばれた水野成夫へと繫がった。この人脈が、国際コンクールに優勝したとはいえ、現場の実績を積んでいない小澤を、日本一の伝統を持つNHK交響楽団(N響)への抜擢に結び付けた可能性がある。
  
 小澤はN響デビュー半年前に江戸京子(英雄の長女)と結婚した。京子はパリでの恋についてこう語った。
 「征爾は強引だった。やりたいことを必ずやり遂げるというところがあった。それを男らしいと感じたのでしょうね」
 彼らの披露宴には、首相を含む政財・文化界に及ぶ450人が集った。東洋一美しいといわれた日生劇場開館にも関わり、同世代の作家・石原慎太郎、劇団四季創設者・浅利慶太らとも交流を始めた。
  
 華やぎに満ちた小澤はメディアに追われ続け、当時の週刊誌では〈若獅子〉と呼ばれている。しかし、若き日の彼はN響が長く順守してきた規律を破り、NHKやN響を大っぴらに非難する怖いもの知らずで、その結果、オーケストラから演奏会ボイコットの通知を受けた。それに対して小澤は契約不履行と告訴、両者の関係はこじれたが、この挫折こそが「世界のオザワ」をつくることとなった。

1989年9月、民音の制作オペラ「スペードの女王」(チャイコフスキー作曲)の記者会見を行う小澤征爾(左から2人目)=同
1989年9月、民音の制作オペラ「スペードの女王」(チャイコフスキー作曲)の記者会見を行う小澤征爾(左から2人目)=同
超人的な記憶力で暗譜

 日本を離れてニューヨークで暮らし始めた小澤は、「指揮者を指揮する」といわれたコロンビア・アーティスツと契約、楽譜は暗譜するまで勉強すべきだと助言された。それを売りとした小澤の超人的な記憶力を示したのが、現代音楽の巨匠メシアンの「アッシジの聖フランチェスコ」である。世界初演では900ページにわたるスコア、歌手と合唱団、打楽器40種類という途方もない編成の4時間の歌劇を暗譜で振り切った。そんな小澤の記憶力にバーンスタインは「セイジ、きみはいったいどこの惑星から来たんだい」と抱きついたこともある。
  
 小澤のステージは聴衆を興奮させ、現代曲で追随を許さず、トロント、サンフランシスコ、ボストン交響楽団音楽監督へと階段を上がっていった。前衛作曲家・武満徹の世界初演は11曲にのぼる。
 さて、N響事件の後、海外に居住し「日本には居場所がない」と語った小澤だったが、実は小澤には常に国内に自分のオーケストラがあった。まずは小澤の日本デビューにつきあい、N響事件後も共演し続けた日本フィルハーモニー交響楽団である。同団を創設した水野成夫は小澤の渡欧資金を出し、やがては強引にポストも与えた。
  
 ところが水野が他界し、鹿内信隆がフジサンケイグループを率いるようになると、日本フィルはストライキを行ったことが遠因となって解散を告げられた。首席指揮者として率いた小澤がこの争議を後押ししたことは、関係者から手渡された組合委員長との国際電話の録音テープで明らかとなった。小澤は昭和天皇への直訴にも出たが、解散は翻らず、同フィルは手探りで自主運営を始めた。一方で小澤は一部の楽員たちと、日本フィル解散2週間後に、新日本フィルハーモニー交響楽団を設立したのだ。

中丸美繪著『タクトは踊る』(文藝春秋刊)
中丸美繪著『タクトは踊る』(文藝春秋刊)
「昭和」を象徴する傑物

 そんな風雲児・小澤の幸運は「帝王」カラヤンから可愛がられたこともある。カラヤンの弟子といえば小澤である。
 「あの先生も根性あるよ。ベルリンでは酷評も出たけど、カラヤン先生は僕を毎年、ベルリン・フィルに呼んでくれた」
 オペラに向かうようになったのもカラヤンの勧めである。大劇場公演に先駆けて国内の劇場で同演目を振れとも忠告され、小澤は従順に突き進んだ。石原慎太郎・都知事(当時)を動かした「東京のオペラの森」創設、京都の企業ローム創設者と意気投合してできた小澤征爾音楽塾。そして、サイトウ・キネン・フェスティバルでは第1回からオペラを取り入れた。
  
 酷いブーイングを受ける苦痛もミラノ・スカラ座で味わったが、2002年には日本中を喜びの渦に巻き込んだ。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートへの初登場である。「エフゲニー・オネーギン」「スペードの女王」などのオペラで成功を収めてきた小澤は、その年の秋、ウィーン国立歌劇場音楽監督に就任し、音楽界の頂点に上り詰めたのだ。
 しかし、伏魔殿といわれるオペラハウスは一筋縄ではいかなかった。
 「イェヌーファ」などで評判もとったが、オペラ史上最大級の「ニーベルングの指環」を振る機会は与えられず、小澤は煩悶した。
  
 小澤は、昭和を象徴する傑物である。その活躍は日本が高度経済成長から世界のGDP(国内総生産)の17%を誇った時期に一致しており、トヨタなど名だたる企業が後押しした。彼のように世界を席巻する日本人指揮者は今後、登場するだろうか。音楽的才能においても、彼を超える才能の出現を私たちは待たなければならない。
 小澤征爾は特別な魔力を持ち、オーケストラの前に立つだけでその響きを変えた。バッハを愛した小澤は、今、天にいる仲間たちの真ん中で、踊るようにタクトを振って音楽を奏でているはずだ。

 〈プロフィル〉
 なかまる・よしえ ノンフィクション作家。慶應義塾大学卒。1997年、齋藤秀雄の評伝『嬉遊曲、鳴りやまず』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。他に、朝比奈隆の評伝『オーケストラ、それは我なり』、井口基成を描く『鍵盤の天皇』などの著書がある。昨年10月、『斎藤秀雄 レジェンドになった教育家』(決定版)を刊行。今年2月、小澤征爾の評伝『タクトは踊る』(現在3刷)を出版した。

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