• ルビ
  • 音声読み上げ
  • シェア
  • メール
  • CLOSE

〈地域を歩く〉 奈良県・吉野町 悠久の歴史薫る桜の名所 2026年4月11日

  • 日本一の古里に咲き誇る “一目千本”の幸福の花々
多様な色彩に覆われた春の吉野山。道には、桜を望める飲食店や土産物屋などが並ぶ。池田先生は1966年4月3日に吉野山を訪問しており、この日が「吉野栄光圏の日」に
多様な色彩に覆われた春の吉野山。道には、桜を望める飲食店や土産物屋などが並ぶ。池田先生は1966年4月3日に吉野山を訪問しており、この日が「吉野栄光圏の日」に

 いつの時代も春を彩り、人々の心を和ませる桜。その名所として古くから有名なのが、約200種3万本の桜がある、奈良県・吉野町の吉野山です。今月上旬、桜が見頃を迎えました。桜の町の暮らしや文化に迫ろうと同町を訪れました。

 世界遺産である吉野山の上り坂を、息を切らしながら進む。しばらくすると、優しく温かい桜の風景が目に飛び込んできた。

 白やピンク、赤茶色……。鮮やかな花や若葉が、丸みを帯びたドームを形作り、それは、まるで山の斜面に浮かぶ雲のようだった。

 その一方、引いて全体を見ていると、山の緑や空の青が、折り重なるようにして咲く桜を際立たせ、うねる大河のようにも思えてくる。

 その起源は、約1300年前といわれる。平安期以降、その数は増え、人々は桜が織りなす情景から、さまざまな思いを受け取ってきた。

 平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍し、吉野山に庵を結んだ歌人・西行は詠んだ。

 「吉野山 梢の花を 見し日より 心は身にも 添わず成にき」

 吉野山に咲く桜を見た日から、心は桜に奪われ、身から離れてしまったとの意である。以後の勅撰和歌集では、400首もの歌が吉野山の桜に関係したものだった。

 また、豊臣秀吉は約430年前に、約5000人の武将や文化人を引き連れ、この地で5日間にわたって花見を催したという。山肌一面に咲く吉野山の桜を彼は“一目千本”とたたえ、今に伝わっている。

 悠久の歴史を感じながら、伊藤将司さん(男子部員)のもとを訪れた。吉野山の30ヘクタールに咲く約2万本の桜を管理する3人の桜守の一人だ。

桜守の伊藤さん。その活躍はテレビ番組でも紹介された
桜守の伊藤さん。その活躍はテレビ番組でも紹介された

 吉野町で生まれ育った伊藤さん。会社勤めに行き詰まりを感じていた20代後半の時、知り合いから声をかけられたのを機に桜守を始めた。

 吉野山の桜のほとんどは、多くの人が見慣れたソメイヨシノではなく、日本古来のヤマザクラだ。

 「吉野の桜は、一本一本、形や色の個性が違うんです。そして山に咲くからこそ、上、下、横とどこからも美しい姿を見ることができるんです」と言う。

 その一本一本が春に見事な花を咲かせる姿を思い浮かべながら、伊藤さんたち桜守は、一年がかりで生育に携わる。春は土壌改善、夏から年末までは草刈り、年明けから植樹や伐採を行う。

 また一年を通して、新たな苗木の育成にも励む。最近は木を枯らせる特定外来生物が増え、その対策にも取り組んでいるという。

 伊藤さんが桜守を始めて、もうすぐ11年。連綿と受け継がれてきたこの仕事を、どんな思いで続けているのか。

 そう問うと伊藤さんは「僕らが何もしなくても、花は咲きますから」と笑いつつも、こう続けた。

 「でも手をかけた分だけ、きれいに咲きます。それがやりがい。地元の人をはじめ、皆さんに長く喜んでもらえるよう、一日一日、丁寧に仕事を続けていきたい」

 目の前に広がる美しい景色も、伊藤さんのような桜守の人々の陰の支えがあってこそなのだと、心から感じた。
 
    * * *
 
 吉野の今をペンでつづるのは、文芸部員の宮川美枝子さん(支部副女性部長)。吉野の四季や日常に関するエッセーが奈良新聞などに掲載され、2年前に代表的な文章をまとめた『吉野の詩人』を出版した。3月下旬には、吉野の夜桜に関する記事が新聞に載った。

宮川さんが自著と共に。『惜春の大地』は吉野の俳人の人生に迫った本である
宮川さんが自著と共に。『惜春の大地』は吉野の俳人の人生に迫った本である

 宮川さんは結婚して移り住んだ東京で、主婦業の傍ら文筆の腕を磨いてきた。子育てが一段落した13年前に、生まれ育った吉野にUターン。自然豊かで四季の変化に富む情景に触れ、アイデアはますます広がった。

 「メモをしたり、俳句をつくったり、時には写真を撮って、感動を忘れないように工夫しています。素材がある程度たまったら、机に向かって推敲を始めます」

 宮川さんの言葉をつづる原動力は、毎月1冊読了してきた小説『新・人間革命』にあるという。作中に書かれた信仰のドラマや古今東西の歴史、何より、愛する同志のためにペンを握り続けてきた池田大作先生の間断なき闘争に鼓舞されてきた。

 宮川さんは「私も微力ながら、ペンで故郷・吉野の良さを伝えつつ、生きる喜びを届けたい」と、未来を見つめていた。

宮川さんの著作や、文章が載った本
宮川さんの著作や、文章が載った本

 「吉野山はもちろんですが、名所はたくさんあるんですよ」

 そう言うのは、吉野町を広布の舞台とする吉野支部で支部長を務める井上馨さん。車を運転し、町を東西に貫く吉野川沿いを案内してくれた。

 吉野のスギやヒノキなどの木材は大坂城にも使われた一級品で、吉野川を使って運ばれたという。河原は憩いの場としても親しまれ、キャンプを楽しむ人の姿が見えた。

 他にも、縄文時代以降の出土品がある宮滝遺跡や、和紙や割り箸などのものづくりが盛んな国栖の里などを、次々に紹介してくれた。

訪問した国栖の里で笑顔を見せる井上さん
訪問した国栖の里で笑顔を見せる井上さん

 「会社が遠くて引っ越しを考えたこともありました。でも僕は吉野で生まれ育ったし、何より『よしの』という名前の響きが好きなんです」

 井上さんはこれまで、約60世帯から成る町内会の会長を長年務め、今も副会長を担う。寺社と関連する町内会行事もあり、「学会員に手伝えるんか」とからかう声もあった。しかし井上さんは“地域の発展のために”と進んで汗を流してきた。その姿に感心し、学会理解を深めた人も少なくない。

 井上さんの決意は深い。「親父やおふくろたちが残してくれた吉野の文化を、次の世代に引き継いでいきます」

宮滝遺跡付近
宮滝遺跡付近

 地域友好に励む吉野の友にとって、師弟の原点となっているのは、1985年4月28日に奈良市内で行われた奈良青年平和文化祭である。

 第1次宗門事件からの反転攻勢の戦いの中、各地で行われてきた文化祭。奈良では、3100人の青年が躍動のパフォーマンスを披露した。池田先生はマイクをとり、“青春とは王者なり”“奈良は日本のルーツ、心の古里ともいうべき天地である”とたたえながら、こう訴えた。

 「日本一の古里ともいうべき奈良で活躍する皆さんは、いよいよ郷土と自身の繁栄のため力強く前進していただきたい」

 山口憲一さん(副圏長)は、「そうそう、この言葉ですわ。心に火がともりました」と、文化祭の記事に、ぐっと眼鏡を近づけて言う。

 当時、男子部の運営本部の一員として、書類の作成や受け渡しなど、無我夢中で走り回っていた。

 「あの時は父が亡くなって3年後やったなあ。弟と一緒に土木工事の会社を引き継いで忙しかったんや」

山口さん。いつも吉野を陰で支えている
山口さん。いつも吉野を陰で支えている

 吉野を日本一の古里に――そう誓い、多忙な中でも統監部や儀典部など陰の戦いに取り組みながら、後継の育成に力を注いだ。

 深く話を聞こうとすると、「僕を取材するより、もっとすごい人が他にもいますよ」と、次々と名前をあげていた。

 そのうちの一人に連絡を取ると、「そういう謙虚なところが山口さんらしい。歴代の吉野町出身のリーダーのあの人もこの人も、山口さんに面倒を見てもらって立ち上がったんですよ」と教えてくれた。

 地道に一人一人と関わり、郷土の繁栄に尽くしてきた山口さん。誓いに生き抜く人生の輝きが、そこにあった。
 
    * * *
 
 川本直子さん(圏副女性部長)も青年平和文化祭を支えた一人。「美容師の資格をもってたの。だから、出演者たちの髪を整えてあげたんや」と振り返る。

 結婚後、夫・敏治さん(地区幹事)の実家がある吉野町に引っ越してきた直子さん。2年前に店をたたむまで、吉野山の麓でクリーニング店を46年にわたって営んできた。直子さんの元気な接客と丁寧な仕事が評判を呼び、店は盛況に。敏治さんは塗装業で全国を走り回っていた。

川本直子さん㊨と夫の敏治さんが仲良く。直子さんは「さまざまな活動ができ、家族の支えに感謝です」と
川本直子さん㊨と夫の敏治さんが仲良く。直子さんは「さまざまな活動ができ、家族の支えに感謝です」と

 順風満帆の日々を送っていた2005年、長女が病のため、32歳でこの世を去った。

 ぽっかりと心に穴が空いたようで、何も手につかなかった。希望の灯をともしてくれたのは、学会の同志だった。

 唱題する気力が湧かない時も、「私たちが一緒に祈るから」と寄り添ってくれた。共に題目を唱えると、心が少しずつ前向きになっていった。

 ある時、聖教新聞を読んでいると、「使命」の二文字が目に入った。池田先生の言葉だった。

 「どの生命にも、無限の『価値』がある。どの人にも、かけがえのない『使命』がある」

 “私にも生きて果たさなければならない使命がある。娘と一緒に、2倍生きるんや”と誓った。

 そこから、“頼まれたことは、全部自分の使命や”と、学会の役職は全て引き受けた。一人一人の悩みに耳を傾け、励ましを送り続けた。

 さらに“地域で困っている人のために、できることはないか”と模索する中で、吉野町の社会福祉協議会に所属。子ども食堂をはじめ、さまざまなボランティアに携わってきた。

 地域の友人とのつながりが増え、町を歩けば「なおちゃん」と声をかけられることもしばしば。会うと話に花が咲き、直子さんの勧めで聖教新聞を購読する友もいる。

 直子さんは、「“何でも喜んで”の精神で取り組んで、地域の方が喜んでくれる。そんな何気ない日々の暮らしが、これ以上ない幸せなことだと感じています。これからも信心根本に、亡き娘と共に生き抜いていきます」と前を見つめていた。

桜を見渡せるスポットで、人々が憩いのひとときを過ごしていた
桜を見渡せるスポットで、人々が憩いのひとときを過ごしていた

 “日本一の古里”で桜梅桃李の使命の花を咲かせる青年世代の友もいる。

 横前美紀さん(女性部員)は、刺しゅう加工の企業で、子ども向けの生地を加工する仕事に11年、携わってきた。約30人の同僚の中で、年間の個人成績は毎年、トップに輝いている。健康第一で日々の仕事に取り組む横前さんの原動力は、朝晩の勤行・唱題だ。

吉野山での食べ歩きが好きと言う横前さん
吉野山での食べ歩きが好きと言う横前さん

 積極的に信心に励むようになったのは中学生の時。人間関係で悩み、不登校になったことがきっかけとなり、家族の勧めで一緒に題目を唱えるようになった。

 聖教新聞で先生の励ましの言葉に触れ、徐々に元気を取り戻した横前さんは、高校を最後まで休まずに登校。友達にも恵まれ、充実した高校生活を送ることができた。

 “自分に合った会社に”と祈る中で、現在の会社への就職が決まった。道を切り開くことができる信心の確信を、友人にも語っている。

 ある友人は、深い悩みから感情を表に出さないようにしていたが、「この信心で変われるよ」との横前さんの言葉に心を動かされ、座談会への参加や唱題の実践にも励むように。6月の教学部任用試験(仏法入門)の受験も決意したという。

 先月まで池田華陽会の圏キャップを務めた横前さん。「段々と友人の笑顔が増えてうれしい。仕事でも結果を残しながら、いろんな人を励ましていきます」と頼もしく語っていた。

吉野川に架かる鉄橋を電車が走る。鉄橋は約100年前、鉄道が吉野駅まで延伸する際につくられた
吉野川に架かる鉄橋を電車が走る。鉄橋は約100年前、鉄道が吉野駅まで延伸する際につくられた

 豊かな自然と歴史を持つ吉野町を回って感じた。その魅力は偶然に続くのではなく、先人たちの思いを継いだ不断の努力が形作るのだ、と。

 学会の同志たちが、郷土の未来のために、それぞれの場所で、自他共に幸福の花を咲かせゆく使命はいや増して大きい。その姿こそ“一目千本”のように、地域に喜びを広げる力となるに違いない。

 感想をこちらからお寄せください。
 
こちらから、「地域を歩く」の過去の連載の一部をご覧いただけます(電子版有料会員)。

動画

SEIKYO CAMPUS

SEIKYO CAMPUS

SDGs✕SEIKYO

SDGs✕SEIKYO

連載まとめ

連載まとめ

Seikyo Gift

Seikyo Gift

聖教ブックストア

聖教ブックストア

デジタル特集

DIGITAL FEATURE ARTICLES デジタル特集

YOUTH

劇画

劇画
  • HUMAN REVOLUTION 人間革命検索
  • CLIP クリップ
  • VOICE SERVICE 音声
  • HOW TO USE 聖教電子版の使い方
PAGE TOP