【石川県珠洲市】その店には、クーラーがない。流れ込んだ浜風が、窓のブラインドをカタカタと鳴らせど、汗がにじむ店内。それでもなぜか、港町のあちこちから住民が集まってくる。「暑い時に、熱いコーヒーを飲んで、汗をかくのもいいもんですよ」。涼しい笑みをたたえた、店主の端正一郎さん(65)=副本部長(地区部長兼任)=にそう誘われ、常連さんと一緒にテーブルを囲んだ。能登半島の内浦、能登町姫地区にある「ひめのや商店」は、不思議な魅力にあふれていた。
【石川県珠洲市】その店には、クーラーがない。流れ込んだ浜風が、窓のブラインドをカタカタと鳴らせど、汗がにじむ店内。それでもなぜか、港町のあちこちから住民が集まってくる。「暑い時に、熱いコーヒーを飲んで、汗をかくのもいいもんですよ」。涼しい笑みをたたえた、店主の端正一郎さん(65)=副本部長(地区部長兼任)=にそう誘われ、常連さんと一緒にテーブルを囲んだ。能登半島の内浦、能登町姫地区にある「ひめのや商店」は、不思議な魅力にあふれていた。
「エアコンをしっかり使いましょう」。そんな呼びかけを頻繁に耳にするほど、酷暑が列島を包む。
取材に伺った前日には、石川県小松市で40・3度を記録。外出を控える注意喚起と逆行するように、「ひめのや商店」には高齢の方々が訪れる。
常連の元漁師いわく「ここのは安くてウマい。散歩がてら寄るのが日課」。女性陣からは「居心地がよくて。何回も来ちゃう」との声。
ビルの上で作業していた工事業者は、「歩いてる人が全員、吸い込まれるように店に入っていきますね」と驚いていた。
地区唯一の商店は、なかなかの繁盛っぷり。もはや町のインフラのよう。
一杯100円のホットコーヒーを手に、ひとしきり世間話に花を咲かせると、ヨーグルトやアイスなどの買い物をして、それぞれが帰途に。小さな港町の、ささやかな憩いの場。地域に愛されて、20年になる。
持ち前の爽やかさで、人の縁に恵まれてきた。フォークソング・ブームに乗っかり、ギターに目覚めた中学時代。高校ではブラスバンドにハマり、音楽をやりたくて珠洲から東京の大学へ。ドラムでの成功を夢見て、新聞奨学生をしながら大学に通った。
ある時、遊びに行った友人宅に先客がいた。部屋の隅で、用件が終わるのを待っていると、聞き覚えのある言葉に、耳をそばだてた。
「宿命を転換できる信心なんだ」。幼い頃、祖父母を折伏しに来た叔父が同じことを言っていたのを思い出した。相手の幸せを願う、ひたむきなまなざしが、大好きな叔父と重なって見えた。
創価学会には何かあるはず。「それ、俺がやります」。友人より先に入会を申し出た。
1982年(昭和57年)、第2回「世界平和文化祭」に人文字で出演。悪天候をはねのけ、迎えたフィナーレ。イヤホンから聞こえる「みんな、創価学会ってすごいな!」とリーダーの感極まった呼びかけに、心の底からうなずいた。池田先生を中心に一つになれた高揚感。生涯、学会から離れまいと決めた。
好きなことを追いかけた20代。音楽活動は鳴かず飛ばず。アパレル、広告代理店を経て、千葉に職を求めた。夜更けまでロマンを語り合う学会活動は楽しかった。30歳を節目に、能登に帰郷した。
「その国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」(新1953・全1467)のまま、広布への情熱をたぎらせたが、肝心の仕事では、やりたいことが見えないまま。妻・千明さん(68)=圏女性部長=と結婚後、縫製工場から転職したのが隣町の姫漁協だった。
都会のネオンとは無縁で、代わりにイカ釣り船の集魚灯が相手。漁船への給油や、各家庭への灯油配達に明け暮れた。人懐っこく語りかけ、一人一人と心を結ぶように接した。
勤務から6年が経った時、突如として漁協が廃止されるという危機に直面。たじろぐことはなかったが、地域で培われた暮らしが危ぶまれることを心配した。
「エアコンをしっかり使いましょう」。そんな呼びかけを頻繁に耳にするほど、酷暑が列島を包む。
取材に伺った前日には、石川県小松市で40・3度を記録。外出を控える注意喚起と逆行するように、「ひめのや商店」には高齢の方々が訪れる。
常連の元漁師いわく「ここのは安くてウマい。散歩がてら寄るのが日課」。女性陣からは「居心地がよくて。何回も来ちゃう」との声。
ビルの上で作業していた工事業者は、「歩いてる人が全員、吸い込まれるように店に入っていきますね」と驚いていた。
地区唯一の商店は、なかなかの繁盛っぷり。もはや町のインフラのよう。
一杯100円のホットコーヒーを手に、ひとしきり世間話に花を咲かせると、ヨーグルトやアイスなどの買い物をして、それぞれが帰途に。小さな港町の、ささやかな憩いの場。地域に愛されて、20年になる。
持ち前の爽やかさで、人の縁に恵まれてきた。フォークソング・ブームに乗っかり、ギターに目覚めた中学時代。高校ではブラスバンドにハマり、音楽をやりたくて珠洲から東京の大学へ。ドラムでの成功を夢見て、新聞奨学生をしながら大学に通った。
ある時、遊びに行った友人宅に先客がいた。部屋の隅で、用件が終わるのを待っていると、聞き覚えのある言葉に、耳をそばだてた。
「宿命を転換できる信心なんだ」。幼い頃、祖父母を折伏しに来た叔父が同じことを言っていたのを思い出した。相手の幸せを願う、ひたむきなまなざしが、大好きな叔父と重なって見えた。
創価学会には何かあるはず。「それ、俺がやります」。友人より先に入会を申し出た。
1982年(昭和57年)、第2回「世界平和文化祭」に人文字で出演。悪天候をはねのけ、迎えたフィナーレ。イヤホンから聞こえる「みんな、創価学会ってすごいな!」とリーダーの感極まった呼びかけに、心の底からうなずいた。池田先生を中心に一つになれた高揚感。生涯、学会から離れまいと決めた。
好きなことを追いかけた20代。音楽活動は鳴かず飛ばず。アパレル、広告代理店を経て、千葉に職を求めた。夜更けまでロマンを語り合う学会活動は楽しかった。30歳を節目に、能登に帰郷した。
「その国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」(新1953・全1467)のまま、広布への情熱をたぎらせたが、肝心の仕事では、やりたいことが見えないまま。妻・千明さん(68)=圏女性部長=と結婚後、縫製工場から転職したのが隣町の姫漁協だった。
都会のネオンとは無縁で、代わりにイカ釣り船の集魚灯が相手。漁船への給油や、各家庭への灯油配達に明け暮れた。人懐っこく語りかけ、一人一人と心を結ぶように接した。
勤務から6年が経った時、突如として漁協が廃止されるという危機に直面。たじろぐことはなかったが、地域で培われた暮らしが危ぶまれることを心配した。
当時、44歳。迷いはあった。2人の子も進学を控えていた。
千明さんと話し合い、信心の先輩のもとを訪ねた。先輩は「大切なのは、『誓願』の心を忘れないことだよ」と。池田先生から北陸に託された道を示してくれた。
かつての同僚が職を求めて去る中、端さんは私財をなげうち漁協のビルを購入。灯油の配達から、食料品の販売、郵便や宅配の受付、漁業者やイカ釣り船団の事務局までも請け負う「何でも屋」となった。住民たちはこぞって応援してくれた。
「みんなが気軽に集まれる『家』みたいにしたいな」。そんなつぶやきを聞いた長男が「『ひめのや』がいいよ」と提案。屋号にした。
当初は住民も「飯田(珠洲市の地名)のあんま(お兄ちゃん)」とよそよそしかったが、いつしか「ひめのやさん」と親しまれるように。海の男とひと味違う柔和さから、女性たちに「姫のヨン様」と呼ばれたことも。
100円喫茶は好評で、時には椅子の取り合いに。人が集まる理由を、常連客が「皆から好かれてなきゃ、続かないわよ」と教えてくれた。
昨年の地震では、能登町への道が寸断。迂回して店にたどり着いたのは10日後だった。
電気も水道もない中、川から水をくみ、住民と助け合った。高齢者が暖を取れず凍えていた。取引先から「お宅に回せるものがない」と言われたが、ツテを駆使して灯油を確保。喜んでくれる住民の顔に癒やされた。
震災後は、午前5時に起床。姫地区の住民、世話になった人、同志の顔を思い浮かべて題目を送る。“みんなが生活再建できますように”。縁に導かれてきた自分だから、題目で恩を返したい。そうして1年7カ月が過ぎた。
どんな時も心にある御書の一節がある。「悦ばしきかなや、楽しきかなや、不肖の身として今度心田に仏種をうえたる」(新203・全286)。わが振る舞いの一つ一つが、仏縁そのもの。自分に向けられた目線の先には、学会があり、池田先生がいる。だから負けられない。そう決め、胸を張ってきた。
求められれば、何でもする。老人会の集いでギターを披露。「やってきたことも無駄じゃないね(笑)」。元漁師たちに頼まれて、ビルの一室には、マージャン卓を設置。奥さま方から「(夫が)昼にゴロゴロしないので、助かる」と喜ばれる。気付けば、マージャン卓もコーヒーメーカーも5代目。連日、フル稼働する。
港のささやかな生活。その一部となっている自分に言ってやりたい。一日一日を誓願に生きてるな――と。
当時、44歳。迷いはあった。2人の子も進学を控えていた。
千明さんと話し合い、信心の先輩のもとを訪ねた。先輩は「大切なのは、『誓願』の心を忘れないことだよ」と。池田先生から北陸に託された道を示してくれた。
かつての同僚が職を求めて去る中、端さんは私財をなげうち漁協のビルを購入。灯油の配達から、食料品の販売、郵便や宅配の受付、漁業者やイカ釣り船団の事務局までも請け負う「何でも屋」となった。住民たちはこぞって応援してくれた。
「みんなが気軽に集まれる『家』みたいにしたいな」。そんなつぶやきを聞いた長男が「『ひめのや』がいいよ」と提案。屋号にした。
当初は住民も「飯田(珠洲市の地名)のあんま(お兄ちゃん)」とよそよそしかったが、いつしか「ひめのやさん」と親しまれるように。海の男とひと味違う柔和さから、女性たちに「姫のヨン様」と呼ばれたことも。
100円喫茶は好評で、時には椅子の取り合いに。人が集まる理由を、常連客が「皆から好かれてなきゃ、続かないわよ」と教えてくれた。
昨年の地震では、能登町への道が寸断。迂回して店にたどり着いたのは10日後だった。
電気も水道もない中、川から水をくみ、住民と助け合った。高齢者が暖を取れず凍えていた。取引先から「お宅に回せるものがない」と言われたが、ツテを駆使して灯油を確保。喜んでくれる住民の顔に癒やされた。
震災後は、午前5時に起床。姫地区の住民、世話になった人、同志の顔を思い浮かべて題目を送る。“みんなが生活再建できますように”。縁に導かれてきた自分だから、題目で恩を返したい。そうして1年7カ月が過ぎた。
どんな時も心にある御書の一節がある。「悦ばしきかなや、楽しきかなや、不肖の身として今度心田に仏種をうえたる」(新203・全286)。わが振る舞いの一つ一つが、仏縁そのもの。自分に向けられた目線の先には、学会があり、池田先生がいる。だから負けられない。そう決め、胸を張ってきた。
求められれば、何でもする。老人会の集いでギターを披露。「やってきたことも無駄じゃないね(笑)」。元漁師たちに頼まれて、ビルの一室には、マージャン卓を設置。奥さま方から「(夫が)昼にゴロゴロしないので、助かる」と喜ばれる。気付けば、マージャン卓もコーヒーメーカーも5代目。連日、フル稼働する。
港のささやかな生活。その一部となっている自分に言ってやりたい。一日一日を誓願に生きてるな――と。