〈信仰体験〉 “現役バリバリ”の90歳
〈信仰体験〉 “現役バリバリ”の90歳
2025年8月25日
- 地域貢献こそ報恩の道
- 地域貢献こそ報恩の道
中央が田村さん
中央が田村さん
【岐阜県垂井町】田村暢子さん(90)=支部副女性部長=は、いくつもの地域活動の中心者を担う。“これこそが報恩の道”と定め、90歳になった今も“町民のお世話係”として奮闘している。
【岐阜県垂井町】田村暢子さん(90)=支部副女性部長=は、いくつもの地域活動の中心者を担う。“これこそが報恩の道”と定め、90歳になった今も“町民のお世話係”として奮闘している。
垂井町の東地区まちづくりセンターで開催されている「東地区生きがいサロン」。毎回、近隣に住む20人ほどの高齢者が参加する。
「こっちよ! こっち!」「体調はどう? 元気にしてた?」
開会前、会場入り口では、サロンの代表を務める田村さんのハキハキとした声が響く。
サロンでは、健康増進のため、全員で体操をしたり、認知症予防のための“脳トレ”を楽しく行ったり。
誕生月の人が参加すると、全員で祝い、ささやかなプレゼントを。最後は“おしゃべりティータイム”で、憩いの時間を過ごす。
こういった企画の立案や準備、進行までを中心的に担う田村さん。実は、この場に集う誰よりも年長である。
「皆さん! ちゃんと体と頭と口を動かして、まだまだ長生きしましょうね」
90歳の彼女の言葉に説得力あり。皆が耳を傾ける。
さらに田村さんは、段ボールコンポストの講習会も主催している。
垂井町の東地区まちづくりセンターで開催されている「東地区生きがいサロン」。毎回、近隣に住む20人ほどの高齢者が参加する。
「こっちよ! こっち!」「体調はどう? 元気にしてた?」
開会前、会場入り口では、サロンの代表を務める田村さんのハキハキとした声が響く。
サロンでは、健康増進のため、全員で体操をしたり、認知症予防のための“脳トレ”を楽しく行ったり。
誕生月の人が参加すると、全員で祝い、ささやかなプレゼントを。最後は“おしゃべりティータイム”で、憩いの時間を過ごす。
こういった企画の立案や準備、進行までを中心的に担う田村さん。実は、この場に集う誰よりも年長である。
「皆さん! ちゃんと体と頭と口を動かして、まだまだ長生きしましょうね」
90歳の彼女の言葉に説得力あり。皆が耳を傾ける。
さらに田村さんは、段ボールコンポストの講習会も主催している。
段ボールコンポストの講習会でアドバイスを送る田村さん
段ボールコンポストの講習会でアドバイスを送る田村さん
「池田先生が、『SGIの日』の記念提言でおっしゃってたでしょ。循環型社会が大事だって」
ごみの減量化を目指し、生ごみを微生物の力で堆肥化する方法を、手作りの大きなパネルを何枚も使って、参加者に丁寧に説明する。
また、講習会を開催するだけでなく、地域で段ボールコンポストに取り組む家庭へのアフターフォローも欠かさない。
こうしたバイタリティーあふれる振る舞い、周囲から頼りにされているその姿に、年齢は関係ない。
父親が郵便関連の仕事に就いていた関係で戦時中、中国・大連で幼少期を過ごす。
終戦を迎えると、ソ連軍が、町に侵攻してきた。民家に押し入り、金品を略奪。学校も占領していた。
中国人からは、米を売ってもらえず、食べる物にも事欠く生活が続いた。
1947年(昭和22年)になって、ようやく引き揚げ船で日本へ。ひどく不衛生な船内。息絶えている赤ん坊もいた。幼心にも戦争の悲惨さが強く焼き付いた。
「池田先生が、『SGIの日』の記念提言でおっしゃってたでしょ。循環型社会が大事だって」
ごみの減量化を目指し、生ごみを微生物の力で堆肥化する方法を、手作りの大きなパネルを何枚も使って、参加者に丁寧に説明する。
また、講習会を開催するだけでなく、地域で段ボールコンポストに取り組む家庭へのアフターフォローも欠かさない。
こうしたバイタリティーあふれる振る舞い、周囲から頼りにされているその姿に、年齢は関係ない。
父親が郵便関連の仕事に就いていた関係で戦時中、中国・大連で幼少期を過ごす。
終戦を迎えると、ソ連軍が、町に侵攻してきた。民家に押し入り、金品を略奪。学校も占領していた。
中国人からは、米を売ってもらえず、食べる物にも事欠く生活が続いた。
1947年(昭和22年)になって、ようやく引き揚げ船で日本へ。ひどく不衛生な船内。息絶えている赤ん坊もいた。幼心にも戦争の悲惨さが強く焼き付いた。
「生きがいサロン」での一こま。背筋を伸ばし、チョークで誕生月の参加者の名前を黒板に
「生きがいサロン」での一こま。背筋を伸ばし、チョークで誕生月の参加者の名前を黒板に
地域の同志と共に朗らかに進む田村さん(右から2人目)
地域の同志と共に朗らかに進む田村さん(右から2人目)
帰国後、北海道へ。炭鉱で働く夫・龍夫さん(故人)と結婚。2人の子宝に恵まれた。
28歳の時に、近隣の創価学会員から仏法の話を聞いた。かつて池田先生が編集長を務めた少年誌「冒険少年」を手に取ったことがあり、縁を感じた。
「宿命転換の信心だよ!」との言葉が、心に刺さった。
戦争の惨劇が脳裏に浮かぶ。
さらに、幼くして実母、継母を病気で亡くし、高校時代には父親が凍死という非業の死を遂げた自身の境遇を思った時、「宿業を感じずにはいられなかった」。
不幸に泣きたくない――。この一心で、幼い子どもたちと一緒に入会。ほどなくして、龍夫さんも信心を始めた。
一家和楽の前進を始めて間もなく、龍夫さんが結核で寝込みがちになり、仕事へ行けなくなった。
田村さんは家計を支えるため、朝から夕方まで働き、子どもたちの夕食の支度をしてから、町を弘教に歩いた。
皆の反応は冷たかった。龍夫さんの働く企業の労働組合からは、不当な学会批判もあった。
それでも田村さんは対話を続け、弘教を実らせていった。
真剣な唱題と、聖教新聞に掲載された池田先生の指導や御書講義をむさぼるように読むことで、信心を深めていく。半年ほど経過し、龍夫さんは健康を取り戻していった。このことが町中でうわさとなった。
炭鉱の閉山に伴い、38歳の時に一家で岐阜・垂井へ移住。生活は苦しく、共働きしながら、育児と学会活動に奮闘した。
第1次宗門事件の嵐が、垂井の地でも吹き荒れた。
「その国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」(新1953・全1467)
この御文を何度も拝しながら、田村さんは地区担当員(現・地区女性部長)として一軒一軒、同志の元へ足を運び「池田先生と共に進もう。退転したらいかんよ」と励まし、心の絆を強めていった。
戦い抜いて迎えた89年(平成元年)、岐阜平和講堂で本部幹部会が開催され、池田先生との出会いを刻んだ。
帰国後、北海道へ。炭鉱で働く夫・龍夫さん(故人)と結婚。2人の子宝に恵まれた。
28歳の時に、近隣の創価学会員から仏法の話を聞いた。かつて池田先生が編集長を務めた少年誌「冒険少年」を手に取ったことがあり、縁を感じた。
「宿命転換の信心だよ!」との言葉が、心に刺さった。
戦争の惨劇が脳裏に浮かぶ。
さらに、幼くして実母、継母を病気で亡くし、高校時代には父親が凍死という非業の死を遂げた自身の境遇を思った時、「宿業を感じずにはいられなかった」。
不幸に泣きたくない――。この一心で、幼い子どもたちと一緒に入会。ほどなくして、龍夫さんも信心を始めた。
一家和楽の前進を始めて間もなく、龍夫さんが結核で寝込みがちになり、仕事へ行けなくなった。
田村さんは家計を支えるため、朝から夕方まで働き、子どもたちの夕食の支度をしてから、町を弘教に歩いた。
皆の反応は冷たかった。龍夫さんの働く企業の労働組合からは、不当な学会批判もあった。
それでも田村さんは対話を続け、弘教を実らせていった。
真剣な唱題と、聖教新聞に掲載された池田先生の指導や御書講義をむさぼるように読むことで、信心を深めていく。半年ほど経過し、龍夫さんは健康を取り戻していった。このことが町中でうわさとなった。
炭鉱の閉山に伴い、38歳の時に一家で岐阜・垂井へ移住。生活は苦しく、共働きしながら、育児と学会活動に奮闘した。
第1次宗門事件の嵐が、垂井の地でも吹き荒れた。
「その国の仏法は貴辺にまかせたてまつり候ぞ」(新1953・全1467)
この御文を何度も拝しながら、田村さんは地区担当員(現・地区女性部長)として一軒一軒、同志の元へ足を運び「池田先生と共に進もう。退転したらいかんよ」と励まし、心の絆を強めていった。
戦い抜いて迎えた89年(平成元年)、岐阜平和講堂で本部幹部会が開催され、池田先生との出会いを刻んだ。
手作りの押し花で制作された扇子
手作りの押し花で制作された扇子
田村さん(中央)の周りには、いつも笑顔の花が咲き薫る
田村さん(中央)の周りには、いつも笑顔の花が咲き薫る
「県地域子ども支援賞」を受賞
「県地域子ども支援賞」を受賞
「池田先生は、どこへ行かれても、大地に染み込ませる思いで、その地域の広布を深く祈られてきたでしょ。その心にお応えしたくて、地域に信頼と友好を広げようと決めたの」
職場を退職後、“自分にできることで、地域の皆さんに喜んでもらえたら”と思い立ち、趣味だった押し花を本格的にスタートさせた。
ラミネート加工を活用した手作りの押し花を、近所に配ると好評だった。地元の銀行や特別養護施設、小学校などでも展示してもらった。
身近なもので工夫し、子どもから高齢者まで、だれでも手軽に制作できる方法を考案。すると、評判が広がり、押し花教室を始めた。
小・中学校での講習も要請され、県外から講師として招かれるまでに。また、地元の小学校では20年以上前から現在に至るまで、卒業生に記念として、田村さんが作った押し花のしおりが贈られている。
こうした取り組みが評価され、2015年度の「岐阜県地域子ども支援賞」を受賞した。
その翌年に熊本地震があった際は、小・中学生の代表と一緒に押し花で扇子を540枚制作。一日も早い復興を祈るメッセージを書き込み、行政機関を通して被災地へ届けたことも。今も近隣の友を自宅に招いて、押し花教室を続けている。
「池田先生は、どこへ行かれても、大地に染み込ませる思いで、その地域の広布を深く祈られてきたでしょ。その心にお応えしたくて、地域に信頼と友好を広げようと決めたの」
職場を退職後、“自分にできることで、地域の皆さんに喜んでもらえたら”と思い立ち、趣味だった押し花を本格的にスタートさせた。
ラミネート加工を活用した手作りの押し花を、近所に配ると好評だった。地元の銀行や特別養護施設、小学校などでも展示してもらった。
身近なもので工夫し、子どもから高齢者まで、だれでも手軽に制作できる方法を考案。すると、評判が広がり、押し花教室を始めた。
小・中学校での講習も要請され、県外から講師として招かれるまでに。また、地元の小学校では20年以上前から現在に至るまで、卒業生に記念として、田村さんが作った押し花のしおりが贈られている。
こうした取り組みが評価され、2015年度の「岐阜県地域子ども支援賞」を受賞した。
その翌年に熊本地震があった際は、小・中学生の代表と一緒に押し花で扇子を540枚制作。一日も早い復興を祈るメッセージを書き込み、行政機関を通して被災地へ届けたことも。今も近隣の友を自宅に招いて、押し花教室を続けている。
「生きがいサロン」は10年ほど前、当時の責任者が体調を崩したことで、周囲に請われて引き継いだ。「多くの人が楽しみにしている大切な居場所を、なくすわけにはいかない」と使命感を持って取り組んできた田村さん。
その胸には「『広布即地域貢献』である。ゆえに『地域』に根を張り、『地域』に友好を広げていくことが、どれほど大切か。どれほど尊いか」との池田先生の指針が宿る。
“師のため、地域のために”と決めた道。
「みんなの喜ぶ姿や笑顔が、私の“生きがい”だね」と。
“生涯現役”の歩みは、まだまだ続く。
(岐阜支局)
「生きがいサロン」は10年ほど前、当時の責任者が体調を崩したことで、周囲に請われて引き継いだ。「多くの人が楽しみにしている大切な居場所を、なくすわけにはいかない」と使命感を持って取り組んできた田村さん。
その胸には「『広布即地域貢献』である。ゆえに『地域』に根を張り、『地域』に友好を広げていくことが、どれほど大切か。どれほど尊いか」との池田先生の指針が宿る。
“師のため、地域のために”と決めた道。
「みんなの喜ぶ姿や笑顔が、私の“生きがい”だね」と。
“生涯現役”の歩みは、まだまだ続く。
(岐阜支局)