〈ジョガスタ――女子学生部 御書研さんのために〉 開目抄②
〈ジョガスタ――女子学生部 御書研さんのために〉 開目抄②
2024年7月30日
- 仏界は誰もが本来具えている
- 仏界は誰もが本来具えている
女子学生部の“スタディ(研さん)”のための連載「Let’s Study! ジョガスタ――女子学生部 御書研さんのために」。「開目抄」の第2回となる今回は、第16段を拝し、その参考として「一念三千」について学びます。
女子学生部の“スタディ(研さん)”のための連載「Let’s Study! ジョガスタ――女子学生部 御書研さんのために」。「開目抄」の第2回となる今回は、第16段を拝し、その参考として「一念三千」について学びます。
【第16段】御書新版66ページ5行目~15行目、御書全集197ページ10行目~17行目
【第16段】御書新版66ページ5行目~15行目、御書全集197ページ10行目~17行目
【御文】華厳乃至般若、大日経等は、二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成を説きかくさせ給えり。
これらの経々に二つの失あり。一には、「行布を存するが故に、なおいまだ権を開せず」とて、迹門の一念三千をかくせり。二には、「始成を言うが故に、かつていまだ迹を発かず」とて、本門の久遠をかくせり。これらの二つの大法は、一代の綱骨、一切経の心髄なり。
迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて、爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえども、いまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし。根なし草の波の上に浮かべるににたり。
本門にいたりて始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門の十界の因果をとき顕す。これ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わって、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。
【御文】華厳乃至般若、大日経等は、二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成を説きかくさせ給えり。
これらの経々に二つの失あり。一には、「行布を存するが故に、なおいまだ権を開せず」とて、迹門の一念三千をかくせり。二には、「始成を言うが故に、かつていまだ迹を発かず」とて、本門の久遠をかくせり。これらの二つの大法は、一代の綱骨、一切経の心髄なり。
迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて、爾前二種の失一つを脱れたり。しかりといえども、いまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし。根なし草の波の上に浮かべるににたり。
本門にいたりて始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ。爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門の十界の因果をとき顕す。これ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わって、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。
【通解】華厳経をはじめ般若経・大日経などの諸経は、二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成を隠して説かなかった。
これらの経典には、二つの欠点がある。
一つには、「行布(段階や差別を設ける考え方)を残しているゆえに、まだ方便の教えにとどまり、真実を明かしていない」といわれるように、迹門の一念三千を隠しているのである。
二つには、「仏の成仏は始成正覚であると説くので、まだ仏の仮の姿を開いていない」といわれるように本門の久遠実成を隠しているのである。
(迹門の一念三千と本門の久遠実成という)これらの二つの大法は、釈尊一代の教えの大綱・骨格であり、全経典の心髄である。
迹門の方便品は、一念三千・二乗作仏を説いて、爾前経がもつ二種の欠点のうちの一つを免れている。そうはいっても、まだ釈尊が発迹顕本していないので、真実の一念三千も顕れていないし、二乗作仏も定まっていない。
それは、(天の月を求めて)水中の月を見ているようなものである。根なし草が波の上に浮かんでいるのに似ている。
本門にいたって、始成正覚の教えを打ち破ったので、それまで説かれた四教の果は打ち破られてしまった。四教の果が打ち破られたので、(その果に至るための)四教の因も打ち破られた。
爾前・迹門の十界の因果を打ち破って、本門の十界の因果を説き顕した。これが即ち本因本果の法門である。
九界も無始の仏界に具わり、仏界も無始の九界に具わって、真の十界互具・百界千如・一念三千となる。
【通解】華厳経をはじめ般若経・大日経などの諸経は、二乗作仏を隠すのみならず、久遠実成を隠して説かなかった。
これらの経典には、二つの欠点がある。
一つには、「行布(段階や差別を設ける考え方)を残しているゆえに、まだ方便の教えにとどまり、真実を明かしていない」といわれるように、迹門の一念三千を隠しているのである。
二つには、「仏の成仏は始成正覚であると説くので、まだ仏の仮の姿を開いていない」といわれるように本門の久遠実成を隠しているのである。
(迹門の一念三千と本門の久遠実成という)これらの二つの大法は、釈尊一代の教えの大綱・骨格であり、全経典の心髄である。
迹門の方便品は、一念三千・二乗作仏を説いて、爾前経がもつ二種の欠点のうちの一つを免れている。そうはいっても、まだ釈尊が発迹顕本していないので、真実の一念三千も顕れていないし、二乗作仏も定まっていない。
それは、(天の月を求めて)水中の月を見ているようなものである。根なし草が波の上に浮かんでいるのに似ている。
本門にいたって、始成正覚の教えを打ち破ったので、それまで説かれた四教の果は打ち破られてしまった。四教の果が打ち破られたので、(その果に至るための)四教の因も打ち破られた。
爾前・迹門の十界の因果を打ち破って、本門の十界の因果を説き顕した。これが即ち本因本果の法門である。
九界も無始の仏界に具わり、仏界も無始の九界に具わって、真の十界互具・百界千如・一念三千となる。
【解説】「本門にいたりて始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる」と仰せなのは、爾前・迹門における蔵教・通教・別教・円教の四教にあっては、始成正覚の境地が修行において目指すべき「仏果」であったから、この始成正覚の仏の立場を「迹」だとして打ち破られたことは、四教における目指すべき「果」が破れたことになるのです。
次に「四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ」と仰せになっているのは、目指すべき仏果が方便として打ち破られれば、その仏果を成就するための因として四教で説かれた種々の因位の修行も同じく方便として退けられます。
「爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門の十界の因果をとき顕す。これ即ち本因本果の法門なり」と仰せであるように、爾前・迹門で明かされたすべての成仏の因果を打ち破って明かされたのが、本門の十界の因果です。
ここで「十界の因果」と仰せなのは、九界の衆生が仏となる成仏の因果においては九界が因であり、仏界が果であるからです。そして、爾前・迹門に説かれる十界の因果すなわち成仏の法理が打ち破られることによって明らかにされた、本門の十界の因果を「本因本果の法門」といいます。
その「本因本果の法門」の内容を示されているのが「九界も無始の仏界……」以下の御文です。「本因本果の法門」の本因とは、「無始の九界」であり、本果とは「無始の仏界」を指しています。
法華経寿量品に「我は本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命は、今猶未だ尽きず」と説かれているのは、久遠実成に至った本因を明かしたものです。
すなわち、久遠に菩薩道を行じてきたことが成仏の本因であり、しかもその菩薩の生命は、成仏してからも、そのまま尽きることなく常住の仏である釈尊に具わっています。このことは、久遠に成仏して以後、釈尊が九界のさまざまな衆生の姿をとって菩薩道を実践していたことに端的に示されているのです。
また、同じく寿量品に「我は成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命は無量阿僧祇劫にして、常住にして滅せず」とあります。この経文は、甚深無量の智慧を具え、広大な慈悲を起こす本果の仏界が常住であることを示しています。
このように久遠実成の釈尊の常住の生命に、仏界も九界も常住しています。これが「無始の仏界」であり「無始の九界」です。こうして、釈尊の本地として、十界を具足しつつ常住する仏が明かされたのです。
したがって、この本地からみれば、仏界を顕した仏も無始の九界から離れているわけではありません。また九界を示している菩薩道の時も無始の仏界が具わっているのです。このことを「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わって」と仰せなのです。
こうして、本門寿量品において「真の十界互具・百界千如・一念三千」が明らかになったのです。
このように法華経本門の文上では、釈尊一人について無始の九界と無始の仏界が明かされ、十界の本有常住が示されました。
このことは、釈尊一人についてではなく、あらゆる生命に十界が本有常住であり、九界の衆生も歴劫修行によって仏因を積まなくても、直ちに本有の仏界を開き顕すことで成仏できることが示唆されているのです。
【解説】「本門にいたりて始成正覚をやぶれば、四教の果をやぶる」と仰せなのは、爾前・迹門における蔵教・通教・別教・円教の四教にあっては、始成正覚の境地が修行において目指すべき「仏果」であったから、この始成正覚の仏の立場を「迹」だとして打ち破られたことは、四教における目指すべき「果」が破れたことになるのです。
次に「四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぬ」と仰せになっているのは、目指すべき仏果が方便として打ち破られれば、その仏果を成就するための因として四教で説かれた種々の因位の修行も同じく方便として退けられます。
「爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶって、本門の十界の因果をとき顕す。これ即ち本因本果の法門なり」と仰せであるように、爾前・迹門で明かされたすべての成仏の因果を打ち破って明かされたのが、本門の十界の因果です。
ここで「十界の因果」と仰せなのは、九界の衆生が仏となる成仏の因果においては九界が因であり、仏界が果であるからです。そして、爾前・迹門に説かれる十界の因果すなわち成仏の法理が打ち破られることによって明らかにされた、本門の十界の因果を「本因本果の法門」といいます。
その「本因本果の法門」の内容を示されているのが「九界も無始の仏界……」以下の御文です。「本因本果の法門」の本因とは、「無始の九界」であり、本果とは「無始の仏界」を指しています。
法華経寿量品に「我は本菩薩の道を行じて、成ぜし所の寿命は、今猶未だ尽きず」と説かれているのは、久遠実成に至った本因を明かしたものです。
すなわち、久遠に菩薩道を行じてきたことが成仏の本因であり、しかもその菩薩の生命は、成仏してからも、そのまま尽きることなく常住の仏である釈尊に具わっています。このことは、久遠に成仏して以後、釈尊が九界のさまざまな衆生の姿をとって菩薩道を実践していたことに端的に示されているのです。
また、同じく寿量品に「我は成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり。寿命は無量阿僧祇劫にして、常住にして滅せず」とあります。この経文は、甚深無量の智慧を具え、広大な慈悲を起こす本果の仏界が常住であることを示しています。
このように久遠実成の釈尊の常住の生命に、仏界も九界も常住しています。これが「無始の仏界」であり「無始の九界」です。こうして、釈尊の本地として、十界を具足しつつ常住する仏が明かされたのです。
したがって、この本地からみれば、仏界を顕した仏も無始の九界から離れているわけではありません。また九界を示している菩薩道の時も無始の仏界が具わっているのです。このことを「九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わって」と仰せなのです。
こうして、本門寿量品において「真の十界互具・百界千如・一念三千」が明らかになったのです。
このように法華経本門の文上では、釈尊一人について無始の九界と無始の仏界が明かされ、十界の本有常住が示されました。
このことは、釈尊一人についてではなく、あらゆる生命に十界が本有常住であり、九界の衆生も歴劫修行によって仏因を積まなくても、直ちに本有の仏界を開き顕すことで成仏できることが示唆されているのです。
【参考】一念三千
【参考】一念三千
【御文】一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり。(御書新版54ページ9行目~10行目、御書全集189ページ2行目)
【通解】
この一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品の文の底に沈められているのである。
【御文】一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり。(御書新版54ページ9行目~10行目、御書全集189ページ2行目)
【通解】
この一念三千の法門は、ただ法華経の本門寿量品の文の底に沈められているのである。
【解説】この御文は、成仏の法である真の一念三千が法華経の本門寿量品の文の底に秘沈されていることを示しています。
そもそも、一念三千とは、法華経に説かれている、一切衆生の成仏の原理を、中国の天台大師が『摩訶止観』の中で、実践のために体系化して説明した法門です。大聖人は成仏の根本因となる法とされ、「仏種」と位置づけられています。
御文の「ただ法華経」の「ただ」は「ただ法華経」「ただ本門寿量品」「ただ文の底」と三重に冠して読むことができます。
図示すると次のようになります。
「ただ法華経」――権実相対
「ただ本門寿量品」――本迹相対
「ただ文の底」――種脱相対
法華経は一経ですが、その説かれた法門の深さによって、迹門・本門・文底という三つの違いがあるのです。
さらに、この迹門・本門・文底のそれぞれに応じて「一念三千の法門」にも、相違があることを示しています。
寿量品の文底に秘沈された、「真の一念三千」こそ、それまで不成仏とされていた悪人や女人の成仏をも説く、一切衆生を救う究極の法です。この大法は、正法時代の竜樹・天親、像法時代の天台大師らは、心の中では知っていましたが、弘めることはしなかったのです。
このように、正法・像法にいまだ弘まっていないことを述べられているのは、末法流布すなわち末法に初めて流布されることを示されるためです。
これは、末法に出現してこの究極の法を説くべき教主を明かすことを本抄の眼目とされたからであると拝されます。
【解説】この御文は、成仏の法である真の一念三千が法華経の本門寿量品の文の底に秘沈されていることを示しています。
そもそも、一念三千とは、法華経に説かれている、一切衆生の成仏の原理を、中国の天台大師が『摩訶止観』の中で、実践のために体系化して説明した法門です。大聖人は成仏の根本因となる法とされ、「仏種」と位置づけられています。
御文の「ただ法華経」の「ただ」は「ただ法華経」「ただ本門寿量品」「ただ文の底」と三重に冠して読むことができます。
図示すると次のようになります。
「ただ法華経」――権実相対
「ただ本門寿量品」――本迹相対
「ただ文の底」――種脱相対
法華経は一経ですが、その説かれた法門の深さによって、迹門・本門・文底という三つの違いがあるのです。
さらに、この迹門・本門・文底のそれぞれに応じて「一念三千の法門」にも、相違があることを示しています。
寿量品の文底に秘沈された、「真の一念三千」こそ、それまで不成仏とされていた悪人や女人の成仏をも説く、一切衆生を救う究極の法です。この大法は、正法時代の竜樹・天親、像法時代の天台大師らは、心の中では知っていましたが、弘めることはしなかったのです。
このように、正法・像法にいまだ弘まっていないことを述べられているのは、末法流布すなわち末法に初めて流布されることを示されるためです。
これは、末法に出現してこの究極の法を説くべき教主を明かすことを本抄の眼目とされたからであると拝されます。
池田先生の講義から
池田先生の講義から
寿量品では、久遠実成の仏は成仏してからも、九界の現実世界で衆生を救い続けるという菩薩行を絶やすことはないと説かれています。
ここに、寿量品の発迹顕本によって真実の仏の姿が明らかになるのです。いうなれば、それは、「無限の菩薩行を現す永遠の仏」です。九界の現実のなかで無限の菩薩行を行ずる生命は、九界の生命です。しかし同時に、永遠の仏界の生命が、その無限の菩薩行を現す根源のエネルギーになっているのです。
今世で始めて成仏したとされる始成正覚の仏は、入滅すると別世界の浄土に入るなどとされ、現実世界で菩薩行を続けることはありません。それに対して、久遠実成の仏は、現実世界がそのまま浄土であり、寂光土なのです。
そして、このような寿量品の仏にとって、九界の現実は、永遠の仏界の活力を自身の生命から現していくための機縁であり、仏界の智慧と慈悲を発揮するための舞台にほかなりません。また、九界の現実に苦しむ衆生は、いたわり救っていくべきわが子であり、仏界の自由を分かち持っていくべきわが友なのです。仏界という真の自由を得た仏は、仏界の力で心身をコントロールし、魔性に打ち勝ちゆく真実の「勝利者」「主体者」として一人立ちます。
とともに、その仏は、他の衆生の生命にも現実世界の根底にも仏界の力が潜在することを認める。そして、それを顕在化させていくために、世界と衆生に常に語りかけ、「勇気ある行動」「自在の智慧」「大誠実の対話」を貫くのです。(『池田大作全集』第34巻所収「開目抄」講義)
寿量品では、久遠実成の仏は成仏してからも、九界の現実世界で衆生を救い続けるという菩薩行を絶やすことはないと説かれています。
ここに、寿量品の発迹顕本によって真実の仏の姿が明らかになるのです。いうなれば、それは、「無限の菩薩行を現す永遠の仏」です。九界の現実のなかで無限の菩薩行を行ずる生命は、九界の生命です。しかし同時に、永遠の仏界の生命が、その無限の菩薩行を現す根源のエネルギーになっているのです。
今世で始めて成仏したとされる始成正覚の仏は、入滅すると別世界の浄土に入るなどとされ、現実世界で菩薩行を続けることはありません。それに対して、久遠実成の仏は、現実世界がそのまま浄土であり、寂光土なのです。
そして、このような寿量品の仏にとって、九界の現実は、永遠の仏界の活力を自身の生命から現していくための機縁であり、仏界の智慧と慈悲を発揮するための舞台にほかなりません。また、九界の現実に苦しむ衆生は、いたわり救っていくべきわが子であり、仏界の自由を分かち持っていくべきわが友なのです。仏界という真の自由を得た仏は、仏界の力で心身をコントロールし、魔性に打ち勝ちゆく真実の「勝利者」「主体者」として一人立ちます。
とともに、その仏は、他の衆生の生命にも現実世界の根底にも仏界の力が潜在することを認める。そして、それを顕在化させていくために、世界と衆生に常に語りかけ、「勇気ある行動」「自在の智慧」「大誠実の対話」を貫くのです。(『池田大作全集』第34巻所収「開目抄」講義)
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