〈信仰体験〉 アッパレ! 84歳のポジティブ社長
〈信仰体験〉 アッパレ! 84歳のポジティブ社長
2025年8月21日
- 運送業も歌もゴルフも、力の限り
- 運送業も歌もゴルフも、力の限り
「社員は宝。皆の健康と幸せを毎日祈っています」と実原さん(前列中央)。長男・清孝さん(右から3人目)と次男・隆也さん(左から2人目)、清孝さんの妻・亜希さん(右端)も会社を支える
「社員は宝。皆の健康と幸せを毎日祈っています」と実原さん(前列中央)。長男・清孝さん(右から3人目)と次男・隆也さん(左から2人目)、清孝さんの妻・亜希さん(右端)も会社を支える
【大阪市平野区】戦後間もない奄美群島の徳之島の農家。母から「里芋を2、3個持ってきて」と頼まれた少年が抱えてきたのは5個。いぶかしげな母に、少年は「2個と3個で、5個でしょ」と。母は笑い、「この子はいい商売人になるよ」と言った。――幼き日の思い出を、懐かしそうに語る実原一吉さん(84)=副本部長。大阪・八尾市内で運送会社を営んで46年の“名物社長”である。その日常に“密着”した。
【大阪市平野区】戦後間もない奄美群島の徳之島の農家。母から「里芋を2、3個持ってきて」と頼まれた少年が抱えてきたのは5個。いぶかしげな母に、少年は「2個と3個で、5個でしょ」と。母は笑い、「この子はいい商売人になるよ」と言った。――幼き日の思い出を、懐かしそうに語る実原一吉さん(84)=副本部長。大阪・八尾市内で運送会社を営んで46年の“名物社長”である。その日常に“密着”した。
●元気の理由は…?
●元気の理由は…?
午前5時前、背筋をピンと伸ばし、事務所に陣取った実原さん。出勤する社員たちを出迎え、配送への出発を見送る。
「ありがとう、気を付けてな!」
実原運送㈱は、2トン車から3・5トン車まで35台のトラックを所有し、主に酒類・飲料の商品を近畿一円に配送する。
午前6時過ぎ、実原さんは、業務委託する物流センターを訪問。さまざまな運送会社のトラックが入れ代わり立ち代わり、荷物の積み込み作業をしていた。
午前5時前、背筋をピンと伸ばし、事務所に陣取った実原さん。出勤する社員たちを出迎え、配送への出発を見送る。
「ありがとう、気を付けてな!」
実原運送㈱は、2トン車から3・5トン車まで35台のトラックを所有し、主に酒類・飲料の商品を近畿一円に配送する。
午前6時過ぎ、実原さんは、業務委託する物流センターを訪問。さまざまな運送会社のトラックが入れ代わり立ち代わり、荷物の積み込み作業をしていた。
配送センターでドライバーをねぎらう実原さん(中央)
配送センターでドライバーをねぎらう実原さん(中央)
大阪東部の2市、約80社から成る地元運送業協会では、昨年まで2期4年にわたって会長を務め、現在は顧問。この日も出会う人ごとに和やかに語らう。
「実原社長、調子はどうですか」
「そやなあ、もう少しドライバーの飛距離を延ばしたいねん」
トラックなのに、飛距離? 実は、ゴルフの話だった。
取引先との交流や健康維持のために始めて三十余年。84歳の今も、18ホールを難なく回る猛者である。
妻の惠美子さん(81)=女性部員=は、「この人が元気なのは、ストレスを感じないからです」と。「ものごとを良い方にしか受け取らないから」だそうだ。
そういえば、記者が前週にお会いした際、実原さんは開口一番「こないだ功徳を頂きました!」と白い歯を見せた。
「ゴルフに行ったら、転んで足と胸を打ちまして」――どこが功徳? 心配して聞いていると、「少し痛みがあったおかげで、上半身が開かずスイングできました」。スコアは18ホールで96。年齢を考えると驚きの好成績だ。「まさに“けがの功名”です」と満足げだった。
大阪東部の2市、約80社から成る地元運送業協会では、昨年まで2期4年にわたって会長を務め、現在は顧問。この日も出会う人ごとに和やかに語らう。
「実原社長、調子はどうですか」
「そやなあ、もう少しドライバーの飛距離を延ばしたいねん」
トラックなのに、飛距離? 実は、ゴルフの話だった。
取引先との交流や健康維持のために始めて三十余年。84歳の今も、18ホールを難なく回る猛者である。
妻の惠美子さん(81)=女性部員=は、「この人が元気なのは、ストレスを感じないからです」と。「ものごとを良い方にしか受け取らないから」だそうだ。
そういえば、記者が前週にお会いした際、実原さんは開口一番「こないだ功徳を頂きました!」と白い歯を見せた。
「ゴルフに行ったら、転んで足と胸を打ちまして」――どこが功徳? 心配して聞いていると、「少し痛みがあったおかげで、上半身が開かずスイングできました」。スコアは18ホールで96。年齢を考えると驚きの好成績だ。「まさに“けがの功名”です」と満足げだった。
学会活動には妻・惠美子さん㊨と二人三脚で。実原さんが実らせた弘教は50世帯に及ぶ
学会活動には妻・惠美子さん㊨と二人三脚で。実原さんが実らせた弘教は50世帯に及ぶ
●“ショー”はお任せ
●“ショー”はお任せ
健康自慢のポジティブ社長には、“もう一つの顔”がある。
ある日の午後、大阪市内の某カラオケ店。しゃれた黒い帽子に真っ赤なスーツで決めた実原さんがいた。
「あゝ上野駅」「ダイアナ」「昔の名前で出ています」など、昭和歌謡の名曲を歌い上げていく。声は伸びやか。高音もバッチリ。
実は実原さん、ボランティアで“歌謡ショー”の舞台に立つという。この日は、その練習。本番さながらに気合が入っている。
三味線の名手だった父親に仕込まれ、喉には覚えがあった。青春時代から歌謡曲を歌い込み、60歳を過ぎた頃、奄美の同郷会の集まりで“ぜひ余興に実原さんのショーを”と頼まれた。好評で、何度か行う中、トラック協会の催しや高齢者施設の訪問、地域のイベントでも依頼されるようになった。
健康自慢のポジティブ社長には、“もう一つの顔”がある。
ある日の午後、大阪市内の某カラオケ店。しゃれた黒い帽子に真っ赤なスーツで決めた実原さんがいた。
「あゝ上野駅」「ダイアナ」「昔の名前で出ています」など、昭和歌謡の名曲を歌い上げていく。声は伸びやか。高音もバッチリ。
実は実原さん、ボランティアで“歌謡ショー”の舞台に立つという。この日は、その練習。本番さながらに気合が入っている。
三味線の名手だった父親に仕込まれ、喉には覚えがあった。青春時代から歌謡曲を歌い込み、60歳を過ぎた頃、奄美の同郷会の集まりで“ぜひ余興に実原さんのショーを”と頼まれた。好評で、何度か行う中、トラック協会の催しや高齢者施設の訪問、地域のイベントでも依頼されるようになった。
白いスーツで熱唱。自前の衣装は6着。“歌謡ショー”の前後で“健康セミナー”を行うことも
白いスーツで熱唱。自前の衣装は6着。“歌謡ショー”の前後で“健康セミナー”を行うことも
現在、レパートリーは120曲。なんと全て歌詞を覚えている。
「元々、歌詞を暗記するのが大の苦手でね。でも、池田先生が、“頭は使えば使うほど明晰になる”という中国の思想家の箴言を紹介されたのを聞いて、挑戦を決意しました」
曲数が増えると、その場でリクエストにも応えられるように。トークも軽妙になった。マイクは必ず左手で握る。
「右手は皆さんと握手するために空けています。プロの歌手も、そうでしょ」
ショーの後、便りが届くこともある。“私も希望を持って生きていこうと思いました”と感動を伝える言葉も。
「うれしいですねえ。喜んでくれる人がいるなら、精いっぱい頑張ろう」
現在、レパートリーは120曲。なんと全て歌詞を覚えている。
「元々、歌詞を暗記するのが大の苦手でね。でも、池田先生が、“頭は使えば使うほど明晰になる”という中国の思想家の箴言を紹介されたのを聞いて、挑戦を決意しました」
曲数が増えると、その場でリクエストにも応えられるように。トークも軽妙になった。マイクは必ず左手で握る。
「右手は皆さんと握手するために空けています。プロの歌手も、そうでしょ」
ショーの後、便りが届くこともある。“私も希望を持って生きていこうと思いました”と感動を伝える言葉も。
「うれしいですねえ。喜んでくれる人がいるなら、精いっぱい頑張ろう」
配送から戻った社員らと語り合う実原さん(中央)
配送から戻った社員らと語り合う実原さん(中央)
●人生に二つの誉れ
●人生に二つの誉れ
喫茶店を訪れ、アイスコーヒーで喉を潤した実原さんは、姿勢を正した。「僕には人生で二つの誉れがあるんです」
一つは、池田先生が第3代会長に就任した1960年(昭和35年)5月、先生が入信した年齢と同じ19歳で、入会したこと。
大阪にいる兄を頼り徳之島を出たが、重度の心臓弁膜症を患い、高校にも行けなかった。信心に出合ったのは、そんな頃。病は完治し、生きる希望を与えてくれた師を、強く求めるようになった。
もう一つは63年12月、東京・日大講堂で行われた男子部の総会で、最上段の最後列から師の雄姿を見つめたこと。「ワイシャツの袖や胸がくしゃくしゃになるほど、感動と決意の涙を流してね。この日が生涯の原点となりました」
独立して現在の実原運送を興したのは79年、38歳の時。第2次オイルショックの渦中で、燃料の入手にも苦労した。折しも師が会長を辞任。“今こそ弟子の実証を”と同志と誓い、仕事にも活動にも必死に食らいついた。
50歳を越えた頃には前妻・澄子さんが病で他界。バブル経済崩壊の荒波も襲いかかったが、粘り強く道を開いてきた。
今、実原さんは振り返る。
「病弱で、学歴もお金もなかった自分が、先生のおかげで、こんなに充実した人生を歩めている。そう思うと、感謝しか湧いてこないんですよ」
喫茶店を訪れ、アイスコーヒーで喉を潤した実原さんは、姿勢を正した。「僕には人生で二つの誉れがあるんです」
一つは、池田先生が第3代会長に就任した1960年(昭和35年)5月、先生が入信した年齢と同じ19歳で、入会したこと。
大阪にいる兄を頼り徳之島を出たが、重度の心臓弁膜症を患い、高校にも行けなかった。信心に出合ったのは、そんな頃。病は完治し、生きる希望を与えてくれた師を、強く求めるようになった。
もう一つは63年12月、東京・日大講堂で行われた男子部の総会で、最上段の最後列から師の雄姿を見つめたこと。「ワイシャツの袖や胸がくしゃくしゃになるほど、感動と決意の涙を流してね。この日が生涯の原点となりました」
独立して現在の実原運送を興したのは79年、38歳の時。第2次オイルショックの渦中で、燃料の入手にも苦労した。折しも師が会長を辞任。“今こそ弟子の実証を”と同志と誓い、仕事にも活動にも必死に食らいついた。
50歳を越えた頃には前妻・澄子さんが病で他界。バブル経済崩壊の荒波も襲いかかったが、粘り強く道を開いてきた。
今、実原さんは振り返る。
「病弱で、学歴もお金もなかった自分が、先生のおかげで、こんなに充実した人生を歩めている。そう思うと、感謝しか湧いてこないんですよ」
自宅の壁には、息子や孫の幼い頃の写真がぎっしり
自宅の壁には、息子や孫の幼い頃の写真がぎっしり
●いよいよの目標は
●いよいよの目標は
後日、再び事務所に伺った。夕方になり、社員が配送から次々に帰ってくる。出迎える実原さんの表情は、柔らかい。
昨今、物流業界は人手不足や燃料費などのコスト上昇をはじめ、深刻な課題に直面している。そんな中、約30人の社員を守りながら取引先のニーズに誠実に応える実原運送の、堅実な経営が光る。
専務取締役として社を支える長男・清孝さん(54)=壮年部員=は語る。
「父は商売人としては、決して要領がいい方ではありませんが、昔から不思議と取引相手に守られることが多いんです。経営者の人柄って大事ですよ。これが信心の福運なのかなとも感じます」
後日、再び事務所に伺った。夕方になり、社員が配送から次々に帰ってくる。出迎える実原さんの表情は、柔らかい。
昨今、物流業界は人手不足や燃料費などのコスト上昇をはじめ、深刻な課題に直面している。そんな中、約30人の社員を守りながら取引先のニーズに誠実に応える実原運送の、堅実な経営が光る。
専務取締役として社を支える長男・清孝さん(54)=壮年部員=は語る。
「父は商売人としては、決して要領がいい方ではありませんが、昔から不思議と取引相手に守られることが多いんです。経営者の人柄って大事ですよ。これが信心の福運なのかなとも感じます」
息子は3人。そのうち2人が実原運送で活躍する
息子は3人。そのうち2人が実原運送で活躍する
実原さんに、冒頭で紹介した幼い頃の母親との思い出について、改めて聞いた。“里芋を2、3個”と言われて5個持ってきたのは、「機知なんかじゃないよ。その方が、母親が喜んでくれると思ったんです」と。
生来の前向きな心、人を喜ばせたいという心は、信仰でますます磨かれ、御年84歳・実原社長のエネルギーの源となっている。
これからの目標を聞くと、少し考えた後、「そうやね、ゴルフでエージシュート(自分の年齢以下のスコアで18ホールを回ること)を達成することかな」。
そっちですか! 心の中でツッコミを入れつつも、その生きざまやアッパレ!である。(関西支社)
実原さんに、冒頭で紹介した幼い頃の母親との思い出について、改めて聞いた。“里芋を2、3個”と言われて5個持ってきたのは、「機知なんかじゃないよ。その方が、母親が喜んでくれると思ったんです」と。
生来の前向きな心、人を喜ばせたいという心は、信仰でますます磨かれ、御年84歳・実原社長のエネルギーの源となっている。
これからの目標を聞くと、少し考えた後、「そうやね、ゴルフでエージシュート(自分の年齢以下のスコアで18ホールを回ること)を達成することかな」。
そっちですか! 心の中でツッコミを入れつつも、その生きざまやアッパレ!である。(関西支社)