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〈師子の光彩 大願を果たさん〉第8回 大阪大会 2024年7月10日

1957年7月17日正午過ぎ、無実の罪でとらわれていた池田先生が大阪拘置所から出所した。大勢の同志が出迎え、無事を喜び、万歳を叫んだ。先生はのちに、「7・17」について、「権力の魔性との闘争宣言の日であり、人間革命への誇らかな旅立ちの日」とつづった
1957年7月17日正午過ぎ、無実の罪でとらわれていた池田先生が大阪拘置所から出所した。大勢の同志が出迎え、無事を喜び、万歳を叫んだ。先生はのちに、「7・17」について、「権力の魔性との闘争宣言の日であり、人間革命への誇らかな旅立ちの日」とつづった
 
●戦いはこれから始まるのだ

 「権力というものは、一切をのみ込んでしまう津波のようなものだ。生半可な人間の信念など、ひとたまりもない。死を覚悟しなければ、立ち向かうことなど、できないよ」
 1957年(昭和32年)6月初旬、池田先生は、北海道の夕張炭労(炭鉱の労働組合)が信教の自由を踏みにじり、学会員を圧迫した事件に対する指示を、恩師・戸田先生に仰いだ。その折、恩師は広宣流布の途上には、権力との壮絶な闘争があることを強調した。
 この師弟の語らいから約1カ月後の7月3日、池田先生は大阪府警に不当に逮捕される。「大阪事件」である。
 4月に行われた参院選の大阪地方区補欠選挙で、責任者だった池田先生が選挙違反行為を指示したという事実無根の容疑であった。背景には、民衆勢力として台頭する学会を恐れ、陥れようとする権力の謀略があった。
 逮捕される7月3日の朝、夕張炭労事件の指揮を執っていた池田先生は北海道にいた。千歳空港(当時)で飛行機に乗り、まず羽田空港へ向かう。羽田では、恩師が待っていた。
 戸田先生は池田先生の肩に手を掛けると、「心配なのは君の体だ……。絶対に死ぬな、死んではならんぞ」と。さらに、愛弟子の体を引き寄せて語った。
 「もしも、もしも、お前が死ぬようなことになったら、私も、すぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」
 恩師の慈愛の言葉を、池田先生は述懐している。
 「熱い感動が込み上げた。生死を超えて、師弟は不二である。この師と共にある限り、絶対に敗北はない。私は、燃え上がる魂を感じながら、再び飛行機に向かって歩き始めた」
 大阪への便に移動の途中、文京支部の女性が「同志にご伝言を」と訴えた。先生は即座に応じた。
 「日本の夜明けが来た! そう、わが同志にお伝えください」
 羽田をたつ際、池田先生は駆けつけてきた友に「心配ないよ。僕には、これがあるから!」と、戸田先生から手渡された小説『人間革命』を掲げた。
 恩師が「妙悟空」のペンネームで執筆した小説である。発行日は「7月3日」だった。先生は機中で読了すると、心に期した。
 “戸田先生は、師子であられた。なれば弟子であり、師子の子である私もまた、師子であらねばならない。いよいよ、まことの師子かどうかが、試される時が、遂に来たのだ!”
 池田先生は午後7時過ぎに大阪府警に逮捕された。12年前の45年(同20年)7月3日、戸田先生が出獄したのと、同じ日、同じ時間だった。
 逮捕から6日目、先生は警察署から大阪拘置所に移監された。検事は2人がかりで、夕食も取らせず、深夜まで取り調べを続けた。
 翌日には手錠をかけたまま、大阪地検の本館から別館を移動。あえて衆目にさらした。
 それでも動じない池田先生に、検事は業を煮やし、罪を認めなければ、戸田先生を逮捕し、学会本部を手入れすると恫喝した。池田先生は獄中でただ一人、煩悶を続け、法廷で無実を証明することを決断した。

“最後は信心しきったものが必ず勝つ!”――「大阪大会」で登壇した池田先生が正義の大師子吼を放った(1957年7月17日、大阪市中央公会堂で)
“最後は信心しきったものが必ず勝つ!”――「大阪大会」で登壇した池田先生が正義の大師子吼を放った(1957年7月17日、大阪市中央公会堂で)
 
●学会は強く、美しき団体

 15日間の獄中闘争を終え、池田先生が釈放されたのは、57年7月17日。正午過ぎ、拘置所の門が開いた。白い開襟シャツの先生が現れる。「ありがとう。ご心配をおかけしました。私はこのように元気です!」。同志から「万歳!」の歓声が上がった。
 池田先生は日記につづった。
 「この日、十七日――午後の十二時十分――出所す。大阪の同志数百名が、迎えに来てくれる。嬉し。学会は強い。学会は正しい。学会こそ、美しき団体哉」
 釈放後、池田先生は戸田先生を出迎えるため、伊丹空港へと向かった。恩師は空港で、裁判が勝負であり、裁判長が必ず分かってくれるとの確信を語った。
 午後6時、大阪市中央公会堂で「大阪大会」が行われた。場外にも1万人を超す同志があふれた。
 開会後、豪雨が地面をたたきつけた。場外に設置されたスピーカーから流れる声は、雨の音にかき消された。だが、その場を離れようとする同志はいなかった。
 池田先生は烈々と師子吼した。
 “最後は、信心しきったものが、御本尊様を受持しきったものが、また、正しい仏法が、必ず勝つという信念でやろうではありませんか!”
 7月29日、池田先生は起訴された。当時、検察が起訴した刑事事件の有罪率は99%を超えた。無罪を勝ち取るのは不可能といえた。
 法廷闘争は釈放から4年半にわたって続いた。先生は84回の公判で、23回出廷した。
 4回目の出廷の後、池田先生は「非常に不利の感じを受く」と危惧を記している。無罪への道程は困難を極めた。
 裁判の潮目が変わり始めたのは、61年(同36年)9月22日、第76回公判である。池田先生自らが、主任検事への証人尋問を行った。
 主任検事は、「覚えていない」「記憶にない」を連発した。裁判長の前で醜態をさらす結果となったのである。
 第80回公判では、先生に関する4通の検察調書が全て却下に。1%の逆転勝利へ、大きく道が開けた瞬間だった。そして、翌62年(同37年)1月25日、第84回公判で池田先生に「無罪」が言い渡された。
 この日、先生は同志に語った。
 「むしろ、戦いはこれから始まるのだ。一つの段階を越えると同時に、次の段階へ向かってスタートする。これが本因妙の仏法のゆえんだよ」
 一つの戦いを終えて、誓い新たに次なる広布の峰へ出発する――その“戦い続ける心”こそ、池田先生が自らの身をもって示した学会精神の真髄である。
  
  

 
【モノクロ写真をカラー化】

 今回掲載されている二つのカットは、モノクロ(白黒)でしか見られなかった聖教新聞社所蔵の写真を、編集部の責任のもと、AI(人工知能)を活用してカラー化したものです。

 
 

 
     

 AIを使ってモノクロをカラー化した写真には今後、このロゴマークが付きます。

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