〈信仰体験〉 72歳のCEO フレッシュマンの心意気 グータッチ 感謝のぬくもり
〈信仰体験〉 72歳のCEO フレッシュマンの心意気 グータッチ 感謝のぬくもり
2025年9月2日
- 苦しみ抜いてこそ本物が育つ
- 苦しみ抜いてこそ本物が育つ
【神奈川県茅ケ崎市】仕事ずくめのハードな日々も、「生きている心地がする」と、超がつくほどストイック。金属の防錆処理を行う特殊塗装の会社で、佐藤恭司さん(72)=副支部長=は国内4社、海外2社のCEO(最高経営責任者)を務める。
週の半分は名古屋へ出張。工場視察や打ち合わせで終日動き回り、夜は宿泊先からアメリカとオンラインの会議。翌朝午前6時からはメキシコにつなぎ、「レッツ スタート ザ ミーティング!(さあ、会議を始めよう)」。実にフレッシュな72歳である。
【神奈川県茅ケ崎市】仕事ずくめのハードな日々も、「生きている心地がする」と、超がつくほどストイック。金属の防錆処理を行う特殊塗装の会社で、佐藤恭司さん(72)=副支部長=は国内4社、海外2社のCEO(最高経営責任者)を務める。
週の半分は名古屋へ出張。工場視察や打ち合わせで終日動き回り、夜は宿泊先からアメリカとオンラインの会議。翌朝午前6時からはメキシコにつなぎ、「レッツ スタート ザ ミーティング!(さあ、会議を始めよう)」。実にフレッシュな72歳である。
野心に燃えていた30歳。“世界で渡り合うんだ”と、起業まもない外資系の商社で寝る間を惜しんで働いた。マーケティング担当として戦略立案などを担った。
会社が大きくなるにつれ、競争も熾烈さを増した。成果が伴わなければ、翌朝机に「ピンクスリップ」といわれる付箋が一枚貼られる。解雇通知を意味した。同僚が突然いなくなることはざらだった。そんな綱渡りのような毎日にも、佐藤さんは引かなかった。
男子部の仲間と、「仏法と申すは勝負をさきとし」(新1585・全1165)の御文を刻み合いながら、「やるからにはトップを目指そう」と心を燃やす。
「仕事量なら誰にも負けない」と専門知識を貪欲に吸収し、営業先に飛び込んだ。
厳しい世界だが真面目に取り組み、成果を上げた分、役職も給料も上がった。1984年(昭和59年)、妻・真都美さん(68)=女性部員=と結婚。2人の子宝にも恵まれ、不自由ない生活を送ってきた。
そんな順風な暮らしに、試練の突風が吹き込んだ。2009年(平成21年)の冬、会議室に呼び出された。副社長だった佐藤さんへのリストラ勧告。リーマン・ショックのあおりで、人員削減の対象となった。55歳だった。
野心に燃えていた30歳。“世界で渡り合うんだ”と、起業まもない外資系の商社で寝る間を惜しんで働いた。マーケティング担当として戦略立案などを担った。
会社が大きくなるにつれ、競争も熾烈さを増した。成果が伴わなければ、翌朝机に「ピンクスリップ」といわれる付箋が一枚貼られる。解雇通知を意味した。同僚が突然いなくなることはざらだった。そんな綱渡りのような毎日にも、佐藤さんは引かなかった。
男子部の仲間と、「仏法と申すは勝負をさきとし」(新1585・全1165)の御文を刻み合いながら、「やるからにはトップを目指そう」と心を燃やす。
「仕事量なら誰にも負けない」と専門知識を貪欲に吸収し、営業先に飛び込んだ。
厳しい世界だが真面目に取り組み、成果を上げた分、役職も給料も上がった。1984年(昭和59年)、妻・真都美さん(68)=女性部員=と結婚。2人の子宝にも恵まれ、不自由ない生活を送ってきた。
そんな順風な暮らしに、試練の突風が吹き込んだ。2009年(平成21年)の冬、会議室に呼び出された。副社長だった佐藤さんへのリストラ勧告。リーマン・ショックのあおりで、人員削減の対象となった。55歳だった。
ノートには池田先生の指導の切り抜きや書き写しが
ノートには池田先生の指導の切り抜きや書き写しが
この仕事に就いた時から覚悟はしているつもりだった。まだまだやれる。経験と実績をもってすれば引く手はある、と疑わなかった。しかし実際に転職活動が始まると、願った条件にかなう会社は一向に見つからなかった。
良い知らせもないまま3カ月、半年、1年と時がたつ。仕事人間で生きてきた佐藤さんにとって、時間を持て余す毎日は息苦しかった。蓄えが日に日に削られていくと、心もすり減っていった。
そんな中でも、いつもと変わらず食卓で笑顔を見せてくれる真都美さんの存在が不安を和らげてくれた。
希望をたぐり寄せるように、毎日、池田先生の指導をノートに書き写した。新社会人へのエールがつづられた言葉があった。
〈苦しみ抜いてこそ、本物が育つ。ゆえに、思うようにいかない時も、くさってはならない。上手くいかない時も、自分らしくベストを尽くしていけば、必ず、そこから次の道が開かれる〉
フレッシュマンのみずみずしい心意気を湧きいだし、闘魂を燃やした。題目が600万遍に達した時、転職先が見つかった。
だが喜びもつかの間、新たな職場で部下の不正の責任を問われ、わずか1年半で会社を追いやられた。
この仕事に就いた時から覚悟はしているつもりだった。まだまだやれる。経験と実績をもってすれば引く手はある、と疑わなかった。しかし実際に転職活動が始まると、願った条件にかなう会社は一向に見つからなかった。
良い知らせもないまま3カ月、半年、1年と時がたつ。仕事人間で生きてきた佐藤さんにとって、時間を持て余す毎日は息苦しかった。蓄えが日に日に削られていくと、心もすり減っていった。
そんな中でも、いつもと変わらず食卓で笑顔を見せてくれる真都美さんの存在が不安を和らげてくれた。
希望をたぐり寄せるように、毎日、池田先生の指導をノートに書き写した。新社会人へのエールがつづられた言葉があった。
〈苦しみ抜いてこそ、本物が育つ。ゆえに、思うようにいかない時も、くさってはならない。上手くいかない時も、自分らしくベストを尽くしていけば、必ず、そこから次の道が開かれる〉
フレッシュマンのみずみずしい心意気を湧きいだし、闘魂を燃やした。題目が600万遍に達した時、転職先が見つかった。
だが喜びもつかの間、新たな職場で部下の不正の責任を問われ、わずか1年半で会社を追いやられた。
アメリカ滞在中はSGIの友と信心に励んだ。「日本とアメリカで学会活動できたことが最高の功徳です」と(本人提供)
アメリカ滞在中はSGIの友と信心に励んだ。「日本とアメリカで学会活動できたことが最高の功徳です」と(本人提供)
それでも、下を向かなかった。〈愚痴をこぼさず、前へ前へ!〉という池田先生の言葉を何度も読み返し、地区部長として学会のど真ん中で戦い抜いた時、まるで何かの流れに乗ったように現在の会社に採用が決まった。
還暦間近の58歳。これまでこだわってきた海外との接点はなくなったが、専務執行役員として迎え入れてくれた会社に恩義を尽くそうと働きに働いた。
14年、会社で新しく海外事業を立ち上げることになり、佐藤さんに白羽の矢が立った。感慨深いものがあった。脳裏によぎったのは、16歳の誓いだった。
1969年、第2回高等部総会に参加。池田先生は「世界のヒノキ舞台へ絶対に成長していっていただきたい」と語り、佐藤さんはずっとその言葉を追いかけてきた。
「61歳になって、もう一度、池田先生との青春の誓いに生きられることが感激でした」
それでも、下を向かなかった。〈愚痴をこぼさず、前へ前へ!〉という池田先生の言葉を何度も読み返し、地区部長として学会のど真ん中で戦い抜いた時、まるで何かの流れに乗ったように現在の会社に採用が決まった。
還暦間近の58歳。これまでこだわってきた海外との接点はなくなったが、専務執行役員として迎え入れてくれた会社に恩義を尽くそうと働きに働いた。
14年、会社で新しく海外事業を立ち上げることになり、佐藤さんに白羽の矢が立った。感慨深いものがあった。脳裏によぎったのは、16歳の誓いだった。
1969年、第2回高等部総会に参加。池田先生は「世界のヒノキ舞台へ絶対に成長していっていただきたい」と語り、佐藤さんはずっとその言葉を追いかけてきた。
「61歳になって、もう一度、池田先生との青春の誓いに生きられることが感激でした」
メキシコの工場で従業員と(前列右から3人目が佐藤さん、本人提供)
メキシコの工場で従業員と(前列右から3人目が佐藤さん、本人提供)
2014年、満を持して新会社のCEOとなった。買収したメキシコとアメリカの工場を初めて訪ねた時、佐藤さんを見る従業員の表情はこわばっていた。
事業の刷新や働き方の改善を求めようにも、いつクビにされるか分からないと疑心暗鬼になっている。佐藤さんは仕事のつながり以上に、心のつながりを大切にしたかった。
従業員を食事へ誘い、仕事への思いや、家族のことに耳を傾けた。自らも2度のリストラを経験してきた。同じ思いをさせたくなかった。従業員の幸せを願い、「みんなで一緒に、この会社を大きくしていきたい」と、一人一人の目を見て、手を握った。
会社の発展を掲げるならば、時には従業員にとって耳の痛いことを指摘しなければならないこともある。でも、それをはるかに上回る感謝を、佐藤さんは言葉と態度で示してきた。
2014年、満を持して新会社のCEOとなった。買収したメキシコとアメリカの工場を初めて訪ねた時、佐藤さんを見る従業員の表情はこわばっていた。
事業の刷新や働き方の改善を求めようにも、いつクビにされるか分からないと疑心暗鬼になっている。佐藤さんは仕事のつながり以上に、心のつながりを大切にしたかった。
従業員を食事へ誘い、仕事への思いや、家族のことに耳を傾けた。自らも2度のリストラを経験してきた。同じ思いをさせたくなかった。従業員の幸せを願い、「みんなで一緒に、この会社を大きくしていきたい」と、一人一人の目を見て、手を握った。
会社の発展を掲げるならば、時には従業員にとって耳の痛いことを指摘しなければならないこともある。でも、それをはるかに上回る感謝を、佐藤さんは言葉と態度で示してきた。
メキシコの工場で働く従業員との会食会(右から5人目が佐藤さん、本人提供)
メキシコの工場で働く従業員との会食会(右から5人目が佐藤さん、本人提供)
決して自分一人で大きな仕事ができるわけではない。いつも会心の笑顔で心からの「サンキュー」を伝え、一人一人の献身を労った。積極的に人材の登用も図り、若い風を送り込むと、業績はグングン向上した。さらに従業員のモチベーションも高揚し、この10年で会社の業績は3倍に成長した。「幸せを感じている人が、一番いい仕事をするんですよね」
これまで従業員たちから親しみを込めて「キョウジ」とラフな呼ばれ方をしていたが、最近は敬意を込め「ミスター・サトウ」に変わった。
年に6回ほど海外の工場へ行く。かつては距離を取っていた従業員たちが今では、佐藤さんの姿を見ると作業の手を止め、駆け寄ってくる。両手で握り拳を作り、笑顔でグータッチ。「サンキュー!」と、重ね合う拳にぬくもりが通い合う。
決して自分一人で大きな仕事ができるわけではない。いつも会心の笑顔で心からの「サンキュー」を伝え、一人一人の献身を労った。積極的に人材の登用も図り、若い風を送り込むと、業績はグングン向上した。さらに従業員のモチベーションも高揚し、この10年で会社の業績は3倍に成長した。「幸せを感じている人が、一番いい仕事をするんですよね」
これまで従業員たちから親しみを込めて「キョウジ」とラフな呼ばれ方をしていたが、最近は敬意を込め「ミスター・サトウ」に変わった。
年に6回ほど海外の工場へ行く。かつては距離を取っていた従業員たちが今では、佐藤さんの姿を見ると作業の手を止め、駆け寄ってくる。両手で握り拳を作り、笑顔でグータッチ。「サンキュー!」と、重ね合う拳にぬくもりが通い合う。
いつも快活な笑顔の佐藤さん。胸には「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」との池田先生の言葉が刻まれている
いつも快活な笑顔の佐藤さん。胸には「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」との池田先生の言葉が刻まれている