• ルビ
  • シェア
  • メール
  • CLOSE

〈ジョガスタ――女子学生部 御書研さんのために〉 開目抄④ 2025年2月18日

  • 宿命を使命に変える生き方

 女子学生部の“スタディ(研さん)”のための連載「Let’s Study! ジョガスタ――女子学生部 御書研さんのために」。「開目抄」の第4回となる今回は、第21、22、36段を拝します。

【第21段】御書新版70ページ12~15行目、御書全集200ページ17行目~201ページ1行目

 【御文】既に二十余年が間この法門を申すに、日々・月々・年々に難かさなる。少々の難はかずしらず、大事の難四度なり。二度はしばらくおく。王難すでに二度におよぶ。今度はすでに我が身命に及ぶ。その上、弟子といい、檀那といい、わずかの聴聞の俗人なんど来って重科に行わる。謀反なんどの者のごとし。

 【通解】(建長5年に立宗宣言して以来)すでに二十年余りの間、この法華経の法門を申してきたが、日々、月々、年々に難が重なっている。少々の難は数知らず、大きな難が四度あった。そのうち二度は、しばらくおいておく。国の権力者による迫害はすでに二度に及んでいる。特にこのたびの迫害は、私の命に及ぶものであった。
 そのうえ、弟子といい、檀那(在家の信徒)といい、わずかに法門を聞いただけの在家の人などまで、重い罪に処せられた。まるで謀反を起こした者などのようであった。

 【解説】ここでは、建長5年(1253年)に立宗宣言されて以来、本抄御述作の文永9年(1272年)2月までの足かけ20年の間に起きた大難の様相が簡潔に示されています。
 この御文に続く部分では、法華経、涅槃経などの文を挙げられています。
 これは、日蓮大聖人が遭われた難が、すべて釈尊が予言した通りであり、大聖人が法華経を身読している真の法華経の行者であることを示されるためと拝されます。

【第22段】御書新版72ページ13行目~73ページ1行目、御書全集202ページ8~12行目

 【御文】されば、日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶことなけれども、難を忍び慈悲のすぐれたることはおそれをもいだきぬべし。定めて天の御計らいにもあずかるべしと存ずれども、一分のしるしもなし。いよいよ重科に沈む。還ってこのことを計りみれば、我が身の法華経の行者にあらざるか、また諸天善神等のこの国をすてて去り給えるか、かたがた疑わし。
 しかるに、法華経の第五の巻の勧持品の二十行の偈は、日蓮だにもこの国に生まれずば、ほとうど世尊は大妄語の人、八十万億那由他の菩薩は提婆が虚誑罪にも堕ちぬべし。

 【通解】そうである(法華経を末法に弘通して前代未聞の難に遭っている)から、日蓮が法華経の法理を理解する智慧は天台大師伝教大師には千万分の一ほどにも及ばないけれども、難を耐え忍び、慈悲が優れていることについては、実に恐縮するほどである。きっと諸天善神の配慮にもあずかるだろうと思うのであるが、少しの兆候もない。いよいよ重罪に処されている。逆に、このことを考えてみると、わが身が法華経の行者ではないということなのか。また、諸天善神らがこの国を捨て去ってしまっているということなのか。さまざまに疑わしいことである。
 しかしながら法華経の第5巻の勧持品の二十行の偈は、日蓮がこの国に生まれなければ、ほとんど釈尊は大うそつきの人となってしまうのであり、八十万億那由他の菩薩たちは提婆達多と同じうそつきの罪に堕ちてしまうにちがいない。

 【解説】大聖人は、末法の衆生のために説かれた法華経を、衆生への慈悲のゆえに弘められ、迫害に遭われました。
 慈悲の実践のゆえに難が起きたのであり、逆に、いかなる難にも退かないのも大慈悲のゆえです。
 続く部分では、法華経の行者である大聖人に、諸天の加護がないのはなぜか、という疑いを挙げられています。
 法華経には、法華経を持ち弘通する人には大難が生じるとともに、諸天の加護が必ずあると説かれています。しかし、大聖人に対しては諸天の加護があらわれず、竜の口の法難佐渡流罪に遭われます。
 このことから、諸天が守ろうとしないのは御自身が法華経の行者ではないということなのか、それとも諸天善神が国を去ったためであるのか、との疑問を提示されます。
 これは、当時の諸宗の学者から浴びせられた批判でもあり、弟子・檀那の心にあった疑いでもありました。
 ここでは、なぜ諸天の加護がないのかという問題に入る前に、間違いなく明らかな事実として、末法の法華経の行者が受ける大難の様相を予言した法華経勧持品二十行の偈の文を大聖人お一人が身読し、釈尊の予言を虚妄でないようにしたのであると仰せになり、法華経身読の喜びを語られています。
 大聖人の受けられた難が勧持品の予言に符合していることは、まさに大聖人によって法華経の真実が証明されたことを意味します。
 もし、大聖人が末法の日本に出現し大難に遭われなければ、法華経勧持品の文はうそとなり、釈尊は「大妄語(=偽りの言葉)の人」となってしまいます。また、勧持品二十行の偈の言葉を述べた八十万億那由他の菩薩は、提婆達多の「虚誑罪(=うそをついて人をあざむく罪)」と同じになってしまうと仰せになっているのです。

【第36段】御書新版101ページ7~9行目、御書全集223ページ2~4行目

 【御文】当世日本国に第一に富める者は日蓮なるべし。命は法華経にたてまつり、名をば後代に留むべし。大海の主となれば、諸の河神皆したがう。須弥山の王に諸の山神したがわざるべしや。法華経の六難九易を弁うれば、一切経よまざるにしたがうべし。

 【通解】今の世において、日本国で第一に富んでいる者は、日蓮である。命は法華経にさしあげ、名を後代にとどめるだろう。大海の主となれば、もろもろの河の神も皆、従う。須弥山の王に、もろもろの山の神が従わないことがあるだろうか。法華経の六難九易をわきまえれば、一切経を読まなくても、わがものとなっているのである。

 【解説】この御文は、法華経を身読することによって、成仏という最高の幸福境涯の確立が約束され、いかに偉大な精神的な“富”が得られるかを示されたものです。
 当時の大聖人は佐渡に流罪中の身であり、明日の生命さえも分からないという状況下にありました。にもかかわらず「日本国に第一に富める者」と仰せになったのは、まさに末法の御本仏としての御境涯を明かされたものと拝されます。
 この「富める」ことの理由として、大聖人は「命は法華経にたてまつり、名をば後代に留むべし」と仰せになっています。
 大聖人は御自身の生命を法華経のためにささげられました。そのことによって、法華経の中にある最深の真理である妙法蓮華経が大聖人の御生命に開かれたと拝することができます。
 そして、御生命を妙法弘通にかけられたことにより、大聖人の名は末法万年の衆生から仰がれていきます。このことを「名をば後代に留むべし」と仰せになっているのです。
 そして最後に、このように六難九易を身をもって読んだ人を「大海の主」「須弥山の王」に譬えられ、「大海の主」にもろもろの河の神がみな従うように、「須弥山の王」にあらゆる山神が従うように、六難九易を身読した者は、仏法の王者であるがゆえに、たとえ一切経を読まずとも、すべて体得されてくると仰せになっています。

池田先生の講義から

 慈悲は忍難の原動力であり、忍難は深き慈悲の証明です。そのことを示すために、大聖人は「願兼於業」の法理について言及されています。大聖人は、ここで、御自身が受けられている大難は、実は衆生を救う願いのために、あえて苦しみを受けていく菩薩の願兼於業と同じであるとされています。そして、菩薩が衆生の苦しみを代わりに受けていくことを喜びとしているように、大聖人も今、大難という苦しみを受けているが、悪道を脱する未来を思えば悦びである、と言われている。(中略)
 願兼於業とは、仏法における宿命転換論の結論です。端的に言えば、「宿命を使命に変える」生き方です。
 人生に起きたことには必ず意味がある。また、意味を見いだし、見つけていく。それが仏法者の生き方です。意味のないことはありません。どんな宿命も、必ず、深い意味があります。
 それは、単なる心のあり方という次元ではない。一念の変革から世界の変革が始まる。これは仏法の方程式です。宿命をも使命と変えていく強き一念は、現実の世界を大きく転換していくのです。
 その一念の変革によって、いかなる苦難も自身の生命を鍛え、作り上げていく悦びの源泉と変わっていく。悲哀をも創造の源泉としゆくところに、仏法者の生き方があるのです。(『池田大作全集』第34巻所収「開目抄」講義)

動画

SDGs✕SEIKYO

SDGs✕SEIKYO

連載まとめ

連載まとめ

Seikyo Gift

Seikyo Gift

聖教ブックストア

聖教ブックストア

デジタル特集

DIGITAL FEATURE ARTICLES デジタル特集

YOUTH

三井住友銀行が、閉鎖した出張所を改装した施設「アトリエ・バンライ」のプレオープンイベント。子どもたちが金融経済教育を体験した=3月26日、東京都板橋区

劇画

劇画
  • HUMAN REVOLUTION 人間革命検索
  • CLIP クリップ
  • VOICE SERVICE 音声
  • HOW TO USE 聖教電子版の使い方
PAGE TOP