〈信仰体験〉 誠実一路のバチ職人
〈信仰体験〉 誠実一路のバチ職人
2025年11月19日
- 「断じて引かぬ」師子王の心意気
- 「断じて引かぬ」師子王の心意気
木又さん㊧は長男・新也さんと分担してバチを作る。「ケンカはしょっちゅう」と話す新也さんに「親の心子知らずだな」とぼそり。認め合うからこそ、いいバチができる
木又さん㊧は長男・新也さんと分担してバチを作る。「ケンカはしょっちゅう」と話す新也さんに「親の心子知らずだな」とぼそり。認め合うからこそ、いいバチができる
【東京都江戸川区】のこぎりの音が鳴り響く工房。仕上がりを確かめる木又義弘さん(72)=副区長=の目は鋭い。寡黙で、真面目。代表を務める「海宝堂」の2代目として、三味線のバチを作っている。
【東京都江戸川区】のこぎりの音が鳴り響く工房。仕上がりを確かめる木又義弘さん(72)=副区長=の目は鋭い。寡黙で、真面目。代表を務める「海宝堂」の2代目として、三味線のバチを作っている。
プロから初心者まで、さまざまな三味線奏者が木又さんのバチを求める
プロから初心者まで、さまざまな三味線奏者が木又さんのバチを求める
こだわりを尋ねると、「そんなもの、ありませんよ」と木又さんは照れた。「お客さんが喜んでくれればいい」。オーダーメードで要望に応えてきた。その実直な人柄と確かな技術を求めて、あまたの三味線奏者が店を訪れる。
貧苦と吃音に悩んだ青春時代だった。6畳一間のおんぼろアパートに家族5人暮らし。着る物は学生服だけ。学校に行けば、どもるたびに、いじめられた。“こんな生活はゴメンだ”。教室の隅で一人、勉強に打ち込んだ。
こだわりを尋ねると、「そんなもの、ありませんよ」と木又さんは照れた。「お客さんが喜んでくれればいい」。オーダーメードで要望に応えてきた。その実直な人柄と確かな技術を求めて、あまたの三味線奏者が店を訪れる。
貧苦と吃音に悩んだ青春時代だった。6畳一間のおんぼろアパートに家族5人暮らし。着る物は学生服だけ。学校に行けば、どもるたびに、いじめられた。“こんな生活はゴメンだ”。教室の隅で一人、勉強に打ち込んだ。
真剣勝負でバチと向き合う
真剣勝負でバチと向き合う
孤独な瞳に光が宿ったのは1971年(昭和46年)11月23日、18歳の時だった。江戸川区内で行われた記念撮影会で、池田先生と1枚の写真に納まった。師の「親孝行するんだよ」との温かな言葉が、心に残った。
高等専門学校を卒業後、大阪で自動車設計に携わった。誰よりもひたむきに、黙々と働きに働いた。とにかく「大卒の同期に負けたくなかった」。多忙な日々の中で、次第に信心からは離れていく。同僚の江美子さんと結婚し、2人の子宝にも恵まれた。「順風満帆、怖いものなし」だった。
肩で風を切って歩いていた30歳の時、江美子さんが重い病にかかった。「俺がなんとかする」。木又さんは10年ぶりに題目を唱えた。江美子さんも入会し、夫婦で信心に励むように。
江美子さんは6カ月の余命宣告をはね返した。3年後の冬、「信心できて良かった」と言い残して霊山へ。木又さんは幼いわが子の寝顔を見つめた。“この子たちを必ず幸せにしてみせる”。不動の覚悟を固めた。
孤独な瞳に光が宿ったのは1971年(昭和46年)11月23日、18歳の時だった。江戸川区内で行われた記念撮影会で、池田先生と1枚の写真に納まった。師の「親孝行するんだよ」との温かな言葉が、心に残った。
高等専門学校を卒業後、大阪で自動車設計に携わった。誰よりもひたむきに、黙々と働きに働いた。とにかく「大卒の同期に負けたくなかった」。多忙な日々の中で、次第に信心からは離れていく。同僚の江美子さんと結婚し、2人の子宝にも恵まれた。「順風満帆、怖いものなし」だった。
肩で風を切って歩いていた30歳の時、江美子さんが重い病にかかった。「俺がなんとかする」。木又さんは10年ぶりに題目を唱えた。江美子さんも入会し、夫婦で信心に励むように。
江美子さんは6カ月の余命宣告をはね返した。3年後の冬、「信心できて良かった」と言い残して霊山へ。木又さんは幼いわが子の寝顔を見つめた。“この子たちを必ず幸せにしてみせる”。不動の覚悟を固めた。
● 父のうなずき
● 父のうなずき
ほどなくして、父から「帰ってこないか」と電話があった。三味線のバチ作りを全国に展開したいという。87年5月3日、木又さんは帰京した。
34歳で飛び込んだ匠の世界。「やってみろ」。父の指示通りに作ってみるも、次の言葉は「こんなもん使えるか」。左右対称の扇形で、かつ材質の時間経過による形状の変化まで計算して削らねばならない。削り方、削る位置によって、しなり具合も変わる。完成までの距離は果てしなく遠く感じた。
平日は早朝から工房にこもり、土日はバチを売りに地方へ車を走らせた。車中泊は数知れず。2人の子を育てるため、がむしゃらに働いた。
ほどなくして、父から「帰ってこないか」と電話があった。三味線のバチ作りを全国に展開したいという。87年5月3日、木又さんは帰京した。
34歳で飛び込んだ匠の世界。「やってみろ」。父の指示通りに作ってみるも、次の言葉は「こんなもん使えるか」。左右対称の扇形で、かつ材質の時間経過による形状の変化まで計算して削らねばならない。削り方、削る位置によって、しなり具合も変わる。完成までの距離は果てしなく遠く感じた。
平日は早朝から工房にこもり、土日はバチを売りに地方へ車を走らせた。車中泊は数知れず。2人の子を育てるため、がむしゃらに働いた。
削り粉にまみれながら腕を磨いてきた
削り粉にまみれながら腕を磨いてきた
苦境の中にあって、木又さんは同志の輪に飛び込み続けた。「池田先生にお応えしようじゃないか」。どもりながら絞り出した励ましの言葉は、自分を奮い立たせる宣言でもあった。
「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちい給うべし」(新1623・全1192)の御文が、木又さんを突き動かした。題目を重ね、自分なりのバチ作りを模索した。
いいバチとは――。木又さんは一つの答えにたどり着く。それは「お客さんの要望を100%かなえること」。従来、バチは規格が決まっていることが主流だった。しかし弾き手の手の大きさや奏法によって、扱いやすいバチは変わる。
だからこそ木又さんは「こだわらないことにした」。こだわるのは“弾く人がいい音を鳴らせるか”だけ。オーダーメードでバチを提供すると、徐々に顧客の信頼を獲得。民謡ブームも追い風となり、北海道から九州まで営業の幅を広げた。父の無言のうなずきは、認められた証しだった。
苦境の中にあって、木又さんは同志の輪に飛び込み続けた。「池田先生にお応えしようじゃないか」。どもりながら絞り出した励ましの言葉は、自分を奮い立たせる宣言でもあった。
「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちい給うべし」(新1623・全1192)の御文が、木又さんを突き動かした。題目を重ね、自分なりのバチ作りを模索した。
いいバチとは――。木又さんは一つの答えにたどり着く。それは「お客さんの要望を100%かなえること」。従来、バチは規格が決まっていることが主流だった。しかし弾き手の手の大きさや奏法によって、扱いやすいバチは変わる。
だからこそ木又さんは「こだわらないことにした」。こだわるのは“弾く人がいい音を鳴らせるか”だけ。オーダーメードでバチを提供すると、徐々に顧客の信頼を獲得。民謡ブームも追い風となり、北海道から九州まで営業の幅を広げた。父の無言のうなずきは、認められた証しだった。
バチの弾き心地を、客と一緒に確かめる
バチの弾き心地を、客と一緒に確かめる
● 歓喜の音色
● 歓喜の音色
平成から令和は苦境の連続だった。バブル経済の崩壊、リーマン・ショック、コロナ禍。壁にぶつかるたびに、木又さんは青年部時代の誓いを心にともした。
――85年3月17日。大阪府茨木市で行われた会合に池田先生が出席した。木又さんは弘教を果たし、牙城会の任務に就いていた。師の柔らかな表情を見た時に「僕は一歩も引かないと決めたんです」。以来、毎回の本部幹部会の中継行事で、師の姿をまぶたに焼き付けてきた。
40年がたった今も、木又さんは月に数回は地方へ車を走らせる。全国各地で行われる民謡の大会に出店するためだ。隣には再婚した妻・朋子さん(65)=総区副女性部長=がいる。底抜けの明るさで一家を照らし続けてくれた。
平成から令和は苦境の連続だった。バブル経済の崩壊、リーマン・ショック、コロナ禍。壁にぶつかるたびに、木又さんは青年部時代の誓いを心にともした。
――85年3月17日。大阪府茨木市で行われた会合に池田先生が出席した。木又さんは弘教を果たし、牙城会の任務に就いていた。師の柔らかな表情を見た時に「僕は一歩も引かないと決めたんです」。以来、毎回の本部幹部会の中継行事で、師の姿をまぶたに焼き付けてきた。
40年がたった今も、木又さんは月に数回は地方へ車を走らせる。全国各地で行われる民謡の大会に出店するためだ。隣には再婚した妻・朋子さん(65)=総区副女性部長=がいる。底抜けの明るさで一家を照らし続けてくれた。
家族4人、笑顔の花が咲く(左から長男・新也さん、木又さん、妻・朋子さん、長女・佐知子さん)
家族4人、笑顔の花が咲く(左から長男・新也さん、木又さん、妻・朋子さん、長女・佐知子さん)
会場に着くと「海宝堂」の屋号を掲げて、50本のバチを並べる。なじみの三味線奏者が訪れると、木又さんは「こないだのバチの調子はどうですか」と声をかける。柔和な笑顔に、相手の表情がほころぶ。一人に寄り添う姿勢と確かな腕で、時代の荒波を越えてきた。師の言葉が、実感となって胸に迫る。
〈試練の時に『師子王の心』を燃やしてこそ、仏となる。人間革命できる〉
周囲を見渡すと同業者も少なくなったが、長男・新也さん(43)=壮年部員=が全面的に店を支えてくれている。「息子は僕を超えていますよ」と木又さんは誇らしげ。
誠実一路で生み出されるバチは、今日もどこかで歓喜の音色を鳴らしている。
会場に着くと「海宝堂」の屋号を掲げて、50本のバチを並べる。なじみの三味線奏者が訪れると、木又さんは「こないだのバチの調子はどうですか」と声をかける。柔和な笑顔に、相手の表情がほころぶ。一人に寄り添う姿勢と確かな腕で、時代の荒波を越えてきた。師の言葉が、実感となって胸に迫る。
〈試練の時に『師子王の心』を燃やしてこそ、仏となる。人間革命できる〉
周囲を見渡すと同業者も少なくなったが、長男・新也さん(43)=壮年部員=が全面的に店を支えてくれている。「息子は僕を超えていますよ」と木又さんは誇らしげ。
誠実一路で生み出されるバチは、今日もどこかで歓喜の音色を鳴らしている。
「仕事も学会活動も、相手に喜んでもらえる自分でありたい」と木又さん
「仕事も学会活動も、相手に喜んでもらえる自分でありたい」と木又さん