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〈ストーリーズⅡ 池田先生の希望の励まし〉第24回 君だけの花が咲く 桜梅桃李編① 2026年4月29日

  • 人間という花も
  • 「みんな違っているから」美しい
「私と君たちは、きょうだいだよ」

 創価大学のグラウンドに姿を現した池田大作先生は、真っすぐに白布のかかった招待席へ向かった。そこに待っていたのは、体に障がいがある友、約100人だった。車いすに座る友がいた。手話で話す人、目が見えない人もいた。
 1981年5月3日、「創価学会の日」を記念する集いが創価大学で開かれた。この年は、国連が定めた「国際障害者年」。テーマは「完全参加と平等」だった。障がいの有無にかかわらず、誰もが社会の一員として共に生きる――その理念が、世界で大きく広がろうとしていた。
 その時代の転機に行われた「5・3」を祝う集いに、学会の自由グループ(身体に障がいがある友)、自在会(視覚に障がいがある友)、妙音会(聴覚に障がいがある友)の代表が招待されたのである。
 支えている同志も共に参加した。自由グループの発足に尽力した友、会場を提供している友、地域の各部の責任者、ボランティアの責任者。皆が喜々として、創大を訪れた。
 到着すると、福祉を学ぶ学生部員たちが出迎え、胸に招待のリボンを付けてくれた。控室には、自在会の友が歌う学会歌が響いた。妙音会の友が手話で喜びを語った。車いすを使う自由グループの代表が学会歌の指揮を執る。その車いすを学生部の友が支えた。
 その日、ボランティアの責任者は、ボランティアに携わる全員の名前を書いたメモを胸ポケットに収めていた。一人一人の心を先生に届けたい――そんな思いだった。
 一行はグラウンドへ向かった。中央に舞台。その正面に招待席が用意されていた。招待席へと歩み寄った池田先生は、一人一人と握手を交わしていった。肩をたたき、目を見つめ、声をかける。
 「今日はありがとう!」
 「みんな、お題目をあげているよ」
 「元気に頑張るんだよ」
 「私と君たちは、きょうだいだよ」
 以前に出会いを刻んだ友には、懐かしそうに言った。
 「しばらくだね、変わらないな」
 先生のそばには、手話通訳者の姿もあった。先生の言葉を懸命に伝えていく。目の見えない友が、先生が目の前に来たと分かるよう、随行者が「先生です」と言葉を掛けた。
 先生は招待席を一巡し、壇上へ向かう途中、握手をしそびれた友がいることに気がつくと、すぐに戻った。そして、その人の手を握った。
 壇上の電子オルガンで「さくらさくら」「うれしいひなまつり」を奏でた。演奏が終わり、マイクを握ると、招待席はじめ8000人の参加者に向かって話し始めた。
 「今日は障がい者の地涌の菩薩の代表がたくさんおられまして、少しでも“真心のピアノ”をと思いまして」
 演奏には少しミスがあり、もう一度、曲を弾いた。先生はユーモアたっぷりに、「最近、御書ばかり勉強していましたので」と。参加者の笑いを誘った。

「5・3」を祝賀する集いで、池田先生が自由グループ、自在会、妙音会の友が座る招待席へ。一人一人と握手を交わし、励ましを送った(1981年5月3日、創価大学で)
「5・3」を祝賀する集いで、池田先生が自由グループ、自在会、妙音会の友が座る招待席へ。一人一人と握手を交わし、励ましを送った(1981年5月3日、創価大学で)

 友の喜びを表すかのように、五月晴れに恵まれた1981年の「5・3」の集い。池田先生は語った。
 「特に私がうれしいことは、本年は国際障害者年でありまして、私の友だちが代表として、この集いに勇んで出席してくださいました。本当にうれしい」
 先生は、招待席の友を見つめながら、思いを語った。
 「よく私は言います。結婚して幸福になったという報告より、失恋して悲しんでいるような方に光を当てる。これが日蓮大聖人の仏法である。創価学会の精神である」
 「また、一家和楽で幸せである、これはうれしい。それ以上に、一家がなかなかうまくいかない、お父さんや息子が信心しない、その人に光を当てる。これが学会です。その意味において、私は今日、御本尊を持った、広宣流布の道を雄々しく歩んでおられるわが友である、身体障がい者の地涌の菩薩のお友だちに、最大の拍手をもって応えたい」
 先生は拍手を送った。参加者も続いた。先生の声にさらに力がこもった。
 「大聖人の仏法は、そしてわが創価学会は永久に庶民の味方である。悩める友の味方である。それが、私どもが今日の、世界一の創価学会を築いた、また戦ってきた、ただ一つの尊い道である。この道を踏み違えると、大変なことになる」
 第3代会長の辞任から2年。81年は宗門の悪僧らによる広布破壊の謀略の企てが白日の下にさらされ、本格的な反転攻勢が開始された年でもあった。先生は学会のあるべき姿を示した。
 「庶民の中に、学会は進んでいかなければならない」「仲の良い、信心強盛な、本当の仏法家族を創価学会は創っていくべきであると、私は訴えたい」
 先生の言葉は、自由グループ、自在会、妙音会の友の胸に刻まれた。先生は、自分たちを“特別な存在”ではなく、広布を担う「地涌の菩薩」として平等に見ている。師匠の心を抱き締め、友はそれぞれの場所で、使命の道を歩み出していった。
 この日、代表して花束を贈られたのが、渡辺憲二さん。2歳の時、自宅の前で荷馬車にひかれ、脊椎を骨折。9歳まで入院生活を送った。自分の運命を何度も呪った。
 貧しさ、いじめ、社会の冷たい目。そんな日々の中、1954年に一家で信心を始めた。中学校を卒業後、職業訓練校へ。働きながら定時制高校に通っていた時、学会の夏季講習会に参加した。
 高等部の友人たちが連れてきてくれた。池田先生との記念撮影の折、先生は渡辺さんを見て、声をかけた。
 「君には友だちがいるよね」「一緒に連れてきてくれた人も呼んでらっしゃい」。その場にいた青年部幹部が急いで呼びに走った。駆けつけた友人たち一人一人に、先生は「ありがとう」と感謝を伝え、学会からの記念品を手渡した。そして、渡辺さんの目を見て言った。
 「よく来たね。いい友だちがいるね。明るく、楽しく、朗らかな信心を」
 この言葉が、渡辺さんのその後の人生を形作った。今も師の指針を胸に、総東京の自由グループの責任者として、友の幸福を祈り続けている。
 鈴木丈夫さんも81年の「5・3」の集いの折、先生から励ましを受けた。その瞬間を捉えた写真を生涯の宝物にした。集いには、鈴木さんの支えで、自由グループの輪に加わった友がいた。皆で師との出会いを喜び合った。
 鈴木さんは、先天性の骨形成不全症により、骨折や骨変形を繰り返した。19歳で仏法に巡り合った。ギターが大好きで、学会歌を歌う時には伴奏を買って出た。“自由グループの音楽隊”との誇りがあった。
 先生との創大での出会いから13年がたった94年、くも膜下出血で倒れた。命は助かったが、左半身にまひが残る。右手にも骨形成不全症によるまひがあった。つえも握れず、立ち上がれなくなった。楽器が演奏できないなら、歌を歌おう――。鈴木さんは、総東京自由グループの「合唱団流星」で、桜梅桃李の希望を届け続けた。
 入会以来、何百回と暗唱し、生き抜く覚悟を固めたのは、池田先生の詩「青年の譜」の一節だった。
 「われには われのみの使命がある/君にも/君でなければ 出来ない使命がある」
 この通り、自分だけにしか咲かせられない花を、人生の大地に咲かせた。

手話に込めた、平和への願い
山梨の御坂町(現在の笛吹市)を訪れた池田先生が、咲き誇る桃にカメラを向けた(1998年4月)。この写真が掲載された紀行に先生は記した。「冬が来たからには、じきに必ず春が来る。それが生命の不思議な力だ。春をもたらす、その『力』が人間にもある」
山梨の御坂町(現在の笛吹市)を訪れた池田先生が、咲き誇る桃にカメラを向けた(1998年4月)。この写真が掲載された紀行に先生は記した。「冬が来たからには、じきに必ず春が来る。それが生命の不思議な力だ。春をもたらす、その『力』が人間にもある」

 その日の聖教新聞を手に取り、市川美智子さんの心は感動に包まれた。1999年12月26日の1面に、池田先生の写真紀行「光は詩う」が掲載された。タイトルは「桃源の里」。先生が撮影した桃の花が紙面いっぱいに優しく咲いていた。
 そこには、こうつづられていた。
 「大聖人は『桜梅桃李』と教えられた。桜は桜、梅は梅、桃は桃、李は李。人間という花も、『みんな違っているから』美しい。その美しさを引き出すのが、教育だ。文化だ。その実りとして平和がある」
 さらに先生は手話に触れて記した。
 「手話で『平和』を表すには、両手の掌を下に向け、左右に広げながら降ろすのだという。その広がった両手のように、園の百枝が伸び伸びと腕を広げていた。よく見ると『平和の園』では一本一本の樹も、一つ一つの花さえ、みんな違った顔で、みんな、それぞれ輝いていた」
 市川さんは思った。手話は、ただ言葉を置き換えるためのものではない。人と人の心を結び、師匠の心にある“平和の手話”を広げていきたい――。
 2年後の2001年、東京での会合や中継行事などで手話通訳を担う「ピースハンズグループ」が結成される。手話通訳者の中心的な役割を担っていた市川さんが責任者となった。現在、約100人のメンバーが活動している。
 市川さんの手話との出あいは、生まれ育った長野・松本でのことだった。女子部(当時)のメンバーを訪問した時、耳の聞こえない数人の友が手話で談笑していた。その生き生きとした姿が心に残った。本紙の通信員をしていた市川さんは取材を始める。松本市にはろう学校があり、聴覚障がいがある同志が大勢、学会活動に励んでいた。
 1965年6月26日、地方版に小さな記事が掲載された。見出しは「真剣な中に明るく 松本会館でろうあ者の座談会」。市川さんが写真を撮影し、記事を書いた。現実に挑み、幸せをつかんでいく姿を紙面で届け続けた。
 市川さんは通信員としての使命をさらに深め、取材に歩いた。翌年には、松本で新聞配達に励む中等部員4人の姿を写真に撮り、記事にした。掲載日前日に新聞のゲラ刷りを見た池田先生は、中等部員に励ましを送った。
 陰で輝く人に光を当てる――その信念で努力してきた市川さんにとって、師がその心を知ってくれていることが、何よりうれしかった。
 69年の第1回全国通信員大会で、先生はメッセージにつづった。「どうか、冥の照覧を深く確信し、広布の推進のため、栄光への法戦の年輪を、聡明に逞しく刻んでいっていただきたい」
 通信員としての思いは、生き方の土台となった。結婚後、子育てが落ち着いた35歳の頃、東京・板橋区の手話講習に通って、区の登録通訳者に。“広布のため、社会の役に立つため”と決めて学び続けた。中継行事では、先生のスピーチを手話で参加者に伝えた。何度も会場に通い、内容を書き起こした。仏法用語をどう表せば、より深く伝わるか。悩み、思索を重ねた。
 手話に込めたのは、平和への願い。2013年、その思いが思わぬ形で、社会へ広がった。日本が誇るオペラ歌手・佐藤しのぶさんの楽曲「リメンバー」に、手話をつけることになった。反戦と核兵器廃絶を訴える歌である。
 佐藤さんと手話を一つ一つ考えた。言葉の奥にある祈りを、どう手で表現するか。曲に込められた願いを、どう伝えるか。完成すると、佐藤さんは亡くなるまで、この歌を大切にして各地で歌い続けた。市川さんにはこう語った。「手話とともに歌ったほうが、私の思いが伝わるんです」
 コロナ禍を機に、市川さんは少年少女部の「板橋王子王女合唱団」に、この曲の手話を教えるようになった。合唱団出身のメンバーには、大切な思い出として、この手話を交えた歌を挙げる友も多い。手話を通して、平和への祈りと命の輝きをたたえる心が、次代を担う友へ受け継がれている。

第7回全国通信員大会で使命を訴える池田先生(1983年5月14日、旧・聖教新聞本社で)
第7回全国通信員大会で使命を訴える池田先生(1983年5月14日、旧・聖教新聞本社で)
池田先生が四国本部幹部会の終了後、友を激励。この日、200人以上が参加した、聴覚に障がいがある同志に心からの励ましを送った(1962年6月2日、高松市の屋島陸上競技場〈当時〉で)
池田先生が四国本部幹部会の終了後、友を激励。この日、200人以上が参加した、聴覚に障がいがある同志に心からの励ましを送った(1962年6月2日、高松市の屋島陸上競技場〈当時〉で)

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