〈許すまじ核の爪――戦後80年 信仰体験〉 争いなき明日へ 幸せよ咲け
〈許すまじ核の爪――戦後80年 信仰体験〉 争いなき明日へ 幸せよ咲け
2025年8月6日
原爆への怒りと平和への願いが、その目に宿る。河野さんは「戦争は人間の心が生むんじゃけえの」と言った
原爆への怒りと平和への願いが、その目に宿る。河野さんは「戦争は人間の心が生むんじゃけえの」と言った
【広島市安芸区】かげろうをつくる坂道の向こうに、広島原爆養護ホーム「矢野おりづる園」がある。ここに約100人の被爆者が暮らす。カーテン越しに午後の光がゆらぐ一室に、その人はいた。瞳の中に静かな威厳をまとう河野良雄さん(93)=副本部長。「せっかく来てもろたんじゃから、題目三唱しましょうかね」。その祈りは、初めて被爆体験を取材する記者に、何かを伝え託そうとする響きに思えた。(中国支社)
【広島市安芸区】かげろうをつくる坂道の向こうに、広島原爆養護ホーム「矢野おりづる園」がある。ここに約100人の被爆者が暮らす。カーテン越しに午後の光がゆらぐ一室に、その人はいた。瞳の中に静かな威厳をまとう河野良雄さん(93)=副本部長。「せっかく来てもろたんじゃから、題目三唱しましょうかね」。その祈りは、初めて被爆体験を取材する記者に、何かを伝え託そうとする響きに思えた。(中国支社)
河野さんの凜然たる題目が響く
河野さんの凜然たる題目が響く
部屋の中で肩を寄せ合うベッドや机。手の届くところに暮らしがある。河野さんが、いくつか聖教新聞の切り抜きを見せてくれた。ふいに93歳のまなざしが鋭くなった。戦争に言及する記事。80年前の追想に胸を染めながら、その手に怒りを握り締めていた。
1945年(昭和20年)8月6日。当時13歳の河野さんは学徒動員で広島電鉄の整備作業に向かった。午前8時の朝礼を終え、千田町(現・中区、爆心地から約1・4キロ)の持ち場に就こうとした時、強烈な閃光がさく裂し、爆風で吹き飛ばされた。「にごった黄色が、空にべったり広がりよった」
部屋の中で肩を寄せ合うベッドや机。手の届くところに暮らしがある。河野さんが、いくつか聖教新聞の切り抜きを見せてくれた。ふいに93歳のまなざしが鋭くなった。戦争に言及する記事。80年前の追想に胸を染めながら、その手に怒りを握り締めていた。
1945年(昭和20年)8月6日。当時13歳の河野さんは学徒動員で広島電鉄の整備作業に向かった。午前8時の朝礼を終え、千田町(現・中区、爆心地から約1・4キロ)の持ち場に就こうとした時、強烈な閃光がさく裂し、爆風で吹き飛ばされた。「にごった黄色が、空にべったり広がりよった」
「原爆ドームがああなるんじゃけえ、人間なんてひとたまりもないんよ」と河野さんは声を震わせた
「原爆ドームがああなるんじゃけえ、人間なんてひとたまりもないんよ」と河野さんは声を震わせた
河野さんは左半身の皮膚のただれに顔をゆがめながら、死と死のはざまを進んだ。わが子の名を叫ぶ母たちのうめきが鼓膜を揺らす。その声を拾う者は誰もいない。
郊外で一晩を明かし、翌朝、両親を捜しに爆心地から約1・1キロの広瀬北町(現・中区)へ向かった。焼け焦げた電車が横たわる。とっさに逃げようとしたのだろうか、ドア付近に黒焦げの遺体が重なっていた。悲痛な瞬間が時を止めていた。絶望の中を歩き続け、避難所で両親の姿を見つけた時、13歳の目には涙があふれた。
だが、悪夢は終わらない。被爆で内臓を侵された母は、1カ月もたたないうちに息を引き取った。父も原爆症の影響で翌年1月に亡くなった。「あの寂しさは、その時の人間でないと分からんよ」。河野さんは原爆孤児となった。
祖母の家で面倒を見てもらい、やけどの傷を癒やした。1年がたった頃から住み込みでクリーニング店に働き始めるが、重い倦怠感に襲われ、3日に一度は寝込んだ。体内で時限爆弾が静かに時を刻み続けているようで、死の気配におびえた。
孤独な歩みに、ひだまりがともったのは24歳の時。妻・弘子さん(故人)との結婚。食卓で向かい合い、「いただきます」に、ほほ笑みを返してくれる人がいる。胸がいっぱいになった。
弘子さんもまた地獄を知る一人だった。
河野さんは左半身の皮膚のただれに顔をゆがめながら、死と死のはざまを進んだ。わが子の名を叫ぶ母たちのうめきが鼓膜を揺らす。その声を拾う者は誰もいない。
郊外で一晩を明かし、翌朝、両親を捜しに爆心地から約1・1キロの広瀬北町(現・中区)へ向かった。焼け焦げた電車が横たわる。とっさに逃げようとしたのだろうか、ドア付近に黒焦げの遺体が重なっていた。悲痛な瞬間が時を止めていた。絶望の中を歩き続け、避難所で両親の姿を見つけた時、13歳の目には涙があふれた。
だが、悪夢は終わらない。被爆で内臓を侵された母は、1カ月もたたないうちに息を引き取った。父も原爆症の影響で翌年1月に亡くなった。「あの寂しさは、その時の人間でないと分からんよ」。河野さんは原爆孤児となった。
祖母の家で面倒を見てもらい、やけどの傷を癒やした。1年がたった頃から住み込みでクリーニング店に働き始めるが、重い倦怠感に襲われ、3日に一度は寝込んだ。体内で時限爆弾が静かに時を刻み続けているようで、死の気配におびえた。
孤独な歩みに、ひだまりがともったのは24歳の時。妻・弘子さん(故人)との結婚。食卓で向かい合い、「いただきます」に、ほほ笑みを返してくれる人がいる。胸がいっぱいになった。
弘子さんもまた地獄を知る一人だった。
「8月6日」の記憶をたどる。「ここでピカッとなったんじゃ」
「8月6日」の記憶をたどる。「ここでピカッとなったんじゃ」
●付きまとう原爆の影
●付きまとう原爆の影
弘子さんは、がれきの中に黒焦げの父を見つけ、原爆症で呼吸が細くなった。二度の流産を経て長女を授かるも、わが子への影響を思うと不安がぬぐえない。どこまでもあの日の影が付きまとう。
そんな夫婦の人生に「幸せ」という響きを運んでくれたのは、創価学会の女性だった。「祈りとしてかなわざるなし」。その言葉を信じたくなった。二人は58年に信心を始めた。
毎月はるばる京都から同志が来てくれ、御書を開いて「君らの将来は明るいぞ」と言い切ってくれる。その心に泣いた。「創価学会はええところじゃ」
弘子さんは、がれきの中に黒焦げの父を見つけ、原爆症で呼吸が細くなった。二度の流産を経て長女を授かるも、わが子への影響を思うと不安がぬぐえない。どこまでもあの日の影が付きまとう。
そんな夫婦の人生に「幸せ」という響きを運んでくれたのは、創価学会の女性だった。「祈りとしてかなわざるなし」。その言葉を信じたくなった。二人は58年に信心を始めた。
毎月はるばる京都から同志が来てくれ、御書を開いて「君らの将来は明るいぞ」と言い切ってくれる。その心に泣いた。「創価学会はええところじゃ」
妻・弘子さんと歩んだ平和旅。涙も喜びも分かち合った
妻・弘子さんと歩んだ平和旅。涙も喜びも分かち合った
ぐんぐん折伏に歩き、「二度と顔出すなや」と追い返されても、弘子さんは不動の信心を崩さなかった。体の不調と闘いながら、何があっても題目。どんな時でも池田先生。太陽の妻に引っ張られ、河野さんも池田先生の会長講演のレコードを携え、折伏に励んだ。
やがて枯れた大地を潤すように、夫婦の体はゆるやかに回復の道をたどった。仕事も安定した。河野さんは原爆症に苦しむ友の元を訪ね、「寝てばっかりの人生がこうなったんじゃけえ、御本尊に間違いはない」と、実証を語り歩いた。
75年の秋。聖教新聞を見つめる二人の目頭に、熱いものがにじんだ。池田先生が広島市の平和記念公園で献花をした記事が載っていた。
核兵器の使用を「悪魔」と断じた恩師・戸田先生の遺訓を片時も忘れず、不戦を叫び抜く池田先生。その平和の大闘士の背中を、河野さんは道しるべとした。
ぐんぐん折伏に歩き、「二度と顔出すなや」と追い返されても、弘子さんは不動の信心を崩さなかった。体の不調と闘いながら、何があっても題目。どんな時でも池田先生。太陽の妻に引っ張られ、河野さんも池田先生の会長講演のレコードを携え、折伏に励んだ。
やがて枯れた大地を潤すように、夫婦の体はゆるやかに回復の道をたどった。仕事も安定した。河野さんは原爆症に苦しむ友の元を訪ね、「寝てばっかりの人生がこうなったんじゃけえ、御本尊に間違いはない」と、実証を語り歩いた。
75年の秋。聖教新聞を見つめる二人の目頭に、熱いものがにじんだ。池田先生が広島市の平和記念公園で献花をした記事が載っていた。
核兵器の使用を「悪魔」と断じた恩師・戸田先生の遺訓を片時も忘れず、不戦を叫び抜く池田先生。その平和の大闘士の背中を、河野さんは道しるべとした。
「始めより終わりまで、いよいよ信心をいたすべし」(新2063・全1440)の御聖訓を胸に染める
「始めより終わりまで、いよいよ信心をいたすべし」(新2063・全1440)の御聖訓を胸に染める
長女・真理さん㊨、次女・美紀さん㊧と。外出許可をもらって久々の自宅。ステーキを食べ、ビールを飲んだ
長女・真理さん㊨、次女・美紀さん㊧と。外出許可をもらって久々の自宅。ステーキを食べ、ビールを飲んだ
●ただ一筋に師弟の道を
●ただ一筋に師弟の道を
二人の娘も健やかに成長し、毎日が感謝であふれた。そんな河野さん夫婦から、笑顔が消えた時期があった。池田先生の会長辞任(79年)。師の動きを制し、創価の絆を裂こうとする陰謀に、抑えきれない憤激を覚えた。
池田先生が思うように動けないならと、80年3月、東京で中国支部長会が開催され、河野さん夫婦も参加した。会合の途中「ご苦労さま」とやわらかい声がした。出席予定のなかった池田先生が会場に姿を見せたのだ。
会合で指導してはいけないと言われている中、池田先生は「屈しない魂があれば、それでいいんです」と、ピアノを弾いた。「泣かずにはおれんよ。これがわしらの師匠なんじゃって。誰にも壊せん師弟なんじゃって」
二人の娘も健やかに成長し、毎日が感謝であふれた。そんな河野さん夫婦から、笑顔が消えた時期があった。池田先生の会長辞任(79年)。師の動きを制し、創価の絆を裂こうとする陰謀に、抑えきれない憤激を覚えた。
池田先生が思うように動けないならと、80年3月、東京で中国支部長会が開催され、河野さん夫婦も参加した。会合の途中「ご苦労さま」とやわらかい声がした。出席予定のなかった池田先生が会場に姿を見せたのだ。
会合で指導してはいけないと言われている中、池田先生は「屈しない魂があれば、それでいいんです」と、ピアノを弾いた。「泣かずにはおれんよ。これがわしらの師匠なんじゃって。誰にも壊せん師弟なんじゃって」
午前中は「ゴールデンタイムじゃ」と、聖教新聞にくまなく目を通し、御書を研さんする河野さん。「まだまだ勉強することは、いっぱいあるよ」
午前中は「ゴールデンタイムじゃ」と、聖教新聞にくまなく目を通し、御書を研さんする河野さん。「まだまだ勉強することは、いっぱいあるよ」
ただ一筋に、師弟の道を歩いてきた。夏が来ると〈人類が犯した過ちを繰り返さぬために、何ができるか。祈りは誓いとなり行動となってこそ、真実の祈りである〉という池田先生の言葉を、自らに問いかけてきた。
町内会で「原爆の話をしてくれんかね」と頼まれ、集会所で命の記憶を語った。平和記念公園で語り部をし、修学旅行生に自らのやけどの痕を見せた。
原爆養護ホームに身を置く今でも、平和学習で訪れる中高生に「平和の土にしか、人間の幸せは咲かんよ」と、河野さんは語りかける。争いなき明日を願う言葉が、あの日の自分と同じ年頃の若い心に、そっと根を下ろしてゆく。
ただ一筋に、師弟の道を歩いてきた。夏が来ると〈人類が犯した過ちを繰り返さぬために、何ができるか。祈りは誓いとなり行動となってこそ、真実の祈りである〉という池田先生の言葉を、自らに問いかけてきた。
町内会で「原爆の話をしてくれんかね」と頼まれ、集会所で命の記憶を語った。平和記念公園で語り部をし、修学旅行生に自らのやけどの痕を見せた。
原爆養護ホームに身を置く今でも、平和学習で訪れる中高生に「平和の土にしか、人間の幸せは咲かんよ」と、河野さんは語りかける。争いなき明日を願う言葉が、あの日の自分と同じ年頃の若い心に、そっと根を下ろしてゆく。
矢野おりづる園の平均年齢は90歳を超す。被爆体験を語れる入所者も、そう多くはない。この6月、天皇、皇后両陛下が施設を訪れた際には、河野さんが懇談の席の先頭に座った。昨年には広島東洋カープの選手との餅つき交流があり、よいしょーと力強くきねを振り下ろし、歓声が沸いた。
「『法華宗の四条金吾』ならぬ、『おりづる園の河野良雄』とうたわれるよう、実証を示して最後のご奉公をしますよ」
やわらかな口調。でもその目は、戦う人のそれだった。河野さんは「平和とは、戦い勝ち取るもの」と何度も語った。
戦後80年。魂は屈していない。(博)
矢野おりづる園の平均年齢は90歳を超す。被爆体験を語れる入所者も、そう多くはない。この6月、天皇、皇后両陛下が施設を訪れた際には、河野さんが懇談の席の先頭に座った。昨年には広島東洋カープの選手との餅つき交流があり、よいしょーと力強くきねを振り下ろし、歓声が沸いた。
「『法華宗の四条金吾』ならぬ、『おりづる園の河野良雄』とうたわれるよう、実証を示して最後のご奉公をしますよ」
やわらかな口調。でもその目は、戦う人のそれだった。河野さんは「平和とは、戦い勝ち取るもの」と何度も語った。
戦後80年。魂は屈していない。(博)