【栃木県小山市】人呼んで“風車屋”。大塚利明さん(65)=副県長=が手掛けた高さ120メートルの風力発電の風車が、福岡県北九州市の北部・響灘の海上にある。40年以上、電子機器などの制御システムの開発・設計に生きてきた男は今、再生可能エネルギーの分野で平和への挑戦の一歩を踏み出した。
【栃木県小山市】人呼んで“風車屋”。大塚利明さん(65)=副県長=が手掛けた高さ120メートルの風力発電の風車が、福岡県北九州市の北部・響灘の海上にある。40年以上、電子機器などの制御システムの開発・設計に生きてきた男は今、再生可能エネルギーの分野で平和への挑戦の一歩を踏み出した。
小学校5年生の時、アマチュア無線の専門誌「CQ ham radio」を見ていた。ラジオの組み立てキットの広告に目が留まる。すぐに注文した。はんだごてで指をやけどしながら、パーツを組み立てていく。電源を入れ、音が出た時、小さな胸に「ものづくり」の灯がともった。
機械作りに没頭した10代。大学卒業後は、都内の電子機器メーカーに就職した。最初に配属された部署は、世界最小のファクシミリを開発していた。
大塚さんは、機械の“心臓部”といわれている電子回路の設計・開発を担当した。重要な部分だが作業は地味。組み上げた回路を1000回、10000回と実験を繰り返した。同僚たちが“音”を上げる中、大塚さんは失敗から得た“喜び”を感じた。
小学校5年生の時、アマチュア無線の専門誌「CQ ham radio」を見ていた。ラジオの組み立てキットの広告に目が留まる。すぐに注文した。はんだごてで指をやけどしながら、パーツを組み立てていく。電源を入れ、音が出た時、小さな胸に「ものづくり」の灯がともった。
機械作りに没頭した10代。大学卒業後は、都内の電子機器メーカーに就職した。最初に配属された部署は、世界最小のファクシミリを開発していた。
大塚さんは、機械の“心臓部”といわれている電子回路の設計・開発を担当した。重要な部分だが作業は地味。組み上げた回路を1000回、10000回と実験を繰り返した。同僚たちが“音”を上げる中、大塚さんは失敗から得た“喜び”を感じた。
雑草のように
雑草のように
世界の最先端技術を競っている匠の先輩たちは、“もし”とか“きっと”ではなく、緻密なデータでの裏付けを徹底していた。0・1ミリのずれも許さない、日本の「ものづくり」の魂をたたき込まれた。
3年後、ファクシミリの開発に成功し、チームは社長賞を受賞。いよいよ、これからだという時、故郷で暮らす母が認知症になった。小料理店を営み、一人で育ててくれた母。親孝行がしたかった。母は施設に入所したが、そばで支えるために、大塚さんは28歳で栃木へ戻った。
母を支える傍ら、技術畑で戦うプライドは持ち続けた。日進月歩の業界。“最新”がすぐに入れ替わっていく。
大塚さんもリストラに遭い、転職を余儀なくされた。向かい風にあっても、ひたすらに知識をつけ、技術者として高みを目指した。「御みやづかいを法華経とおぼしめせ」(新1719・全1295)の御金言をくさびにした。印刷機や冷凍庫、スキャナーなど熾烈な開発競争の“世界初”に幾度も携わった。
踏まれても、踏まれても、立ち上がってきた大塚さんを、周囲は「雑草のように、しぶとい」と言った。最大の褒め言葉だった。
世界の最先端技術を競っている匠の先輩たちは、“もし”とか“きっと”ではなく、緻密なデータでの裏付けを徹底していた。0・1ミリのずれも許さない、日本の「ものづくり」の魂をたたき込まれた。
3年後、ファクシミリの開発に成功し、チームは社長賞を受賞。いよいよ、これからだという時、故郷で暮らす母が認知症になった。小料理店を営み、一人で育ててくれた母。親孝行がしたかった。母は施設に入所したが、そばで支えるために、大塚さんは28歳で栃木へ戻った。
母を支える傍ら、技術畑で戦うプライドは持ち続けた。日進月歩の業界。“最新”がすぐに入れ替わっていく。
大塚さんもリストラに遭い、転職を余儀なくされた。向かい風にあっても、ひたすらに知識をつけ、技術者として高みを目指した。「御みやづかいを法華経とおぼしめせ」(新1719・全1295)の御金言をくさびにした。印刷機や冷凍庫、スキャナーなど熾烈な開発競争の“世界初”に幾度も携わった。
踏まれても、踏まれても、立ち上がってきた大塚さんを、周囲は「雑草のように、しぶとい」と言った。最大の褒め言葉だった。
平和への一助
平和への一助
2016年(平成28年)秋、浮体式洋上風力発電システムを開発する会社から声がかかった。日本の再生可能エネルギーの道を開く重要なプロジェクトでもあった。だが、大塚さんは迷っていた。別会社から好待遇で誘われていたから。
11月。妻・美智子さん(61)=県副女性部長=と勤行を終えた後、「どうしようか?」と聞かれた。とっさに口を突いて出た言葉は、「何があっても、広布のため、世界平和のため」。自分でも驚いた。ふと脳裏によぎったのは、池田先生との出会いだった。
10年4月、長男・伸明さん(34)=男子部員=の創価大学入学式に参加した。創立者・池田先生は、「平和と正義――そのための勉強です。そこに永遠の勝利がある」と教えてくれた。
師匠は平和のために戦っていた。大塚さんには、くすぶっていた思いがあった。エネルギー資源の利権争いなどで起こっている国際紛争。電子回路を作って培った経験や知識は、銃器の前では無力だと思っていた。しかし、地べたをはってつかんだ経験を“武器”に、新しい再生可能エネルギーを生み出すことができれば、紛争を止める平和への“一助”になるのではないかと考えた。国内では、まだ成功していない浮体式洋上風力発電システムの開発の道を選んだ。
2016年(平成28年)秋、浮体式洋上風力発電システムを開発する会社から声がかかった。日本の再生可能エネルギーの道を開く重要なプロジェクトでもあった。だが、大塚さんは迷っていた。別会社から好待遇で誘われていたから。
11月。妻・美智子さん(61)=県副女性部長=と勤行を終えた後、「どうしようか?」と聞かれた。とっさに口を突いて出た言葉は、「何があっても、広布のため、世界平和のため」。自分でも驚いた。ふと脳裏によぎったのは、池田先生との出会いだった。
10年4月、長男・伸明さん(34)=男子部員=の創価大学入学式に参加した。創立者・池田先生は、「平和と正義――そのための勉強です。そこに永遠の勝利がある」と教えてくれた。
師匠は平和のために戦っていた。大塚さんには、くすぶっていた思いがあった。エネルギー資源の利権争いなどで起こっている国際紛争。電子回路を作って培った経験や知識は、銃器の前では無力だと思っていた。しかし、地べたをはってつかんだ経験を“武器”に、新しい再生可能エネルギーを生み出すことができれば、紛争を止める平和への“一助”になるのではないかと考えた。国内では、まだ成功していない浮体式洋上風力発電システムの開発の道を選んだ。
どう受け止めるか
どう受け止めるか
さっそく、風車作りを任された。しかし、現実は逆風が吹き荒れていた。この前年、別の会社が風車の開発に失敗していた。
その原因を究明し、試行錯誤した。台風が多い日本の気候に合わせた2枚翼を採用し、小型の台船の上に搭載することにした。
18年秋、大塚さんは海上にいた。北九州市の陸地から15キロ離れた響灘で実験が始まった。
見上げた先には、全長100メートルの2枚翼が海風を受けていた。
起動スイッチを押すと、羽が傾き、風を真正面から受ける。力強い風切り音を立てながら、2枚の銀翼が勢いよく、青空を回り出した。目頭が熱くなった。
大塚さんは1年かけて、風車の稼働状況をチェックするため、工具を持参し、台船に乗り込んで、風車の点検・修理を行った。嵐の中でもやった。命懸けだった。そして、19年5月、実証実験を始め、本年4月、商業運転を開始することができた。
風車は、正面から風を受けるほどエネルギーが多くなる。逆に正面からずれるほど、エネルギーは減り、羽が破損することも。
大塚さんは「師弟のようだ」という。「師匠の励ましを弟子がどう受け止めるか。ぶれずに、逃げずに、真正面から受けるほど、力がみなぎってくるんです」
昨年12月、会社を立ち上げた。洋上風力の専門知識と経験で、多くの企業に貢献したいと思ったからだ。
今は、そよ風かもしれない。でも、いつか、平和への大風になると信じて――。
さっそく、風車作りを任された。しかし、現実は逆風が吹き荒れていた。この前年、別の会社が風車の開発に失敗していた。
その原因を究明し、試行錯誤した。台風が多い日本の気候に合わせた2枚翼を採用し、小型の台船の上に搭載することにした。
18年秋、大塚さんは海上にいた。北九州市の陸地から15キロ離れた響灘で実験が始まった。
見上げた先には、全長100メートルの2枚翼が海風を受けていた。
起動スイッチを押すと、羽が傾き、風を真正面から受ける。力強い風切り音を立てながら、2枚の銀翼が勢いよく、青空を回り出した。目頭が熱くなった。
大塚さんは1年かけて、風車の稼働状況をチェックするため、工具を持参し、台船に乗り込んで、風車の点検・修理を行った。嵐の中でもやった。命懸けだった。そして、19年5月、実証実験を始め、本年4月、商業運転を開始することができた。
風車は、正面から風を受けるほどエネルギーが多くなる。逆に正面からずれるほど、エネルギーは減り、羽が破損することも。
大塚さんは「師弟のようだ」という。「師匠の励ましを弟子がどう受け止めるか。ぶれずに、逃げずに、真正面から受けるほど、力がみなぎってくるんです」
昨年12月、会社を立ち上げた。洋上風力の専門知識と経験で、多くの企業に貢献したいと思ったからだ。
今は、そよ風かもしれない。でも、いつか、平和への大風になると信じて――。