〈飛翔への羅針盤〉 祈り――全てを勝ち開く力
〈飛翔への羅針盤〉 祈り――全てを勝ち開く力
2025年1月21日
「私はいかなる戦いにおいても、御本尊への強く深い祈りから出発した」――池田先生は語っています。東京の蒲田や文京、札幌、大阪、山口など、若き日の先生が未聞の金字塔を築いた、広布史に輝く闘争。その出発点には、常に“真剣な祈り”がありました。御書を拝して信心の姿勢を学ぶ新企画「飛翔への羅針盤」。今回は、「祈り」がテーマです。
「私はいかなる戦いにおいても、御本尊への強く深い祈りから出発した」――池田先生は語っています。東京の蒲田や文京、札幌、大阪、山口など、若き日の先生が未聞の金字塔を築いた、広布史に輝く闘争。その出発点には、常に“真剣な祈り”がありました。御書を拝して信心の姿勢を学ぶ新企画「飛翔への羅針盤」。今回は、「祈り」がテーマです。
生命を磨き上げる実践
生命を磨き上げる実践
私たち創価学会員の信仰実践の根幹とは何か。それは、日々の勤行・唱題です。
日蓮大聖人は「深く信心を発して、日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり」(新317・全384)と仰せです。
日夜、弛まず妙法を唱え抜く中で、生命が磨かれ、崩れざる幸福境涯を築けます。その喜びを語り広げることで、周囲をも、よりよく変革していけるのです。
まさに「一人」の人間革命から、自他共の幸福の輪は広がります。「祈り」こそ、広宣流布の一切の出発点なのです。
また、大聖人は、信心の姿勢について、「火のごとく信ずる人」「水のごとく信ずる人」を挙げられ、「水のごとくと申すは、いつもたいせず信ずるなり」(新1871・全1544)と仰せです。
一時的に燃え上がって消えるような「火の信心」ではなく、清流が絶えず流れ続けるような「水の信心」を――。
一年のスタートとなる1月。朝夕の勤行・唱題で自身の生活リズムを整えながら、清新な息吹で、人生と広布の、さらなる飛翔を共々に目指しましょう。
私たち創価学会員の信仰実践の根幹とは何か。それは、日々の勤行・唱題です。
日蓮大聖人は「深く信心を発して、日夜朝暮にまた懈らず磨くべし。いかようにしてか磨くべき。ただ南無妙法蓮華経と唱えたてまつるを、これをみがくとはいうなり」(新317・全384)と仰せです。
日夜、弛まず妙法を唱え抜く中で、生命が磨かれ、崩れざる幸福境涯を築けます。その喜びを語り広げることで、周囲をも、よりよく変革していけるのです。
まさに「一人」の人間革命から、自他共の幸福の輪は広がります。「祈り」こそ、広宣流布の一切の出発点なのです。
また、大聖人は、信心の姿勢について、「火のごとく信ずる人」「水のごとく信ずる人」を挙げられ、「水のごとくと申すは、いつもたいせず信ずるなり」(新1871・全1544)と仰せです。
一時的に燃え上がって消えるような「火の信心」ではなく、清流が絶えず流れ続けるような「水の信心」を――。
一年のスタートとなる1月。朝夕の勤行・唱題で自身の生活リズムを整えながら、清新な息吹で、人生と広布の、さらなる飛翔を共々に目指しましょう。
題目の功徳は無量無辺
題目の功徳は無量無辺
学会員が御本尊に向かって唱える題目に、どれほど偉大な力があるか。
日蓮大聖人は「ただ法華経の一字を唱えたる人の功徳」(新1643・全1199)について、仏の智慧をもってしても知ることはできず、ましてや、私たち凡夫が計り知れないほどであると示されています。たとえ一遍の題目でも、無量無辺の大功徳がある――まさに、「妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり」(新19・全13)です。
では、勤行・唱題の際に、経文の意味を分からずに読誦しても功徳はあるのでしょうか。
大聖人は、赤ん坊がお乳を飲めば、知らず知らずのうちに成長していくことに例えながら、“経典に通じていなくても、一字一句でも法華経を聞いた人は仏にならないわけがない”(新1421・全1046、趣意)と教えられています。心から御本尊を信じて、純真に祈りを重ねていく中で、必ず、福徳あふれる人生を歩んでいくことができるのです。
題目を唱え、仏の大生命力を顕す人に、断じて行き詰まりはありません。信心根本に自らの宿命に立ち向かい、幸福の実証を示す同志の無数の足跡が、そのことを何より物語っています。
学会員が御本尊に向かって唱える題目に、どれほど偉大な力があるか。
日蓮大聖人は「ただ法華経の一字を唱えたる人の功徳」(新1643・全1199)について、仏の智慧をもってしても知ることはできず、ましてや、私たち凡夫が計り知れないほどであると示されています。たとえ一遍の題目でも、無量無辺の大功徳がある――まさに、「妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり」(新19・全13)です。
では、勤行・唱題の際に、経文の意味を分からずに読誦しても功徳はあるのでしょうか。
大聖人は、赤ん坊がお乳を飲めば、知らず知らずのうちに成長していくことに例えながら、“経典に通じていなくても、一字一句でも法華経を聞いた人は仏にならないわけがない”(新1421・全1046、趣意)と教えられています。心から御本尊を信じて、純真に祈りを重ねていく中で、必ず、福徳あふれる人生を歩んでいくことができるのです。
題目を唱え、仏の大生命力を顕す人に、断じて行き詰まりはありません。信心根本に自らの宿命に立ち向かい、幸福の実証を示す同志の無数の足跡が、そのことを何より物語っています。
難こそ誉れの精神で
難こそ誉れの精神で
日蓮大聖人は「仏と提婆とは身と影とのごとし」「法華経の行者あらば、必ず三類の怨敵あるべし」(新111・全230)と仰せです。
広宣流布は、永遠に「仏と魔との闘争」です。滅後悪世に正法を弘通する者には、三類の強敵をはじめ、ありとあらゆる大難が起こると、法華経には説かれています。
「魔競わずば、正法と知るべからず」(新1479・全1087)。いわば迫害こそが、正法正義の証しとなるのです。
この“難こそ誉れ”の精神で、御本仏に直結して世界広布の大道を開いたのが、創価三代の師弟であり、なかんずく池田先生です。
御聖訓には「『吼』とは師弟共に唱うるところの音声なり」(新1043・全748)とあります。一切の魔軍を打ち破る無敵の師子吼。それが、師弟共戦の祈りです。
大聖人は「異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉るところを、生死一大事の血脈とは云うなり」(新1775・全1337)と仰せです。
師匠が掲げる広布の大誓願をわが誓願とし、同志と団結して祈り、行動を起こす。この麗しい創価のスクラムにこそ、最高の歓喜と功徳が脈打っていくのです。
日蓮大聖人は「仏と提婆とは身と影とのごとし」「法華経の行者あらば、必ず三類の怨敵あるべし」(新111・全230)と仰せです。
広宣流布は、永遠に「仏と魔との闘争」です。滅後悪世に正法を弘通する者には、三類の強敵をはじめ、ありとあらゆる大難が起こると、法華経には説かれています。
「魔競わずば、正法と知るべからず」(新1479・全1087)。いわば迫害こそが、正法正義の証しとなるのです。
この“難こそ誉れ”の精神で、御本仏に直結して世界広布の大道を開いたのが、創価三代の師弟であり、なかんずく池田先生です。
御聖訓には「『吼』とは師弟共に唱うるところの音声なり」(新1043・全748)とあります。一切の魔軍を打ち破る無敵の師子吼。それが、師弟共戦の祈りです。
大聖人は「異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉るところを、生死一大事の血脈とは云うなり」(新1775・全1337)と仰せです。
師匠が掲げる広布の大誓願をわが誓願とし、同志と団結して祈り、行動を起こす。この麗しい創価のスクラムにこそ、最高の歓喜と功徳が脈打っていくのです。
池田先生の指導から
池田先生の指導から
ひたぶるに、お題目を唱え、広宣流布に走り抜いていくんです。信心に行き詰まりはありません。私も、唱題第一で、ここまできました。
祈れば、自分が変わります。己心の仏の生命が開かれ、周囲の人も変えていくことができる。さらに、大宇宙が味方します。(小説『新・人間革命』第22巻「命宝」の章)
◇
「仏法は勝負」である。成仏できるか否かである。その勝負は、この一生で決まる。「一生成仏」の信心である。だから「頑張りなさい」というのである。
信心しぬいた人が最後の勝利者である。長い目で見れば、題目をあげきった人、行動しきった人には、誰人もかなわない。(『池田大作全集』第86巻)
◇
異体同心の信心で、皆が心を一つにして、一緒になって祈っていくことである。
皆で、破邪顕正の勝利を祈ることが、師子王の題目となる。皆で祈れば、広宣流布の歯車は、勢いを増して回転していく。
祈りこそが「最高の戦力」であり、「無限の闘争の力」なのである。(『池田大作全集』第93巻)
ひたぶるに、お題目を唱え、広宣流布に走り抜いていくんです。信心に行き詰まりはありません。私も、唱題第一で、ここまできました。
祈れば、自分が変わります。己心の仏の生命が開かれ、周囲の人も変えていくことができる。さらに、大宇宙が味方します。(小説『新・人間革命』第22巻「命宝」の章)
◇
「仏法は勝負」である。成仏できるか否かである。その勝負は、この一生で決まる。「一生成仏」の信心である。だから「頑張りなさい」というのである。
信心しぬいた人が最後の勝利者である。長い目で見れば、題目をあげきった人、行動しきった人には、誰人もかなわない。(『池田大作全集』第86巻)
◇
異体同心の信心で、皆が心を一つにして、一緒になって祈っていくことである。
皆で、破邪顕正の勝利を祈ることが、師子王の題目となる。皆で祈れば、広宣流布の歯車は、勢いを増して回転していく。
祈りこそが「最高の戦力」であり、「無限の闘争の力」なのである。(『池田大作全集』第93巻)