〈許すまじ核の爪――戦後80年 信仰体験〉 師に連なる 平和への闘争
〈許すまじ核の爪――戦後80年 信仰体験〉 師に連なる 平和への闘争
2025年8月19日
「蒼蠅、驥尾に附して万里を渡り」(新36・全26)と、土本さんは師を胸に語り続ける
「蒼蠅、驥尾に附して万里を渡り」(新36・全26)と、土本さんは師を胸に語り続ける
【広島市南区】静寂の中、せみしぐれが耳に染み入る。今月6日、広島平和記念式典が平和記念公園で開かれた。午前8時15分、黙禱。ざわめきが消え、木陰の下で、参列者たちがまぶたを閉じる。核兵器廃絶への思いを込めた平和の鐘が8度、夏の空へと放たれた。この日、被爆2世の土本英記さん(70)=副区長=は、市民代表の一人として献花した。
【広島市南区】静寂の中、せみしぐれが耳に染み入る。今月6日、広島平和記念式典が平和記念公園で開かれた。午前8時15分、黙禱。ざわめきが消え、木陰の下で、参列者たちがまぶたを閉じる。核兵器廃絶への思いを込めた平和の鐘が8度、夏の空へと放たれた。この日、被爆2世の土本英記さん(70)=副区長=は、市民代表の一人として献花した。
原爆投下から10年後の1955年(昭和30年)、土本さんは広島に生まれた。
復興のつち音が響く一方で、まだ防空壕を住まいにする人もいた。
土本さんは、自身が被爆2世であることを特に意識もせず成長していった。
物心ついた時から、母・幸枝さん(故人)が被爆者健康手帳を持っていることは知っていた。だが「母は、あの日のことを一つも語ろうとせんかった」。
体を折り曲げて苦しむ母の姿を何度も見ている。月のものが訪れるたびに「畳の目が見えなくなるほど」もだえていた。
そんな幸枝さんの健康を願い、父が創価学会に入会。62年に土本さんも幸枝さんと続いた。
土本さんは大学進学で上京。74年10月の池田先生との記念撮影では、師の偉大さと優しさに心を震わせ、「知性の師子になろう」と向学心を燃やす。
原爆投下から10年後の1955年(昭和30年)、土本さんは広島に生まれた。
復興のつち音が響く一方で、まだ防空壕を住まいにする人もいた。
土本さんは、自身が被爆2世であることを特に意識もせず成長していった。
物心ついた時から、母・幸枝さん(故人)が被爆者健康手帳を持っていることは知っていた。だが「母は、あの日のことを一つも語ろうとせんかった」。
体を折り曲げて苦しむ母の姿を何度も見ている。月のものが訪れるたびに「畳の目が見えなくなるほど」もだえていた。
そんな幸枝さんの健康を願い、父が創価学会に入会。62年に土本さんも幸枝さんと続いた。
土本さんは大学進学で上京。74年10月の池田先生との記念撮影では、師の偉大さと優しさに心を震わせ、「知性の師子になろう」と向学心を燃やす。
創価大学で行われた池田先生との記念撮影の写真
創価大学で行われた池田先生との記念撮影の写真
1級建築士となり、広島の設計事務所で働いた。29歳で妻・由美子さん(71)=女性部副本部長=と結婚し、3人の子宝に恵まれた。
99年(平成11年)、職場が倒産の危機に陥る。広布に戦うほど「池田先生をそばに感じられたんですよね」。
抱えている仕事をやり切って解雇された。由美子さんは「また一から始めればいいんよ」と笑顔で支えてくれた。
大手企業から採用を勝ち取った40代。土本さんは堅実に感謝の歳月を重ね、いよいよ還暦に手が届きそうな頃だった。
戦争のことは固く口をつぐんできた幸枝さんが、初めて原爆のことを語り始めた。あの日、きのこ雲の下で何があったのか。
土本さんは「被爆2世」としての人生が浮き上がってくるのを感じた。
1級建築士となり、広島の設計事務所で働いた。29歳で妻・由美子さん(71)=女性部副本部長=と結婚し、3人の子宝に恵まれた。
99年(平成11年)、職場が倒産の危機に陥る。広布に戦うほど「池田先生をそばに感じられたんですよね」。
抱えている仕事をやり切って解雇された。由美子さんは「また一から始めればいいんよ」と笑顔で支えてくれた。
大手企業から採用を勝ち取った40代。土本さんは堅実に感謝の歳月を重ね、いよいよ還暦に手が届きそうな頃だった。
戦争のことは固く口をつぐんできた幸枝さんが、初めて原爆のことを語り始めた。あの日、きのこ雲の下で何があったのか。
土本さんは「被爆2世」としての人生が浮き上がってくるのを感じた。
母・幸枝さんの写真。亡くなる直前、土本さんが病室でミカンを渡すと「体を起こして、おいしそうに食べてくれた」
母・幸枝さんの写真。亡くなる直前、土本さんが病室でミカンを渡すと「体を起こして、おいしそうに食べてくれた」
●9歳だった母は耳をふさいでイモ畑に伏せた
●9歳だった母は耳をふさいでイモ畑に伏せた
当時9歳だった幸枝さんは、爆心地から3キロのイモ畑にいた。
空を見上げると、爆撃機の尾翼の辺りから何かが落とされるのが見えた気がした。とっさに目を閉じ、耳をふさいでイモ畑に伏せた。原爆が炸裂した。
幸枝さんは無傷だった。
やけどで全身の皮がむけ、真っ赤な肌の人の介抱に加わった。懸命に看病しても、体に紫斑が出た人は、翌日には息絶えた。
薬の代わりに、キュウリの搾り汁やごま油を脱脂綿につけて、やけど傷に塗った。あまりの惨状に「怖いとか、かわいそうという感情は、無くなっていた」と話した。
幸枝さんは原爆症の肺線維症でせき込む日が続く。慢性肝炎にもなり、「地の底に引き込まれるようなだるさ」で家事に立つこともままならなかった。
新しい命を身ごもった時は、喜びよりも不安が大きかったという。
「被爆者からは奇形児が生まれる」とか「死産で真っ黒い子が出てきた」という、うわさが立っていた当時。
出産の日、「元気な男の子です。異常はありませんよ」と聞き、幸枝さんは声を上げて泣いた。
当時9歳だった幸枝さんは、爆心地から3キロのイモ畑にいた。
空を見上げると、爆撃機の尾翼の辺りから何かが落とされるのが見えた気がした。とっさに目を閉じ、耳をふさいでイモ畑に伏せた。原爆が炸裂した。
幸枝さんは無傷だった。
やけどで全身の皮がむけ、真っ赤な肌の人の介抱に加わった。懸命に看病しても、体に紫斑が出た人は、翌日には息絶えた。
薬の代わりに、キュウリの搾り汁やごま油を脱脂綿につけて、やけど傷に塗った。あまりの惨状に「怖いとか、かわいそうという感情は、無くなっていた」と話した。
幸枝さんは原爆症の肺線維症でせき込む日が続く。慢性肝炎にもなり、「地の底に引き込まれるようなだるさ」で家事に立つこともままならなかった。
新しい命を身ごもった時は、喜びよりも不安が大きかったという。
「被爆者からは奇形児が生まれる」とか「死産で真っ黒い子が出てきた」という、うわさが立っていた当時。
出産の日、「元気な男の子です。異常はありませんよ」と聞き、幸枝さんは声を上げて泣いた。
土本さんはウクライナ侵攻に話が及んだ時、涙を流しながら言葉を紡いだ
土本さんはウクライナ侵攻に話が及んだ時、涙を流しながら言葉を紡いだ
土本さんは、自分がそうやって生まれてきたことを初めて知り、涙が止まらなかった。同時に、母を追い詰めた原爆への怒りが、せり上がる。
「伝えていかなかったら、戦争が無かったことにされてしまうんだ」
胸に去来したのは、池田先生が広島市の平和記念公園の慰霊碑の前に立つ姿だった(75年)。先生はどれほどの思いで広島に来られたのだろう。土本さんは小説『新・人間革命』を開いた。
〈平和への闘争なくして、広島を訪ねることはできないと思っています。それが戸田先生に対する弟子の誓いなんです〉。心に響いた。
土本さんは、自分がそうやって生まれてきたことを初めて知り、涙が止まらなかった。同時に、母を追い詰めた原爆への怒りが、せり上がる。
「伝えていかなかったら、戦争が無かったことにされてしまうんだ」
胸に去来したのは、池田先生が広島市の平和記念公園の慰霊碑の前に立つ姿だった(75年)。先生はどれほどの思いで広島に来られたのだろう。土本さんは小説『新・人間革命』を開いた。
〈平和への闘争なくして、広島を訪ねることはできないと思っています。それが戸田先生に対する弟子の誓いなんです〉。心に響いた。
土本さん㊨はどんな時も妻の由美子さんの題目に包まれてきた
土本さん㊨はどんな時も妻の由美子さんの題目に包まれてきた
戸田先生は核兵器を絶対悪と断じた「原水爆禁止宣言」の2カ月後、池田先生に「死んでも俺を、広島に行かせてくれ」と頼んだ。
池田先生は涙ながらに、止めた。
「身体の衰弱は極に達し
行かば――
己が身の死するは必定
心より 心より 懸念する私を
恩師は毅然として叱責された」
(長編詩『平和のドーム 凱旋の歌声』から)
ここに広島の魂を感じた。
平和への闘争なくして、池田先生に連なることはできない。母がそうだった。地域貢献のためにと、公園の清掃活動を15年以上も継続していた。
被爆体験伝承者(被爆者の戦争体験などを受け継ぎ、語り伝える人)になると決めた。
戸田先生は核兵器を絶対悪と断じた「原水爆禁止宣言」の2カ月後、池田先生に「死んでも俺を、広島に行かせてくれ」と頼んだ。
池田先生は涙ながらに、止めた。
「身体の衰弱は極に達し
行かば――
己が身の死するは必定
心より 心より 懸念する私を
恩師は毅然として叱責された」
(長編詩『平和のドーム 凱旋の歌声』から)
ここに広島の魂を感じた。
平和への闘争なくして、池田先生に連なることはできない。母がそうだった。地域貢献のためにと、公園の清掃活動を15年以上も継続していた。
被爆体験伝承者(被爆者の戦争体験などを受け継ぎ、語り伝える人)になると決めた。
6日夜には平和祈念公園の元安川で「とうろう流し」が行われていた
6日夜には平和祈念公園の元安川で「とうろう流し」が行われていた
●広島の魂「命ある限り、世界平和と核兵器廃絶を諦めません」
●広島の魂「命ある限り、世界平和と核兵器廃絶を諦めません」
66歳で仕事を退職。
2年間の研修で、3人の被爆体験を聞かせてもらった。家族の亡きがらを、幼い手で火葬した話。「生半可な気持ちでは聞けやせんよ」。
慟哭の記憶に胸をきしませながら、題目を重ねに重ねた。
2年前から伝承者として講話に立つようになったが、戸惑いもある。
原爆の当事者ではない自分が、被爆者の思いを正しく届けられているのか。だが母を思うと、ちゅうちょしている場合ではなかった。
幸枝さんは四六時中、肩で息をしていた。胃がんの手術をしたが、手術痕がただれて、なかなかふさがらず、湯船に何年も漬かれないし、粗いタオルも使えなかった。
被爆の怖さに怒りが抑えられない。
66歳で仕事を退職。
2年間の研修で、3人の被爆体験を聞かせてもらった。家族の亡きがらを、幼い手で火葬した話。「生半可な気持ちでは聞けやせんよ」。
慟哭の記憶に胸をきしませながら、題目を重ねに重ねた。
2年前から伝承者として講話に立つようになったが、戸惑いもある。
原爆の当事者ではない自分が、被爆者の思いを正しく届けられているのか。だが母を思うと、ちゅうちょしている場合ではなかった。
幸枝さんは四六時中、肩で息をしていた。胃がんの手術をしたが、手術痕がただれて、なかなかふさがらず、湯船に何年も漬かれないし、粗いタオルも使えなかった。
被爆の怖さに怒りが抑えられない。
取材中、にぎやかなお客さんがやってきた(左から孫の希美ちゃん、土本さん、孫の彩美ちゃん、娘の聡子さん)
取材中、にぎやかなお客さんがやってきた(左から孫の希美ちゃん、土本さん、孫の彩美ちゃん、娘の聡子さん)
土本さんは母の代弁者として、声を上げ続けた。
「命がある限り、世界平和と核兵器廃絶を諦めません」
感極まってハンカチを目に当てたことも。ある日、講話を聞いた中学生から便りが届いた。
〈無差別に人々を巻き込む戦争に、私は反対し続けたいと思います〉。未来へつながる希望を感じた。
戦後80年となり、生存する被爆者が10万人を下回った。記憶の風化が懸念される。
幸枝さんは生前の手記につづっている。
〈核兵器のない世界へ、自分にできることを踏み出してください〉と。
土本さんは口を真一文字に結び、献花台に立った。母を思い、師を思った。
核は絶対に許さない。その燃えるような決意は、核の力より強い。
土本さんは母の代弁者として、声を上げ続けた。
「命がある限り、世界平和と核兵器廃絶を諦めません」
感極まってハンカチを目に当てたことも。ある日、講話を聞いた中学生から便りが届いた。
〈無差別に人々を巻き込む戦争に、私は反対し続けたいと思います〉。未来へつながる希望を感じた。
戦後80年となり、生存する被爆者が10万人を下回った。記憶の風化が懸念される。
幸枝さんは生前の手記につづっている。
〈核兵器のない世界へ、自分にできることを踏み出してください〉と。
土本さんは口を真一文字に結び、献花台に立った。母を思い、師を思った。
核は絶対に許さない。その燃えるような決意は、核の力より強い。