• ルビ
  • 音声読み上げ
  • シェア
  • メール
  • CLOSE

〈ストーリーズⅡ 池田先生の希望の励まし〉第13回 無名の庶民が一番強い 2025年5月25日

  • 今日も、そして、明日も。また、今日も、そして、明日も。
  • 「自ら動こう」「自ら出会おう」「自ら語ろう」
  • ここにこそ人間としての正道がある
1995年5月17日に行われた本部幹部会は、中部訪問100回目を飾る中部総会となった。スピーチの後も、「幸福になるのは間違いないよ。みんな、ありがとう」と参加者に語る池田先生(中部文化会館〈当時〉で)
1995年5月17日に行われた本部幹部会は、中部訪問100回目を飾る中部総会となった。スピーチの後も、「幸福になるのは間違いないよ。みんな、ありがとう」と参加者に語る池田先生(中部文化会館〈当時〉で)
 
「お二人のことは、一生、忘れません」

 中部への100回目の訪問を飾る光景だった。1995年5月17日、中部総会を兼ねた本部幹部会。スピーチを終えた池田大作先生が、会場の後方脇にいた高齢の友に呼びかけた。
 「後ろのおばあちゃんとおじいちゃん、どうぞ、こちらへ」
 促されて壇上に上がったのは、中部広布の草創期から戦ってきた副支部長と副ブロック担当員(当時)。椅子に腰掛けた二人に先生が語った。
 「お元気で、生きて生きて、生き抜いてください」「お二人のことは、一生、忘れません」
 この日、開会前に中部婦人部(当時)の書記長として登壇した藤野和子さん。その様子が胸に残っている。
 「大勢の参加者の中で、地道に真っすぐに広布に生きてこられた方を、先生は見つけられ、励まされたんだと感動しました」
 壇上に呼ばれた女性の娘には障がいがあった。女性は離婚を経験。紡績工場で働いた。創価学会に入会し、悲嘆を希望に変えてきた。
 後年、藤野さんが女性の家を訪問した折、彼女は80歳を超えてなお、『池田大作全集』を熱心に学んでいた。
 「おばあちゃん、そんなに勉強して、来世はきっと博士だね」。藤野さんが言うと、こう返ってきた。
 「いや、博士じゃなくて、わしは来世は“支部婦人部長”になって、みんなの世話をしたいんやわ」
 普段から心を配り、励ましてくれる友への感謝が光っていた。関わりが深い地元の支部婦人部長には障がいがあった。片腕を失った悲哀を乗り越え、献身の日々を送っていた。
 池田先生は語っている。
 「『草の根』の庶民は強い。無名の庶民も、いちばん強い。虚栄の人間は、強そうに見えて、じつは弱い。弱い自分を強く見せようと汲々としているのが虚栄だからであります。本当に強いのは庶民です。信仰をもった人間、信念をもった人間です」
 「見栄や虚栄など、かなぐり捨てた、ありのままの人間。大目的をもった人間。正義を抱いた人間――その人の生命は、どれほど強い光を放っていることか。その人こそ、見栄っ張りの人間たちの、千倍、万倍の力を持っているのであります」

中部総会で、功労の友を壇上に招き、語りかける池田先生(1995年5月17日、中部文化会館〈当時〉で)
中部総会で、功労の友を壇上に招き、語りかける池田先生(1995年5月17日、中部文化会館〈当時〉で)
本部幹部会の折、藤野さん(手前中央)はじめ、女性部の友をたたえる池田先生(2001年1月7日、東京牧口記念会館で)
本部幹部会の折、藤野さん(手前中央)はじめ、女性部の友をたたえる池田先生(2001年1月7日、東京牧口記念会館で)
 
底抜けに明るく生きる

 藤野さんは1949年、名古屋に生まれた。家業は3代続いた鉄工業。だが、高校時代に倒産。家には「差し押さえ」の紙が張られた。
 藤野さんは家計を心配し、通っていた私立の一貫校を辞め、定時制高校へと転校した。66年、家族に続いて入会。最初は反発したが、「母への親孝行として」一歩を踏み出した。
 和菓子店に住み込みで働き、高校へ通う。家に戻った後は、父の営む工場でトラックを運転した。激動の青春だったが、ドラマを演じるように楽しむ気持ちがあった。
 70年5月、言論・出版問題の渦中で行われた本部総会。藤野さんは、池田先生の学会を守る烈々たる気迫に涙を流す。決意を深め、活動に励んだ。
 25歳で結婚。新たな生活は、胸に描いたものとは違った。義父母と同居。3年目には義母がくも膜下出血で倒れ、寝たきりに。介護と子育てに追われる毎日。藤野さんはストレスから、胆汁逆流性胃炎、十二指腸潰瘍も患った。
 「なんで私ばかりが」と逃げ出したくなる時もあった。それでも、祈り続けた。ある日、ふと心に浮かんだ。
 ――お義母さんとの出会いは、単に夫の母だからなのか。いや、過去世ではきっと、私の恩人だったんだ。今世でのこうした介護は、恩返しなのではないか。
 そう思えた時、介護に向き合う覚悟が変わった。多忙な日々は変わらなかったが、充実があった。
 88年のある日、中部文化会館(当時)にいた藤野さんに、香峯子夫人が声をかけ、家の様子を尋ねた。
 「子どもも大きくなりましたので、皆に守られてやっております」。藤野さんの言葉に続いて、婦人部の先輩が「彼女のお義母さんは10年間、寝たきりで」と。藤野さんは「でも、とっても明るくて、“ベッドの上の青春”のようなおばあちゃんです」と加えた。
 そのことを聞いた池田先生は、“ベッドの上の青春のおばあちゃんに人生の勝利あれ!”との心を込め、励ましの言葉を送った。義母は、さらに生き生きと毎日を送るようになった。
 先生は、藤野さんと義母の様子を通して、後にこう語っている。
 「たとえ動けなく、寝たきりになっても、信心が健康であれば幸福の境涯は揺るぐことはない。心の勝利こそ、人生の勝利です」
 義母が逝去してから5年が過ぎた98年、藤野さんは中部婦人部長の任命を受けた。池田先生の真心に何度も触れた。師の薫陶を胸に、自らの人間革命に挑む日々を重ねた。
 「どんな立場であっても、ありのままの自分であること。地域に愛される人間であること。“生涯、人を励ませる庶民でありたい”と思っています」
 中部訪問100回目の本部幹部会で、池田先生は語った。
 「今日も、そして、明日も。また、今日も、そして、明日も。『自ら動こう』『自ら出会おう』『自ら語ろう』。これこそ、釈尊の行動であった。ここにこそ人間としての正道があり、真実の仏法者の誉れがある。これが、創価学会の『前進のリズム』である」
 藤野さんはかつて「底抜けに明るく生きること」と先生から激励を受けた。使命のこの道で「前進のリズム」を朗らかに刻んでいる。

名古屋城を望む名城公園を訪れた池田先生ご夫妻(1995年5月18日)
名古屋城を望む名城公園を訪れた池田先生ご夫妻(1995年5月18日)
 
人間同士の命の絆

 東京の下町・台東区にも、池田先生と歩んだ庶民の歴史がある。広田嘉子さんは1940年、この地で生まれた。父は娘の誕生を見ぬまま、戦地に出征し、帰らぬ人となった。
 45年3月10日の東京大空襲の時、4歳の広田さんは、はしかを患った体を母に背負われて逃げた。隅田川にかかる厩橋を渡った時、橋の上から多くの人が、川に飛び込んでいたことを今でも覚えている。
 避難先の小学校では門を閉ざされ、中に入れてもらえなかった。母娘は逃げ続けた。後日、閉め出された学校が炎に包まれたことを知った。
 「母は、私だけを疎開させることを拒んでいました。『親一人子一人。死ぬ時は一緒だ』と言っていました」。戦火の中、母の背で助かった命だった。
 戦後、岡山の倉敷へ。見習いとして母は髪結いの仕事を始めた。父の戦死に対する補償は、正式な婚姻届がなかったため支払われなかった。幼い広田さんは、板張りの台所で母と身を寄せ合いながら眠った。
 後に東京へ戻り、台東区・浅草に美容室を構える。最初は閑古鳥が鳴いた。そんな時、母が顧客に誘われて座談会に参加し、53年に入会。
 だが、広田さんの信心への反発心は強かった。転機は、座談会場となっていた自宅のふすま越しに聞いた女子部員の体験。信心で自身の変革に挑み、周囲から「変わったね」と言われるようになった、という内容だった。広田さんは“信心って、そんなに変われるの?”と心が動いた。“私もやってみようかな”と思った。58年に入会する。
 そこから素直に学会活動に励んだ。女子部役職の任命も受けた。66年6月10日、学会本部(当時)で行われた女子部懇談会で、池田先生に母との歩みを報告する機会があった。
 「あなたのことはよく知っているよ」。先生の言葉に驚き、「ありがとうございます」と頭を下げた。
 思い返せば、台東体育館の入り口で役員として先生を迎えた時、「ご苦労さま」と声をかけられた。一瞬の出会いも胸中に刻む師の真心に、「応えていこう」と心の底から決意した。
 先生は懇談会で、“雪だってしんしんと、一夜明けると降り積もっているじゃないか。何ごとも一気にできるものじゃない。水のように弛まず活動していくことが大事だよ”と。「雪山」と記した色紙も贈られた。
 自宅に戻って見せると、母は何度も「よかった、よかった」と涙をこぼした。戦時中も、戦後も、苦しい日々を生き抜いた母が、やっと報われたような思いだった。
 やがて、広田さんは台東区の婦人部長に。78年5月14日、池田先生が鹿児島・霧島の九州研修道場(当時)を訪問。この日、広島と台東区の代表が同研修道場に集った。
 「一緒に食事を囲み、歌を披露しました。その折、先生は『学会の師弟は、人間同士の命の絆なんだ』と語ってくださいました。『この精神を忘れないで。絶対に退転するな』と」
 それから半年後、学会創立記念日である11月18日、先生は台東の同志宅へ。懇談の場で、「ここにいる皆さんのおかげで、学会はここまで来られた」と感謝を述べ、「これからも広宣流布を成し遂げるまで、私は頑張るよ。だからそのために、私の命は永らえているんだよ」と語った。
 師の甚深の思いを聞き、広田さんは何があっても共に戦おうと決意する。翌79年4月24日、先生が第3代会長を辞任した時も、その誓いは微動だにしなかった。
 同年7月、先生は落成して1カ月の台東文化会館を初めて訪れた。第1次宗門事件の渦中での師の台東訪問は、広田さんの宝の原点だ。
 85年6月18日、先生は代表メンバーとの懇談で、「和楽の台東」との指針を示した。広田さんは、その実現を目指して、一人また一人と対話の花を咲かせてきた。
 その歩みを重ねて20年目の2004年1月、広田さんを病魔が襲う。悪性脳腫瘍が見つかり、12時間に及ぶ手術を受けた。手術は無事に成功。
 3月16日、先生に全快の報告をしたためた。先生から伝言が届いた。
 「よかったね、本当に、よかったね。万歳、万歳、万歳、万歳」
 師の“万歳四唱”から21星霜――。東京凱歌を目指し、広田さんは各地を駆け巡っている。

台東区代表者会の終了後、池田先生が会場内に設けられた手づくりの“下町コーナー”へ。「いらっしゃいませ!」と喜びに満ちた友の声が響く。先生は一人一人に感謝とねぎらいの言葉をかけて回った(1984年12月15日、同区内で)
台東区代表者会の終了後、池田先生が会場内に設けられた手づくりの“下町コーナー”へ。「いらっしゃいませ!」と喜びに満ちた友の声が響く。先生は一人一人に感謝とねぎらいの言葉をかけて回った(1984年12月15日、同区内で)
1980年5月23日、池田先生が台東文化会館を訪れ、広田さん(左から2人目)ら友と懇談を。笑顔の輪が広がった
1980年5月23日、池田先生が台東文化会館を訪れ、広田さん(左から2人目)ら友と懇談を。笑顔の輪が広がった

 
ご意見・ご感想をお寄せください
 【メール】 history@seikyo-np.jp
 【ファクス】 03-5360-9618

動画

SDGs✕SEIKYO

SDGs✕SEIKYO

連載まとめ

連載まとめ

Seikyo Gift

Seikyo Gift

聖教ブックストア

聖教ブックストア

デジタル特集

DIGITAL FEATURE ARTICLES デジタル特集

YOUTH

劇画

劇画
  • HUMAN REVOLUTION 人間革命検索
  • CLIP クリップ
  • VOICE SERVICE 音声
  • HOW TO USE 聖教電子版の使い方
PAGE TOP