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〈黄金の師弟旅〉第28回 三重・津市
〈黄金の師弟旅〉第28回 三重・津市
2026年5月15日
津市白山町に広がる、のどかな田園風景(1997年5月、池田先生撮影)
津市白山町に広がる、のどかな田園風景(1997年5月、池田先生撮影)
戦う信心に大生命力が湧く
戦う信心に大生命力が湧く
三重県の県都・津市。古くは「安濃津」と呼ばれ、「日本三津」の一つに数えられた歴史ある港町だ。
平安時代、清少納言は『枕草子』に市内の榊原温泉を「ななくりの湯」として記したといわれる。豊かな自然が訪れる人に四季の移ろいを伝える。
池田先生は津市白山町にたたずむ三重研修道場を11度、訪問している。同研修道場がオープンしたのは、1976年(昭和51年)7月3日。今年は50周年である。
建設予定地には深い沼地があった。その整備に取り組んだのが青年部だった。泥だらけになりながら埋め立て作業に没頭した。同研修道場は、青年部の真心によって完成したのである。
オープンから20日後の7月23日、池田先生が初訪問。到着するや、「いい所だね。きょうを『三重蘇生の日』にしよう!」と提案した。「蘇生」の二文字は、伊勢湾台風や言論・出版問題など、幾多の苦難を勝ち越えてきた友の大きな希望となった。
78年(同53年)4月23日、研修道場内で「三重文化合唱祭」が開催された。宗門の悪侶らによる広布破壊の謀略が吹き荒れていた時だった。婦人部(当時)の青空合唱団が歌う予定だった「今日も元気で」は、“宗門を刺激しないように”と直前になって中止になった。
“私たちの思いがこもった歌を、どうして歌ってはいけないのか”――その率直な思いを、三重婦人部のリーダーは、先生との懇談の場で訴えた。
先生は“どうして学会歌を歌ってはいけないんだ。堂々と歌えばいいんだよ”と。即座に合唱団の友に、「今日も元気で」が歌えるようになったことが伝えられた。皆、手を取り合い、涙を流して喜び合った。
この時のことは、小説『新・人間革命』第27巻「正義」の章に詳しい。先生は同章に記した。
「学会の根幹をなすのは、崇高な師弟の精神である。それは、いかに批判されようが、時代がどんなに変わろうが、絶対に変わってはならない“創価の魂”である。広宣流布の大潮流も、この師弟という生命の脈動から生まれるのである」
合唱祭では、青空合唱団の歌声が高らかに会場に響き渡った。全ての演目が終了すると、先生は“大楠公”や「さくらさくら」などをピアノで弾き、友の健闘をたたえた。
合唱祭から14年がたった92年(平成4年)4月26日、中部池田記念講堂で行われた本部幹部会の席上、先生は語った。
「昭和53年4月23日、三重で大合唱祭が行われた。毅然と立って、堂々と歌いに歌った民衆の祭典――本当に見事であった。なかんずく、婦人部の皆さまが歌ってくださった『今日も元気で』の歌声を、私は一生涯、忘れることはできない」
森ひとみさん(三重万葉県、県総合女性部長)は、合唱祭に役員として参加した。「生涯、先生と共に広布の道を」――その日に刻んだ誓いは、今も胸に鮮やかだ。
専門学校を卒業後、歯科技工士として働き始めた。25歳で歯科医師の夫と結婚。3人の娘にも恵まれた。ところが、夫の勤務先の医療法人が倒産。連帯保証人として多額の負債を負ってしまう。森さんは強盛に祈り、宿命転換を決意する。
夫は新たな歯科医院を開業し、森さんは家計を支えた。学会活動にも挑んだ。経営は軌道に乗り、経済的に安定した日々を送れるようになった。
森さんはこれまでに23人の友に弘教を実らせている。娘たちの病や不登校など、幾つもの試練があった。その全てを、信心で勝ち越えた。
今、6月に行われる教学部任用試験に向けて、6人の友人と一緒に研さんの汗を流す。森さんの心には、信心の歓喜が光っている。
三重県の県都・津市。古くは「安濃津」と呼ばれ、「日本三津」の一つに数えられた歴史ある港町だ。
平安時代、清少納言は『枕草子』に市内の榊原温泉を「ななくりの湯」として記したといわれる。豊かな自然が訪れる人に四季の移ろいを伝える。
池田先生は津市白山町にたたずむ三重研修道場を11度、訪問している。同研修道場がオープンしたのは、1976年(昭和51年)7月3日。今年は50周年である。
建設予定地には深い沼地があった。その整備に取り組んだのが青年部だった。泥だらけになりながら埋め立て作業に没頭した。同研修道場は、青年部の真心によって完成したのである。
オープンから20日後の7月23日、池田先生が初訪問。到着するや、「いい所だね。きょうを『三重蘇生の日』にしよう!」と提案した。「蘇生」の二文字は、伊勢湾台風や言論・出版問題など、幾多の苦難を勝ち越えてきた友の大きな希望となった。
78年(同53年)4月23日、研修道場内で「三重文化合唱祭」が開催された。宗門の悪侶らによる広布破壊の謀略が吹き荒れていた時だった。婦人部(当時)の青空合唱団が歌う予定だった「今日も元気で」は、“宗門を刺激しないように”と直前になって中止になった。
“私たちの思いがこもった歌を、どうして歌ってはいけないのか”――その率直な思いを、三重婦人部のリーダーは、先生との懇談の場で訴えた。
先生は“どうして学会歌を歌ってはいけないんだ。堂々と歌えばいいんだよ”と。即座に合唱団の友に、「今日も元気で」が歌えるようになったことが伝えられた。皆、手を取り合い、涙を流して喜び合った。
この時のことは、小説『新・人間革命』第27巻「正義」の章に詳しい。先生は同章に記した。
「学会の根幹をなすのは、崇高な師弟の精神である。それは、いかに批判されようが、時代がどんなに変わろうが、絶対に変わってはならない“創価の魂”である。広宣流布の大潮流も、この師弟という生命の脈動から生まれるのである」
合唱祭では、青空合唱団の歌声が高らかに会場に響き渡った。全ての演目が終了すると、先生は“大楠公”や「さくらさくら」などをピアノで弾き、友の健闘をたたえた。
合唱祭から14年がたった92年(平成4年)4月26日、中部池田記念講堂で行われた本部幹部会の席上、先生は語った。
「昭和53年4月23日、三重で大合唱祭が行われた。毅然と立って、堂々と歌いに歌った民衆の祭典――本当に見事であった。なかんずく、婦人部の皆さまが歌ってくださった『今日も元気で』の歌声を、私は一生涯、忘れることはできない」
森ひとみさん(三重万葉県、県総合女性部長)は、合唱祭に役員として参加した。「生涯、先生と共に広布の道を」――その日に刻んだ誓いは、今も胸に鮮やかだ。
専門学校を卒業後、歯科技工士として働き始めた。25歳で歯科医師の夫と結婚。3人の娘にも恵まれた。ところが、夫の勤務先の医療法人が倒産。連帯保証人として多額の負債を負ってしまう。森さんは強盛に祈り、宿命転換を決意する。
夫は新たな歯科医院を開業し、森さんは家計を支えた。学会活動にも挑んだ。経営は軌道に乗り、経済的に安定した日々を送れるようになった。
森さんはこれまでに23人の友に弘教を実らせている。娘たちの病や不登校など、幾つもの試練があった。その全てを、信心で勝ち越えた。
今、6月に行われる教学部任用試験に向けて、6人の友人と一緒に研さんの汗を流す。森さんの心には、信心の歓喜が光っている。
1997年5月25日、池田先生は三重代表者会議に出席。「リーダーは、皆を『ほめたたえていく』ことである。大誠実で『尽くしていく』ことである」と語った(三重研修道場で)
1997年5月25日、池田先生は三重代表者会議に出席。「リーダーは、皆を『ほめたたえていく』ことである。大誠実で『尽くしていく』ことである」と語った(三重研修道場で)
創価の「この道」を
創価の「この道」を
三重研修道場の最寄り駅は、近鉄線の榊原温泉口駅だ。1982年(昭和57年)5月6日、関西指導を終えた池田先生は、研修道場へ向かった。
研修道場ではさまざまな会合が行われる予定になっていた。多くの同志が集うことから、先生は地元のリーダーに、「駅長さんには『池田がお世話になります。しばらく研修道場に滞在させていただきます』と伝えてください」と依頼した。近隣へのこまやかな配慮から、激励行は開始された。
翌7日、先生は研修道場で開かれた三重県代表者会議に出席。三重の同志の広布功労に感謝を伝え、「三重広布誓」「大中部前進」などの書を贈った。終了後、功労者宅を訪問。友の人生の歩みに耳を傾け、真心の励ましを送った。
8日、先生は森田洋史さん(同、地区部長)の実家が営む食事処「瀬戸白雲」に足を運んだ。屋号は池田先生の命名である。18歳だった森田さんは両親と共に先生を迎えた。
先生は、感激のあまり涙を流す両親を温かく包み込み、森田さんには「ご子息さまですか」と声をかけ、固い握手を交わした。その手の温もりを、森田さんは忘れない。
両親は三重広布の黎明期を駆けた。森田さんは、各地で料理修業を積んだ後、店を継承。しかし、地域の過疎化とともに経営は厳しさを増していく。“この店を知ってほしい”との思いで、看板メニューの研究と改良を重ねた。
2021年(令和3年)の年頭からは“信心の実証を”と、妻と共にこれまでにない唱題を実践。1年間、挑戦を続け、晴れやかに22年(同4年)を迎えた。
同年4月、店に大きな変化が訪れる。次々と客が来るようになった。きっかけは、森田さんが改良を重ねた「大エビフライ」を、インフルエンサーが動画で絶賛したことだった。雑誌やテレビでも次々に紹介され、県外からも多くの客が足を運ぶようになった。
現在も休日のランチタイムは特に忙しい。家族で切り盛りしていた店は、複数のアルバイトを雇うほどになった。22年に膠原病を患った妻の体調も回復し、夫婦で店に立つ。“池田先生が足を運んでくださったお店だからこそ、地域の皆さんに愛される場所にしたい”との強い思いが花開いた。
森田さんの胸には、全ての人への感謝と尽きることのない師への報恩が燃えている。
――1997年(平成9年)5月22日、池田先生は三重研修道場を訪問。25日に行われた三重代表者会議で呼びかけた。
「広宣流布に向かって、『さあ戦っていこう!』という心がある人は、生命に太陽が昇る」
「仏法は『勝負』であり、信心は、永遠の『戦闘』である。『戦っていこう』という信心に、大生命力がわき、限りなき希望がわく」
「どうか三重の皆さまは、牧口先生、戸田先生が教えてくださった、創価の『この道』を、私とともに、連戦連勝で進んでいただきたい」
「三重蘇生の日」が決定してから50年――。研修道場で三重の友の幸福・勝利を願った師の真心は、同志の心に深く息づき、未来へ向かって輝きを増している。
三重研修道場の最寄り駅は、近鉄線の榊原温泉口駅だ。1982年(昭和57年)5月6日、関西指導を終えた池田先生は、研修道場へ向かった。
研修道場ではさまざまな会合が行われる予定になっていた。多くの同志が集うことから、先生は地元のリーダーに、「駅長さんには『池田がお世話になります。しばらく研修道場に滞在させていただきます』と伝えてください」と依頼した。近隣へのこまやかな配慮から、激励行は開始された。
翌7日、先生は研修道場で開かれた三重県代表者会議に出席。三重の同志の広布功労に感謝を伝え、「三重広布誓」「大中部前進」などの書を贈った。終了後、功労者宅を訪問。友の人生の歩みに耳を傾け、真心の励ましを送った。
8日、先生は森田洋史さん(同、地区部長)の実家が営む食事処「瀬戸白雲」に足を運んだ。屋号は池田先生の命名である。18歳だった森田さんは両親と共に先生を迎えた。
先生は、感激のあまり涙を流す両親を温かく包み込み、森田さんには「ご子息さまですか」と声をかけ、固い握手を交わした。その手の温もりを、森田さんは忘れない。
両親は三重広布の黎明期を駆けた。森田さんは、各地で料理修業を積んだ後、店を継承。しかし、地域の過疎化とともに経営は厳しさを増していく。“この店を知ってほしい”との思いで、看板メニューの研究と改良を重ねた。
2021年(令和3年)の年頭からは“信心の実証を”と、妻と共にこれまでにない唱題を実践。1年間、挑戦を続け、晴れやかに22年(同4年)を迎えた。
同年4月、店に大きな変化が訪れる。次々と客が来るようになった。きっかけは、森田さんが改良を重ねた「大エビフライ」を、インフルエンサーが動画で絶賛したことだった。雑誌やテレビでも次々に紹介され、県外からも多くの客が足を運ぶようになった。
現在も休日のランチタイムは特に忙しい。家族で切り盛りしていた店は、複数のアルバイトを雇うほどになった。22年に膠原病を患った妻の体調も回復し、夫婦で店に立つ。“池田先生が足を運んでくださったお店だからこそ、地域の皆さんに愛される場所にしたい”との強い思いが花開いた。
森田さんの胸には、全ての人への感謝と尽きることのない師への報恩が燃えている。
――1997年(平成9年)5月22日、池田先生は三重研修道場を訪問。25日に行われた三重代表者会議で呼びかけた。
「広宣流布に向かって、『さあ戦っていこう!』という心がある人は、生命に太陽が昇る」
「仏法は『勝負』であり、信心は、永遠の『戦闘』である。『戦っていこう』という信心に、大生命力がわき、限りなき希望がわく」
「どうか三重の皆さまは、牧口先生、戸田先生が教えてくださった、創価の『この道』を、私とともに、連戦連勝で進んでいただきたい」
「三重蘇生の日」が決定してから50年――。研修道場で三重の友の幸福・勝利を願った師の真心は、同志の心に深く息づき、未来へ向かって輝きを増している。
三重研修道場近郊の食事処「瀬戸白雲」を池田先生が訪問。森田さん一家らに真心の励ましを送った(1982年5月8日)
三重研修道場近郊の食事処「瀬戸白雲」を池田先生が訪問。森田さん一家らに真心の励ましを送った(1982年5月8日)