〈ライフウオッチ〉 ルポ 就職氷河期世代と信仰④
〈ライフウオッチ〉 ルポ 就職氷河期世代と信仰④
2025年11月26日
総合小売業のパートとして働きながら、2人の子を育ててきた髙沼正湖さん(右から2人目)。同志との語らいに笑顔がはじける(北海道岩見沢市で)
総合小売業のパートとして働きながら、2人の子を育ててきた髙沼正湖さん(右から2人目)。同志との語らいに笑顔がはじける(北海道岩見沢市で)
1990年代前半、バブル崩壊後の景気低迷により、就職環境は一変しました。
厳しい不況の中で就職活動せざるを得なかった「就職氷河期世代」。
社会の変化に翻弄されながらも、懸命に生き抜いてきた女性部員の軌跡をたどります。(記事=中谷光昭)
1990年代前半、バブル崩壊後の景気低迷により、就職環境は一変しました。
厳しい不況の中で就職活動せざるを得なかった「就職氷河期世代」。
社会の変化に翻弄されながらも、懸命に生き抜いてきた女性部員の軌跡をたどります。(記事=中谷光昭)
一つ一つの出会い、縁を大切に、温かな笑顔を向ける髙沼さん
一つ一つの出会い、縁を大切に、温かな笑顔を向ける髙沼さん
1995年の大卒の就職率は戦後の統計開始以降、46年ぶりに60%台に落ち込んだ。
北海道の髙沼正湖さん(岩見沢池田圏、女性部本部長)が道内の短期大学を卒業したのは、まさにこの年だった。
「引く手あまただったバブル世代と、たった数年しか違わないのに、求人は激減して“これしかないの……”ってがく然としたことを覚えています」
卒業直前に会社から内定を取り消された友人や、卒業後も就活を続けざるを得なかった同級生も少なくなかったと言う。
髙沼さんも、懸命に求人を探し、「岩見沢市に住むことを条件」とする従業員10人強の会社に「わずかな募集」を見つけ、何とか滑り込んだ。
公園事業を手がける会社で、事務職として採用されたが、「小さな会社だったので、営業や遊具の図面設計など、一人で何役もこなしました」。
筑波大学の田中洋子名誉教授が指摘するように、当時はバブル崩壊後の不況により、企業が「リストラ」や「新卒採用の抑制」を行ったため、残った人だけで仕事をこなさねばならず、長時間の残業が増えた。
髙沼さんの職場も例外ではなく、「連日、深夜まで仕事が続き、家には寝るためだけに帰っていました」。
それでも、上司や同僚との人間関係が良好で、残業分も給与に反映されたため「体はつらくても、仕事に食らいつくことができました」。
6年働き、英範さんとの結婚を機に退職した。
「仕事が好きだったし、将来の生活や家計のことを考えると、できることなら結婚後も仕事を続けたかった」と、髙沼さんは言う。
だが「当時、私の会社は時短勤務など柔軟な働き方は認められていなかったし、今のように育児休暇の制度も普及していなかったので、私には『結婚後も職場に残る』という選択をすることはできなかったんです」。
1995年の大卒の就職率は戦後の統計開始以降、46年ぶりに60%台に落ち込んだ。
北海道の髙沼正湖さん(岩見沢池田圏、女性部本部長)が道内の短期大学を卒業したのは、まさにこの年だった。
「引く手あまただったバブル世代と、たった数年しか違わないのに、求人は激減して“これしかないの……”ってがく然としたことを覚えています」
卒業直前に会社から内定を取り消された友人や、卒業後も就活を続けざるを得なかった同級生も少なくなかったと言う。
髙沼さんも、懸命に求人を探し、「岩見沢市に住むことを条件」とする従業員10人強の会社に「わずかな募集」を見つけ、何とか滑り込んだ。
公園事業を手がける会社で、事務職として採用されたが、「小さな会社だったので、営業や遊具の図面設計など、一人で何役もこなしました」。
筑波大学の田中洋子名誉教授が指摘するように、当時はバブル崩壊後の不況により、企業が「リストラ」や「新卒採用の抑制」を行ったため、残った人だけで仕事をこなさねばならず、長時間の残業が増えた。
髙沼さんの職場も例外ではなく、「連日、深夜まで仕事が続き、家には寝るためだけに帰っていました」。
それでも、上司や同僚との人間関係が良好で、残業分も給与に反映されたため「体はつらくても、仕事に食らいつくことができました」。
6年働き、英範さんとの結婚を機に退職した。
「仕事が好きだったし、将来の生活や家計のことを考えると、できることなら結婚後も仕事を続けたかった」と、髙沼さんは言う。
だが「当時、私の会社は時短勤務など柔軟な働き方は認められていなかったし、今のように育児休暇の制度も普及していなかったので、私には『結婚後も職場に残る』という選択をすることはできなかったんです」。
仕事が多忙を極めた時、学会活動から遠ざかったこともあった。それでも同志の輪に戻れたのは「幼い頃から、父母が師弟と信心の大切さを教え続けてくれたから」
仕事が多忙を極めた時、学会活動から遠ざかったこともあった。それでも同志の輪に戻れたのは「幼い頃から、父母が師弟と信心の大切さを教え続けてくれたから」
■支援の対象外
■支援の対象外
髙沼さんは、2002年に長男・柊翔さん、06年に次男の空輝さんを出産した。
妊娠・出産・育児の過程においても、就職氷河期特有の苦悩に直面したと言う。
「当時は、幼稚園も保育園も無償ではなかったし、妊婦健診の助成も出産一時金も、今より少なかったので、お金の工面に苦労しました」
2000年代は、出産・子育ての支援制度が拡充されていく過渡期だった。就職氷河期世代の中には、子どもの年齢が対象を超えており、支援を受けられなかった人が多かったといわれている。
公的支援が間に合わなかったことに加え、社会は不況の真っただ中。さらに、当時は子育てしながら働ける仕事も少なかったため、小さい子どものいる世帯が貧困や低所得の状態に置かれていた可能性が高いとみられている。
髙沼さんの場合、特に助成を受けたかったのは「子どもの医療費」だった。長男の柊翔さんが原因不明の先天性の病と闘っていたからだ。
柊翔さんは生まれつき両足にあざがあり、足首から指先にかけて大きく腫れていた。
足の長さや大きさも左右で違ったため、歩くことにも困難が生じ、転んだり、ぶつけたりして出血し、靴下やズボンが真っ赤に染まってしまうこともあった。
この病は、血管の形成がうまくいかず、体にあざや腫瘤ができ、激しい痛みや、炎症により高熱が続くことも。患部を強く打つと、出血することもある。
髙沼さんは、2002年に長男・柊翔さん、06年に次男の空輝さんを出産した。
妊娠・出産・育児の過程においても、就職氷河期特有の苦悩に直面したと言う。
「当時は、幼稚園も保育園も無償ではなかったし、妊婦健診の助成も出産一時金も、今より少なかったので、お金の工面に苦労しました」
2000年代は、出産・子育ての支援制度が拡充されていく過渡期だった。就職氷河期世代の中には、子どもの年齢が対象を超えており、支援を受けられなかった人が多かったといわれている。
公的支援が間に合わなかったことに加え、社会は不況の真っただ中。さらに、当時は子育てしながら働ける仕事も少なかったため、小さい子どものいる世帯が貧困や低所得の状態に置かれていた可能性が高いとみられている。
髙沼さんの場合、特に助成を受けたかったのは「子どもの医療費」だった。長男の柊翔さんが原因不明の先天性の病と闘っていたからだ。
柊翔さんは生まれつき両足にあざがあり、足首から指先にかけて大きく腫れていた。
足の長さや大きさも左右で違ったため、歩くことにも困難が生じ、転んだり、ぶつけたりして出血し、靴下やズボンが真っ赤に染まってしまうこともあった。
この病は、血管の形成がうまくいかず、体にあざや腫瘤ができ、激しい痛みや、炎症により高熱が続くことも。患部を強く打つと、出血することもある。
髙沼さん
髙沼さん
子ども医療費の助成は今、全国約7割の市区町村で高校3年まで拡充されているが、柊翔さんの年齢を後から追いかけるようにしか助成の対象年齢が上がらなかったため、「支援はほぼ受けることができなかった」と言う。
柊翔さんは、膨らんだ足を小さくするための減量手術に臨み、小学校卒業までに30回以上の入退院、10回以上の手術を勝ち越えた。
髙沼さんは自立支援医療(育成医療)の制度を使い、入院・手術費を工面しながら、傍らに付き添い、闘病を支え抜いた。
柊翔さんの病は難病に指定されておらず、医学的な調査研究が進まず、治療法が確立されていなかった。そのため髙沼さんは「一刻も早く、病気の研究を進めてほしい」と切望していた。
正確な病名を知るにも時間がかかり、中には「数年かけて病院を転々とし、ようやく病名が分かった」という患者もいたという。
柊翔さんも当初は「血管腫」と言われ、「プロテウス症候群かも」と二転三転し、市外の大学病院で検査を重ねる中、「混合型血管奇形」の診断にたどり着くことができた。
「対症療法ばかりで、根治する治療法がないし、柊翔の体や将来を思うと、不安でいっぱいでした」と、述懐する髙沼さん。心を支えたのは、学会活動の中で得た「同志とのつながり」だったと言う。
子ども医療費の助成は今、全国約7割の市区町村で高校3年まで拡充されているが、柊翔さんの年齢を後から追いかけるようにしか助成の対象年齢が上がらなかったため、「支援はほぼ受けることができなかった」と言う。
柊翔さんは、膨らんだ足を小さくするための減量手術に臨み、小学校卒業までに30回以上の入退院、10回以上の手術を勝ち越えた。
髙沼さんは自立支援医療(育成医療)の制度を使い、入院・手術費を工面しながら、傍らに付き添い、闘病を支え抜いた。
柊翔さんの病は難病に指定されておらず、医学的な調査研究が進まず、治療法が確立されていなかった。そのため髙沼さんは「一刻も早く、病気の研究を進めてほしい」と切望していた。
正確な病名を知るにも時間がかかり、中には「数年かけて病院を転々とし、ようやく病名が分かった」という患者もいたという。
柊翔さんも当初は「血管腫」と言われ、「プロテウス症候群かも」と二転三転し、市外の大学病院で検査を重ねる中、「混合型血管奇形」の診断にたどり着くことができた。
「対症療法ばかりで、根治する治療法がないし、柊翔の体や将来を思うと、不安でいっぱいでした」と、述懐する髙沼さん。心を支えたのは、学会活動の中で得た「同志とのつながり」だったと言う。
髙沼さん
髙沼さん
「つらい時ほど、訪問・激励に歩き、同志の皆さんに会いに行きました。皆さんから苦難を乗り越えた体験や悩みに負けずに戦っている様子を伺うたび、『大変なのは自分だけじゃない』『みんな踏ん張ってるんだ』って、いつも元気をもらったんです」
髙沼さんは、他の患者家族と協力し、2007年から、混合型血管奇形(現在は混合型脈管奇形)の難病指定を求める署名活動を開始。7年間で集めた署名は124万筆を超え、厚生労働省に提出することができた。
この間、柊翔さんが病に負けず健やかに成長する姿は、テレビや新聞など多くのメディアに取り上げられた。
ある時は、面識のない患者家族から「柊翔さんが出ていたテレビを見て、娘の症状と似ていると思い、担当医に伝えたところ、それまでの誤った治療を止めることができました。柊翔さんは娘の命の恩人です」と感謝のメッセージが寄せられたこともあったという。
2015年、混合型脈管奇形の特定の疾患が難病指定され、柊翔さんの病名は「クリッペル・トレノネー・ウェーバー症候群」に分類された。
以来、脈管奇形の研究も進み、医療費の助成も拡充された。柊翔さんは服薬で病状を上手にコントロールしながら、日常生活を送ることができるようになった。
「つらい時ほど、訪問・激励に歩き、同志の皆さんに会いに行きました。皆さんから苦難を乗り越えた体験や悩みに負けずに戦っている様子を伺うたび、『大変なのは自分だけじゃない』『みんな踏ん張ってるんだ』って、いつも元気をもらったんです」
髙沼さんは、他の患者家族と協力し、2007年から、混合型血管奇形(現在は混合型脈管奇形)の難病指定を求める署名活動を開始。7年間で集めた署名は124万筆を超え、厚生労働省に提出することができた。
この間、柊翔さんが病に負けず健やかに成長する姿は、テレビや新聞など多くのメディアに取り上げられた。
ある時は、面識のない患者家族から「柊翔さんが出ていたテレビを見て、娘の症状と似ていると思い、担当医に伝えたところ、それまでの誤った治療を止めることができました。柊翔さんは娘の命の恩人です」と感謝のメッセージが寄せられたこともあったという。
2015年、混合型脈管奇形の特定の疾患が難病指定され、柊翔さんの病名は「クリッペル・トレノネー・ウェーバー症候群」に分類された。
以来、脈管奇形の研究も進み、医療費の助成も拡充された。柊翔さんは服薬で病状を上手にコントロールしながら、日常生活を送ることができるようになった。
■不登校の中で
■不登校の中で
柊翔さんは、入退院をしながら、院内学級で学ぶこともあり、小学校に通える期間が短かった。
その分、中学校で思い出をつくろうと、希望に胸を膨らませて入学した。“友達もできて楽しい!”と、毎日、声を弾ませて帰ってきたという。
だが、入学式の1カ月後、柊翔さんは突然、布団から起き上がれなくなった。診断は「起立性調節障害」。
「学校に行きたい」と頭では思っているのに、低血圧になり、体が思うように動かなかった。夕方になると、何事もなかったように、普段の体調に戻る。
髙沼さんは当初、そんな柊翔さんの姿にもどかしさを感じ、厳しい言葉を浴びせてしまったという。
「私の世代は、良い学校に行って、良い大学に進んで、良い会社に就職することが、“幸せの条件だ”と植え付けられて育ったので、“もし、息子が高校に行けなかったら……”という焦りが出てしまったんです。柊翔を無理やりにでも学校に行かせようとしたり、言い合いになったりした日もありました」
高度経済成長期の「成功モデル」が重視された時代にあって、就職氷河期世代の多くは受験、就活、昇進など長きにわたって競争を強いられ、勝たなければ幸せになれないと教えられてきた。
髙沼さんは、毎朝の言い争いの中で、次第に柊翔さんの心が離れていくのを感じた。
“このままではダメだ。でもどうすれば……”――祈りながら、自身の振る舞いを見つめ直す中で、「ハッとした」という。
「私は自分が生きてきた時代の価値観を、息子に押し付けてしまっていたことに気付いたんです。良い大学を出たって、良い会社に入れるとは限らない――自分たちに染み付いた価値観はもう崩れてしまっているのに」
柊翔さんは、入退院をしながら、院内学級で学ぶこともあり、小学校に通える期間が短かった。
その分、中学校で思い出をつくろうと、希望に胸を膨らませて入学した。“友達もできて楽しい!”と、毎日、声を弾ませて帰ってきたという。
だが、入学式の1カ月後、柊翔さんは突然、布団から起き上がれなくなった。診断は「起立性調節障害」。
「学校に行きたい」と頭では思っているのに、低血圧になり、体が思うように動かなかった。夕方になると、何事もなかったように、普段の体調に戻る。
髙沼さんは当初、そんな柊翔さんの姿にもどかしさを感じ、厳しい言葉を浴びせてしまったという。
「私の世代は、良い学校に行って、良い大学に進んで、良い会社に就職することが、“幸せの条件だ”と植え付けられて育ったので、“もし、息子が高校に行けなかったら……”という焦りが出てしまったんです。柊翔を無理やりにでも学校に行かせようとしたり、言い合いになったりした日もありました」
高度経済成長期の「成功モデル」が重視された時代にあって、就職氷河期世代の多くは受験、就活、昇進など長きにわたって競争を強いられ、勝たなければ幸せになれないと教えられてきた。
髙沼さんは、毎朝の言い争いの中で、次第に柊翔さんの心が離れていくのを感じた。
“このままではダメだ。でもどうすれば……”――祈りながら、自身の振る舞いを見つめ直す中で、「ハッとした」という。
「私は自分が生きてきた時代の価値観を、息子に押し付けてしまっていたことに気付いたんです。良い大学を出たって、良い会社に入れるとは限らない――自分たちに染み付いた価値観はもう崩れてしまっているのに」
一昨年、髙沼さん㊧と長男・柊翔さんが、東京・信濃町の広宣流布大誓堂で(本人提供)
一昨年、髙沼さん㊧と長男・柊翔さんが、東京・信濃町の広宣流布大誓堂で(本人提供)
髙沼さんは柊翔さんの気持ちを尊重し、体調の回復を待つことにした。夫にも「自分たちの時代と息子を重ねないようにしよう」と伝え、夫婦で温かく見守った。
「息子の体調が戻った時にいろんな進路の選択肢を示してあげられるように、学校や支援制度を調べました」
柊翔さんは、中学3年間は学校に通うことができなかったが、高校は、心身に負担がかからないように髙沼さんが薦めた市内の通信制の学校に入学。
その後、プログラミングやゲームの開発を学べる専門学校に進み、柊翔さんは生き生きと授業に臨んだ。
「振り返れば、長い入院生活の中で、息子の心を癒やしたのはゲームでした。当時は『ゲームばっかりやっていて大丈夫かな』って心配していたんですけど、それが息子の自信になり、希望をくれる存在になるとは、夢にも思っていませんでした」
今年6月、柊翔さんは大手ゲーム開発会社のインターンシップ(就業体験)に挑んだ。
大学院生や国立大学の学生も参加する中で、柊翔さんの仕事への姿勢が高く評価され、会社から「採用面接を受けませんか」と声がかかった。
結果は「合格」。柊翔さんは内定を得て、来春から、正社員として働き始める。
次男の空輝さんも、柊翔さんと同じく「起立性調節障害」と診断され、不登校の日々が続いた。
だが髙沼さんは動じることなく、柊翔さんの経験を生かし、空輝さんの思いに寄り添うことができた。
空輝さんは、兄の背を追うように通信制の高校を経て専門学校に進み、夢を探求している。
髙沼さんは柊翔さんの気持ちを尊重し、体調の回復を待つことにした。夫にも「自分たちの時代と息子を重ねないようにしよう」と伝え、夫婦で温かく見守った。
「息子の体調が戻った時にいろんな進路の選択肢を示してあげられるように、学校や支援制度を調べました」
柊翔さんは、中学3年間は学校に通うことができなかったが、高校は、心身に負担がかからないように髙沼さんが薦めた市内の通信制の学校に入学。
その後、プログラミングやゲームの開発を学べる専門学校に進み、柊翔さんは生き生きと授業に臨んだ。
「振り返れば、長い入院生活の中で、息子の心を癒やしたのはゲームでした。当時は『ゲームばっかりやっていて大丈夫かな』って心配していたんですけど、それが息子の自信になり、希望をくれる存在になるとは、夢にも思っていませんでした」
今年6月、柊翔さんは大手ゲーム開発会社のインターンシップ(就業体験)に挑んだ。
大学院生や国立大学の学生も参加する中で、柊翔さんの仕事への姿勢が高く評価され、会社から「採用面接を受けませんか」と声がかかった。
結果は「合格」。柊翔さんは内定を得て、来春から、正社員として働き始める。
次男の空輝さんも、柊翔さんと同じく「起立性調節障害」と診断され、不登校の日々が続いた。
だが髙沼さんは動じることなく、柊翔さんの経験を生かし、空輝さんの思いに寄り添うことができた。
空輝さんは、兄の背を追うように通信制の高校を経て専門学校に進み、夢を探求している。
髙沼さんファミリー。左から次男の空輝さん、夫の英範さん、髙沼さん、長男の柊翔さん(本人提供)
髙沼さんファミリー。左から次男の空輝さん、夫の英範さん、髙沼さん、長男の柊翔さん(本人提供)
髙沼さんは、患者家族や医師・看護師など、さまざまな人とのつながりの中で、前を向く勇気を得ることができた。
その中で、どんな時でも柊翔さんの成長を見守り、関わり続けてくれた創価家族の存在は、「一番の心の支え」となった。
“今度は私が、誰かの支えになりたい”――女性部本部長として広布の最前線を駆けながら、髙沼さんは、地域の人の輪に果敢に飛び込んだ。
市の女性消防団や、子どもの読み聞かせサークルの活動は10年以上続けている。
2014年からは、家計を支えるため仕事にも復帰し、総合小売業のパートとして働いている。非正規ながら4年前には主任に昇格。後進の育成や店舗間の連携・運営を担っている。
「“人とのつながり”を、できる限り多くつくりたかったので、仕事をしても地域の活動は絶対やめずに、全てを両立してきました」
そうした行動力と持続力は「就職氷河期を生き抜く中で鍛えられた」と、髙沼さんは振り返る。
「就職難や厳しい職場環境で、もまれてきたからこそ、ちょっとやそっとのことではくじけないタフな精神力をもつことができたと思います。自分のやりたいことをいつも応援し、支えてくれた夫にも感謝しています」
髙沼さんは、患者家族や医師・看護師など、さまざまな人とのつながりの中で、前を向く勇気を得ることができた。
その中で、どんな時でも柊翔さんの成長を見守り、関わり続けてくれた創価家族の存在は、「一番の心の支え」となった。
“今度は私が、誰かの支えになりたい”――女性部本部長として広布の最前線を駆けながら、髙沼さんは、地域の人の輪に果敢に飛び込んだ。
市の女性消防団や、子どもの読み聞かせサークルの活動は10年以上続けている。
2014年からは、家計を支えるため仕事にも復帰し、総合小売業のパートとして働いている。非正規ながら4年前には主任に昇格。後進の育成や店舗間の連携・運営を担っている。
「“人とのつながり”を、できる限り多くつくりたかったので、仕事をしても地域の活動は絶対やめずに、全てを両立してきました」
そうした行動力と持続力は「就職氷河期を生き抜く中で鍛えられた」と、髙沼さんは振り返る。
「就職難や厳しい職場環境で、もまれてきたからこそ、ちょっとやそっとのことではくじけないタフな精神力をもつことができたと思います。自分のやりたいことをいつも応援し、支えてくれた夫にも感謝しています」
■「つなぎ手」に
■「つなぎ手」に
人との「つながり」が深まるにつれて、「同年代や年下世代のママ友から、子育ての悩みを相談されることが増えてきた」と言う。
「お子さんの病や障がい、不登校の悩みを伺った時は、息子たちの体験を話すようにしています。私が調べた通信制の学校の情報や支援制度を紹介すると、『とても参考になった』と喜んでもらえて、息子と同じ高校に進学した子も何人かいます」
人と人、人と制度を結ぶ「つなぎ手」になる――髙沼さんはそこに、喜びや生きがいを見いだした。
社会学者の宮本みち子氏は本紙のインタビュー(本年5月9日付)で、「じっくりと話を聴き、その人に寄り添いながら、一緒に選択肢を探る。必要に応じて同行し、支援や制度への橋渡しを行う」ことの大切さに触れながら、創価学会員の活動の中に、こうした役割を見いだせると語った。
髙沼さんもまた、そうした学会員の一人として、孤立を防ぐための温かな声かけを広げている。
取材の結びに、髙沼さんに尋ねた。「多くの試練を勝ち越えた今、心に刻む師の言葉は何ですか」。髙沼さんは、ほほ笑んで言った。「私は、池田先生が教えてくださった戸田先生の言葉が大好きなんです」
「一生のすべての体験が生きてくるのだ。何ひとつ、塵も残さず、無駄はなかったことが分かるのです。これが妙法の大功徳です」
髙沼さんは、最後に、こう言葉を結んだ。
「柊翔や空輝が闘病を通して専門家や支援制度に出あわせてくれたおかげで、困っているお母さんに大事な情報を伝えることができています。柊翔は入院中にやっていた大好きなゲームが、とうとう彼の仕事になりました。本当に『塵も残さず』無駄はない。これまで苦労したことが、全部生かされていると感じます」
人との「つながり」が深まるにつれて、「同年代や年下世代のママ友から、子育ての悩みを相談されることが増えてきた」と言う。
「お子さんの病や障がい、不登校の悩みを伺った時は、息子たちの体験を話すようにしています。私が調べた通信制の学校の情報や支援制度を紹介すると、『とても参考になった』と喜んでもらえて、息子と同じ高校に進学した子も何人かいます」
人と人、人と制度を結ぶ「つなぎ手」になる――髙沼さんはそこに、喜びや生きがいを見いだした。
社会学者の宮本みち子氏は本紙のインタビュー(本年5月9日付)で、「じっくりと話を聴き、その人に寄り添いながら、一緒に選択肢を探る。必要に応じて同行し、支援や制度への橋渡しを行う」ことの大切さに触れながら、創価学会員の活動の中に、こうした役割を見いだせると語った。
髙沼さんもまた、そうした学会員の一人として、孤立を防ぐための温かな声かけを広げている。
取材の結びに、髙沼さんに尋ねた。「多くの試練を勝ち越えた今、心に刻む師の言葉は何ですか」。髙沼さんは、ほほ笑んで言った。「私は、池田先生が教えてくださった戸田先生の言葉が大好きなんです」
「一生のすべての体験が生きてくるのだ。何ひとつ、塵も残さず、無駄はなかったことが分かるのです。これが妙法の大功徳です」
髙沼さんは、最後に、こう言葉を結んだ。
「柊翔や空輝が闘病を通して専門家や支援制度に出あわせてくれたおかげで、困っているお母さんに大事な情報を伝えることができています。柊翔は入院中にやっていた大好きなゲームが、とうとう彼の仕事になりました。本当に『塵も残さず』無駄はない。これまで苦労したことが、全部生かされていると感じます」
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ルポ「就職氷河期世代と信仰」の連載まとめページはこちらから
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〈参考文献〉「POSSE」vol.60〈見捨てられたのは「就職氷河期世代」なのか〉NPO法人POSSE。
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