〈わが進む道は師弟の道〉第1回 1958年(昭和33年)4月2日~29日 桜花舞う誓願の旅立ち
〈わが進む道は師弟の道〉第1回 1958年(昭和33年)4月2日~29日 桜花舞う誓願の旅立ち
2025年1月8日
- 断じて戦うぞ! 怒濤を乗り越えて
- 断じて戦うぞ! 怒濤を乗り越えて
恩師・戸田城聖先生の三回忌を目前にした1960年(昭和35年)3月21日、池田大作先生は日記につづった。「この二年――何をしたか。直弟子として。何を報告すべきであるか。勇気なきわれに、叱られしことのみ多きか。もうじき、外苑の桜が咲くであろう」。恩師の逝去後、不二の弟子は一人立ち上がり、祈り、動き、同志を励まし抜いた。その激闘が、広布の黎明を告げた。新連載「わが進む道は師弟の道」では、恩師が霊山に旅立たれた58年(同33年)の「4・2」から、三回忌となる60年の「4・2」、そして、第3代会長就任の「5・3」までの2年間の池田先生の足跡をたどる。
恩師・戸田城聖先生の三回忌を目前にした1960年(昭和35年)3月21日、池田大作先生は日記につづった。「この二年――何をしたか。直弟子として。何を報告すべきであるか。勇気なきわれに、叱られしことのみ多きか。もうじき、外苑の桜が咲くであろう」。恩師の逝去後、不二の弟子は一人立ち上がり、祈り、動き、同志を励まし抜いた。その激闘が、広布の黎明を告げた。新連載「わが進む道は師弟の道」では、恩師が霊山に旅立たれた58年(同33年)の「4・2」から、三回忌となる60年の「4・2」、そして、第3代会長就任の「5・3」までの2年間の池田先生の足跡をたどる。
恩師の逝去50年を経た2008年4月、牧口記念庭園にある戸田先生の胸像に、池田先生はカメラを向けた(東京・八王子市で)。恩師が好きだった桜の花が万朶と咲く
恩師の逝去50年を経た2008年4月、牧口記念庭園にある戸田先生の胸像に、池田先生はカメラを向けた(東京・八王子市で)。恩師が好きだった桜の花が万朶と咲く
第2代会長・戸田先生は、桜を愛した。自らの人生の終幕を「桜の咲くころに」と望んだ。
その桜が、東京都内で五分咲きとなっていた1958年(昭和33年)4月2日、戸田先生は、願業である「75万世帯の弘教」を成就し、尊き58年の生涯を閉じた。
この日の朝、池田先生は青年部の幹部会議を開催した。席上、恩師の回復を祈り、明朝から1週間、代表が学会本部で勤行を行うことを提案した。「(戸田)先生のため、命を投げ出しても、今、できることは何でもさせていただきたい」との思いだったと述懐している。
午後5時、学会本部には翌3日に行う本部幹部会の準備などのため、理事室や青年部の首脳が集まっていた。打ち合わせがほぼ終了した頃、恩師の家族から池田先生宛ての電話があった。恩師が逝去したとの知らせであった。
その後、本部幹部会の式次第が再検討され、4月20日に創価学会葬を営むことが決定された。打ち合わせが終了した時、時計の針は午後11時を回っていた。
午前0時過ぎ、池田先生は大田区の自宅に帰ると、日記を開き、心情をつづった。
「(戸田)先生のご遺志は、清らかに水の流れの如く、広布達成まで流れゆくことを祈る。強くなれ、と自分に叱咤」
「嗚呼、四月二日。四月二日は、学会にとって、私の生涯にとって、弟子一同にとって、永遠の歴史の日になった」
池田先生は真正の弟子として、広宣流布の第2幕を開くことを深く誓った。
第2代会長・戸田先生は、桜を愛した。自らの人生の終幕を「桜の咲くころに」と望んだ。
その桜が、東京都内で五分咲きとなっていた1958年(昭和33年)4月2日、戸田先生は、願業である「75万世帯の弘教」を成就し、尊き58年の生涯を閉じた。
この日の朝、池田先生は青年部の幹部会議を開催した。席上、恩師の回復を祈り、明朝から1週間、代表が学会本部で勤行を行うことを提案した。「(戸田)先生のため、命を投げ出しても、今、できることは何でもさせていただきたい」との思いだったと述懐している。
午後5時、学会本部には翌3日に行う本部幹部会の準備などのため、理事室や青年部の首脳が集まっていた。打ち合わせがほぼ終了した頃、恩師の家族から池田先生宛ての電話があった。恩師が逝去したとの知らせであった。
その後、本部幹部会の式次第が再検討され、4月20日に創価学会葬を営むことが決定された。打ち合わせが終了した時、時計の針は午後11時を回っていた。
午前0時過ぎ、池田先生は大田区の自宅に帰ると、日記を開き、心情をつづった。
「(戸田)先生のご遺志は、清らかに水の流れの如く、広布達成まで流れゆくことを祈る。強くなれ、と自分に叱咤」
「嗚呼、四月二日。四月二日は、学会にとって、私の生涯にとって、弟子一同にとって、永遠の歴史の日になった」
池田先生は真正の弟子として、広宣流布の第2幕を開くことを深く誓った。
師恩を胸に前進
師恩を胸に前進
58年4月3日、東京・豊島公会堂(当時)で本部幹部会が開催された。冒頭、戸田先生の逝去が伝えられた。池田先生は青年部の代表として登壇した。
「私たちは、先生のご逝去に際して、ただ慨嘆し、悲しんでいるだけであってはならないと思います。戸田先生の生命は、わが創価学会とともに、われら弟子の心のなかに、永遠に生きていらっしゃると信じるものでございます」
そして、「仏教をならわん者の、父母・師匠・国恩をわするべしや」(新212・全293)との御聖訓を拝して強調した。
「私たちは、師匠・戸田先生のおかげで、仏法に巡り合うことができました。そして、先生のご慈悲に育まれ、人間の真実の道を知りました。このご恩に、弟子として、どのように報いていくか」
「戸田先生の師恩に報いる道は、ただ一つ、先生が命をかけてこられた広宣流布に邁進し、『先生、このように広宣流布を進めました』と報告できる、見事な闘争を展開する以外には、断じてありません」
「一人一人が、人間革命を成し遂げ、崩れざる幸せを築いていく時、先生は、最もお喜びくださると思うのでございます」
池田先生の師子吼は、悲嘆に暮れる同志の胸中に、一条の光となって差し込んだ。
先生は、8日に行われる告別式の準備に奔走した。その折、会場を訪れた壮年に語った。
「私は、この10年間、戸田先生に仕えに仕えてまいりました。何の悔いもございません。創価学会は大丈夫です。安心して、ついてらっしゃい」
告別式の日、約12万人が焼香に訪れた。会場に向かう沿道にも、多くの友がいた。
恩師の自宅付近には、夜になっても多くの会員の姿があった。池田先生は、そうした同志に丁重に感謝を伝えた。
皆、恩師を失った悲しみに沈んでいた。だが、誰よりも深く悲しんでいたのは、池田先生自身である。その思いを胸に押し込め、池田先生は一人一人を、抱きかかえるように励ました。
帰宅後、先生は香峯子夫人が準備した筆と色紙に、烈々たる決意を込めて和歌をしたためた。
恩師逝き
地涌の子等の
先駆をば
われは怒濤に
今日も進まむ
58年4月3日、東京・豊島公会堂(当時)で本部幹部会が開催された。冒頭、戸田先生の逝去が伝えられた。池田先生は青年部の代表として登壇した。
「私たちは、先生のご逝去に際して、ただ慨嘆し、悲しんでいるだけであってはならないと思います。戸田先生の生命は、わが創価学会とともに、われら弟子の心のなかに、永遠に生きていらっしゃると信じるものでございます」
そして、「仏教をならわん者の、父母・師匠・国恩をわするべしや」(新212・全293)との御聖訓を拝して強調した。
「私たちは、師匠・戸田先生のおかげで、仏法に巡り合うことができました。そして、先生のご慈悲に育まれ、人間の真実の道を知りました。このご恩に、弟子として、どのように報いていくか」
「戸田先生の師恩に報いる道は、ただ一つ、先生が命をかけてこられた広宣流布に邁進し、『先生、このように広宣流布を進めました』と報告できる、見事な闘争を展開する以外には、断じてありません」
「一人一人が、人間革命を成し遂げ、崩れざる幸せを築いていく時、先生は、最もお喜びくださると思うのでございます」
池田先生の師子吼は、悲嘆に暮れる同志の胸中に、一条の光となって差し込んだ。
先生は、8日に行われる告別式の準備に奔走した。その折、会場を訪れた壮年に語った。
「私は、この10年間、戸田先生に仕えに仕えてまいりました。何の悔いもございません。創価学会は大丈夫です。安心して、ついてらっしゃい」
告別式の日、約12万人が焼香に訪れた。会場に向かう沿道にも、多くの友がいた。
恩師の自宅付近には、夜になっても多くの会員の姿があった。池田先生は、そうした同志に丁重に感謝を伝えた。
皆、恩師を失った悲しみに沈んでいた。だが、誰よりも深く悲しんでいたのは、池田先生自身である。その思いを胸に押し込め、池田先生は一人一人を、抱きかかえるように励ました。
帰宅後、先生は香峯子夫人が準備した筆と色紙に、烈々たる決意を込めて和歌をしたためた。
恩師逝き
地涌の子等の
先駆をば
われは怒濤に
今日も進まむ
凜々しい青年部
凜々しい青年部
恩師の葬儀を最大に荘厳するため、池田先生は全精魂を注いだ。
告別式を終え、20日の学会葬に向けて尽力する中、先生は同志の激励にも奔走した。10日、男子部の臨時幹部会に出席。15日には築地支部(当時)の打ち合わせに臨み、励ましを送った。
迎えた20日、青山葬儀所で学会葬が行われた。歴代総理大臣をはじめ、各界の著名人の葬儀が行われてきた、格式ある斎場である。
その場所で学会葬を行うことを発案したのは、池田先生である。先生は自ら交渉にも当たった。
焼香者には、時の総理大臣、文部大臣などもいた。全国各地から25万人が参列した。
先生は、運営の一切の責任を担った。“大楠公”の歌詞を胸に浮かべ、恩師の厳愛の指導を思い返しながら、広布拡大への“父子”の誓いを新たにした。
25日付の本紙に、葬儀を目にした近隣の方々の声が掲載された。
「若い人が多いのにはびっくりしました。規律正しくきびきびしていますね。(中略)今日の葬儀を見て本当に立派だと思いました」
学会葬は、恩師が薫陶した青年部の凜々しい姿を満天下に示すものともなった。
恩師の葬儀を最大に荘厳するため、池田先生は全精魂を注いだ。
告別式を終え、20日の学会葬に向けて尽力する中、先生は同志の激励にも奔走した。10日、男子部の臨時幹部会に出席。15日には築地支部(当時)の打ち合わせに臨み、励ましを送った。
迎えた20日、青山葬儀所で学会葬が行われた。歴代総理大臣をはじめ、各界の著名人の葬儀が行われてきた、格式ある斎場である。
その場所で学会葬を行うことを発案したのは、池田先生である。先生は自ら交渉にも当たった。
焼香者には、時の総理大臣、文部大臣などもいた。全国各地から25万人が参列した。
先生は、運営の一切の責任を担った。“大楠公”の歌詞を胸に浮かべ、恩師の厳愛の指導を思い返しながら、広布拡大への“父子”の誓いを新たにした。
25日付の本紙に、葬儀を目にした近隣の方々の声が掲載された。
「若い人が多いのにはびっくりしました。規律正しくきびきびしていますね。(中略)今日の葬儀を見て本当に立派だと思いました」
学会葬は、恩師が薫陶した青年部の凜々しい姿を満天下に示すものともなった。
1958年4月20日、東京・青山葬儀所で営まれた学会葬での池田先生。青年部の室長として指揮を執る
1958年4月20日、東京・青山葬儀所で営まれた学会葬での池田先生。青年部の室長として指揮を執る
“広布一筋”こそ
“広布一筋”こそ
桜の木に、みずみずしい青葉が萌え始めていた。58年4月24日、池田先生は男子部の指導会に出席し、質問会を行った。
学会への批判的な報道に不安を抱く青年に、「学会は大聖人の教えをそのまま実践していく師子王の団体です。何ものも恐れずに戦っていこう」と激励。あるリーダーには、“広布一筋”こそ戸田先生から薫陶を受けた青年部が進むべき道であると強調した。
翌25日、教学試験の面接官として関西へ。ある受験者に「絶対に学会から離れないことです。教学を研さんし、信心を深めていってください」と呼びかけるなど、関西の同志一人一人に、信心の姿勢を打ち込んだ。
大講堂落慶の記念行事、「3・16」の“広宣流布の記念式典”、そして恩師の葬儀と続いた約2カ月間の激闘によって、先生の疲労は限界に達していた。
関西から帰京した翌日の29日、先生は発熱する。
床に伏しながら、5月3日の春季総会に向けて、“学会の新たな出発のために何が必要なのか”を考え続けた。その時、脳裏によみがえったのが、恩師から託された「あと7年で、300万世帯までやれるか?」との広布の構想である。また、「学会は7年ごとに大きな歩みを刻んでいくのだ」との恩師の言葉だった。
池田先生は、7年ごとの学会の歩みを振り返り、思索を重ねた。そして、学会創立の30年(同5年)を起点として、7年ごとに前進を期す広布の指標を発表することを決断した。
この日の日記に、先生は記した。
「意義深き五月三日、目前に迫る。実質的――学会の指揮を執る日となるか」
「戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒濤を乗り越えて。本門の青春に入る」
桜の木に、みずみずしい青葉が萌え始めていた。58年4月24日、池田先生は男子部の指導会に出席し、質問会を行った。
学会への批判的な報道に不安を抱く青年に、「学会は大聖人の教えをそのまま実践していく師子王の団体です。何ものも恐れずに戦っていこう」と激励。あるリーダーには、“広布一筋”こそ戸田先生から薫陶を受けた青年部が進むべき道であると強調した。
翌25日、教学試験の面接官として関西へ。ある受験者に「絶対に学会から離れないことです。教学を研さんし、信心を深めていってください」と呼びかけるなど、関西の同志一人一人に、信心の姿勢を打ち込んだ。
大講堂落慶の記念行事、「3・16」の“広宣流布の記念式典”、そして恩師の葬儀と続いた約2カ月間の激闘によって、先生の疲労は限界に達していた。
関西から帰京した翌日の29日、先生は発熱する。
床に伏しながら、5月3日の春季総会に向けて、“学会の新たな出発のために何が必要なのか”を考え続けた。その時、脳裏によみがえったのが、恩師から託された「あと7年で、300万世帯までやれるか?」との広布の構想である。また、「学会は7年ごとに大きな歩みを刻んでいくのだ」との恩師の言葉だった。
池田先生は、7年ごとの学会の歩みを振り返り、思索を重ねた。そして、学会創立の30年(同5年)を起点として、7年ごとに前進を期す広布の指標を発表することを決断した。
この日の日記に、先生は記した。
「意義深き五月三日、目前に迫る。実質的――学会の指揮を執る日となるか」
「戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒濤を乗り越えて。本門の青春に入る」
〈小説『人間革命』第12巻「寂光」の章から〉
〈小説『人間革命』第12巻「寂光」の章から〉
先生の残せる、分身の生命は、
第二部の、広宣流布の決戦の幕を、
いよいよ開くのだ。
われは立つ。
先生の残せる、分身の生命は、
第二部の、広宣流布の決戦の幕を、
いよいよ開くのだ。
われは立つ。