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〈信仰体験〉 不退の歩み 右脚まひの1級建築士 2026年4月11日

  • 春風に舞う幸の花
  • 通信員54年 最後の取材
シャッターチャンスをうかがう永田さん㊨と妻・朝子さん
シャッターチャンスをうかがう永田さん㊨と妻・朝子さん

 【岐阜市】満開の桜がお似合いの夫婦がいる。電動車いすに乗った永田清さん(77)=副圏長=は今月上旬、目の前の“春”にカメラを向け、シャッターを切った。妻・朝子さん(76)=女性部副本部長=が、そばで見守る。二人の間に流れる空気は、日だまりのように温かい。

 永田さんは生後6カ月でポリオ(小児まひ)を患った。以来、右脚が動かなくなった。左脚に比べて細く、5センチほど短い。筋力の衰えもあり、1年前、日常生活にサポートが必要な「要介護3」になった。朝子さんも2度の脳梗塞の後遺症で、右手が動かない。

 買い物も、学会活動も、何をするにも一緒。けんかもする。それでも通じ合うのが、この夫婦。毎晩、御本尊の前で声を合わせて、その日のうちに仲直りする。互いに頭を下げるのかと思いきや、永田さんが「いえいえ、僕の方から謝る。それが夫婦円満の秘訣」と、こっそり教えてくれた。

 なれ初めがいい。
 永田さんが朝子さんと出会ってしばらくして、喫茶店でデートをした。永田さんは膝を震わせながら、朝子さんに言った。「僕は、こんな右脚です。だから、子どもができても一緒にキャッチボールができないかもしれません。その時は、代わりにやってもらえますか?」。いちずな愛の言葉に、朝子さんは「誠実さ」を感じた。1981年(昭和56年)、夫婦になった。

できなくなっていくことが増える分、できることも増やしていく。最近は、AIを使って、友人の写真を戦国武将に加工し、贈ったりしている
できなくなっていくことが増える分、できることも増やしていく。最近は、AIを使って、友人の写真を戦国武将に加工し、贈ったりしている

 設計事務所で働いていた永田さんは毎夜、皆が寝静まってからも勉強机の明かりをともし、問題集を20回以上解いた。そして、「1級建築士」の資格を取得。82年、建築事務所を立ち上げた。

 設計を担当した建物の工事現場には、必ず足を運んだ。つえを使って歩く時もあるが、永田さんは「自分の足で歩きたい」と、動かない右脚に右手を添えて、持ち上げるようにして動き回った。右脚の太ももには、いつも指の形があざになって残った。真面目で、謙虚な人柄に、仕事は絶えなかった。朝子さんは保健師をしながら、事務作業をサポートしてくれた。

 そんな朝子さんが、2002年(平成14年)、脳梗塞で倒れた。1カ月後に退院できたものの、「保健師の私が病気になるなんて……」と自分を責めてばかり。仕事を辞め、人と会うのを避けるようになった。

 妻を元気にしたい一心で、永田さんは御本尊に向かった。インターネットで、厚焼きタマゴの作り方を調べて、フライパンを握った。少し焦げたが、朝子さんが「おいしい」と、おかわりをしてくれた。

永田さんは中学・高校と美術部に所属。朝子さんも美術部出身で、出会った時、絵の話で盛り上がった。永田さんは今もハガキに絵を描いて、友人に贈る
永田さんは中学・高校と美術部に所属。朝子さんも美術部出身で、出会った時、絵の話で盛り上がった。永田さんは今もハガキに絵を描いて、友人に贈る

 ある日、夫婦で、池田先生が撮影した写真集を手に取った。満月の写真が目に留まる。先生の詩を二人で読んだ。

 「満月の夜/そうだ!/三日月の日も/あるではないか。/常に常に/同じ姿ではない。/同じ幸福ではない。/すべての不幸を/すべての幸福に/変えゆく法理が/仏法だ。」

 一人に寄り添う師の温かさが心に染みた。永田さんは、朝子さんの横顔を見た。涙が頰を伝っていた。その日から、朝子さんは少しずつ笑顔を取り戻していった。

 ある時、永田さんは、障がい者施設の設計を依頼された。平屋で引き戸を基本とし、見落としがちな床の溝や床材の切り替え部分などにも段差を作らなかった。外からの視線を気にすることがないよう、壁の高い位置に窓を多くする図面を引いた。

 1年後、完成した施設を訪れると、室内は陽光できらめいていた。依頼主から言われた。「建物全体から、永田さんの優しさ、温かさを感じます」

いつも明るい妻・朝子さん。絵本作家になる夢があったが、今は、朝子さんの俳句に、永田さんの挿絵を添えて、俳句集を作ることを目標に、日々、俳句を詠んでいる
いつも明るい妻・朝子さん。絵本作家になる夢があったが、今は、朝子さんの俳句に、永田さんの挿絵を添えて、俳句集を作ることを目標に、日々、俳句を詠んでいる

 コロナ禍では、外に出る機会がめっきり減った。体を動かす意識はしていたが、4年ほど前から、右脚だけでなく、左脚にも力が入らなくなり、車いす生活になった。

 医師に相談すると、「本来は、10年以上前に自力で歩けなくなっていても、おかしくありません。それが、今まで歩くことができたのは、永田さんが重ねてきた努力のたまものですよ」と。人のために生きてきた半生を褒められた気がした。

 昨年9月、設計事務所を閉めたが、「やりきった満足感の方が大きかった」。

 もう一つ、やりきったことがある。
 24歳から54年続けてきた本紙の通信員活動。「文章を書くのが、大の苦手で」。それでも、納得がいくまで、何度でも記事を書き直した。写真を撮り直した。失敗は成長の糧とした。その瞳の奥には、いつも池田先生がいた。

 1973年(昭和48年)5月、「第3回全国通信員大会」に参加した。
 出席した池田先生は、聖教新聞社の精神とは、「広宣流布遂行への大情熱であり、一言すれば『強盛にして正しき信心』」であると。燃えるようでいて、温かな師のまなざしを、永田さんは目に焼き付け、さまざまな取材に奔走してきた。

永田さんのプロポーズは言葉ではなく、ハンカチに「生涯、弟子の道を共に歩こう」と記した誓いだった
永田さんのプロポーズは言葉ではなく、ハンカチに「生涯、弟子の道を共に歩こう」と記した誓いだった

 今月、最後の取材との思いで、愛用のカメラバッグを首に掛けた。朝子さんに体を支えられながら、電動車いすに乗り込む。目的地は、自宅から200メートルの所にある公園。かつては歩いて5分の場所だった。電動車いすとなると「たった5センチのわずかな段差が、そびえる壁に思えた」。車いすの準備も含めると、公園まで20分かかった。2年前は、車に乗って、自宅から7キロ離れた公園で写真を撮ることができた。

 「思い通りに体を動かせなくなって、やっと、『約束せし事をまことの時はわするるなるべし』(開目抄、新117・全234)を心で拝することができた。今の自分だから、読者に届けられる思いがある」

 永田さんは公園に着くと、カメラを構え、じっくりチャンスをうかがった。ふと、スズメが桜の枝に止まり、花びらと遊び始めた。シャッターを切り、夫婦でカメラのモニターに映る写真をのぞき込む。「いいね」と二人でニッコリした。

 桜の花言葉は「精神の美」。人のために、と生きてきた二人。今、幸の花に包まれている。

永田さんが撮影した写真
永田さんが撮影した写真

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