「知恵」は私たちをぐらつかせ、不安にする――文化人類学者・奥野克巳さんに聞く、存続可能な未来とは
「知恵」は私たちをぐらつかせ、不安にする――文化人類学者・奥野克巳さんに聞く、存続可能な未来とは
2025年6月9日
「現代文明の外で暮らしている森の民には、私たちにはない豊かな知恵がある」。マレーシアのボルネオ島の森で暮らす狩猟採集民・プナンが生活する場所でフィールドワークを続ける、文化人類学者の奥野克巳さん(立教大学教授)は、そう語ります。今回の「著者に聞いてみよう」では、奥野さんとニッポン放送アナウンサーの吉田尚記さんの共著『何も持ってないのに、なんで幸せなんですか? 人類学が教えてくれる自由でラクな生き方』(亜紀書房)を手がかりに、人間らしさや豊かな暮らしとは何かを見つめ直します。
「現代文明の外で暮らしている森の民には、私たちにはない豊かな知恵がある」。マレーシアのボルネオ島の森で暮らす狩猟採集民・プナンが生活する場所でフィールドワークを続ける、文化人類学者の奥野克巳さん(立教大学教授)は、そう語ります。今回の「著者に聞いてみよう」では、奥野さんとニッポン放送アナウンサーの吉田尚記さんの共著『何も持ってないのに、なんで幸せなんですか? 人類学が教えてくれる自由でラクな生き方』(亜紀書房)を手がかりに、人間らしさや豊かな暮らしとは何かを見つめ直します。
奥野さんが研究するのは、ブラガ川上流域に住む数百人の西プナン
奥野さんが研究するのは、ブラガ川上流域に住む数百人の西プナン
■「ちっぽけな獲物しか捕れなかった」。自らをディスる(おとしめる)森の民
■「ちっぽけな獲物しか捕れなかった」。自らをディスる(おとしめる)森の民
――狩猟採集民・プナンには、「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉が存在しないそうですね。奥野さんの本を読みながら、「え、それがなくてどうやって暮らしが成立するの?」と思わず、声を上げている自分がいました。
そうした感謝や謝罪の言葉が存在しないのは、モノを「所有する」という感覚が希薄だからです。彼らの社会では、食料の入手は季節や偶然に左右されるため、個人の利益よりも助け合いが生存の鍵になります。分かち合いや助け合いは当然のことなんです。プナンの生活を観察していくと、「平等主義」が隅々まで行き届いているのが分かります。
例えば、今の社会で重要なキーワードである“承認欲求”について考えてみましょう。現代は常に自分と誰かを比較し、優劣をつけようとする心理に駆られがちです。SNSを見れば、「いいね」を求め、誰かよりも目立とうと、承認欲求を増長させるようなことが起き続けている。
こうした社会の根底にあるのは、資本主義です。資本主義は「自由」を最も重視します。そのため、市場における自由競争によって、人と人との能力差が明るみに出され、優劣や上下の関係が構造的に生まれます。言い換えれば、「平等」は常に犠牲になってきたわけです。そしてそれが、現代社会における格差や分断を生んでいる。
しかし、プナンには承認欲求をうまく否定し、上下の違いが生まれないような仕組みがあります。具体的に言えば、狩猟の際、大きな獲物を仕留めた人やその家族は、「このちっぽけな獲物しか捕れなかったんだ」と自らをおとしめます。そうすることによって、突出した人格を生まないようにし、“誰かに認められたくて頑張る”といった発想そのものが、育たないようにしているんです。
――狩猟採集民・プナンには、「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉が存在しないそうですね。奥野さんの本を読みながら、「え、それがなくてどうやって暮らしが成立するの?」と思わず、声を上げている自分がいました。
そうした感謝や謝罪の言葉が存在しないのは、モノを「所有する」という感覚が希薄だからです。彼らの社会では、食料の入手は季節や偶然に左右されるため、個人の利益よりも助け合いが生存の鍵になります。分かち合いや助け合いは当然のことなんです。プナンの生活を観察していくと、「平等主義」が隅々まで行き届いているのが分かります。
例えば、今の社会で重要なキーワードである“承認欲求”について考えてみましょう。現代は常に自分と誰かを比較し、優劣をつけようとする心理に駆られがちです。SNSを見れば、「いいね」を求め、誰かよりも目立とうと、承認欲求を増長させるようなことが起き続けている。
こうした社会の根底にあるのは、資本主義です。資本主義は「自由」を最も重視します。そのため、市場における自由競争によって、人と人との能力差が明るみに出され、優劣や上下の関係が構造的に生まれます。言い換えれば、「平等」は常に犠牲になってきたわけです。そしてそれが、現代社会における格差や分断を生んでいる。
しかし、プナンには承認欲求をうまく否定し、上下の違いが生まれないような仕組みがあります。具体的に言えば、狩猟の際、大きな獲物を仕留めた人やその家族は、「このちっぽけな獲物しか捕れなかったんだ」と自らをおとしめます。そうすることによって、突出した人格を生まないようにし、“誰かに認められたくて頑張る”といった発想そのものが、育たないようにしているんです。
狩猟小屋で、取れたての川魚を前にして
狩猟小屋で、取れたての川魚を前にして
■20万年の歴史で最も長く続いたなりわいとは?
■20万年の歴史で最も長く続いたなりわいとは?
――上下関係を生まない仕組みは、プナンの中で明確にルール化されていることなんですか?
ルールとして決めたというよりは、「決まっていた」という方が適切だと思います。知らず知らずのうちに構造化されているんです。
他には、こんなこともあります。常に生活を共にしているプナンの人々の間では、いさかいはつきものです。そのような環境下でけんかが勃発した際は、お互いに感情を爆発させ、怒りが収まるまで思っていることを言い続けます。それが2時間も3時間も続く場合があります。しかし、それだけ長時間にわたると、怒りが消耗され、最後はけんか自体、どうでもよくなるのです。翌日には何事もなかったかのように、仲良くします。決着をつけずに対話の場を開き続けている――昨今注目される、オープンダイアローグの原型を目の当たりにしているような気がします。
――共存する仕組みが、プナンの中に織り込まれているんですね。
そもそも、ホモ・サピエンスの20万年にわたる全歴史のうち、9割以上が、商業資本主義や農業によって形づくられたものではありません。むしろ、狩猟採集は、地上に人類が出現して以来、最も長く続いたなりわいであり、持続可能性がとても高い生き方だといえます。
これまで、先住民の社会というと、「未開」で「野蛮」であるとイメージする人が多くいました。しかし、20世紀後半になると、「実はそうではない。最初から完成されている精神が存在している」と、人類学者たちが説き始めたのです。
人類学の誕生は、今から100年ほど前のことになります。当時、第一次世界大戦によってヨーロッパ全体で約855万人の死者が出ました。詩人のポール・ヴァレリーは「精神の危機」という評論の中で、「ヨーロッパ文化という幻想がはじけ、知識では何も救えないという知識の無力が証明された」と述べました。
科学と合理主義が進展した時代であり、ヨーロッパの人々は、神の不在によって居場所を失い、ニヒリズム(虚無主義)に陥っていた。また、機械化された大規模工業の発達によって人間性が傷つけられ、未曽有の規模の戦争を戦った果てに、ヨーロッパ文化への幻滅に直面する。そうした時代に生み出されたのが人類学です。
人類学者のマリノフスキは、自ら慣れ親しんだ世界の「外部」へと出かけ、そこに滞在し、人類がいかに生きるべきかという問いを探りました。その後、登場したフランスの人類学者レヴィ=ストロースは、人が生きていく上で欠かせない儀礼や制度、習慣の中に潜む無意識の構造を探り出し、人間とは何かを描き出しました。彼は20世紀の思想界に多大な影響を及ぼした「構造主義」を打ち立てた学者としても有名です。
無意識の構造や、その地の民に宿る精神。一言で言えば、人類の「知恵」にもっと目を向けることで、私は、知識偏重によって行き詰まっている現代社会に風穴を開けられるのではないかと思っています。
――上下関係を生まない仕組みは、プナンの中で明確にルール化されていることなんですか?
ルールとして決めたというよりは、「決まっていた」という方が適切だと思います。知らず知らずのうちに構造化されているんです。
他には、こんなこともあります。常に生活を共にしているプナンの人々の間では、いさかいはつきものです。そのような環境下でけんかが勃発した際は、お互いに感情を爆発させ、怒りが収まるまで思っていることを言い続けます。それが2時間も3時間も続く場合があります。しかし、それだけ長時間にわたると、怒りが消耗され、最後はけんか自体、どうでもよくなるのです。翌日には何事もなかったかのように、仲良くします。決着をつけずに対話の場を開き続けている――昨今注目される、オープンダイアローグの原型を目の当たりにしているような気がします。
――共存する仕組みが、プナンの中に織り込まれているんですね。
そもそも、ホモ・サピエンスの20万年にわたる全歴史のうち、9割以上が、商業資本主義や農業によって形づくられたものではありません。むしろ、狩猟採集は、地上に人類が出現して以来、最も長く続いたなりわいであり、持続可能性がとても高い生き方だといえます。
これまで、先住民の社会というと、「未開」で「野蛮」であるとイメージする人が多くいました。しかし、20世紀後半になると、「実はそうではない。最初から完成されている精神が存在している」と、人類学者たちが説き始めたのです。
人類学の誕生は、今から100年ほど前のことになります。当時、第一次世界大戦によってヨーロッパ全体で約855万人の死者が出ました。詩人のポール・ヴァレリーは「精神の危機」という評論の中で、「ヨーロッパ文化という幻想がはじけ、知識では何も救えないという知識の無力が証明された」と述べました。
科学と合理主義が進展した時代であり、ヨーロッパの人々は、神の不在によって居場所を失い、ニヒリズム(虚無主義)に陥っていた。また、機械化された大規模工業の発達によって人間性が傷つけられ、未曽有の規模の戦争を戦った果てに、ヨーロッパ文化への幻滅に直面する。そうした時代に生み出されたのが人類学です。
人類学者のマリノフスキは、自ら慣れ親しんだ世界の「外部」へと出かけ、そこに滞在し、人類がいかに生きるべきかという問いを探りました。その後、登場したフランスの人類学者レヴィ=ストロースは、人が生きていく上で欠かせない儀礼や制度、習慣の中に潜む無意識の構造を探り出し、人間とは何かを描き出しました。彼は20世紀の思想界に多大な影響を及ぼした「構造主義」を打ち立てた学者としても有名です。
無意識の構造や、その地の民に宿る精神。一言で言えば、人類の「知恵」にもっと目を向けることで、私は、知識偏重によって行き詰まっている現代社会に風穴を開けられるのではないかと思っています。
奥野克巳さんと吉田尚記さんの共著『何も持ってないのに、なんで幸せなんですか? 人類学が教えてくれる自由でラクな生き方』(亜紀書房)
奥野克巳さんと吉田尚記さんの共著『何も持ってないのに、なんで幸せなんですか? 人類学が教えてくれる自由でラクな生き方』(亜紀書房)
■内部だけで完結していないか
■内部だけで完結していないか
――100年前とは次元は異なるかもしれませんが、現代の若者の中にも、世の中の不条理や矛盾を感じながら「自分に何ができるのか」と、自問自答する人たちがいます。一方で、諦めや無力感にさいなまれている人も。もし、彼らからアドバイスを求められたら?
「今いる場所、その内部だけで考えや行動が完結してしまってはいないか。外部に対しての想像力が欠けていては、物事の本質に迫ることはできません」と、言うでしょうね。
私は高校1年生の頃、この世界に初めて疑問を持ちました。サッカーで骨折し、自宅療養を強いられていた時のこと。天井を見つめながら、ふと、「俺、何をやっているんだろう」と、自分の人生に疑問を持ったんです。大学受験とか就職とか、自分で考えて正解を出そうというよりも、誰かが決めた正解を、ただなぞろうとしているだけなんじゃないかと感じた。それから、世界の民族や風景の写真が載った本などに目を向け、「まだ見ぬ世界を自分の目で見てみたい」と考えるようになりました。そして今日に至ります。そうした経験を通して言えるのは、頭の中だけで考えを組み立てるのではなく、手を使い、足を使い、自らの感覚を総動員することで得られることがある、ということです。
現代の人類学をけん引するティム・インゴルドは、「人類学の目的は、人間の生そのものと会話することである」と述べています。これは現代を生きている私たちにとっても大事なメッセージになるでしょう。「社会とは」「人生とは」と深めたいのならば、生そのものと会話することです。そのためには、知識と知恵の違いを理解していくことが必要になります。
――100年前とは次元は異なるかもしれませんが、現代の若者の中にも、世の中の不条理や矛盾を感じながら「自分に何ができるのか」と、自問自答する人たちがいます。一方で、諦めや無力感にさいなまれている人も。もし、彼らからアドバイスを求められたら?
「今いる場所、その内部だけで考えや行動が完結してしまってはいないか。外部に対しての想像力が欠けていては、物事の本質に迫ることはできません」と、言うでしょうね。
私は高校1年生の頃、この世界に初めて疑問を持ちました。サッカーで骨折し、自宅療養を強いられていた時のこと。天井を見つめながら、ふと、「俺、何をやっているんだろう」と、自分の人生に疑問を持ったんです。大学受験とか就職とか、自分で考えて正解を出そうというよりも、誰かが決めた正解を、ただなぞろうとしているだけなんじゃないかと感じた。それから、世界の民族や風景の写真が載った本などに目を向け、「まだ見ぬ世界を自分の目で見てみたい」と考えるようになりました。そして今日に至ります。そうした経験を通して言えるのは、頭の中だけで考えを組み立てるのではなく、手を使い、足を使い、自らの感覚を総動員することで得られることがある、ということです。
現代の人類学をけん引するティム・インゴルドは、「人類学の目的は、人間の生そのものと会話することである」と述べています。これは現代を生きている私たちにとっても大事なメッセージになるでしょう。「社会とは」「人生とは」と深めたいのならば、生そのものと会話することです。そのためには、知識と知恵の違いを理解していくことが必要になります。
■知識は武装、知恵は武装解除
■知識は武装、知恵は武装解除
――知識と知恵の違いとは?
インゴルドは、こうも言います。
「知識は私たちの心を安定させ、不安を取り払ってくれる。知恵は私たちをぐらつかせ、不安にする。知識は武装し、統御する。知恵は武装解除し、降参する」
知識は、予測可能で説明できるようにするために、モノを概念の中に固定することによって生み出される。知識はそれを得た人に力を与えてくれます。しかし、知識の“要塞”に立てこもると、周りで起きていることに注意を払わなくなります。
それに対して、知恵とは、世界の中に飛び込んで、そこで起きていることにさらされる危険を冒すことから開かれてくるものです。
例えば、「モノを盗まれた」といった事件が発生した場合、一般的には法的なルールに従って裁判を起こし、法廷で解決することになります。それは、社会にある法律という秩序=「知識」に基づく行動です。
しかし、知識だけで満たされてしまうと、人間本来の“あり方”という本質的なものに気づかなくなってしまう可能性があるのです。
「モノを盗まれた」という問題において、そもそも、なぜ法律に従って対処しなければならないのか。個人間で解決してはいけないのか。例えば、先ほど紹介したプナンのように。このようにシステムを一から疑い出すと、何に立脚して判断を下せばいいのかが分からなくなり、不安になるかもしれません。しかし、それはある意味で、私たち現代人がそれほど深く考えずに当たり前だと思い込んでしまっている、仕組みや制度に対する私たちの「武装」を解除することにもつながります。いったん、武装を止めて、自らを開いて、物事の根源から世界を問い直す中で見えてくることもある。
法を使っているようで、いつの間にか人間が法の奴隷になり、使われるような事態になってはいないか。そんなことを考えるきっかけにもなり得るでしょう。
――知識と知恵の違いとは?
インゴルドは、こうも言います。
「知識は私たちの心を安定させ、不安を取り払ってくれる。知恵は私たちをぐらつかせ、不安にする。知識は武装し、統御する。知恵は武装解除し、降参する」
知識は、予測可能で説明できるようにするために、モノを概念の中に固定することによって生み出される。知識はそれを得た人に力を与えてくれます。しかし、知識の“要塞”に立てこもると、周りで起きていることに注意を払わなくなります。
それに対して、知恵とは、世界の中に飛び込んで、そこで起きていることにさらされる危険を冒すことから開かれてくるものです。
例えば、「モノを盗まれた」といった事件が発生した場合、一般的には法的なルールに従って裁判を起こし、法廷で解決することになります。それは、社会にある法律という秩序=「知識」に基づく行動です。
しかし、知識だけで満たされてしまうと、人間本来の“あり方”という本質的なものに気づかなくなってしまう可能性があるのです。
「モノを盗まれた」という問題において、そもそも、なぜ法律に従って対処しなければならないのか。個人間で解決してはいけないのか。例えば、先ほど紹介したプナンのように。このようにシステムを一から疑い出すと、何に立脚して判断を下せばいいのかが分からなくなり、不安になるかもしれません。しかし、それはある意味で、私たち現代人がそれほど深く考えずに当たり前だと思い込んでしまっている、仕組みや制度に対する私たちの「武装」を解除することにもつながります。いったん、武装を止めて、自らを開いて、物事の根源から世界を問い直す中で見えてくることもある。
法を使っているようで、いつの間にか人間が法の奴隷になり、使われるような事態になってはいないか。そんなことを考えるきっかけにもなり得るでしょう。
狩猟小屋のプナンの若者たち
狩猟小屋のプナンの若者たち
■人々「について(of)」から「とともに(with)」へ
■人々「について(of)」から「とともに(with)」へ
――私たちには、知識に劣らず、知恵が必要ということですね。
今日、そのバランスは、知識に大きく傾いています。人類学者の仕事は、科学によって伝えられる知識に知恵を調和させていくことだともいえます。
しかし、これまでの人類学は残念なことに、現地の人々を“情報提供者”として位置付けることが多かった。なぜなら、人類学者は、フィールドで現象そのものをデータに変える瞬間に、「彼らの言うことが何を語っているのか」という知識にしか関心がなくなってしまうからです。そして、人類学者は帰国して、人々「について(of)」語り始める。
しかし、インゴルドは、人類学者が本当にやってきたのは、フィールドで人々「とともに(with)」研究することだったのだと言います。こうした参与観察は、生きる方法を探るという、人間の共通の任務に他者と「共に加わる」ことを指すのだ、と。つまり、世界とは、研究対象ではなく、研究の環境というわけです。
ですから、フィールドで人々から学ぶには、「他者を真剣に受け取る」という姿勢が肝要です。人々が何を言おうが、しようが、私たちの「知識」を増やすためだけに、人々の言葉や行動をデータとして解釈するのなら、「他者を真剣に受け取る」ことはできません。それでは異文化理解で終わってしまう。自らの考えや価値観の枠組みの中だけで納得してはいけません。
「知恵」を得るとは、そのように論を閉じてしまうのではなく、フィールドの人々の経験を真剣に受け取り、そのことによって豊かになった想像力に対して論を開いていくことなのです。
――私たちには、知識に劣らず、知恵が必要ということですね。
今日、そのバランスは、知識に大きく傾いています。人類学者の仕事は、科学によって伝えられる知識に知恵を調和させていくことだともいえます。
しかし、これまでの人類学は残念なことに、現地の人々を“情報提供者”として位置付けることが多かった。なぜなら、人類学者は、フィールドで現象そのものをデータに変える瞬間に、「彼らの言うことが何を語っているのか」という知識にしか関心がなくなってしまうからです。そして、人類学者は帰国して、人々「について(of)」語り始める。
しかし、インゴルドは、人類学者が本当にやってきたのは、フィールドで人々「とともに(with)」研究することだったのだと言います。こうした参与観察は、生きる方法を探るという、人間の共通の任務に他者と「共に加わる」ことを指すのだ、と。つまり、世界とは、研究対象ではなく、研究の環境というわけです。
ですから、フィールドで人々から学ぶには、「他者を真剣に受け取る」という姿勢が肝要です。人々が何を言おうが、しようが、私たちの「知識」を増やすためだけに、人々の言葉や行動をデータとして解釈するのなら、「他者を真剣に受け取る」ことはできません。それでは異文化理解で終わってしまう。自らの考えや価値観の枠組みの中だけで納得してはいけません。
「知恵」を得るとは、そのように論を閉じてしまうのではなく、フィールドの人々の経験を真剣に受け取り、そのことによって豊かになった想像力に対して論を開いていくことなのです。
森で捕れたイノシシを担いで歩くプナン
森で捕れたイノシシを担いで歩くプナン
■深い森の中へ行け? 「外部」に出る方法
■深い森の中へ行け? 「外部」に出る方法
――「外部」に出るには、具体的にどうすればいいでしょうか?
「外部へ出る」とは、何も、遠い外国の、深い森の中を訪れる、ということだけではありません。隣の町、行ったことのない場所に入り込んで、五感を働かせながら人々や自然を見つめてみたり、感じてみたりすればいいんです。
コロナ禍の最中、私は海外のフィールドに行けなくなり、国内を回ってみました。そこで心がけて何回かやってみたことの一つに、「自分以外の何かになってみる」ことがあります。急にこんなことを言うと、キョトンとする方もいるかもしれませんね。
実はこんなことが世界ではあるんです。2017年、ニュージーランド政府はニュージーランド北部にあるワンガヌイ川に「法人格」を認めた法案を可決しました。この川とともに生きてきた先住民のマオリは、かねてこの川の開発に反対し、川の法的な人格権を政府に求めてきました。代々、自然の中に生き続けてきたマオリは、「私は川であり、川は私である」と言ってきたからです。この法案によって、川の汚染や破壊活動など、川流域に対する脅威があれば、川は訴えを起こすことができます。川自体が財産を所有したり、契約を結んだりすることもできます。ですから、人間や社会の側には、その訴えを聞き届けて対応する姿勢が求められることになります。
現代人の我々からすれば、ファンタジーのように聞こえるかもしれません。しかし、「信じられない」と思ってしまう裏には、人間と自然を切り分けて別物だとする考え方があることも知っておいてください。
――「自分以外の何かになってみる」といいますが、例えば何になったらいいですかね(笑)? 奥野さんは国内を回る際、何になったのですか。
私自身は「水」になった上で、2泊3日かけて荒川の源流から東京湾まで、車も使いながら川を下ってみました。すると、景色がこれまでと変わって見えた。荒川に赤羽の岩淵水門というのがあって、そこから下流の22キロは荒川放水路になっています。荒川流域全体で200万人ぐらいしか住めないのに、その水門インフラがあるおかげで、1000万人ぐらいが住むような都市空間ができている。人間にとってはとてもいいことなんですが、逆に言えば、インフラを整備して水を人間のために制御しているということなのです。こういうやり方を進めれば、どこにいても「他者を真剣に受け取る」ことができると思います。
プナンの世界でも、「人間は自然とつながっている存在」であり、自己を他者や自然と切り離して考えていません。したがって先述した通り、「自分のモノ」「他人のモノ」という境界が弱く、共有と連帯が当たり前の感覚となっています。私はこうした“自己と他者が絡まり合う生のあり方”に注目しています。プナンには20年通っていますが、まだまだ分からないことだらけです。だからこそ、行くたびに新しい発見があって“オモロイ”(面白い)んですけどね。
〈プロフィル〉
おくの・かつみ 立教大学異文化コミュニケーション学部教授。1962年、滋賀県生まれ。20歳でメキシコ・シエラマドレ山脈先住民テペワノの村に滞在し、バングラデシュで上座部仏教の僧となり、トルコのクルディスタンを旅し、インドネシアを一年間めぐった後に文化人類学を専攻。主な著作として単著に『ひっくり返す人類学 生きづらさの「そもそも」を問う』『はじめての人類学』『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』など。
※プナンの写真は本人提供
●ご感想をお寄せください
youth@seikyo-np.jp
――「外部」に出るには、具体的にどうすればいいでしょうか?
「外部へ出る」とは、何も、遠い外国の、深い森の中を訪れる、ということだけではありません。隣の町、行ったことのない場所に入り込んで、五感を働かせながら人々や自然を見つめてみたり、感じてみたりすればいいんです。
コロナ禍の最中、私は海外のフィールドに行けなくなり、国内を回ってみました。そこで心がけて何回かやってみたことの一つに、「自分以外の何かになってみる」ことがあります。急にこんなことを言うと、キョトンとする方もいるかもしれませんね。
実はこんなことが世界ではあるんです。2017年、ニュージーランド政府はニュージーランド北部にあるワンガヌイ川に「法人格」を認めた法案を可決しました。この川とともに生きてきた先住民のマオリは、かねてこの川の開発に反対し、川の法的な人格権を政府に求めてきました。代々、自然の中に生き続けてきたマオリは、「私は川であり、川は私である」と言ってきたからです。この法案によって、川の汚染や破壊活動など、川流域に対する脅威があれば、川は訴えを起こすことができます。川自体が財産を所有したり、契約を結んだりすることもできます。ですから、人間や社会の側には、その訴えを聞き届けて対応する姿勢が求められることになります。
現代人の我々からすれば、ファンタジーのように聞こえるかもしれません。しかし、「信じられない」と思ってしまう裏には、人間と自然を切り分けて別物だとする考え方があることも知っておいてください。
――「自分以外の何かになってみる」といいますが、例えば何になったらいいですかね(笑)? 奥野さんは国内を回る際、何になったのですか。
私自身は「水」になった上で、2泊3日かけて荒川の源流から東京湾まで、車も使いながら川を下ってみました。すると、景色がこれまでと変わって見えた。荒川に赤羽の岩淵水門というのがあって、そこから下流の22キロは荒川放水路になっています。荒川流域全体で200万人ぐらいしか住めないのに、その水門インフラがあるおかげで、1000万人ぐらいが住むような都市空間ができている。人間にとってはとてもいいことなんですが、逆に言えば、インフラを整備して水を人間のために制御しているということなのです。こういうやり方を進めれば、どこにいても「他者を真剣に受け取る」ことができると思います。
プナンの世界でも、「人間は自然とつながっている存在」であり、自己を他者や自然と切り離して考えていません。したがって先述した通り、「自分のモノ」「他人のモノ」という境界が弱く、共有と連帯が当たり前の感覚となっています。私はこうした“自己と他者が絡まり合う生のあり方”に注目しています。プナンには20年通っていますが、まだまだ分からないことだらけです。だからこそ、行くたびに新しい発見があって“オモロイ”(面白い)んですけどね。
〈プロフィル〉
おくの・かつみ 立教大学異文化コミュニケーション学部教授。1962年、滋賀県生まれ。20歳でメキシコ・シエラマドレ山脈先住民テペワノの村に滞在し、バングラデシュで上座部仏教の僧となり、トルコのクルディスタンを旅し、インドネシアを一年間めぐった後に文化人類学を専攻。主な著作として単著に『ひっくり返す人類学 生きづらさの「そもそも」を問う』『はじめての人類学』『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』など。
※プナンの写真は本人提供
●ご感想をお寄せください
youth@seikyo-np.jp