「広布ちかう一周忌法要」――1959年(昭和34年)4月10日付の本紙の見出し。2日、戸田先生の一周忌法要が営まれた。
池田先生は青年部と共に墓参。「星落秋風五丈原」を皆で合唱した。さらに、集成した水滸会、華陽会の指導記録を、墓前に供えた。
10日付の本紙には、法要の概況報道とともに、戸田先生をしのぶ宗教学者の追憶談が掲載されている。恩師は、この宗教学者が奄美大島に民間信仰の実態調査に出発する時、小説『人間革命』(妙悟空著)を贈呈。表紙の裏に次の和歌を書きそえた。
「君がため おくる心に 幸あれと 祈りてやまぬ 今の心境」
宗教学者は記した。
「世間の人も学会の悪口をたとえ言っても、一度、先生に会えば好きになってしまうでしょう」
「人間生きているときに『これでよし』とする仕事を全うすることはでき難いものです。この点、戸田先生はりっぱな生涯を送られた人として私は尊敬している」
戸田先生と宗教学者が出会ったのは、NHKの対談放送の取材がきっかけだった。当初、宗教学者は学会に批判的であった。だが、恩師との交流を通して、学会の良き理解者となった。
池田先生は、恩師と学者の友情を通してつづっている。「『仏法即社会』である。本来、学会と社会の間に垣根はない。一人ひとりの心にも、垣根などあってはならない。友情は人間の証であり、その人間をつくるのが仏法である」
戸田先生の一周忌を終え、新たな戦いの幕が開けた。最初の励ましの舞台は中国・九州方面である。6日、池田先生は山口・岩国市で行われた指導会に臨んだ。「四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)」を講義。その後の質問会で、「仏法は勝負といいますが、勝てば功徳であり、負ければ罰なのでしょうか」との質問があった。先生は答えた。
「負けたからといって、罰とは言えません。大聖人は『一生成仏抄』で『一切の行動がすべて功徳を積んでいく行動となる』と仰せになっています。御本尊に祈り、信じる者の全ての行動が、そのままわが身の福運となり、幸せになっていくのです」
翌7日、大分を初訪問。高崎山に足を運び、青年たちと懇談。記念のカメラにも納まった。
夜には、大分市内での指導会に出席。終了後も、別府の宿舎で激励が続いた。その場にいた青年は、緊張で顔がこわばっていた。先生は語った。
「私がいる時は、安心していいんだよ。楽をしていいんだよ。むしろ私がいない時にこそ、緊張感をもって、同志のためにしっかりと戦ってもらいたいんだ」
8日、先生は宮崎の指導会へ。翌日は、青島に足を運び、友を励ます。夜、鹿児島での野外指導会に臨み、10日には福岡で御書講義を行った。
先生の渾身の激励によって、新たな広布の炎が燃え上がった。
「広布ちかう一周忌法要」――1959年(昭和34年)4月10日付の本紙の見出し。2日、戸田先生の一周忌法要が営まれた。
池田先生は青年部と共に墓参。「星落秋風五丈原」を皆で合唱した。さらに、集成した水滸会、華陽会の指導記録を、墓前に供えた。
10日付の本紙には、法要の概況報道とともに、戸田先生をしのぶ宗教学者の追憶談が掲載されている。恩師は、この宗教学者が奄美大島に民間信仰の実態調査に出発する時、小説『人間革命』(妙悟空著)を贈呈。表紙の裏に次の和歌を書きそえた。
「君がため おくる心に 幸あれと 祈りてやまぬ 今の心境」
宗教学者は記した。
「世間の人も学会の悪口をたとえ言っても、一度、先生に会えば好きになってしまうでしょう」
「人間生きているときに『これでよし』とする仕事を全うすることはでき難いものです。この点、戸田先生はりっぱな生涯を送られた人として私は尊敬している」
戸田先生と宗教学者が出会ったのは、NHKの対談放送の取材がきっかけだった。当初、宗教学者は学会に批判的であった。だが、恩師との交流を通して、学会の良き理解者となった。
池田先生は、恩師と学者の友情を通してつづっている。「『仏法即社会』である。本来、学会と社会の間に垣根はない。一人ひとりの心にも、垣根などあってはならない。友情は人間の証であり、その人間をつくるのが仏法である」
戸田先生の一周忌を終え、新たな戦いの幕が開けた。最初の励ましの舞台は中国・九州方面である。6日、池田先生は山口・岩国市で行われた指導会に臨んだ。「四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)」を講義。その後の質問会で、「仏法は勝負といいますが、勝てば功徳であり、負ければ罰なのでしょうか」との質問があった。先生は答えた。
「負けたからといって、罰とは言えません。大聖人は『一生成仏抄』で『一切の行動がすべて功徳を積んでいく行動となる』と仰せになっています。御本尊に祈り、信じる者の全ての行動が、そのままわが身の福運となり、幸せになっていくのです」
翌7日、大分を初訪問。高崎山に足を運び、青年たちと懇談。記念のカメラにも納まった。
夜には、大分市内での指導会に出席。終了後も、別府の宿舎で激励が続いた。その場にいた青年は、緊張で顔がこわばっていた。先生は語った。
「私がいる時は、安心していいんだよ。楽をしていいんだよ。むしろ私がいない時にこそ、緊張感をもって、同志のためにしっかりと戦ってもらいたいんだ」
8日、先生は宮崎の指導会へ。翌日は、青島に足を運び、友を励ます。夜、鹿児島での野外指導会に臨み、10日には福岡で御書講義を行った。
先生の渾身の激励によって、新たな広布の炎が燃え上がった。
次に勝てばいい!
次に勝てばいい!
59年4月23日、統一地方選挙の前半戦が行われた。当時、東京都議会議員選挙も、この前半戦に実施された。
学会は都議選で、多くの候補を支援。しかし、苦杯をなめた候補もいた。意気消沈する友に、池田先生は語った。
「気落ちしちゃいけないよ。戦いだから、負けることも勝つこともあります。次が大事です。次に勝てばいいではないか!」
「黎明の年」と掲げ、新たな前進を期して挑んだ立正安国の戦い。結果が示したのは、広宣流布の道程の険しさだった。だが、一時の勝敗に右往左往していては、停滞が生じる。ゆえに、先生は次なる勝利へ向けて、一刻も早く、立ち上がることを訴えたのである。
5月3日、日大講堂で春季総会が行われた。先生は「わが創価学会は、信心を根本とした世界最高の宗教団体であります」と宣言。峻厳なる信心を根本として、一致団結していこうと師子吼した。
7日、男女青年部の幹部会が、それぞれ行われた。先生は女子部の集いに出席。“冥の照覧”を確信して、自らの人間革命に挑むことを呼びかけた。
東京・品川公会堂(当時)で開かれた男子部の集いには、群馬・高崎からメンバーが参加。皆、自身の課題に挑戦しながら、求道の心を燃やし駆け付けた。
先生はその報告を耳にすると、恩師のもとで苦闘した青春時代を述懐しながら、その当時に作った詩を暗唱した。
希望に燃えて
怒濤に向い
たとい貧しき
身なりとも
人が笑おが
あざけよが
じっとこらえて
今に見ろ……
そらんじた後、先生は「この詩をみんなにあげよう。高崎から駆けつけた男子部員にもあげよう」と。詩は、高崎の地にともされた広布の灯となった。
59年4月23日、統一地方選挙の前半戦が行われた。当時、東京都議会議員選挙も、この前半戦に実施された。
学会は都議選で、多くの候補を支援。しかし、苦杯をなめた候補もいた。意気消沈する友に、池田先生は語った。
「気落ちしちゃいけないよ。戦いだから、負けることも勝つこともあります。次が大事です。次に勝てばいいではないか!」
「黎明の年」と掲げ、新たな前進を期して挑んだ立正安国の戦い。結果が示したのは、広宣流布の道程の険しさだった。だが、一時の勝敗に右往左往していては、停滞が生じる。ゆえに、先生は次なる勝利へ向けて、一刻も早く、立ち上がることを訴えたのである。
5月3日、日大講堂で春季総会が行われた。先生は「わが創価学会は、信心を根本とした世界最高の宗教団体であります」と宣言。峻厳なる信心を根本として、一致団結していこうと師子吼した。
7日、男女青年部の幹部会が、それぞれ行われた。先生は女子部の集いに出席。“冥の照覧”を確信して、自らの人間革命に挑むことを呼びかけた。
東京・品川公会堂(当時)で開かれた男子部の集いには、群馬・高崎からメンバーが参加。皆、自身の課題に挑戦しながら、求道の心を燃やし駆け付けた。
先生はその報告を耳にすると、恩師のもとで苦闘した青春時代を述懐しながら、その当時に作った詩を暗唱した。
希望に燃えて
怒濤に向い
たとい貧しき
身なりとも
人が笑おが
あざけよが
じっとこらえて
今に見ろ……
そらんじた後、先生は「この詩をみんなにあげよう。高崎から駆けつけた男子部員にもあげよう」と。詩は、高崎の地にともされた広布の灯となった。
「なぜ強い創価学会」
「なぜ強い創価学会」
捲土重来の時が来た。この7日にはまた、参議院議員選挙が公示。東京は唯一、地方区として学会推薦の候補が立った。
3年前の56年(同31年)、東京地方区は涙をのんだ。戸田先生は雪辱を固く誓っていた。恩師の心を知る池田先生は、深甚の決意で「東京の戦い」に臨んだ。
先生は連日、午前6時から学会本部で皆と勤行し、御書を拝した。「“まさか”が実現」と世間を驚嘆させた「大阪の戦い」と方程式は同じである。
「東京の戦い」の勝利――その焦点は、「一人」を大切にすること。先生は東京中を駆けた。一日で文京、台東、墨田、葛飾、江戸川を回ったこともあった。ある時は自転車に乗り、ある時は軽トラックの助手席に乗って、広布の最前線を巡った。「一人の励まし」に全力を注ぎ、皆の力を引き出していった。
時間が取れず、参加できない会合には励ましの言葉を届けた。指導に赴く担当幹部にも、「毎日、遠方にて奮戦、誠に誠に御苦労様」と手紙に記すなど、心を配った。各地を回る中で、「団結」などの書をしたためた。
先生は訴えた。
「みんなが『勇気、正義、信念の人』であることを証明しなければなりません。広宣流布のために、一人一人が師子の道を歩まねばなりません。私たちの戦いです。私たちの信心の戦いです。題目をあげ抜いて、心を一つにして戦えば必ず勝てる!」
首都に隣接する地域にも足を運んだ。59年5月10日、神奈川・川崎支部の集いに出席。「この闘争が終わったら、ああよかった、こんなに自分は力がついた、確信がついた、こんなにも自分は境涯が開いたというようになっていただきたい」と望んだ。
16日には、大宮支部会館(当時)で、埼玉の男女青年部幹部と懇談。芸術論や文化論、人物論にまで話題は広がった。
懇談が行われる前、先生は一人の女性を激励していた。彼女は父を亡くしたことを伝えた。先生は、自身が使っていた若竹色の袱紗を贈った。そこには、白で染められた「精進」との文字。この言葉を、彼女は胸に刻んだ。
翌17日、今度は静岡へ。御書講義を担当し、質問会も行った。その時、祖父が病で苦しむ女性が手を挙げた。「題目をいつも唱えておりますが、どうしたらいいでしょうか」
先生は「まことの時はわするるなるべし」(新117・全234)との一節を拝し、「一番大事な時です。大悪は大善の瑞相なのです。春から夏に移る境目なのです。だから、大きく病魔を克服して宿命を転換する時です。微塵も疑わないで、信心し抜いてください」と、確信を込めて答えた。
「東京の戦い」の折、先生は府中を訪れている。広布の拠点となっている同志宅を訪問し、“新しい歴史を築こう”と呼びかけた。
26日には、中野、杉並、練馬の友の集いに出席。「最後まで全力を尽くして勝利を勝ち取っていこう」と訴えた。
迎えた6月2日、学会が推薦した東京地方区の候補は、勝利を収めた。新聞各紙には「なぜ強い創価学会」などの見出しが躍った。56年の「大阪の戦い」に続き、世間を驚嘆させる歴史が刻まれたのである。
捲土重来の時が来た。この7日にはまた、参議院議員選挙が公示。東京は唯一、地方区として学会推薦の候補が立った。
3年前の56年(同31年)、東京地方区は涙をのんだ。戸田先生は雪辱を固く誓っていた。恩師の心を知る池田先生は、深甚の決意で「東京の戦い」に臨んだ。
先生は連日、午前6時から学会本部で皆と勤行し、御書を拝した。「“まさか”が実現」と世間を驚嘆させた「大阪の戦い」と方程式は同じである。
「東京の戦い」の勝利――その焦点は、「一人」を大切にすること。先生は東京中を駆けた。一日で文京、台東、墨田、葛飾、江戸川を回ったこともあった。ある時は自転車に乗り、ある時は軽トラックの助手席に乗って、広布の最前線を巡った。「一人の励まし」に全力を注ぎ、皆の力を引き出していった。
時間が取れず、参加できない会合には励ましの言葉を届けた。指導に赴く担当幹部にも、「毎日、遠方にて奮戦、誠に誠に御苦労様」と手紙に記すなど、心を配った。各地を回る中で、「団結」などの書をしたためた。
先生は訴えた。
「みんなが『勇気、正義、信念の人』であることを証明しなければなりません。広宣流布のために、一人一人が師子の道を歩まねばなりません。私たちの戦いです。私たちの信心の戦いです。題目をあげ抜いて、心を一つにして戦えば必ず勝てる!」
首都に隣接する地域にも足を運んだ。59年5月10日、神奈川・川崎支部の集いに出席。「この闘争が終わったら、ああよかった、こんなに自分は力がついた、確信がついた、こんなにも自分は境涯が開いたというようになっていただきたい」と望んだ。
16日には、大宮支部会館(当時)で、埼玉の男女青年部幹部と懇談。芸術論や文化論、人物論にまで話題は広がった。
懇談が行われる前、先生は一人の女性を激励していた。彼女は父を亡くしたことを伝えた。先生は、自身が使っていた若竹色の袱紗を贈った。そこには、白で染められた「精進」との文字。この言葉を、彼女は胸に刻んだ。
翌17日、今度は静岡へ。御書講義を担当し、質問会も行った。その時、祖父が病で苦しむ女性が手を挙げた。「題目をいつも唱えておりますが、どうしたらいいでしょうか」
先生は「まことの時はわするるなるべし」(新117・全234)との一節を拝し、「一番大事な時です。大悪は大善の瑞相なのです。春から夏に移る境目なのです。だから、大きく病魔を克服して宿命を転換する時です。微塵も疑わないで、信心し抜いてください」と、確信を込めて答えた。
「東京の戦い」の折、先生は府中を訪れている。広布の拠点となっている同志宅を訪問し、“新しい歴史を築こう”と呼びかけた。
26日には、中野、杉並、練馬の友の集いに出席。「最後まで全力を尽くして勝利を勝ち取っていこう」と訴えた。
迎えた6月2日、学会が推薦した東京地方区の候補は、勝利を収めた。新聞各紙には「なぜ強い創価学会」などの見出しが躍った。56年の「大阪の戦い」に続き、世間を驚嘆させる歴史が刻まれたのである。