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陸上女子で12個の日本記録保持者 田中希実選手にインタビュー〈アスリート 超える力〉 2026年1月1日
- 「自分は勝てる」が一番強い!
新企画「アスリート~超える力」の第1回は、陸上女子1500メートル、5000メートルなど、計12個の日本記録を持つ田中希実選手。コーチである父・健智さんと共に海外を転戦し、昨年9月の世界選手権東京大会の5000メートルでは、日本勢初の4大会連続での決勝進出を果たしました。誰も歩んでいない道を切り開く田中選手に、挑戦の原動力を聞きました。
――2025年を振り返って、どんな一年でしたか。
常につま先立ちで過ごしているような、ちょっときつい一年でした。世界陸上の他にも、格上の選手が集う大会に参加したり、ケニア合宿で世界のトップ選手たちと一緒に練習する中で、改めて世界との差を感じてしまって。
日本記録を出せるようになった時は、自分の中で、すごくステップアップできて、人間としても強くなれたと思っていました。でも実は、強くなったと錯覚していただけで、本当の意味で、自分の弱さと向き合っていなかったんだと気付きました。
例えば、私はラストの競り合いが苦手なので、そうならないようなレース展開をしてきた。でも世界のトップと戦うには、ラストの勝負は避けられない。それを意識すると、すごく怖くなって、世界陸上の5000メートル決勝でもラストを攻め切れませんでした。
――ラストスパートには何が重要なのですか。
「自分は勝てる」と信じ抜いた選手が一番強いと思います。でもまだ私の場合は、メンタルの部分で世界のトップと勝負ができるフェーズ(段階)には行けてないです。こちらがスタミナ切れを起こしているのに、トップ選手は“ラストでどれだけ自分を見せられるか”って、わくわくしてるんですよ。
ラストスパートは、選手が一番輝いて見える瞬間だと思います。最後、つらい中を必死で走っている姿だけでも、見ている人は感動すると思うんです。でもその、きつい・きつくないって次元じゃなく、私はもっと上のステージを目指したいんです。ラストまでのペースも速いのに、さらにそこから上がって、人間の常軌を逸しているみたいな(笑)。そんな走りを見せたいです。
――世界との差や目の前の壁をどのように捉えて挑戦していますか。
父は“世界との差は限界ではなく伸びしろだ”と言ってくれますが、目の前に壁が立ちはだかると、壁が延々と続いているように思えて、つらく感じてしまうこともあります。
でも客観的に考えたら、できないことがあったり、壁を感じていることは、良いことなんじゃないかと気付いて。成長する余地があるのに、それに気付かず進んでいる方が良くないと思うんです。
苦しいとか悔しいって気持ちがあるからこそ、次も挑戦しようと思える。壁に当たって押し戻されても、“何回も壁にダメージを与えてきたから、次で崩れるかもしれない”って、もう一度体当たりする。その繰り返しで進むことができるんです。
――壁があるからこそ進めるんですね。ところで、幼い頃から陸上選手を目指していたのですか。
小学生の頃、早く本が読みたいから、走って家に帰るぐらい本が好きでした(笑)。なので陸上は、あくまで趣味で、「走れる作家になりたい」と思っていました。
母(千洋さん)がマラソンランナーなので、幼心にそれが誇らしかったし、母自身の誇りでもありました。ギリシャの大会から帰ってきた母が、お土産にくれたチョコレートがおいしくて、大きくなったら母みたいにママさんランナーになって、ギリシャに行ってチョコをいっぱい食べようって思っていました(笑)。
――幼い頃から陸上が身近にあったのですね。最近はどんな本を読みましたか。
昔から海外のファンタジー小説が好きだったのですが、今年は海外遠征が多くて、気持ち的にもつらいレースが多かったので、郷愁を感じて、日本のファンタジーを読んで気分転換していました。
あとは、東京での世界陸上を控えていたからこそ、日本人の精神の土壌を知ろうと、荻原規子さんの『空色勾玉』だったり、日本の神話を題材にした独創的なファンタジーを読みました。深く考えなくても、物語を通して学べたのが良かったです。
――自身が走る姿を通して伝えたいことは?
良くも悪くも、陸上がなくなったら自分のアイデンティティーがないも同然で、私にとって陸上は、生きることそのものと言っていいくらいなんです。
そこが諸刃の剣になって、自分で自分を苦しめたり、傷つけたりしてしまって、のびのび陸上に取り組めない部分もあります。でもやっぱり、陸上をやって楽しくなかったら、生きることが楽しくないのと一緒です。なので、自分の弱さに向き合う作業と、わくわく感を持って取り組むことのバランスが、本当に難しいです。
でも、そうやって悩んでいること自体が、生きているということでもあります。だから、ああでもない、こうでもないって悩みながら陸上や自分と向き合って走る姿が、いずれ何かの形で残ったり、誰かに勇気を与えられたらいいな、と思っています。
たなか・のぞみ 1999年、兵庫県生まれ。同志社大学卒業。2023年4月からNew Balanceに所属し、プロアスリートに転向。日本選手権1500メートル6連覇、5000メートル5回優勝。21、24年五輪代表。19、22、23、25年世界選手権代表。
取材を終え、健智さんにお礼のメールを送ると、こう返信があった。「オフに入り、ようやく前を向けるようになって参りました」。田中選手は、悩みの中で走っている。世界との差、自らの弱点……。走るたびに言葉が浮かび、時には「自分の言葉に消耗する」という。もっと先を見据えているからこそ、悩みが尽きることはない。それでも、挑戦を止めることを許さないのが、田中選手の強さだと感じた。
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【記事】横田世奈
【写真】宮田孝一















