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〈黄金の師弟旅〉第20回 群馬・渋川 2025年8月25日

信心の王道をまっしぐらに
広宣流布の歴史の証明役を担っていく一人一人に――1988年7月10日、渋川平和会館で行われた全国青年部幹部会で友を励ます池田先生

 群馬県渋川市は、日本のほぼ中央に位置することから「日本のへそ」と呼ばれてきた。
 市内各地に泉質や効能の異なる温泉がある。伊香保温泉は広く知られ、万葉集にもその名が登場する。風光明媚な地であり、文豪・徳冨蘆花や画家・竹久夢二がこよなく愛したことでも有名だ。
 渋川は自然美と文学と芸術の薫りが調和する地である。
 この渋川に、池田先生が第一歩を刻んだのは、1957年(昭和32年)7月下旬。「大阪事件」による不当逮捕から出獄した直後のことである。
 座談会に臨んだ先生は、「広宣流布に戦い抜けば、必ず幸福になれるのです。頑張ろう!」と。気迫の励ましは、参加者の心に希望の灯をともした。
 30年後の87年(同62年)、渋川の地に「はるな平和墓苑(現・はるな池田記念墓地公園)」が誕生。その一角に渋川平和会館(当時)が完成した。
 同年8月13日、先生は同墓苑と同会館を初訪問。「榛名山 常に守らむ 慧光照 寿命無数の 平和墓苑を」など3首の和歌を詠み贈り、群馬の友らと記念のカメラに納まった。
 15日には、同会館で行われた群馬県記念幹部大会へ。「緑すずやかな天地に三世にわたる生命の平安の場ができあがったことは、まことに意義が深い」「これから、たびたび来させていただきたい」と語った。
 以来、先生は幾度も渋川へ。広布の途上で亡くなった方々を追善するとともに、求道の友に励ましを送ってきた。
 88年(同63年)7月10日、全国青年部幹部会が同会館で開かれた。先生は、刹那的な楽しみを追い求め、人生の根本課題を考えない青年が増えてきていることを憂慮し、語った。
 「何のための人生か、何のための青春か――こうした真摯な問いかけを忘れた生き方は、所詮、浅薄となり、何の実りもないまま、青春を浪費し、虚ろな人生となってしまう」
 また、戸田先生のもとで薫陶を受けた青春の日々を述懐し、訴えた。
 「人生の価値は、どこまでも『青春の火』を燃やしつづけ、不撓の信念を貫いたか否かで決まる」
 「青年部諸君は、若き日に誓った正義の道を一歩も退いてはならない。ひとたび灯した『青春の火』を消すようなことがあっては断じてならないと、強く申し上げておきたい」
 星野祥二さん(はるな県・副県長)は、このスピーチが自身の原点だ。
 80年(同55年)4月、27歳の時に入会。面倒見の良い先輩に巡り合い、学会活動に励んだ。入会半年後には、自ら進んで本紙の配達を担った。牙城会の一員としても奮闘。信心してから、はつらつと変わっていく星野さんの姿に触発を受け、アパートの隣に住む友人が入会した。
 勤務する眼鏡店でも、“給料の10倍分”との姿勢で働いた。やがて、周囲から大きな信頼が寄せられるように。
 95年(平成7年)、社長が体調を崩し、店頭に立てなくなると、星野さんが実質的に経営のかじ取りを任された。
 経営状態は苦しく、店は多額の負債を抱えていた。星野さんは打開を必死に祈り、補聴器販売を発案。これが好評を博し、売り上げが伸びていった。
 10年後の2005年(同17年)、負債を完済し、事業を承継。社長に就任した。以来20年、黒字経営を続けている。
 支え続けてくれた家族、学会同志、何より池田先生への感謝を胸に、報恩の道を進む星野さん。あの日、胸中にともされた「青春の火」は、72歳の今も、熱く、真っ赤に燃えている。

常に胸中に青空を

 1957年(昭和32年)8月、戸田先生と池田先生は、群馬と長野にまたがる浅間山の鬼押出しを訪れた。戸田先生はかつて、牧口先生と鬼押出しに足を運んでいた。
 恩師は、懐かしそうに景観を眺めながら語った。
 「あっちには草津がある。そこで人材を気宇壮大に育てたいものだ」「学会も研修の道場をつくりたいものだな……」
 93年(平成5年)6月30日、その草津の地に群馬多宝研修道場が誕生する。恩師の言葉を形にしたものだった。
 同年7月7日、渋川平和会館で本部幹部会が行われた。池田先生は、同研修道場の完成に祝意を述べた後、学会発展の要因に言及。「会員を幸福にする」「会員を喜ばせる」との一点に徹してきたからにほかならないと強調し、語った。
 「頑張っている人を、たたえればたたえるほど、自身にも組織にも『福運』と『勢い』がつく」
 「仏子を『ほめたたえる心が強い』ことが、『仏界が強い』証拠でもある。『御本尊をたたえ、広宣流布の勇者をたたえることのできる人』が『仏界の強い人』である」
 この幹部会の役員だった茂原ハルエさん(はるな県、県女性部主事)。
 20歳の時、夫・敏男さんと結婚。長女が誕生し、喜びでいっぱいだったとき、夫の視力に異変が生じた。当時は有効な治療法が見つからず、医師からは完治の見込みがなく、失明の可能性が高いことを宣告された。長い入院生活を余儀なくされた。
 茂原さんは途方に暮れた。その時、知人から信心の話を聞き、56年(昭和31年)、家族で入会した。
 医師の許可を得て、病室に御本尊を御安置した。周囲に迷惑がかからないよう、小さな声で題目を唱えた。しばらくして、夫が「大きな声で唱題したい」と。自宅療養に切り替え、夫婦で朗々と唱題を重ねた。
 夫と仏法対話にも歩いた。「目が見えるようになってから来い!」と怒鳴られることもあった。悔しさに唇をかんだ。それでも、宿命転換を信じ、真剣に祈っては対話に歩き続けた。
 敏男さんは片目の視力が極度に低下したものの、失明することはなかった。46年間、電力会社で勤めた。
 84歳で生涯を閉じるまで、信心の力を語り続けた。その姿は、茂原さんの誇りだ。
 茂原さんの日課がある。池田先生が群馬の友に贈った長編詩「山河にこだます歓びの歌声」の一節を読むことだ。
 先生は長編詩で詠んだ。
 
 あなたたちよ
 悩みの叢雲を突き抜け
 狭き心の谷間に漂う
 暗き濃霧を低く見て
 常に 胸中に青空をいだいて
 悠然と また堂々と
 信心の王道を
 まっしぐらに進もう
 その歩みの彼方に
 栄光の明日が待っている
 
 心に師を抱いて、広布の大道を真っすぐに進む群馬の友。あの地、この地に、勝利のドラマが輝いている。

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