電子版連載〈“レジェンド世代”を取材してみた!〉 池田先生の三回忌を前に――「師匠ならどうされるか」を思い今日を生きる
    電子版連載〈“レジェンド世代”を取材してみた!〉 池田先生の三回忌を前に――「師匠ならどうされるか」を思い今日を生きる
    
    
    
    2025年11月1日
  
  
  
  
  
  
    
    
  
  
  
    
    
  
  
  
     草創期から創価学会を支える先輩を取材する連載「“レジェンド世代”を取材してみた!」。今回は、池田先生の三回忌を迎えるにあたり、青年世代の記者が、田中節子さん(86)=東京都大田区、女性部副本部長=に率直な質問をぶつけました。 
     草創期から創価学会を支える先輩を取材する連載「“レジェンド世代”を取材してみた!」。今回は、池田先生の三回忌を迎えるにあたり、青年世代の記者が、田中節子さん(86)=東京都大田区、女性部副本部長=に率直な質問をぶつけました。 
  
  
  
  
  
    
      
        
      
      
        
        
          【解説】3·16「広宣流布記念の日」
        
        
        
          【解説】3·16「広宣流布記念の日」
        
      
    
  
  
  
     1958年(昭和33年)3月16日、第2代会長・戸田城聖先生のもとに、男女青年部6000人が集い、「広宣流布の模擬試験」と呼ばれる式典が行われました。前年、戸田先生は生涯の願業である「75万世帯の弘教」を達成。その後、戸田先生の体は日ごとに衰弱していましたが、“将来のために広宣流布の予行演習となる式典をしよう”と、青年部の室長であった池田大作先生に伝え、式典が行われました。
 戸田先生は、全国から駆けつけた青年たちに、「未来は、君たちに任せる。頼むぞ、広宣流布を!」と力強く叫び、「創価学会は、宗教界の王者である!」と宣言。広宣流布のバトンを次代の青年たちに託しました。
 衰弱した戸田先生のため、池田先生は『三国志』の諸葛孔明の故事にならい車駕を用意。戸田先生は「大きすぎる」と叱咤しつつも真心に応え、車駕に乗り毅然として会場へ入りました。また、前々から「青年たちに何か温かいものを」と、豚汁を振る舞うよう指示され、戸田先生の慈愛に青年たちは胸を熱くしました。後に池田先生は、3・16について、こう語っています。「師から弟子への“継承”の日であり、後継の弟子が立ち上がる日である。その意味で、この日は、永遠の“出発”の日である」
     1958年(昭和33年)3月16日、第2代会長・戸田城聖先生のもとに、男女青年部6000人が集い、「広宣流布の模擬試験」と呼ばれる式典が行われました。前年、戸田先生は生涯の願業である「75万世帯の弘教」を達成。その後、戸田先生の体は日ごとに衰弱していましたが、“将来のために広宣流布の予行演習となる式典をしよう”と、青年部の室長であった池田大作先生に伝え、式典が行われました。
 戸田先生は、全国から駆けつけた青年たちに、「未来は、君たちに任せる。頼むぞ、広宣流布を!」と力強く叫び、「創価学会は、宗教界の王者である!」と宣言。広宣流布のバトンを次代の青年たちに託しました。
 衰弱した戸田先生のため、池田先生は『三国志』の諸葛孔明の故事にならい車駕を用意。戸田先生は「大きすぎる」と叱咤しつつも真心に応え、車駕に乗り毅然として会場へ入りました。また、前々から「青年たちに何か温かいものを」と、豚汁を振る舞うよう指示され、戸田先生の慈愛に青年たちは胸を熱くしました。後に池田先生は、3・16について、こう語っています。「師から弟子への“継承”の日であり、後継の弟子が立ち上がる日である。その意味で、この日は、永遠の“出発”の日である」
  
  
  
  
  
    
      
        
      
      
        
        
          戸田先生の時代の学会
        
        
        
          戸田先生の時代の学会
        
      
    
  
  
  
     ――田中さんはどのようにして創価学会と出合ったのでしょうか。
  
 私は、港区麻布の自動車修理工場の家に四女として生まれました。戦争が終わって間もなく、母が結核になって入院しました。お医者さんから「あと、ひと月ももたないでしょう」と言われてね。母は水も飲めない状態で、脱脂綿に水を含ませて口をぬらしてあげることしかできませんでした。
 その頃、父が取引をしていた同業の方から折伏されたの。父は、母の病気を何とかしたくて、いろんな宗教に手を合わせていたんです。母を救いたいとの一心で1951年(昭和26年)、家族で信心を始めました。その後、絶対に治らないって言われていた母の結核が、治ったんです。3カ月で退院できたの。その後、90歳まで元気に生きました。
  
 ――お話を聞いて、信心のすごさを教えていただいた気がします。入会してからはどんなふうに活動に励まれたのですか?
  
 当時は戸田先生が会長で、本当に毎日、みんなで折伏に駆けずり回っていました。私自身も、中学2年生の時に、近所の駄菓子屋のおばさんに「とってもいい信心の話があるの。結核だったうちの母が治っちゃったの。絶対に幸せになる話だから聞きに来て」って話しました。そして信心を始められたんです。その駄菓子屋さんは、信心に励み、六本木にアパートを3軒持てるまでになられて。「節子さんのおかげよ」って言ってくれて、本当にうれしかったわ。当時は、まだ「未来部」はなかったんです。だから私は女子部として活動したの。実家は地域の学会員が集う会場だったから、毎日のようにたくさん人が来てね。毎週金曜日には、豊島公会堂(当時)まで行って、戸田先生の御書講義を聴きました。先生の講義は、とにかく分かりやすくて、お話の仕方も豪放磊落で。聞いているだけで心が躍ったのよ。
 「青年訓」とか「国士訓」を発表された頃でね、私もそれを覚えて暗唱したの。中学生だったけど、壮年や婦人の先輩方にも御書講義していました。今思えば、よくやっていたなあって思います(笑)。
     ――田中さんはどのようにして創価学会と出合ったのでしょうか。
  
 私は、港区麻布の自動車修理工場の家に四女として生まれました。戦争が終わって間もなく、母が結核になって入院しました。お医者さんから「あと、ひと月ももたないでしょう」と言われてね。母は水も飲めない状態で、脱脂綿に水を含ませて口をぬらしてあげることしかできませんでした。
 その頃、父が取引をしていた同業の方から折伏されたの。父は、母の病気を何とかしたくて、いろんな宗教に手を合わせていたんです。母を救いたいとの一心で1951年(昭和26年)、家族で信心を始めました。その後、絶対に治らないって言われていた母の結核が、治ったんです。3カ月で退院できたの。その後、90歳まで元気に生きました。
  
 ――お話を聞いて、信心のすごさを教えていただいた気がします。入会してからはどんなふうに活動に励まれたのですか?
  
 当時は戸田先生が会長で、本当に毎日、みんなで折伏に駆けずり回っていました。私自身も、中学2年生の時に、近所の駄菓子屋のおばさんに「とってもいい信心の話があるの。結核だったうちの母が治っちゃったの。絶対に幸せになる話だから聞きに来て」って話しました。そして信心を始められたんです。その駄菓子屋さんは、信心に励み、六本木にアパートを3軒持てるまでになられて。「節子さんのおかげよ」って言ってくれて、本当にうれしかったわ。当時は、まだ「未来部」はなかったんです。だから私は女子部として活動したの。実家は地域の学会員が集う会場だったから、毎日のようにたくさん人が来てね。毎週金曜日には、豊島公会堂(当時)まで行って、戸田先生の御書講義を聴きました。先生の講義は、とにかく分かりやすくて、お話の仕方も豪放磊落で。聞いているだけで心が躍ったのよ。
 「青年訓」とか「国士訓」を発表された頃でね、私もそれを覚えて暗唱したの。中学生だったけど、壮年や婦人の先輩方にも御書講義していました。今思えば、よくやっていたなあって思います(笑)。
  
  
  
  
    
    
      
        
          
            
              
              
              
           
          
          
            
              
                田中さん宅にある、ざくろの木の花。池田先生の母・一さんが“ざくろのように強く”と語っていたように、今年もたくましく花を咲かせた
                
                
              
            
            
              
                田中さん宅にある、ざくろの木の花。池田先生の母・一さんが“ざくろのように強く”と語っていたように、今年もたくましく花を咲かせた
                
                
              
            
          
         
       
     
  
  
  
  
    
      
        
      
      
        
        
          青春時代に決めた自分の道
        
        
        
          青春時代に決めた自分の道
        
      
    
  
  
  
     ――池田先生との出会いはありましたか。
  
 18歳の時から、何度かお会いしました。鮮明に覚えているのは3・16の「広宣流布記念の日」の式典かしら。あの時のことは今でも夢に見ます。前日の夜11時に日比谷公園に集合して、みんなでバスに乗って会場へ向かいました。若い人がたくさんいて、車内も熱気でいっぱいでしたよ。
 式典の司会をされた池田先生の姿はたくましく、声も確信に満ちていて、凜としておられました。そして、戸田先生はスピーチで、「創価学会は、宗教界の王者である!」と叫ばれました。その声を聞いた瞬間、“絶対に広宣流布を成し遂げていこう!”って、心の底から力が湧いてきて。あの日はまだ寒い時期でね、式典の日にいただいたあったかい豚汁が体にしみました。たっぷりよそってもらって、おいしくいただきましたよ。
  
 ――それから半月後、戸田先生が逝去され、やがて2年後に池田先生が会長に就任されます。しばらく会長不在の時期があったと思いますが、その中で田中さんご自身は、どんな思いで学会活動をされていたのでしょうか。
  
 だってね、戸田先生があれだけの師匠でしょ。だから絶対大丈夫っていう確信があったの。早く池田先生に会長になってほしいって、みんなが願っていました。だからね、池田先生が会長になられた時は、本当にうれしかった。日大講堂での池田先生の会長就任式にも参加しました。会場の2階、壇上のすぐ近く、前から3番目の席でした。32歳の若さで、“戸田門下生を代表して、広宣流布を目指し、一歩前進の指揮を執らせていただきます!”と誓われた姿は、本当に格別だった。その言葉を聞いた瞬間、“先生と学会とともに、広布の道を生涯歩み抜く!”って、心の底から思いました。
  
     ――池田先生との出会いはありましたか。
  
 18歳の時から、何度かお会いしました。鮮明に覚えているのは3・16の「広宣流布記念の日」の式典かしら。あの時のことは今でも夢に見ます。前日の夜11時に日比谷公園に集合して、みんなでバスに乗って会場へ向かいました。若い人がたくさんいて、車内も熱気でいっぱいでしたよ。
 式典の司会をされた池田先生の姿はたくましく、声も確信に満ちていて、凜としておられました。そして、戸田先生はスピーチで、「創価学会は、宗教界の王者である!」と叫ばれました。その声を聞いた瞬間、“絶対に広宣流布を成し遂げていこう!”って、心の底から力が湧いてきて。あの日はまだ寒い時期でね、式典の日にいただいたあったかい豚汁が体にしみました。たっぷりよそってもらって、おいしくいただきましたよ。
  
 ――それから半月後、戸田先生が逝去され、やがて2年後に池田先生が会長に就任されます。しばらく会長不在の時期があったと思いますが、その中で田中さんご自身は、どんな思いで学会活動をされていたのでしょうか。
  
 だってね、戸田先生があれだけの師匠でしょ。だから絶対大丈夫っていう確信があったの。早く池田先生に会長になってほしいって、みんなが願っていました。だからね、池田先生が会長になられた時は、本当にうれしかった。日大講堂での池田先生の会長就任式にも参加しました。会場の2階、壇上のすぐ近く、前から3番目の席でした。32歳の若さで、“戸田門下生を代表して、広宣流布を目指し、一歩前進の指揮を執らせていただきます!”と誓われた姿は、本当に格別だった。その言葉を聞いた瞬間、“先生と学会とともに、広布の道を生涯歩み抜く!”って、心の底から思いました。
  
  
  
  
  
    
    
  
  
  
  
    
      
        
      
      
        
        
          信心根本に歩んできた人生
        
        
        
          信心根本に歩んできた人生
        
      
    
  
  
  
     ――地域でも「創価学会の田中さん」として有名だと伺いました。
  
 1964年(昭和39年)に、結婚を機に、港区から大田区に移りました。池田先生の生まれ育った大田区で広宣流布に歩むことができるというのは、うれしかったですよ。池田先生から「地域の長者になっていきなさい」と激励されたのをきっかけに、自分に何かできることはないだろうかと思って、一生懸命祈ったの。息子が学会の合唱団に入ったのを機に、私も地域で合唱団を結成してみたらいいんじゃないかってひらめいて。勇気を出して、町会長のお宅をピンポン。「合唱団をやりたいです」って話しました。それから、町会に回覧板を回してもらって団員を一から募集しました。そして、1988年に「ハッピーハーモニー」という合唱団を立ち上げました。今年で37年になります。学会員かどうかに関係なく、地域の皆さまと仲良く活動を続けています。やがて町内の新年会や餅つき大会、公園の落成式にも呼ばれるようになりました。さらに、先生の生まれ故郷をもっと元気にしたいとの思いから、管弦楽団による新春のコンサートの開催に携わり、数年間は、先生の生家があった場所の近隣の施設で開催することができました。このコンサートは、今ではすっかり大田区の新春の風物詩となっています。
  
     ――地域でも「創価学会の田中さん」として有名だと伺いました。
  
 1964年(昭和39年)に、結婚を機に、港区から大田区に移りました。池田先生の生まれ育った大田区で広宣流布に歩むことができるというのは、うれしかったですよ。池田先生から「地域の長者になっていきなさい」と激励されたのをきっかけに、自分に何かできることはないだろうかと思って、一生懸命祈ったの。息子が学会の合唱団に入ったのを機に、私も地域で合唱団を結成してみたらいいんじゃないかってひらめいて。勇気を出して、町会長のお宅をピンポン。「合唱団をやりたいです」って話しました。それから、町会に回覧板を回してもらって団員を一から募集しました。そして、1988年に「ハッピーハーモニー」という合唱団を立ち上げました。今年で37年になります。学会員かどうかに関係なく、地域の皆さまと仲良く活動を続けています。やがて町内の新年会や餅つき大会、公園の落成式にも呼ばれるようになりました。さらに、先生の生まれ故郷をもっと元気にしたいとの思いから、管弦楽団による新春のコンサートの開催に携わり、数年間は、先生の生家があった場所の近隣の施設で開催することができました。このコンサートは、今ではすっかり大田区の新春の風物詩となっています。
  
  
  
  
  
    
    
      
        
          
            
              
              
              
           
          
          
            
              
                合唱団「ハッピーハーモニー」の練習風景
                
                
              
            
            
              
                合唱団「ハッピーハーモニー」の練習風景
                
                
              
            
          
         
       
     
  
  
  
     ――田中さんの明るい笑顔の源が、地域のために走り続けたことに、あるのだと分かりました。86歳になられ、あらためて「信心して良かった」と思うことは、何ですか?
  
 私ね、四女でしょ。上に3人の姉がいて、私はいつも“はい”って言うだけで、引っ込み思案で、劣等感のかたまりだったの。でも、この信心をしてからは、性格が本当に明るくなりました。いい友達に出会えたこと、そしてその友達と心から仲良くなれる自分になれたこと、もう全部信心のおかげなの。人を好きになれる自分、人と向き合える自分に変われたことが、一番の喜びね。
 2年前に折伏したのも、中学時代の同級生なの。これも友達一人一人を大切にできる自分になれたおかげです。今は、もう一人折伏したくて、その方は、88歳のお友達よ。自分がこんなに幸せになった信心なんだもの、たくさんの人に伝えないとって思っています。池田先生の指揮のおかげで、今や世界中に信心している同志がいる。そんな師匠を持っていると思うと自信が湧いて、誰にでも声をかけられるようになるんですよ。「こんにちはー!」って大田区の行政の方に意見を言いにも行っちゃうのよ。ふふふ。
     ――田中さんの明るい笑顔の源が、地域のために走り続けたことに、あるのだと分かりました。86歳になられ、あらためて「信心して良かった」と思うことは、何ですか?
  
 私ね、四女でしょ。上に3人の姉がいて、私はいつも“はい”って言うだけで、引っ込み思案で、劣等感のかたまりだったの。でも、この信心をしてからは、性格が本当に明るくなりました。いい友達に出会えたこと、そしてその友達と心から仲良くなれる自分になれたこと、もう全部信心のおかげなの。人を好きになれる自分、人と向き合える自分に変われたことが、一番の喜びね。
 2年前に折伏したのも、中学時代の同級生なの。これも友達一人一人を大切にできる自分になれたおかげです。今は、もう一人折伏したくて、その方は、88歳のお友達よ。自分がこんなに幸せになった信心なんだもの、たくさんの人に伝えないとって思っています。池田先生の指揮のおかげで、今や世界中に信心している同志がいる。そんな師匠を持っていると思うと自信が湧いて、誰にでも声をかけられるようになるんですよ。「こんにちはー!」って大田区の行政の方に意見を言いにも行っちゃうのよ。ふふふ。
  
  
  
  
    
    
  
  
  
     ――11月は、池田先生の三回忌を迎えます。今の思いを聞かせてください。
  
 自分は何のために生きるのか。その答えを教えてくれたのが池田先生であり、創価学会です。だからこそ、少しでも恩返しがしたいと思っています。“師匠のいる人生”を貫けたこと、それが私の一番の幸せなんです。
 私の一日のスタートは、御本尊様の前に座ってね、“先生、どうか先生のお心に沿うように、広宣流布のために、地域のためになるように一日を過ごさせてください。今日も一日、誰かのために動ける自分でありたいです”と真剣に祈るの。そうするとね、ちゃんと思った通りの、いい一日が送れる。朝、テレビで、星座占いの結果が悪くても、“何くそー! 負けないぞ!”ってお題目をあげるの(笑)。どんな時も、「師匠ならどうされるか」って、自分に問いかけるの。悩んだり迷ったりしても、最後は、必ず“師匠と同じ心で生きる”という原点に戻れる。それが私の生きる力です。
 若い人たちとは本当に、この信心の素晴らしさを分かち合いたいの。創価学会の信仰って「人間革命の信心」でしょ。どんな苦難にも負けずに、前を向いて、自分を成長させながら生きていけるのよ。信心って、ただ祈ることじゃなくて、“自分の中にある可能性を信じて行動すること”だから。新しいことを学ぶのも、全部、信心の延長線上。私もね、YouTube、ちゃんと見ていますよ、「創価学会の日常ちゃんねる」。世界中の同志の輝く姿を見て、これからの学会の発展が本当に楽しみだなぁって、心から思っています。
     ――11月は、池田先生の三回忌を迎えます。今の思いを聞かせてください。
  
 自分は何のために生きるのか。その答えを教えてくれたのが池田先生であり、創価学会です。だからこそ、少しでも恩返しがしたいと思っています。“師匠のいる人生”を貫けたこと、それが私の一番の幸せなんです。
 私の一日のスタートは、御本尊様の前に座ってね、“先生、どうか先生のお心に沿うように、広宣流布のために、地域のためになるように一日を過ごさせてください。今日も一日、誰かのために動ける自分でありたいです”と真剣に祈るの。そうするとね、ちゃんと思った通りの、いい一日が送れる。朝、テレビで、星座占いの結果が悪くても、“何くそー! 負けないぞ!”ってお題目をあげるの(笑)。どんな時も、「師匠ならどうされるか」って、自分に問いかけるの。悩んだり迷ったりしても、最後は、必ず“師匠と同じ心で生きる”という原点に戻れる。それが私の生きる力です。
 若い人たちとは本当に、この信心の素晴らしさを分かち合いたいの。創価学会の信仰って「人間革命の信心」でしょ。どんな苦難にも負けずに、前を向いて、自分を成長させながら生きていけるのよ。信心って、ただ祈ることじゃなくて、“自分の中にある可能性を信じて行動すること”だから。新しいことを学ぶのも、全部、信心の延長線上。私もね、YouTube、ちゃんと見ていますよ、「創価学会の日常ちゃんねる」。世界中の同志の輝く姿を見て、これからの学会の発展が本当に楽しみだなぁって、心から思っています。
  
  
  
  
    ●最後までお読みいただき、ありがとうございます。ご感想はこちらにお寄せください。
 
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