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ケアし合う関係を生むのは「する時間」より「いる時間」――インタビュー 兵庫県立大学准教授 竹端寛さん㊦ 2023年12月23日

  • 〈危機の時代を生きる 希望の哲学〉

  
 自分を信頼し、信頼できる仲間と「ケアし合う関係」を広げれば、豊かな社会につながる――。22日付の㊤に続き、兵庫県立大学准教授の竹端寛さんに聞きました。
 (聞き手=掛川俊明、村上進)
  
 ※インタビューの㊤(22日付)はこちらから読めます。
  

■無駄に思えても、一緒に“いる”ことには価値がある

  
 ――インタビューの前半(㊤=12月22日付)では、子育てを通じた「ケア」の経験や、「ケアし合う関係」が生み出す豊かさについて、語っていただきました。そうした関係をつくるためには、どのような実践が求められるでしょうか。
  
 ケアには、圧倒的に「時間」がかかります。例えば、育児でいえば、子どものご飯を準備する、一緒に遊ぶ、ほかにも「お父ちゃん、これ見て!」と言われるたびに、今やっていることを中断して話を聞くなど、多くの時間が必要になります。
  
 前回に引き続き、また私の失敗談からお話しすることにします。
 育児を始めた当初、1日数時間ほど娘の面倒を見たら、“やったつもり”になっていました。子どもが寝ている時や、妻が娘を見ている時など、「この時間も含めて、私も家におらなあかんの?」と思ってしまったのです。
  

©Davin G Photography/Moment/Getty Images
©Davin G Photography/Moment/Getty Images

  
 それを話すと、妻からは「いてくれるだけで、安心できる」「ちょっと声をかけたら来てくれるのが大事なのよ」と言われました。
 ここでも、私がいかに仕事ばかりに集中してきて、賃金労働を中心にした考え方をしているか、ということに気付かされました。
  
 仕事などの労働における時間の使い方は、具体的な「○○する」という、作業を中心にした「する時間」です。
 一方で、ケアでは「いる時間」、つまり存在を共にしている時間に価値があるのです。
 一見すると無駄に思える時間も、そこに一緒にいることが、インタビューの前半でお話しした「あなたと共に考え合う(ウィズネス)」という姿勢につながります。
  

■変わらないといけないのは「指導する側」

  
 ――インタビュー㊤では、ワーカホリック(仕事中毒)的な働き方をしていた経験を話していただきました。そうした生活と、「ケアし合う関係」に基づく生活では、何が異なるのでしょうか。
  
 ケアし合う関係は、お互いを必要とする関係性であり、こうした相互依存的な関係性こそが、ケアの醍醐味だと思います。
 「相互依存の世界」の意義は、その対極にある「自己利益の世界」を考えると分かりやすいです。自己利益を追求するだけという弱肉強食の論理では「次に追い落とされるのは自分かもしれない」という不安と恐怖が生まれます。そこには、競争に負けるのは自分の責任という、強迫的な自己責任の論理があります。
  

  
 それとは違い、妻や子どもと一緒にいる相互依存的な関係性は、自分中心主義では成り立ちません。子の体調、やりたいことを優先しつつ、親自身の考えと折り合いをつける日々は、親の自己利益のみでは完結できません。子どもを中心に回る生活は、親にとっては利他的というか、没我的な関係でもあります。
  
 私の場合、自己利益の世界観を超えることで、「責任」に関する感覚の転換がありました。自己利益の世界でいわれる「自己責任」には、懲罰的な響きがあります。自分でしたことなんだから、自分で責任を取らなければならない、という義務の論理です。
 一方で、子どもの養育は、親にとって義務でもありますが、同時に喜びでもあります。懲罰的な自己責任とは違った、より肯定的な責任を引き受ける感覚があるのです。
  

竹端さんの主な著書
竹端さんの主な著書

  
 政治学者のヤシャ・モンクは、育児や困窮状態の親類の世話について、それも一つの社会貢献であると述べ、肯定的責任像を提起しています。
  
 私も、家事や育児の責任を引き受ける中で、自分には父親として生きる意味や価値があるのだと、自身の存在を丸ごと肯定的に感じられるようになりました。娘へのケアは、私を力づけてくれることでもあったのです。
 ケアし合う関係は、ケアを試みる側の人間的な成熟にも、大きな役割を果たします。かつて、仕事の成果や他人との比較でしか自分を評価できなかった私自身が、娘へのケアを通して、生きる姿勢が大きく変わっていったのです。
  

  
 こうした変化は、親子だけに限りません。私自身の学生との関わり方も変わりました。
 以前は、リポートの提出期限を守れない人を「ダメな学生」と思い込んでいました。けれど、今は「言語化できない苦しいことがあるのかも」と、考えるようになりました。
 自己責任の論理で見れば、「期限を守れないと、社会では通用しないよ」と、責めたくなります。しかし、本当は社会が許さないのではなく、「私があなたを許せない」と言いたかったのかもしれません。
 弱肉強食の論理の中で、これまで「ちゃんとやってきた」自分の成功体験に引き当てると、一人一人の事情に思いをはせた関わりが、できにくくなります。
  
 だからこそ、変わらないといけないのは「指導する側」だと思います。
 ケアし合う関係性をつくるために、子どもでなく親が、生徒でなく教師が、部下でなく上司が、変わることが求められているのです。
  

■「違いを知る対話」と「決定のための対話」

  
 ――ケア関係を友人や同僚などにも広げようとすると、多様な考え方を持つ人同士で、相いれない場面もありそうです。具体的には、どう接していけばよいでしょうか。
  
 他者が持つ、自分には理解しきれない性質を「他者の他者性」と呼びます。
 友人や同僚はおろか、妻や子どもといった家族であっても、完全には理解できません。どんなに頑張っても、私は妻や娘にはなれないし、私の理解し得ない他者性が残り続けます。
 例えば、妻とは結婚して20年たち、毎日会話していますが、今でも「そんなこと知らなかった」という気付きがあります。
  
 他者には、想像もつかない他者性があるため、他者と意見を完璧に一致させることは、無理だとも言えます。
 それでは、物事を決める時には、どうすればよいのでしょうか。オープンダイアローグという精神療法の提唱者であるトム・アーンキルは、「違いを知る対話」と「決定のための対話」を分けるやり方を教えてくれます。
  

  
 彼が勤めていた研究所では、方針を決定する時などに、まずテーマについてお互いの思いをざっくばらんに語り合う「違いを知る対話」に時間をかけます。
 それを経て、お互いを理解した上で、「では、どうするか?」という「決定のための対話」を行うと、方針がうまく決まりやすいそうです。
  
 「違いを知る対話」で大切なのは、相手の言っていることを、そのまま「理解しよう」とすることです。これは、「許し」や「共感」とは違います。相手の主張が自分の考えと合わない場合でも、無理して許さなくていいし、共感しなくてもいいのです。
 たとえ「訳が分からない」と思ったとしても、相手がなぜそう考え、そう話しているのかを「理解しよう」とすることが、相手とつながる根拠になります。
  
 つまり、ありのままのその人の存在を丸ごと承認するのが「違いを知る対話」なのです。それを経て「決定のための対話」を行えば、決定の質がより良いものになります。
 これは、とても面倒なことでもあります。けれど他者には、自分が想像し得ない他者性があることを見つめていくと、それと同時に、自分自身にも「己の唯一無二性」ともいえる、他者と違う固有の性質があることに気付きます。
 こうした対話のプロセスが「共に思いやる」「ケアし合う」関係性の基盤になるのです。
  

■「できない100の理由」より「できる一つの方法論」

  
 ――完全には分かり合えない他者だからこそ、対話を続けることが必要なんですね。
  
 完璧には分かり合えない他者を相手にするわけですから、「引き裂かれそうな葛藤」に直面することもあります。私の家庭でいえば、6歳の娘は、本人の思いをグイグイぶつけてきます。親としては、理解するより「ちゃんとしてよ!」と叱って、強制的に従わせたくなる時もあります。
 けれど、そうした葛藤が最大化する場面こそ、「他者の他者性」に出あう最大のチャンスなのです。
 娘をケアする中で痛感するのは、「他人と過去は変えられない。変えられるのは自分の未来だけ」ということです。
  

  
 父である私が何と言おうと、しっかりした意思を持った娘は、すがすがしいくらいに反発してくれます。まるで娘が「私には、お父ちゃんとは違う、他者性があるで!」と言っているかのようです。
 同時に、そうやって自己表現ができるのは、父親に表現したら理解してくれるという安心感を持っているからだとも感じます。こんな時、父である私は、イライラする自分をいったん脇に置いて、何とか娘の自己表現を読み解こうと奮闘する毎日です。
  
 こうやって相互承認を繰り返す中で、娘との信頼関係ができていき、お互いの尊厳を大切にできるようになっていきます。これが「共に思いやる」というケア関係なのだと思います。
  

  
 ――創価学会でも、日常の活動の中で、さまざまな「対話」の場面があります。苦悩や葛藤を共に経験する中で、「共に思いやる」関係ができていくということは、実感として納得できます。
  
 悩みや葛藤を抱えながら、それに「共感」「共苦」するというのは、本来、宗教のコミュニティー(共同体)が果たしてきたことでもありますね。
 現代社会においては、そうやって多様な一人一人をそのまま受け入れてくれるコミュニティーを複数持つことが大切だと思います。私自身も、子育てコミュニティーにも所属しつつ、同時に趣味の合気道でつながっているコミュニティーもあります。
  
 そうしたケア中心の生き方が広がれば、自己責任の論理で誰かを排除するのではなく、誰もが生きやすい社会に、少しずつ近づいていくと思っています。
  

  
 そのために、今日からできるケアの実践は、具体的な誰かと会って、「違いを知る対話」を通して関係性をつくっていくことです。
 他者には、自分には分かり得ない部分が必ずあります。けれど、分からないからこそ、対話ができるという希望があるのだと思います。
  
 イタリアの医師バザーリアは「○○だから、できっこない」と、やる前に諦める姿勢を「理性の悲観主義」と言いました。それより大事なのは、「実践の楽観主義」だと唱えたのです。
 言い換えれば、「できない100の理由」を探すより、「できる一つの方法論」を共に考え合うということです。例えば、目の前で赤ちゃんが泣いている時に、「今はケアできない理由が……」などと言っている暇はありません。
 「ケアは実践ありき」なのです。具体的な他者と関わり、対話的な関係を結ぶこと。そうした楽観主義的な実践が、ケア中心の社会につながっていくと信じています。
  

  
 たけばた・ひろし 1975年、京都市生まれ。兵庫県立大学環境人間学部准教授。専門は、福祉社会学、社会福祉学。子育てをしながら、福祉やケアについて研究。著書に『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマー新書)、『家族は他人、じゃあどうする?――子育ては親の育ち直し』(現代書館)など。
  

  
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 kansou@seikyo-np.jp
 ファクス 03-5360-9613
  
こちらから、「危機の時代を生きる」識者インタビューの過去の連載の一部をご覧いただけます。

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