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【東日本大震災から12年】答えがなくても「問い」続ける。その揺らぎを支える「祈り」――インタビュー 小説家・劇作家 柳美里さん㊦ 2023年3月12日

  • 〈危機の時代を生きる 希望の哲学〉

  
 東日本大震災の直後から被災地に通い始め、2015年に福島県南相馬市に居を移した、小説家・劇作家の柳美里さん。この場所から、今の時代をどう見つめているのか――。11日付のインタビュー㊤に続き、㊦を掲載する。(聞き手=掛川俊明、小野顕一)
  
 ※インタビューの㊤(11日付)はこちらから読めます。
  

■居場所のない人のために書いている――「表現者」というより「生活者」

  
 ――2020年に全米図書賞(翻訳文学部門)に選ばれ、世界中で反響を呼んだ小説『JR上野駅公園口』の主人公は、南相馬出身でした。作品では、行き場をなくした人たちの苦しみが描かれています。
  
 私は、自分のことを「表現者」というより、「生活者」だと思っています。「メイドイン南相馬」の小説を、ここで暮らし、書き、読んでもらっています。
 「もごいなぁ」「んだげんちょ」といった、極めてローカルな方言を随所に書いたので、英語への翻訳も容易ではなかったと思います。ですが、そうして描いた「痛み」は、不思議なことに、英訳を経ても確かに伝わっていきました。
  
 現在、十数カ国語で翻訳されていますが、それだけ「居場所がない」と感じている人が多いのかもしれません。
 「居場所のない人のために書いている」という思いは、10代で最初の戯曲を書いた時から、ずっと心にあります。それは今も変わりません。「何にも属せない」と感じる人が、手に取ってくれているとも思います。
  

海外でも共感が広がる柳美里さんの著書
海外でも共感が広がる柳美里さんの著書

  
 私自身、韓国籍だったことでいじめに遭い、日本にも韓国にも学校にも「所属感」を持てませんでした。
 けれど、「居場所がない」という痛みの共通点から、人はつながることができるのかもしれません。ブックカフェ「フルハウス」を開いたのも、住民同士の語らいの空間となる居場所をつくりたかったからです。
  
 ――2018年に「フルハウス」をオープンされて、5年がたちます。このインタビュー中にも次々に人がやって来て、気さくにあいさつを交わされています。一人で来られる方もいれば、複数で来られる方もいて、気兼ねなく過ごせる印象を受けました。
  
 人は、交流がないと窒息してしまいます。ちょっとしたあいさつや雑談から会話が弾むこともありますし、喫茶店や書店なら長居することもできます。
 もし誰も話せる人がいない時でも、本を通して“人”と会うこともできます。
 本といっても、そこにいるのは“人”なんです。著者もいれば、登場人物もいます。
  

オープンから5年を迎えるブックカフェ「フルハウス」
オープンから5年を迎えるブックカフェ「フルハウス」

  
 もう生きていけないと思うような断崖絶壁に立たされた時、今、生きている場所のほかにも、「世界は無数にある」と気付かせてくれるのが、本ではないでしょうか。書店に並んでいる本は、どれも、別の世界に開かれた扉でもあるのです。
  
 私が本と出あったのは、いじめに遭っていた時でした。しゃべる友だちもいなかったので、いつも図書館に行って本を読んでいました。
 ともすると、子どもにとっては、学校と家の往復だけが、唯一の“世界”になりがちです。学校でいじめを受けると、世界は苦しみに満ちてしまう。けれども私は、本を読むことで、自分が生きる世界が一つではないことを知り、救われました。
  
 南相馬の工業高校の生徒が、フルハウスでの読書会を機に読書するようになって、その後、就職して初めての給料で本を買いに来てくれたこともありました。
 読書の入り口が開けば、いろいろな世界につながっていける。フルハウスの存在が、そんな居場所になれたらいいなと思っています。
  

■悲しみを“小さなともしび”にして照らす

  
 ――柳さんの著作には、ありのままに自分の苦しみや悲しみをさらけ出したものもあります。柳さんにとって、苦しみ、悲しみは、どのような意味をもつでしょうか。
  
 私は若い時、「なぜ私だけがこんな目に遭うんだろう」と、自分を不幸だと思ってきました。けれど、小説家になってからは、「確かに不幸だけれど、その不幸に不服はない」と思って書いていたんです。ある意味で、開き直りといえるかもしれません。
 ただ、今になって思うのは、“痛み”のない人はいないということです。
  
 生きることは、いつか死ぬこと。どんなに好きなものがあって、どんなに大切な人がいても、最後は「さよなら」しなければならない。
 それがいつかは分からないけれど、死ななければいけないということを知っているというのは、それ自体が大きな悲しみ、根源的な苦しみではないでしょうか。
 一人一人、違うけれど、誰もが痛みや悲しみを経験している。「あなたの悲しみは分かる」などと安易には言えませんが、悲しみを自分の前に“小さなともしび”のように置くことで、人の悲しみを照らすことができると思います。
  

  
 ――人がつながる場としてフルハウスを開かれ、併設された劇場も完成予定です。この夏には、常磐線を舞台にした芸術祭の開催も企画されています。柳さんの発想や著作には、苦しい思いをしている人の姿がいつもあるように感じます。
  
 もともと近くに高校もあって、下校時に寄り道できる場所がないと感じていました。「私に何かできることは」って考えたら、書店しかないと。それなら、お金を使わなくても長居することができますしね。
  
 思いついたことを形にするときは、地域の方の「喜ぶ顔」が浮かぶかどうかを基準にしています。
 具体的に喜んでくれる人の顔が浮かばなかったら、だめかなと思っているんです。喜ぶ顔が浮かぶなら、それはきっと実現できるという確信があります。
 それは、なぜか。「自分とは何か?」と問いかけると、結局、「他者でできている」と思うからです。親や友人、教師から始まって、何世代にもわたる先祖や、名前も知らない膨大な過去の死者も含めて、一人でも欠けたら今の自分はないじゃないですか。
 だから何かをする時に、それが他者の喜びや希望にかなっているかどうかは、いつも気にかけています。
  

フルハウス裏の劇場・ミニシアター。人と人を結ぶ場に、との願いがこめられている
フルハウス裏の劇場・ミニシアター。人と人を結ぶ場に、との願いがこめられている

  
 言い換えれば、自分は「他者」という「糸」で編まれていて、それをほどいて編み直すことも、さらに編み広げて、今までにない新しい模様を編み出すこともできる。
 「糸」に「泉」と書くと「線」になります。自分と他者の間には「線」があって、線は分け隔てるものでもあるんですけど、人と人をつなぎ、生きる道を示すものでもある。そうした線が結び付けられることで湧き起こるのが「泉」のようにも思えます。
  
 そこには生きている人との線だけでなく、「死者」との線もあります。私は、最愛の人を病で亡くす直前、「なんで泣いているの? 僕があなたを置いて死ぬはずないじゃない」と言われたことがあります。
 その時は、どう受け止めたらよいか分かりませんでしたが、その言葉は本当だったと今は感じます。彼が亡くなっても、その存在はなくなっていない。思いや視線、声は残っている。その人が生きていた響きは消えません。
 聴く耳さえあれば響きは聞こえるし、今の自分と共にあるのだと思います。
  
 書店も、劇場も、私の小説も、どれも「悲しみの器」だと思っています。震災と原発事故によって傷ついた地域だからこそ、その痛みを共にしながら、人がつながれる場所をつくりたい。
 どんな苦しみがあっても、「悲しみの器」があれば、聴いてくれる他者がいれば、そこに自分の悲しみを流すことができます。
  

  
 そうした場所を求めるのは、私自身が「流れ者」だからかもしれません。韓国籍であること、いじめられて居場所がなかったこと、伴侶を亡くしたこと、移住者であること。ずっと流れてきたけれど、「流れ者でしか結べない縁」があるのではないかと思うんです。
  
 「流される」というと、悪いことかのようなイメージがあります。けれど、私は積極的に流されながら縁を結んできたから、今こうやって書店を開いて、劇場をつくろうとしています。
 流れの中で、自分の欲望や望みを手放して、誰かの喜ぶ顔が浮かぶことをやってきました。そうすると、他者とつながりやすく、その結び付きも強いものになります。
  
 移住した当初は、「すぐに神奈川に戻ってしまうだろう」と見られていたかと思います。でも、私は、ここで暮らし、ここで書き、ここで書店や劇場を開いて、人が結ばれる居場所をつくりたい。
 「もう死のう」と思っている人が、ふらっと立ち寄った時に、どうしたら引き止めることができるか――そんなことを、ずっと考え続けています。
  

■美しい居場所をつくりたい――「自問自答のあい路」に陥らないために

  
 ――人生における痛み、悲しみに向き合っていく上で、宗教の持つ力とは何でしょうか。
  
 私は、キリスト教の信仰を持っています。今、宗教に対する偏見が大きくなっている中で、「信じる」というと、何か盲目的になったり、狭い世界に入ったりする、ネガティブなイメージを持たれがちです。
 けれど、私はそうではないと思うんです。「信じる」とは、「揺らがない」ことではなく、むしろ、「揺らぎ」の上に立っているのを自覚すること。それは、ある意味で、しんどい道です。
  
 真の宗教は「問い」を手放さない。なぜ生きるか、なぜ死ぬのかといった、本当の問いは「答え」がないものです。
 しかし、答えがなくても問い続ける。その不安定さを支えるのが「祈り」ではないでしょうか。
 その祈りの先には、自分のことを超えて、他者に開かれていく広がりがあります。創価学会の皆さんも、「他者のために」ということを行動の動機にされている方が多いと感じます。
  

  
 他者という存在がなければ「自問自答のあい路(通行の難所)」に陥ってしまう。問いは「他者からもたらされるもの」だからです。他者と出会わなければ、本当の意味で自分を知ることはできません。他者を視点にした真の問いは、より良く生きることを支えてくれるに違いありません。
  
 人は、痛みを分かち合い、苦しみを共有する中で、かけがえのない“生涯の友”になっていける。自分が決めたその場所で、誰かと共にあることで、生きる力を生み出していく。
 他者に向かって開いた分だけ、生きる意味や価値もまた、得られるのだと思います。
  
 人生の大半は、ありふれた日常です。そのありふれた暮らしの中に、小さいけれども、きらめく瞬間があってほしい。地震や原発事故で汚染されたというイメージをつけられてしまった地域だからこそ、私はここに美しい居場所をつくっていきたいのです。
  

  
●ご感想をお寄せください。
 kansou@seikyo-np.jp
 ファクス 03-5360-9613
  
●こちら(https://www.seikyoonline.com/rensaimatome/kikinojidai_shikisha.html)から、「危機の時代を生きる」識者インタビューの過去の連載の一部をご覧いただけます。
  
  

ブックカフェ「フルハウス」の店内
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