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〈Seikyo Gift〉 インタビュー 生物学者 福岡伸一博士 <危機の時代を生きる> 2021年2月7日

 コロナ禍を機に私たちは、人とのつながりを見つめ直し、地球環境との共生のあり方を改めて考えるようになった。生物学者の福岡伸一博士(青山学院大学教授)に、新しい時代の生命哲学などを巡りインタビューした。(聞き手=萩本秀樹、村上進、2020年12月5日付)

正しく畏れる

 ――生物学者の視点から、新型コロナの感染拡大を見つめてこられました。ウイルスに対して「正しく畏れる」ことが大切だといわれています。
  
 「畏れる」とは、自然に対する畏敬という時の「畏」です。英語では「センス・オブ・ワンダー」という言葉が適切でしょう。
 
 これは「畏れる感性」という意味で、もともとは、『沈黙の春』等の著者である、アメリカの生物学者のレイチェル・カーソンが、最後に著した本のタイトルでもありました。
 
 彼女は、子どもたちにとっては「知ること」よりも「感じること」が先にきて、自然の中の美しいものや精妙なもの、ドラマチックなものを見ることで、尊敬や畏敬(ワンダー)を抱くと語りました。それが自然観や生命観、あるいは生命哲学といったものの基礎になるべきだというのです。
 
 例えばチョウを観察すると、卵から幼虫が生まれ、その幼虫が葉を食べ、脱皮しながら育ちます。アゲハチョウだったらミカンやサンショウの葉、キアゲハだったらパセリやにんじんの葉のように、種によって食べる葉が決まっています。自分が食べる分の葉を自然が守り、他者の環境を荒らさないようにしているのです。これも一つのワンダーです。
 
 そして何といっても幼虫は、ある日、急にさなぎになり、さなぎの中で一度、細胞が全部溶けた後、チョウが再構成されて出てくる。幼虫とチョウを初めて見た人は、これが同じ生物だとは到底思えないわけです。自然はそういう驚異に満ちあふれていて、私自身、生物学者になってからも、「畏れる感性」を持ち続けてきました。

生まれたばかりのアゲハチョウの幼虫。ミカンの葉などを食べて成長する(アフロ)
生まれたばかりのアゲハチョウの幼虫。ミカンの葉などを食べて成長する(アフロ)

 ウイルスも自然の一部である以上、「正しく畏れる」ことが大切です。科学の進歩によって、ウイルスがいるかいないか、あるいは感染者数や感染ルートは、すごいスピードで調べられるようになりました。しかし、だからといって私たちにできることは、マスクをする、手を洗う、身体的距離を保つといった基本的なことです。100年前に、スペイン風邪が流行した時と同じなわけです。
 
 では最大の対策は何かというと、特効薬やワクチンができることではなく、自分の体を信じることです。
 
 ウイルスに対しては必ず体の中の免疫システムが働き、まずは自然免疫という方法で、ウイルスが無作為に暴れないように制御します。それでもウイルスが増殖するようなことがあれば、ウイルスに結合して無力化するような抗体ができます。ワクチンと同じ効果を持つ働きが本来、体の中にあるということです。まずはそれがきちんと働くよう信頼を置くことが、最も正しい「畏れ方」です。
 
 この免疫の最大の敵は、ストレスです。ストレスを感じることは本来、生命にとって非常に大事な防衛システムです。急に寒くなれば体温を上げたり、天敵と戦うために筋肉を緊張させたりするストレス反応は、いわば“緊急の防衛反応”であり、エネルギーを必要とします。
 
 一方で、“通常の防衛反応”である免疫システムもまた、リンパ細胞や抗体をつくるために多大なエネルギーが必要です。
 
 つまり、ストレスと免疫はトレードオフ(二律背反)の関係にあって、緊急のストレス反応が起きた時には、免疫反応は抑制されてしまうのです。
 
 現代社会は、人間に天敵が現れるようなことはまずありませんが、人間関係や組織のストレスに日々、さいなまれていて、それによって免疫系が抑制されていることが多い。そうするとウイルスに侵されて、風邪をひいたり、がんになりやすくなったりします。
 
 自分の体を信じるということは、免疫システムを正常に維持するということであり、できるだけストレスを感じない生活を送るということでもあります。これも「正しく畏れる」ことの一つだと思います。

「ピュシス」と「ロゴス」

 ――「ウィズコロナ」の時代に求められるのは、どのような生命観であるとお考えですか。
  
 現代社会はAI(人工知能)やデータサイエンスが発展し、生活が便利になってきた半面、それらが万能であるという、ある種の錯覚に陥ってしまうことがあります。科学によって制御すればウイルスに打ち勝てると考えて、個人の行動を電子化したり、履歴をたどれるようにするわけですが、これは、本来の生命の自由度を損なってしまうものだと考えます。
 
 私の生命哲学の一つの軸に、「ピュシス」と「ロゴス」があります。ギリシャ語で、ある対立概念を表しています。
 
 「ロゴス」は、言葉あるいは論理という意味で、AIやデータサイエンス、法律など、人間が外部につくりだしたシステムのことです。それらが人間の外側に向けて可能性を広げるのは喜ばしいことですが、人間の内側に向かって生命をコントロールするようになると、問題が大きいと思っています。
 
 なぜかというと、ロゴスに対する「ピュシス」は人間の生命や本来の自然を指す言葉で、ロゴスではコントロールしえないものだからです。死ぬことも、病気になることも、食欲やいろいろな感情も、ピュシスの一部であって、本来はコントロールできない生命のありようです。
 
 文明社会では、ロゴスが優位になりすぎて、言葉や法律で全てを支配下に置けるという幻想に浸かっています。生や死、性など、制御できないものについては、タブーとして触れないようにして、隠蔽してしまっているわけです。
 
 しかしウイルス感染のような事態が起きると、ピュシスとしての人間の生や死が、現実としてあることを改めて思い知らされます。

生命は「動的平衡」の流れ 絶えず自ら変わり続ける

 生命とは機械のようなものではなく、「動的平衡」にある流れそのものだといえます。
 
 これは、物体の生命は絶えず「分解」と「合成」を繰り返しているという考え方です。人間の体や細胞も、止まることなく自らを壊しながら、つくり変えているというわけです。
 
 合成には、DNAの遺伝情報が情報の運び屋であるRNAに移り、RNAの情報がタンパク質の情報に移るという、たった一つの方法しかありません。しかし研究が進めば進むほど、分解の方法は何通りもあるということが分かってきました。
 
 生命は、つくることよりも「壊すこと」を一生懸命にしているのです。なぜかというと、壊さないと新しいものをつくれないからです。これは「エントロピー増大の法則」と、どう戦うかということと関係します。
 
 エントロピー増大の法則は、秩序ある状態(エントロピーが低い)から無秩序の状態(エントロピーが高い)にしか進まないという、宇宙の大原則です。
 
 いくら整理整頓しても、2、3日経てば書類が積まれたり、本が倒れたり、消しゴムのかすがたまったりしますね。コーヒーも、いれたては熱々でも、すぐにぬるくなってしまいます。あるいは、壮麗なピラミッドのような建造物を建てても、1000年、2000年も経つと風雪にさらされて砂粒に変わります。これらは全て、エントロピー増大の法則です。
 
 生命もまた、この法則のもとで、酸化が起きたり、老廃物がたまったりしながら、常に壊されています。いくら生命を頑丈につくっても、法則は避けられません。
 
 そこで生命が選び取ったのが「動的平衡」です。
 
 つまり、最初からゆるく、柔らかくつくり、絶えず先回りして細胞を壊しているのです。エントロピーを自ら外に捨て続けながら、秩序を新たにつくり変えることで、初めて秩序が守られる。絶えず動きながら、バランスを取り続けている状態が動的平衡です。
 
 つくり変えるといっても、ロボットみたいに、古い部品を全く新しいものにするのではありません。体は小さな部品が寄り集まってできていると考えるのは、機械論的な生命観です。
 
 そうではなく、流れとしての生命の合成と分解は、ジグソーパズルのピースを入れ替えるようなものです。ピースは同時多発的に入れ替えても、互いに補い合っているため、全体としては絵柄は変わりません。
 
 同じように、ある細胞が捨て去られても、周りの細胞が残っていれば、新しい細胞がはまる場所は決まっています。そしてはめ込まれると、また新たな関係性が成立するのです。
 
 生命も、こうして常にエントロピーが外に捨てられながら、保たれています。大きく変わらないために、小さく変わり続けているのだといえます。

福岡博士の著書
福岡博士の著書
長い時間軸

 ――「分解」とは、私たちの生活に当てはめると、具体的にどのようなことでしょうか。
  
 生命が行う分解は、いらなくなったから捨てる、さびたから壊すのではありません。つくりたてで新品と同じなのに、惜しげもなく分解するのです。壊れてから捨てるのでは、エントロピー増大の法則に打ち勝つことはできないからです。変わらなければならない時点まで追い詰められてからではなく、あえて先回りして、変わるということです。
 
 そういう視点から生活に当てはめれば、率先して変えなくてはならないのは、環境に対する取り組み方だと思います。
 
 今、SDGs(国連「持続可能な開発目標」)などいろいろな形で環境問題が語られていますが、誰かに言われたから、目標が決められたからやるのではなく、率先して自らを変えていくことではないでしょうか。
 
 一番身近で簡単なのは、「消費行動を変える」ことです。例えば、少し値段が高くても、生産者が手間暇かけて、有機的な方法で製造した牛乳を買うことで、環境問題に気を配っている人を応援することになります。環境のために正しいコストを払うことが、個人ができる最も簡単な環境運動ですので、そこから自分を壊していくことも大事ではないでしょうか。
 
 変化を恐れないことや、今までの価値観を疑ってみることもまた、分解といえます。特に、我々はどうしても効率主義に陥りすぎて、いつも最適解ばかりを求めて行動していますが、その生き方を分解する必要があります。
 
 効率主義というのは、時間を分母とした分数ですね。時給いくらとか、日当いくらとか、売り上げや販売部数など、常に時間で割った数字が評価基準になり、その比較の上で「最適化された」「歴代1位を達成した」と喜ぶのです。
 
 しかし時間とは、本当は区切られていない、連続した流れです。良い時もあれば、悪い時もある。部分的な最適だけを求めると、その時はいいように見えても、長い時間の幅で見れば、全体は非効率になっている場合もあるのです。
 
 「ウィズコロナ」の時代は、どれくらい長い時間軸を持てるかが大事な視点だと思います。
 
 時間で割る効率主義的な生き方を見直すことが一番ですが、少なくとも、10年といった時間の射程で物事を見る必要があるのではないでしょうか。

もらっては還す

 ――持続可能な未来のためには、自らが常に変わり続けるとともに、自分の周囲や次世代に思いをはせることが大切です。
  
 人間はついつい目先の利益が大事に思えてしまいますが、その考え方を分解して、「今、自分が効率を最大化することは、周囲や後の世代に負担を残すことだ」という視点に立つことが大切です。
 
 「利他」を意識するということですが、それは自己犠牲ではありません。100の力しかない人が、無理に他人に10を与えてしまえば、自分の持ち分が90になって苦しくなります。
 
 でも、自分が何らかの形で力づけられたり、運が良かったりすると、100だった力が110になったりしますね。自然界では、その余分は必ずエントロピーに流されて、腐ってしまうか、分解されます。
 
 例えば余分に光合成できた植物は、その葉を他の生物に食べさせたり、落ち葉として落として土壌生物に与えたりして、結果として、利他的に働いているのです。
 
 しかし人間だけは、ロゴスによって、貨幣や財産といった腐らないかたちで10の余分をため込んで、自分の中に隠してしまうのです。その余分は、利他性によって解放すべきでしょう。
 
 どんな生物も、良い時と悪い時があります。良い時は利他的に行動し、悪い時は無理に他者に施さなくてもいい。与える側と与えられる側がいて、動的平衡が成り立っています。
 
 我々は、エネルギーや情報を絶えず環境から得て、それを環境に戻すといった関係の中で生きています。これこそ、コロナ禍が改めて人間に教えていることです。
 
 もらっては還すという、平衡関係を互いに守るという利他的な行為によって人間は支えられているのであって、もう一度、その生き方を取り戻す時がきています。
 
 自分は何ができるかを考えながら、できるだけ利他的に行動することが、コロナ時代に選択すべき生き方ではないでしょうか。時に支え、時に支えられるといった動的な関係性が、きっと助けになるはずです。

 <プロフィル> ふくおか・しんいち 生物学者。1959年、東京都生まれ。京都大学卒。米ハーバード大学医学部研究員、京都大学助教授などを経て、青山学院大学教授・米ロックフェラー大学客員研究者。生命の本質に迫る研究と執筆を重ね、『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)がサントリー学芸賞、中央公論新書大賞を受賞し、ベストセラーに。他にも、現在3巻まで刊行されている『動的平衡』や対談集『動的平衡ダイアローグ』(いずれも木楽舎)、『最後の講義』(主婦の友社)など著書多数。美術にも造詣が深く、世界中のフェルメールの作品を鑑賞し、解説書も発表している。

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