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池田先生と写真家・三木淳
池田先生と写真家・三木淳
2024年5月29日
- 民衆の指導者は“かくあれ”
- 民衆の指導者は“かくあれ”
1975年(昭和50年)5月3日、池田先生の第3代会長就任15周年を慶祝する式典が創価大学で開かれた。式典前、先生は同大学のロータリーで車を降りると、写真家・三木淳氏の姿を見つけた。氏の方へ歩み寄ると、手を握りながら、「三木先生、よく頑張られましたね。いつも健康を祈っています」と。氏は目に涙を浮かべ、声を振り絞った。「おかげさまで、ここまで元気になりました。ありがとうございます」
1975年(昭和50年)5月3日、池田先生の第3代会長就任15周年を慶祝する式典が創価大学で開かれた。式典前、先生は同大学のロータリーで車を降りると、写真家・三木淳氏の姿を見つけた。氏の方へ歩み寄ると、手を握りながら、「三木先生、よく頑張られましたね。いつも健康を祈っています」と。氏は目に涙を浮かべ、声を振り絞った。「おかげさまで、ここまで元気になりました。ありがとうございます」
第3代会長就任15周年の式典前、池田先生は車から降りると、三木氏のもとに歩み寄り、握手を交わす(1975年5月3日、創価大学で)
第3代会長就任15周年の式典前、池田先生は車から降りると、三木氏のもとに歩み寄り、握手を交わす(1975年5月3日、創価大学で)
若い人が敬慕する大人物と分かった
若い人が敬慕する大人物と分かった
日本がサンフランシスコ講和条約を結んだ1951年(昭和26年)9月。アメリカの写真誌「ライフ」の表紙を、葉巻をくわえた吉田茂首相(当時)のポートレートが飾った。
撮影したのが三木淳氏。日本人として初めて同誌のカメラマンとなり、日本写真家協会の会長も務めた写真家である。堂々とした首相の写真は、敗戦から力強く復興する日本を海外にアピールした。
氏が創価学会と出あったのは、60年代はじめのこと。雑誌の編集をしている学会員が、海外で撮影した氏の写真を使用したいと訪ねてきたことがきっかけだった。
編集者と接しているうちに、世間の悪評と学会の真実の姿が大きくかけ離れていると感じた。その後、氏は何人もの青年部員と親しくなる。
青年たちはよく、「池田先生」と口にした。“彼らが尊敬する池田先生とは、どういう人なのか”――氏は機会があるたびに、先生について尋ねた。
やがて、聖教新聞社から請われ、写真の技術指導を担当することに。その中で、先生との交流が始まった。
初めての語らいは、静岡で行われた夏季講習会の時である。講習会のある行事で、青年部員が率先して行動する姿に、氏は驚いた。「こんな青年たちが日本にいるのだと感じたとき、私の心は熱く燃えた」
語らいの折、先生は語った。
「昔から毀誉褒貶を気にしてはいけないといわれていますが、私も人間ですから少しは気にします。ほめられれば、ちょっといい気になりますし、けなされれば腹もたちます」
「学会のことをけなされた場合、私を信じてついてくる大勢の学会員がかわいそうですから、私は断乎として戦ってきました」
先生と語り合った印象を、氏はこう述べている。
「私はいままで、偉いと世間からいわれている多くの人々に会ってきたが、池田会長のように率直にものをいう人は初めてであった。高い地位にある人は、ことさらに自分を偉くみせようという、てらいがあるものだが、池田さんにはそれがない。直感的に若い人々が『先生、先生』と敬慕するだけの大人物であるとわかった」
日本がサンフランシスコ講和条約を結んだ1951年(昭和26年)9月。アメリカの写真誌「ライフ」の表紙を、葉巻をくわえた吉田茂首相(当時)のポートレートが飾った。
撮影したのが三木淳氏。日本人として初めて同誌のカメラマンとなり、日本写真家協会の会長も務めた写真家である。堂々とした首相の写真は、敗戦から力強く復興する日本を海外にアピールした。
氏が創価学会と出あったのは、60年代はじめのこと。雑誌の編集をしている学会員が、海外で撮影した氏の写真を使用したいと訪ねてきたことがきっかけだった。
編集者と接しているうちに、世間の悪評と学会の真実の姿が大きくかけ離れていると感じた。その後、氏は何人もの青年部員と親しくなる。
青年たちはよく、「池田先生」と口にした。“彼らが尊敬する池田先生とは、どういう人なのか”――氏は機会があるたびに、先生について尋ねた。
やがて、聖教新聞社から請われ、写真の技術指導を担当することに。その中で、先生との交流が始まった。
初めての語らいは、静岡で行われた夏季講習会の時である。講習会のある行事で、青年部員が率先して行動する姿に、氏は驚いた。「こんな青年たちが日本にいるのだと感じたとき、私の心は熱く燃えた」
語らいの折、先生は語った。
「昔から毀誉褒貶を気にしてはいけないといわれていますが、私も人間ですから少しは気にします。ほめられれば、ちょっといい気になりますし、けなされれば腹もたちます」
「学会のことをけなされた場合、私を信じてついてくる大勢の学会員がかわいそうですから、私は断乎として戦ってきました」
先生と語り合った印象を、氏はこう述べている。
「私はいままで、偉いと世間からいわれている多くの人々に会ってきたが、池田会長のように率直にものをいう人は初めてであった。高い地位にある人は、ことさらに自分を偉くみせようという、てらいがあるものだが、池田さんにはそれがない。直感的に若い人々が『先生、先生』と敬慕するだけの大人物であるとわかった」
池田先生と三木氏が写真談議に花を咲かせる(1972年1月、旧・聖教新聞本社で)。氏は「作家の三島由紀夫はカメラを向けると、必ず身構えた。そういう人は多い」と述べ、先生は「飾らない」と。先生が撮影した写真についても、「天衣無縫(てんいむほう)であり、全く自然体」と評した
池田先生と三木氏が写真談議に花を咲かせる(1972年1月、旧・聖教新聞本社で)。氏は「作家の三島由紀夫はカメラを向けると、必ず身構えた。そういう人は多い」と述べ、先生は「飾らない」と。先生が撮影した写真についても、「天衣無縫(てんいむほう)であり、全く自然体」と評した
思いやりの集積が広布伸展の力に
思いやりの集積が広布伸展の力に
三木氏は「写す対象にのめり込んではいけない」と自らを戒めてきた。だが、池田先生の魅力に引かれ、先生の姿を追った。その行動には「民衆の指導者は“かくあれ”という姿を、映像で後世に残したい」との思いがあった。
各種行事に参加し、地方指導に同行することもあった。ブラジルや香港など、海外で信心に励むメンバーもカメラに収めた。
66年(同41年)9月18日、雨の中、阪神甲子園球場で行われた関西文化祭を観賞した感想を、こう語っている。
「雨に打たれ、泥濘にまみれ、演技する若者を見ているうちに、私の胸は熱くなり、眼より涙が滂沱と流れてきた。この若者達は、何かをやろうとする情熱がある。それは功利を超越したものであり、わが国の将来は絶対に明るい」
全国各地の記念撮影会にも足を運んだ。68年(同43年)に出版した『写真 創価学会』には、前年の67年(同42年)8月20日に北海道・旭川市での撮影会のことをつづっている。
「場内二か所に記念撮影のためのスタンドが設けられ、一つのスタンドに350人ほどの人々が登る。池田さんは、その一つのグループの前で対話をする」
「こうした記念撮影を一日に20組やり、その一つ一つに親切な指導を行っていく。大変な重労働である」
あるグループの撮影で、先生は“今度、こうして皆さんが集まる時には、境涯を大きく開いてください”と述べ、「幸せになるために、人の3倍働こう」と訴えた。この言葉は氏の心にも残った。
撮影会終了後、先生は砂川市の滝川公園へ向かった。そこで出会った友を激励している。
氏は不思議に思った。“なぜ、あれだけ大変な記念撮影を終えた後、わざわざ滝川公園に行ったのか”。その疑問をぶつけると、先生は答えた。
“かつて、北海道で大変な広布の戦いがあった。旭川から札幌へ向かう途中、同行していた友が疲れていた。その時、あの公園で休息したんです”
氏は、先生の“友を大切に思う心”に胸打たれた。
「多忙の真っ只中にあっても、池田さんはそうした想い出を大切にする人である。このような思い遣りの一つ一つの集積が、(60年の第3代会長就任から)わずか8年のうちに学会員140万世帯を650万世帯に伸ばした一つの理由ともいえよう」
三木氏は「写す対象にのめり込んではいけない」と自らを戒めてきた。だが、池田先生の魅力に引かれ、先生の姿を追った。その行動には「民衆の指導者は“かくあれ”という姿を、映像で後世に残したい」との思いがあった。
各種行事に参加し、地方指導に同行することもあった。ブラジルや香港など、海外で信心に励むメンバーもカメラに収めた。
66年(同41年)9月18日、雨の中、阪神甲子園球場で行われた関西文化祭を観賞した感想を、こう語っている。
「雨に打たれ、泥濘にまみれ、演技する若者を見ているうちに、私の胸は熱くなり、眼より涙が滂沱と流れてきた。この若者達は、何かをやろうとする情熱がある。それは功利を超越したものであり、わが国の将来は絶対に明るい」
全国各地の記念撮影会にも足を運んだ。68年(同43年)に出版した『写真 創価学会』には、前年の67年(同42年)8月20日に北海道・旭川市での撮影会のことをつづっている。
「場内二か所に記念撮影のためのスタンドが設けられ、一つのスタンドに350人ほどの人々が登る。池田さんは、その一つのグループの前で対話をする」
「こうした記念撮影を一日に20組やり、その一つ一つに親切な指導を行っていく。大変な重労働である」
あるグループの撮影で、先生は“今度、こうして皆さんが集まる時には、境涯を大きく開いてください”と述べ、「幸せになるために、人の3倍働こう」と訴えた。この言葉は氏の心にも残った。
撮影会終了後、先生は砂川市の滝川公園へ向かった。そこで出会った友を激励している。
氏は不思議に思った。“なぜ、あれだけ大変な記念撮影を終えた後、わざわざ滝川公園に行ったのか”。その疑問をぶつけると、先生は答えた。
“かつて、北海道で大変な広布の戦いがあった。旭川から札幌へ向かう途中、同行していた友が疲れていた。その時、あの公園で休息したんです”
氏は、先生の“友を大切に思う心”に胸打たれた。
「多忙の真っ只中にあっても、池田さんはそうした想い出を大切にする人である。このような思い遣りの一つ一つの集積が、(60年の第3代会長就任から)わずか8年のうちに学会員140万世帯を650万世帯に伸ばした一つの理由ともいえよう」
創価女子学園(現・関西創価学園)の生徒に話を聞く三木氏(1974年)
創価女子学園(現・関西創価学園)の生徒に話を聞く三木氏(1974年)
幸せになるために人の3倍働こう
幸せになるために人の3倍働こう
写真とは「真を写す」――それが三木氏の信念だった。透徹した眼で物事の本質を見ようとした氏は、先生に「写真を撮られてはどうですか」と勧めた。
71年(同46年)6月の北海道・大沼訪問から、先生は本格的に写真を撮り始めた。氏はことのほか喜び、「あなたの撮った写真で写真展をやるべきだ」と語った。
そうした声は、ほかの写真家からも寄せられた。それらの要請に応え、82年(同57年)4月2日、「平和と文化を写す」と題した「池田大作写真展」が開幕。今日まで、先生の写真展は、41カ国・地域で開催されている。
先生が撮影した写真について、氏は述べている。
「われわれ写真家は技術的に高度のものをもっているかも知れないが、表現の精神が果して充分であるかどうか名誉会長の作品から大いに反省させられる」
「名誉会長の作品には、てらいがなく、天衣無縫というか、自然体という言葉が適切です。作者の心の広さが無限大に感じられるのです」
◆◇◆
72年(同47年)末、氏は体調を崩した。年明けの検査で、脳腫瘍が見つかった。先生は、入院先へ見舞いの手紙を届けた。
氏は18日間も意識を失っていたという。手術を終え、意識が戻った後、枕の下に汗でにじんだ手紙があることに気づいた。先生からの手紙だった。
「先生からのお手紙をにじませて、もったいないじゃないか」。氏は妻に小言を並べると、「手術前、先生からお手紙を戴きましたとあなたに言ったら、枕の下に入れてくれと言ったじゃありませんか」と怪訝な顔をされた。
九死に一生を得た。しかし、カメラマンとして復帰できるかは不透明だった。
氏は懸命にリハビリに挑んだ。その時、支えとなったのが、北海道・旭川での記念撮影会で、先生が語った「幸せになるために、人の3倍働こう」との言葉である。退院後、先生は氏の自宅に見舞いに訪れている。
手術から2年後の75年(同50年)5月3日、氏は会長就任15周年の式典を取材する機会を得た。「一度死んで、先生のお陰で甦った私のせめてものご恩返しはこれ以外にない」と意気込んだ。
創価大学のロータリーに、先生を乗せた車が到着すると、カメラを構えた。先生は「お互い、もう少し長生きしましょう!」と声をかけた。
氏はカメラを下ろした。「私は泣いた。涙がふき出て止まらなかった」。先生の真心の励ましは、日本を代表する写真家の心を温かく包んだ。
◆◇◆
「真を写す」写真家として、生涯にわたって、本質を見極めようとした氏。先生について、こう記している――「無限の拡がりの心の持ち主」と。
写真とは「真を写す」――それが三木氏の信念だった。透徹した眼で物事の本質を見ようとした氏は、先生に「写真を撮られてはどうですか」と勧めた。
71年(同46年)6月の北海道・大沼訪問から、先生は本格的に写真を撮り始めた。氏はことのほか喜び、「あなたの撮った写真で写真展をやるべきだ」と語った。
そうした声は、ほかの写真家からも寄せられた。それらの要請に応え、82年(同57年)4月2日、「平和と文化を写す」と題した「池田大作写真展」が開幕。今日まで、先生の写真展は、41カ国・地域で開催されている。
先生が撮影した写真について、氏は述べている。
「われわれ写真家は技術的に高度のものをもっているかも知れないが、表現の精神が果して充分であるかどうか名誉会長の作品から大いに反省させられる」
「名誉会長の作品には、てらいがなく、天衣無縫というか、自然体という言葉が適切です。作者の心の広さが無限大に感じられるのです」
◆◇◆
72年(同47年)末、氏は体調を崩した。年明けの検査で、脳腫瘍が見つかった。先生は、入院先へ見舞いの手紙を届けた。
氏は18日間も意識を失っていたという。手術を終え、意識が戻った後、枕の下に汗でにじんだ手紙があることに気づいた。先生からの手紙だった。
「先生からのお手紙をにじませて、もったいないじゃないか」。氏は妻に小言を並べると、「手術前、先生からお手紙を戴きましたとあなたに言ったら、枕の下に入れてくれと言ったじゃありませんか」と怪訝な顔をされた。
九死に一生を得た。しかし、カメラマンとして復帰できるかは不透明だった。
氏は懸命にリハビリに挑んだ。その時、支えとなったのが、北海道・旭川での記念撮影会で、先生が語った「幸せになるために、人の3倍働こう」との言葉である。退院後、先生は氏の自宅に見舞いに訪れている。
手術から2年後の75年(同50年)5月3日、氏は会長就任15周年の式典を取材する機会を得た。「一度死んで、先生のお陰で甦った私のせめてものご恩返しはこれ以外にない」と意気込んだ。
創価大学のロータリーに、先生を乗せた車が到着すると、カメラを構えた。先生は「お互い、もう少し長生きしましょう!」と声をかけた。
氏はカメラを下ろした。「私は泣いた。涙がふき出て止まらなかった」。先生の真心の励ましは、日本を代表する写真家の心を温かく包んだ。
◆◇◆
「真を写す」写真家として、生涯にわたって、本質を見極めようとした氏。先生について、こう記している――「無限の拡がりの心の持ち主」と。
第3代会長就任15周年の式典で、参加者に手を振る池田先生の正面から、三木氏がシャッターを切る(1975年5月3日、創価大学で)
第3代会長就任15周年の式典で、参加者に手を振る池田先生の正面から、三木氏がシャッターを切る(1975年5月3日、創価大学で)