東日本大震災から11年――社会課題の先進地を希望のフロンティア(開拓地)へ
東日本大震災から11年――社会課題の先進地を希望のフロンティア(開拓地)へ
2022年3月11日
- 連載〈SOKAの現場〉ルポ・福島に生きる人々(上)
- 連載〈SOKAの現場〉ルポ・福島に生きる人々(上)
移動理美容車「ロダンバス」。後方には震災後、いわき市内に完成した「小名浜マリンブリッジ」が
移動理美容車「ロダンバス」。後方には震災後、いわき市内に完成した「小名浜マリンブリッジ」が
東日本大震災からきょうで11年――。
学会員の「価値創造の挑戦」を追う新連載「SOKAの現場」で最初のテーマに掲げるのは、「福島に生きる人々」。
上下2回の取材ルポと、社会学者・開沼博氏による学会の原動力を探究した寄稿を掲載していく(次回のルポは3月下旬、寄稿は4月予定)。
地震、津波、原発事故という複合災害に見舞われた福島。今なお、課題が山積する被災地で、地道に前進を続ける学会員の姿を見つめた。(取材=中村広宣、宮本勇介)
東日本大震災からきょうで11年――。
学会員の「価値創造の挑戦」を追う新連載「SOKAの現場」で最初のテーマに掲げるのは、「福島に生きる人々」。
上下2回の取材ルポと、社会学者・開沼博氏による学会の原動力を探究した寄稿を掲載していく(次回のルポは3月下旬、寄稿は4月予定)。
地震、津波、原発事故という複合災害に見舞われた福島。今なお、課題が山積する被災地で、地道に前進を続ける学会員の姿を見つめた。(取材=中村広宣、宮本勇介)
鈴木明夫さん㊧と姉・橋詰光子さん
鈴木明夫さん㊧と姉・橋詰光子さん
東京電力福島第一原発の事故によって指定された「帰還困難区域」――将来にわたり“戻れない”とされてきた同区域内に、居住を可能とする「特定復興再生拠点区域」が定められたのは5年前。
その後、除染や社会インフラの整備がなされ、双葉町・大熊町・葛尾村の3町村が本年春に、残る浪江町・富岡町・飯舘村も来春に、同拠点区域の避難指示が解除される見通しとなった。
多くの人の努力により、着実に進む「復興」。しかし、解除後も人口が戻らず、十分な社会サービスが提供されないといった「課題」も残る。被災地には、そんな光と影の両面が絶えず存在している。
東京電力福島第一原発の事故によって指定された「帰還困難区域」――将来にわたり“戻れない”とされてきた同区域内に、居住を可能とする「特定復興再生拠点区域」が定められたのは5年前。
その後、除染や社会インフラの整備がなされ、双葉町・大熊町・葛尾村の3町村が本年春に、残る浪江町・富岡町・飯舘村も来春に、同拠点区域の避難指示が解除される見通しとなった。
多くの人の努力により、着実に進む「復興」。しかし、解除後も人口が戻らず、十分な社会サービスが提供されないといった「課題」も残る。被災地には、そんな光と影の両面が絶えず存在している。
鈴木明夫さん=ニュー・リーダー=は、いわき市内で、母・祐子さん=支部副女性部長、姉・橋詰光子さん=同=と理美容店「ヘア・クリエイティブ・ロダン」を営む。
2018年には、福島県では初となる移動式店舗「ロダンバス」のサービスも始めた。いわき市内の災害公営住宅、高齢者施設に赴くと、反響は想像以上だった。
「久しぶりにきれいになった」とほっぺを赤らめる高齢者。その様子を見た家族や施設職員からも感謝された。
諸店舗がまだ再開していなかった富岡町や大熊町など避難指示区域にも出動した。車内に広がる帰還住民たちの笑顔――そうした取り組みが評価され、20年、「日本復興の光大賞」(主催=日本トルコ文化交流会)を受賞した。
鈴木明夫さん=ニュー・リーダー=は、いわき市内で、母・祐子さん=支部副女性部長、姉・橋詰光子さん=同=と理美容店「ヘア・クリエイティブ・ロダン」を営む。
2018年には、福島県では初となる移動式店舗「ロダンバス」のサービスも始めた。いわき市内の災害公営住宅、高齢者施設に赴くと、反響は想像以上だった。
「久しぶりにきれいになった」とほっぺを赤らめる高齢者。その様子を見た家族や施設職員からも感謝された。
諸店舗がまだ再開していなかった富岡町や大熊町など避難指示区域にも出動した。車内に広がる帰還住民たちの笑顔――そうした取り組みが評価され、20年、「日本復興の光大賞」(主催=日本トルコ文化交流会)を受賞した。
一昨年からのコロナ禍では一層、需要が高まった。昨年は、1カ月で400人余りが利用。
避難指示が解除された町で同業者が店を再開したと聞けば、喜んでロダンバスの顧客を紹介し、求められれば、訪問理美容のノウハウも教える。
ロダンバスは、亡き父・英治さんの夢だった。
“困っている人のために”という学会精神に生き抜いた父。
電話で相談を受けると、営業を途中で中断して、友の元へ飛んでいくような人だった。
英治さんは、東日本大震災の発災時、県理容組合にも呼び掛け、避難所を回って無料シャンプーを実施。いつも皆から慕われ、葬儀には1000人を超える参列者が集まった。
一昨年からのコロナ禍では一層、需要が高まった。昨年は、1カ月で400人余りが利用。
避難指示が解除された町で同業者が店を再開したと聞けば、喜んでロダンバスの顧客を紹介し、求められれば、訪問理美容のノウハウも教える。
ロダンバスは、亡き父・英治さんの夢だった。
“困っている人のために”という学会精神に生き抜いた父。
電話で相談を受けると、営業を途中で中断して、友の元へ飛んでいくような人だった。
英治さんは、東日本大震災の発災時、県理容組合にも呼び掛け、避難所を回って無料シャンプーを実施。いつも皆から慕われ、葬儀には1000人を超える参列者が集まった。
65歳での早すぎる別れ。「まだまだ、やりたいことがたくさんある」と語っていた。
「信心に生き抜いたおやじの夢が中途半端で終わってしまうなんて悔しかった。だから全部、俺が実現しようと決めたんです」
一昨年からは、首都圏の大学と連携し、インターンシップの学生の受け入れを開始。ロダンバスを活用した新たな事業モデルを大学生と模索し、理美容学校の学生に高齢者や障がい者への施術指導も始めた。
こうした人材育成もまた父の夢だった。「利他」に徹する行動が、未来を開く“種”を生む――父の信念を継ぐ鈴木さんは言い切る。
「今、福島には課題がいっぱいある。だけど、課題があるから、可能性しかない。父の遺志を実現したいと祈るうちに、そう思えるようになったんです」
65歳での早すぎる別れ。「まだまだ、やりたいことがたくさんある」と語っていた。
「信心に生き抜いたおやじの夢が中途半端で終わってしまうなんて悔しかった。だから全部、俺が実現しようと決めたんです」
一昨年からは、首都圏の大学と連携し、インターンシップの学生の受け入れを開始。ロダンバスを活用した新たな事業モデルを大学生と模索し、理美容学校の学生に高齢者や障がい者への施術指導も始めた。
こうした人材育成もまた父の夢だった。「利他」に徹する行動が、未来を開く“種”を生む――父の信念を継ぐ鈴木さんは言い切る。
「今、福島には課題がいっぱいある。だけど、課題があるから、可能性しかない。父の遺志を実現したいと祈るうちに、そう思えるようになったんです」
「皆さんと共有した時間が増えることがうれしくて」――吉田さん㊨が浪江グループの同志と
「皆さんと共有した時間が増えることがうれしくて」――吉田さん㊨が浪江グループの同志と
吉田幸子さん=地区副女性部長(グループ長兼任)=は、浪江町役場の任期付き職員として採用され、この春で5年目を迎える。
地元出身ではないが、町民と話す時は、すっかり浜通りの方言も板に付いてきた。
都内の病院で看護師長を務めていた時、「3・11」が。被災地の惨状に胸をえぐられ、悩み、祈り抜いた末に移住を決意。家族も背中を押してくれた。
町外避難者への保健指導や自殺防止対策、現在は、新型コロナワクチン接種の人的、物的資源の確保なども行う。
浪江町は、水素を利活用した新エネルギー社会への挑戦や駅前の再開発など、生活の利便性が増す一方で、住民の暮らしには課題が多い。
帰還というゴールの先に待ち受けていたふるさとの現実。葛藤を抱え込み、町内でも孤独死が発生した。
吉田幸子さん=地区副女性部長(グループ長兼任)=は、浪江町役場の任期付き職員として採用され、この春で5年目を迎える。
地元出身ではないが、町民と話す時は、すっかり浜通りの方言も板に付いてきた。
都内の病院で看護師長を務めていた時、「3・11」が。被災地の惨状に胸をえぐられ、悩み、祈り抜いた末に移住を決意。家族も背中を押してくれた。
町外避難者への保健指導や自殺防止対策、現在は、新型コロナワクチン接種の人的、物的資源の確保なども行う。
浪江町は、水素を利活用した新エネルギー社会への挑戦や駅前の再開発など、生活の利便性が増す一方で、住民の暮らしには課題が多い。
帰還というゴールの先に待ち受けていたふるさとの現実。葛藤を抱え込み、町内でも孤独死が発生した。
“住民を孤立させない”――吉田さんは日常から地域の人々との触れ合いを大切にしてきた。
移住当初から毎朝、2匹の犬と散歩し、出会う人へ声を掛けた。毎日、顔を合わせていると、自然と立ち話になり、顔を見れば、その人の体調や生活の変化に気付くように。
最近では「ついでに○○さんのどごに、行ってみでくんねえが?」と頼まれるようになり、吉田さんに会いたいと、わざわざ役場に訪ねてくる人も増えた。
しかし、時がたっても、急激に帰還が進むわけではなく、震災前と今の現実との差に苦しむ町民もいる。
吉田さんは信じる。「どんな状況でも、どこにいても、生命は歓喜することができる。私にとって、それを確認できる場が、学会活動なんです」
“住民を孤立させない”――吉田さんは日常から地域の人々との触れ合いを大切にしてきた。
移住当初から毎朝、2匹の犬と散歩し、出会う人へ声を掛けた。毎日、顔を合わせていると、自然と立ち話になり、顔を見れば、その人の体調や生活の変化に気付くように。
最近では「ついでに○○さんのどごに、行ってみでくんねえが?」と頼まれるようになり、吉田さんに会いたいと、わざわざ役場に訪ねてくる人も増えた。
しかし、時がたっても、急激に帰還が進むわけではなく、震災前と今の現実との差に苦しむ町民もいる。
吉田さんは信じる。「どんな状況でも、どこにいても、生命は歓喜することができる。私にとって、それを確認できる場が、学会活動なんです」
学会女性部の浪江グループの責任者として、メンバーの元へ足を運ぶ日々。昨秋、町営住宅に高齢の女性部員が入居し、その1カ月後、隣室に同じく独り身の女性部員が越してきた。
2人は年齢が近いこともあり、意気投合。今では仲良く散歩に出掛けるようになり、デイサービスで出会った友人に仏法対話をしている。
当初は数人だった浪江グループの座談会参加者も、現在では20人を超えるまでに。集った高齢の参加者が語る「学会に感謝、感謝だ」との言葉に、吉田さんはいつも勇気づけられ、前を向けるのだという。
復興の光と影を見つめながら、人と人とを結び、新しいふるさとをつくる吉田さんの挑戦は続く。
学会女性部の浪江グループの責任者として、メンバーの元へ足を運ぶ日々。昨秋、町営住宅に高齢の女性部員が入居し、その1カ月後、隣室に同じく独り身の女性部員が越してきた。
2人は年齢が近いこともあり、意気投合。今では仲良く散歩に出掛けるようになり、デイサービスで出会った友人に仏法対話をしている。
当初は数人だった浪江グループの座談会参加者も、現在では20人を超えるまでに。集った高齢の参加者が語る「学会に感謝、感謝だ」との言葉に、吉田さんはいつも勇気づけられ、前を向けるのだという。
復興の光と影を見つめながら、人と人とを結び、新しいふるさとをつくる吉田さんの挑戦は続く。
ふるさと復興の使命に生きる加藤さん。眼下には雪化粧した土湯温泉町が
ふるさと復興の使命に生きる加藤さん。眼下には雪化粧した土湯温泉町が
開湯1000年余りの歴史を誇る福島市土湯温泉町。この地で社会福祉法人を経営する傍ら、NPO法人「土湯温泉観光協会」の会長を務めるのが、加藤貴之さん=本部長=だ。
東日本大震災では、地震の直接的な被害に加え、原発事故による風評で、この地の五つの旅館が休廃業に。結果、温泉地としての規模や宿泊収容定員数が激減し、町の存続にかかわる事態に追い込まれた。
「ですが」と加藤さんは語る。「震災が全ての原因というより、以前からの厳しさに追い打ちをかけたというのが事実です」
開湯1000年余りの歴史を誇る福島市土湯温泉町。この地で社会福祉法人を経営する傍ら、NPO法人「土湯温泉観光協会」の会長を務めるのが、加藤貴之さん=本部長=だ。
東日本大震災では、地震の直接的な被害に加え、原発事故による風評で、この地の五つの旅館が休廃業に。結果、温泉地としての規模や宿泊収容定員数が激減し、町の存続にかかわる事態に追い込まれた。
「ですが」と加藤さんは語る。「震災が全ての原因というより、以前からの厳しさに追い打ちをかけたというのが事実です」
長引く経済の低迷から、国内のレジャーは「安近短(安くて、近い場所に、短期間だけ)」志向に。変化に対応できない地域は、徐々に活気を失っていった。
土湯も例外ではなく、空き家や空き旅館が増える中で「3・11」が起こった。
震災後、加藤さんは自ら会社を興し、廃業した旅館を改修して土湯初の日帰り温泉施設をオープン。地域としても震災が一つの契機となり、皆の総意で世代交代が進められてきた。
そして、加藤さんが観光協会の会長に就任。真っ先に取り組んだのが「地域の開放」だった。地域外の異業種の人とパートナーシップを結ぶオープン・プラットフォーム事業である「土湯アクション」を推進。地元だけではない“ヨソモノ”の力と知恵も結集した町づくりを進めた。
長引く経済の低迷から、国内のレジャーは「安近短(安くて、近い場所に、短期間だけ)」志向に。変化に対応できない地域は、徐々に活気を失っていった。
土湯も例外ではなく、空き家や空き旅館が増える中で「3・11」が起こった。
震災後、加藤さんは自ら会社を興し、廃業した旅館を改修して土湯初の日帰り温泉施設をオープン。地域としても震災が一つの契機となり、皆の総意で世代交代が進められてきた。
そして、加藤さんが観光協会の会長に就任。真っ先に取り組んだのが「地域の開放」だった。地域外の異業種の人とパートナーシップを結ぶオープン・プラットフォーム事業である「土湯アクション」を推進。地元だけではない“ヨソモノ”の力と知恵も結集した町づくりを進めた。
「“震災でもコロナ禍でも、希望は必ずある!”――この一点を何度も皆と確認し合ってきました」
どんなに仕事が忙しくとも、学会活動には一歩も引かず、総県青年部長まで務めた加藤さん。
「多くの人の意見をまとめる調整力や、事業やイベントなどの企画力、忍耐力など、全て学会活動で培ったものです」
温泉熱や河川を活用した再生可能エネルギー発電所や、廃業店舗を利用したエビの釣り堀カフェなどの新たなブランドも生まれ、土湯では今、空き旅館が解消しつつあり、移住者も増えている。
「“震災でもコロナ禍でも、希望は必ずある!”――この一点を何度も皆と確認し合ってきました」
どんなに仕事が忙しくとも、学会活動には一歩も引かず、総県青年部長まで務めた加藤さん。
「多くの人の意見をまとめる調整力や、事業やイベントなどの企画力、忍耐力など、全て学会活動で培ったものです」
温泉熱や河川を活用した再生可能エネルギー発電所や、廃業店舗を利用したエビの釣り堀カフェなどの新たなブランドも生まれ、土湯では今、空き旅館が解消しつつあり、移住者も増えている。
そんな加藤さんの原点は、池田先生との出会い。
1984年5月、福島市内での会合の後、土湯の人々のもとを訪れた先生は、当時小学生だった加藤さんと握手を交わし激励した。加藤さんは言う。
「土湯を発展させる。それが先生に誓った自分の使命なんです」
だからこそ、どんなことがあっても負けなかった。
今や、全国の自治体や企業団体から地域振興に関する講演依頼が後を絶たない。観光の語源は「国の光を観ること」ともいわれる。
加藤さんの“弟子の誓い”から、こんこんと湧き出る知恵が、全国各地に“光”をともす。
そんな加藤さんの原点は、池田先生との出会い。
1984年5月、福島市内での会合の後、土湯の人々のもとを訪れた先生は、当時小学生だった加藤さんと握手を交わし激励した。加藤さんは言う。
「土湯を発展させる。それが先生に誓った自分の使命なんです」
だからこそ、どんなことがあっても負けなかった。
今や、全国の自治体や企業団体から地域振興に関する講演依頼が後を絶たない。観光の語源は「国の光を観ること」ともいわれる。
加藤さんの“弟子の誓い”から、こんこんと湧き出る知恵が、全国各地に“光”をともす。
今、福島に立ちはだかる社会課題は、いずれ日本のどの地でも直面する「普遍的な課題」とも重なる。
ならば、課題先進地・福島での挑戦は、やがて他地域をも照らす希望となるのではないか――。
今回、取材した「福島に生きる人々」は、未曽有の災害からの復興という“正解”が分からない曖昧さに耐え、現実にあらがいながら祈り抜き、今の自分にできることは何かを模索していた。
なぜ、彼らは悩みながらも周囲を励まし、福島を「希望のフロンティア(開拓地)」へ転じゆく挑戦を続けられるのか。
今、福島に立ちはだかる社会課題は、いずれ日本のどの地でも直面する「普遍的な課題」とも重なる。
ならば、課題先進地・福島での挑戦は、やがて他地域をも照らす希望となるのではないか――。
今回、取材した「福島に生きる人々」は、未曽有の災害からの復興という“正解”が分からない曖昧さに耐え、現実にあらがいながら祈り抜き、今の自分にできることは何かを模索していた。
なぜ、彼らは悩みながらも周囲を励まし、福島を「希望のフロンティア(開拓地)」へ転じゆく挑戦を続けられるのか。
池田先生はつづっている。「人は 人を生かしながらでなければ/生きられない/友を生かすとき/ほかならぬ自分も 真に生きる!」
福島に生きる人々は、限界や課題をよく認識するがゆえに、人と関わり、その人間の輪の中から学び、そこから希望を紡ぎ出す。
「3・11」から11年――復興に正解などないのかもしれない。しかし、人の中で生きる。SOKAの現場で生きる。それこそが、福島の友が見つめる“福光の答え”なのだろう。
池田先生はつづっている。「人は 人を生かしながらでなければ/生きられない/友を生かすとき/ほかならぬ自分も 真に生きる!」
福島に生きる人々は、限界や課題をよく認識するがゆえに、人と関わり、その人間の輪の中から学び、そこから希望を紡ぎ出す。
「3・11」から11年――復興に正解などないのかもしれない。しかし、人の中で生きる。SOKAの現場で生きる。それこそが、福島の友が見つめる“福光の答え”なのだろう。