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未来部への小説「ヒロシマへの旅」
未来部への小説「ヒロシマへの旅」
2024年8月2日
- 負けない心が人生を幸福に
- 負けない心が人生を幸福に
間もなく迎える「8月6日」と「8月9日」は、広島と長崎に原爆が投下された日。池田先生は一貫して核兵器の廃絶を訴えてきた。1986年(昭和61年)、中学生に向けて、平和の尊さを伝えるため、「ヒロシマへの旅」(『池田大作全集』第50巻所収)を発表した。
間もなく迎える「8月6日」と「8月9日」は、広島と長崎に原爆が投下された日。池田先生は一貫して核兵器の廃絶を訴えてきた。1986年(昭和61年)、中学生に向けて、平和の尊さを伝えるため、「ヒロシマへの旅」(『池田大作全集』第50巻所収)を発表した。
中国語で翻訳出版された、池田先生の中学生向け小説『ヒロシマへの旅』
中国語で翻訳出版された、池田先生の中学生向け小説『ヒロシマへの旅』
1969年(昭和44年)9月、池田先生は文芸部の友との懇談で語った。
「次代の建設とは、『人』をつくることであり、若い世代を育むということです。それには、『心』を育てることです」
「私も、未来を担う青少年のために、全力をあげます。四十年先、五十年先を創るんです」
74年(同49年)、先生は初めての童話『少年とさくら』を発表する。その後、『雪国の王子さま』『お月さまと王女』などを執筆した。
86年(同61年)には、中学・高校生向けの小説、小学生向けの童話の執筆構想を発表。同年8月から、中学生文化新聞(当時)で始まった連載が、「ヒロシマへの旅」である。
作品は、主人公の中学生・一城が夏休みに、広島の八重子おばさんの家に行き、原爆の惨劇を学び、「平和」「友情」について考えていく物語である。
瞬時にして多くの人々の命を奪った広島・長崎の原爆の悲劇。生き延びた人々も、放射能の後遺症に苦しんだ。だが、東西冷戦の対立と分断は世界に暗い影を落とし、核兵器は廃絶されるどころか、増加の一途をたどった。
57年(同32年)9月8日、第2代会長・戸田先生は、青年への“遺訓の第一”として、「原水爆禁止宣言」を発表した。核開発の競争が激化している当時の状況を踏まえ、「その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい」と述べ、原水爆を使用したものは魔物であり、死刑にすべきと訴えた。
戸田先生は生命尊厳を第一義とする仏法者として、死刑制度への反対を強く主張していた。それでも、あえて「死刑」という言葉を用いたのは、原水爆を保有し、使用したいという人間の“己心の魔性”を「絶対悪」と断じるためである。
翌58年(同33年)9月26日、池田先生は本紙に、「火宅を出ずる道」と題する一文を寄せた。そこには、“恩師の平和の叫びを虚妄にしてはならない”との強い思いと、“戸田先生の遺訓が成就するまで、断じて戦い抜く”との覚悟がつづられた。
先生は、核兵器廃絶の方途について世界の識者と対話し、提言を発表するなど、恩師の遺訓を実現するために戦い続けた。
1969年(昭和44年)9月、池田先生は文芸部の友との懇談で語った。
「次代の建設とは、『人』をつくることであり、若い世代を育むということです。それには、『心』を育てることです」
「私も、未来を担う青少年のために、全力をあげます。四十年先、五十年先を創るんです」
74年(同49年)、先生は初めての童話『少年とさくら』を発表する。その後、『雪国の王子さま』『お月さまと王女』などを執筆した。
86年(同61年)には、中学・高校生向けの小説、小学生向けの童話の執筆構想を発表。同年8月から、中学生文化新聞(当時)で始まった連載が、「ヒロシマへの旅」である。
作品は、主人公の中学生・一城が夏休みに、広島の八重子おばさんの家に行き、原爆の惨劇を学び、「平和」「友情」について考えていく物語である。
瞬時にして多くの人々の命を奪った広島・長崎の原爆の悲劇。生き延びた人々も、放射能の後遺症に苦しんだ。だが、東西冷戦の対立と分断は世界に暗い影を落とし、核兵器は廃絶されるどころか、増加の一途をたどった。
57年(同32年)9月8日、第2代会長・戸田先生は、青年への“遺訓の第一”として、「原水爆禁止宣言」を発表した。核開発の競争が激化している当時の状況を踏まえ、「その奥に隠されているところの爪をもぎ取りたい」と述べ、原水爆を使用したものは魔物であり、死刑にすべきと訴えた。
戸田先生は生命尊厳を第一義とする仏法者として、死刑制度への反対を強く主張していた。それでも、あえて「死刑」という言葉を用いたのは、原水爆を保有し、使用したいという人間の“己心の魔性”を「絶対悪」と断じるためである。
翌58年(同33年)9月26日、池田先生は本紙に、「火宅を出ずる道」と題する一文を寄せた。そこには、“恩師の平和の叫びを虚妄にしてはならない”との強い思いと、“戸田先生の遺訓が成就するまで、断じて戦い抜く”との覚悟がつづられた。
先生は、核兵器廃絶の方途について世界の識者と対話し、提言を発表するなど、恩師の遺訓を実現するために戦い続けた。
池田先生がマイクを手に、第3回「中国総会」の運営役員など、代表の友に励ましを送る(1993年5月27日、広島池田平和記念会館で)。“御本尊に毎日、皆さまの幸福と健康、無事故、ご長寿を祈っています”と、中国の友への万感の思いを語った
池田先生がマイクを手に、第3回「中国総会」の運営役員など、代表の友に励ましを送る(1993年5月27日、広島池田平和記念会館で)。“御本尊に毎日、皆さまの幸福と健康、無事故、ご長寿を祈っています”と、中国の友への万感の思いを語った
今こそ、人間の力を示さなければならない。
あの原爆の恐るべき破壊力にも、けっして壊されない、
けっしてくじけない人間の力を、見せつけてやるんだ。
(「ヒロシマへの旅」)から
今こそ、人間の力を示さなければならない。
あの原爆の恐るべき破壊力にも、けっして壊されない、
けっしてくじけない人間の力を、見せつけてやるんだ。
(「ヒロシマへの旅」)から
あえて筆を執った思い
あえて筆を執った思い
核兵器の悲惨さを伝え続ける広島市の「原爆ドーム」(1994年11月、池田先生撮影)。1996年にユネスコの世界遺産に登録された
核兵器の悲惨さを伝え続ける広島市の「原爆ドーム」(1994年11月、池田先生撮影)。1996年にユネスコの世界遺産に登録された
池田先生は「ヒロシマへの旅」の筆を執った真情を、こう記している。
「原爆の悲劇についてのすぐれた作品は、すでに数多くある。にもかかわらず、あえて筆をとったのは、時がたつにつれてあの悲しい歴史が、だんだんと忘れ去られていくように思えてならなかったからである。
だから私は、今の中学生の生活実感とも結びあうようなかたちで、この物語を創り上げようと試みた」
――広島へ向かう一城の心は重たかった。親友が父親の会社の倒産を苦に、自ら命を絶とうとしたからである。
落ち込む一城に、八重子おばさんは自身の被爆体験を語る。戦争と原爆で両親と兄を相次いで亡くしたこと、弟と二人きりの生活に疲れはて死を覚悟した時、恩師から力強い励ましを受けたこと……。
恩師は、原爆で妻と2人の子どもを失った。死を望む八重子おばさんに語った。
「ぼくはいちばん大切なことに気づいたんだ。
生き残ったぼくまでが、人生をすてたら、たった一発の原爆に、人間はとことん負けてしまったことになる。今こそ、人間の力を示さなければならない。
あの原爆の恐るべき破壊力にも、けっして壊されない、けっしてくじけない人間の力を、見せつけてやるんだ」
そして、恩師はポケットから手帳を取り出すと、空白のページに書き始めた。
「運命は私たちに幸福も不幸も与えない。ただその材料を提供するだけだ。その材料を好きなように用いたり、変えたりするのは、私たち自身の心である。どんなことにも負けない強い心が、あるかないかで、人は自分を幸福にも、不幸にもできるのだ」
八重子おばさんは、恩師からもらい、大切にしていた手帳のページを、一城に託した。一城の親友に贈るためである。
帰京後、親友と会った一城は、八重子おばさんの“宝物”を手渡した。親友は笑みをたたえて、「ありがとう」と小さくつぶやいた――。
「ヒロシマへの旅」は、大きな反響を呼んだ。“八重子おばさんの蘇生のドラマを知り、不思議なほど勇気が湧いた”と語る中学生もいた。
キルギスの作家チンギス・アイトマートフ氏は、1990年(平成2年)8月、池田先生と対談した折、同書に触れた。
「もし私が、息子に“ヒロシマ”や“ナガサキ”の悲劇について、哲学用語を使って説明したとしても、息子は、真面目に聞くふりをするかもしれません。しかしそれは、心の奥には届きません」と述べ、「同じような年ごろの子どもの姿を通してこそ、本当に納得でき、心の奥に届くのです。そうして根付いた真実は、やがて彼らが成長したときに、どれほど大きな花を咲かせることでしょうか」と語った。
核兵器の廃絶なくして、人類の宿命転換はない。「未来を担う青少年のために」――師と同じ心で、後継の友に平和の尊さを伝える夏としたい。
池田先生は「ヒロシマへの旅」の筆を執った真情を、こう記している。
「原爆の悲劇についてのすぐれた作品は、すでに数多くある。にもかかわらず、あえて筆をとったのは、時がたつにつれてあの悲しい歴史が、だんだんと忘れ去られていくように思えてならなかったからである。
だから私は、今の中学生の生活実感とも結びあうようなかたちで、この物語を創り上げようと試みた」
――広島へ向かう一城の心は重たかった。親友が父親の会社の倒産を苦に、自ら命を絶とうとしたからである。
落ち込む一城に、八重子おばさんは自身の被爆体験を語る。戦争と原爆で両親と兄を相次いで亡くしたこと、弟と二人きりの生活に疲れはて死を覚悟した時、恩師から力強い励ましを受けたこと……。
恩師は、原爆で妻と2人の子どもを失った。死を望む八重子おばさんに語った。
「ぼくはいちばん大切なことに気づいたんだ。
生き残ったぼくまでが、人生をすてたら、たった一発の原爆に、人間はとことん負けてしまったことになる。今こそ、人間の力を示さなければならない。
あの原爆の恐るべき破壊力にも、けっして壊されない、けっしてくじけない人間の力を、見せつけてやるんだ」
そして、恩師はポケットから手帳を取り出すと、空白のページに書き始めた。
「運命は私たちに幸福も不幸も与えない。ただその材料を提供するだけだ。その材料を好きなように用いたり、変えたりするのは、私たち自身の心である。どんなことにも負けない強い心が、あるかないかで、人は自分を幸福にも、不幸にもできるのだ」
八重子おばさんは、恩師からもらい、大切にしていた手帳のページを、一城に託した。一城の親友に贈るためである。
帰京後、親友と会った一城は、八重子おばさんの“宝物”を手渡した。親友は笑みをたたえて、「ありがとう」と小さくつぶやいた――。
「ヒロシマへの旅」は、大きな反響を呼んだ。“八重子おばさんの蘇生のドラマを知り、不思議なほど勇気が湧いた”と語る中学生もいた。
キルギスの作家チンギス・アイトマートフ氏は、1990年(平成2年)8月、池田先生と対談した折、同書に触れた。
「もし私が、息子に“ヒロシマ”や“ナガサキ”の悲劇について、哲学用語を使って説明したとしても、息子は、真面目に聞くふりをするかもしれません。しかしそれは、心の奥には届きません」と述べ、「同じような年ごろの子どもの姿を通してこそ、本当に納得でき、心の奥に届くのです。そうして根付いた真実は、やがて彼らが成長したときに、どれほど大きな花を咲かせることでしょうか」と語った。
核兵器の廃絶なくして、人類の宿命転換はない。「未来を担う青少年のために」――師と同じ心で、後継の友に平和の尊さを伝える夏としたい。
池田先生と作家アイトマートフ氏との語らい。同氏は創価大学を訪れた際の感銘を語り、「世界各国の青年との出会いの中でも、最も素晴らしい出会い」と述べた(1990年8月14日、長野研修道場で)
池田先生と作家アイトマートフ氏との語らい。同氏は創価大学を訪れた際の感銘を語り、「世界各国の青年との出会いの中でも、最も素晴らしい出会い」と述べた(1990年8月14日、長野研修道場で)