ルポ・沖縄に生きる㊥――自身の人間革命から平和の思いをつなぐ
ルポ・沖縄に生きる㊥――自身の人間革命から平和の思いをつなぐ
2022年12月6日
- 連載〈SOKAの現場〉 ルポ・沖縄に生きる㊥
- 連載〈SOKAの現場〉 ルポ・沖縄に生きる㊥
沖縄の未来部員がはつらつと。平和の思いを受け継ぎ、伝えゆく(昨年4月、豊見城市内で)
沖縄の未来部員がはつらつと。平和の思いを受け継ぎ、伝えゆく(昨年4月、豊見城市内で)
創価学会員の「価値創造の挑戦」を追う連載「SOKAの現場」。1972年5月の本土復帰から半世紀を経て、沖縄の同志が受け継ぎ、広げる平和への思いとは――。3日付の「沖縄に生きる」㊤に続き、㊥を掲載する。(取材=野村啓、小野顕一)
創価学会員の「価値創造の挑戦」を追う連載「SOKAの現場」。1972年5月の本土復帰から半世紀を経て、沖縄の同志が受け継ぎ、広げる平和への思いとは――。3日付の「沖縄に生きる」㊤に続き、㊥を掲載する。(取材=野村啓、小野顕一)
池田先生が初めて沖縄を訪れたのは、1960年7月。その手にはパスポートが握られていた。当時はアメリカ施政下である。
タラップから下り立つ先生を迎えた本山多津子さん(総県女性部主事)、久保田淑子さん(県女性部主事)は、先生の「もう大丈夫、もう幸せになるから」との一言を、今も鮮やかに記憶する。
この折、沖縄支部の結成大会が開かれたが、集まった人々の足元は靴ではなくゴム草履ばかり。まだ誰もが貧しかった。
大会翌日、先生は南部戦跡へ。県民のおよそ4人に1人が犠牲になった沖縄戦最後の激戦地である。
先生は、「ひめゆりの塔」でも、「沖縄師範健児之塔」でも題目を唱え、周囲の人々も唱和した。本山さんと久保田さんにとって衝撃だったのは、先生の朗々たる題目の響き、そして戦跡訪問の結びに健児之塔に向かって発せられた、「戦争の悲劇は繰り返させない。皆さんの尊い犠牲は無駄にしません!」との言葉である。宣言ともいうべき、強い語調だった。
久保田さんは「この方は、本気で沖縄の宿命を変えようとしてくださっている」と感じたという。
池田先生が第3代会長に就任したのは、この年の5月。沖縄のほとんどの同志にとって、この時が初めて先生を目にする機会であり、その一挙手一投足から、先生の平和への魂を胸に刻んだ。
池田先生が初めて沖縄を訪れたのは、1960年7月。その手にはパスポートが握られていた。当時はアメリカ施政下である。
タラップから下り立つ先生を迎えた本山多津子さん(総県女性部主事)、久保田淑子さん(県女性部主事)は、先生の「もう大丈夫、もう幸せになるから」との一言を、今も鮮やかに記憶する。
この折、沖縄支部の結成大会が開かれたが、集まった人々の足元は靴ではなくゴム草履ばかり。まだ誰もが貧しかった。
大会翌日、先生は南部戦跡へ。県民のおよそ4人に1人が犠牲になった沖縄戦最後の激戦地である。
先生は、「ひめゆりの塔」でも、「沖縄師範健児之塔」でも題目を唱え、周囲の人々も唱和した。本山さんと久保田さんにとって衝撃だったのは、先生の朗々たる題目の響き、そして戦跡訪問の結びに健児之塔に向かって発せられた、「戦争の悲劇は繰り返させない。皆さんの尊い犠牲は無駄にしません!」との言葉である。宣言ともいうべき、強い語調だった。
久保田さんは「この方は、本気で沖縄の宿命を変えようとしてくださっている」と感じたという。
池田先生が第3代会長に就任したのは、この年の5月。沖縄のほとんどの同志にとって、この時が初めて先生を目にする機会であり、その一挙手一投足から、先生の平和への魂を胸に刻んだ。
本山多津子さん㊧と久保田淑子さん
本山多津子さん㊧と久保田淑子さん
久保田さんが那覇で空襲に遭ったのは7歳の時。とっさに飛び込んで息をひそめた墓穴の空気は、今も忘れられない。一家で山中を逃げるも、米軍にとらわれた。
「薩摩にやられて、今度はアメリカにやられて……。なんでいつも沖縄ばかり苦しい思いをするんだろうって」、高校時代から復帰運動に身を投じた。進学で上京したが、言葉遣いなどで沖縄がさげすまれるのを何度も感じた。「“貧乏の島”って笑うけど、誰が貧乏にしたんだ!」と憤った。
19歳で入会。「この信心をする人が増えたら、沖縄がばかにされない。沖縄の人たちが本当に幸せになれる」との一心だった。
一方の本山さんは7人きょうだいの長女。貧困にあえぎながら生きてきた。先生の「一番苦しんだ人が、一番幸せになる」との言葉を抱き締め、沖縄の初代女子部長として広布の草創を担い立った。
「本土を守る」ために捨て石にされ、戦後も基地問題を背負わされた沖縄で「本土から来た宗教」を弘める――苦闘の道だった。
本山さんは「だからこそ沖縄は小説『人間革命』の冒頭に尽きるんです」と、思いをにじませる。
「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」。小説『人間革命』が沖縄の地で書き始められた64年12月2日。
この日、本山さんは結婚の報告で先生の元を尋ねた。先生は心から喜び、門出を祝福してくれた。
「あの時、『人間革命』を執筆されていたとは存じませんでした。沖縄で起稿されたことが明らかになったのは、だいぶ後になってのことでしたから」
本山さんは言葉を継ぐ。
「先生は、まだ日本に復帰もしていない沖縄を、『人間革命』起稿の地に決めておられた。沖縄の苦しみも、人々の嘆きも、全て知った上で、必ず宿命転換できると励ましてくださった。だから、生活は貧しかったけれど、“世界一幸せ”だと感じてきました」
久保田さんが那覇で空襲に遭ったのは7歳の時。とっさに飛び込んで息をひそめた墓穴の空気は、今も忘れられない。一家で山中を逃げるも、米軍にとらわれた。
「薩摩にやられて、今度はアメリカにやられて……。なんでいつも沖縄ばかり苦しい思いをするんだろうって」、高校時代から復帰運動に身を投じた。進学で上京したが、言葉遣いなどで沖縄がさげすまれるのを何度も感じた。「“貧乏の島”って笑うけど、誰が貧乏にしたんだ!」と憤った。
19歳で入会。「この信心をする人が増えたら、沖縄がばかにされない。沖縄の人たちが本当に幸せになれる」との一心だった。
一方の本山さんは7人きょうだいの長女。貧困にあえぎながら生きてきた。先生の「一番苦しんだ人が、一番幸せになる」との言葉を抱き締め、沖縄の初代女子部長として広布の草創を担い立った。
「本土を守る」ために捨て石にされ、戦後も基地問題を背負わされた沖縄で「本土から来た宗教」を弘める――苦闘の道だった。
本山さんは「だからこそ沖縄は小説『人間革命』の冒頭に尽きるんです」と、思いをにじませる。
「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」。小説『人間革命』が沖縄の地で書き始められた64年12月2日。
この日、本山さんは結婚の報告で先生の元を尋ねた。先生は心から喜び、門出を祝福してくれた。
「あの時、『人間革命』を執筆されていたとは存じませんでした。沖縄で起稿されたことが明らかになったのは、だいぶ後になってのことでしたから」
本山さんは言葉を継ぐ。
「先生は、まだ日本に復帰もしていない沖縄を、『人間革命』起稿の地に決めておられた。沖縄の苦しみも、人々の嘆きも、全て知った上で、必ず宿命転換できると励ましてくださった。だから、生活は貧しかったけれど、“世界一幸せ”だと感じてきました」
■信心しているから
■信心しているから
沖縄の友にとって、信仰と平和は不可分のものだ。
平良節子さん(圏副女性部長)は、「語り部」として自らの戦争体験を伝える。学校や児童館での平和学習の一環となっている。
米軍の本土上陸を一日でも遅らせるため、県民は根こそぎ動員されて、戦場に送られた。“この世の地獄を全て集めた”ともいわれる地上戦である。
平良さんが体験を語る場で、とりわけ力のこもる場面がある。
――1944年、那覇を襲った「10・10空襲」。サイレンが鳴り響き、防空壕に駆け込んだ時のこと。辺り一面は火の海と化し、焼け焦げた死体やケガ人が。「助けてー」「連れて行ってー」との叫びがこだまする中を、無我夢中で走った。那覇を焼け出され、歩いて10キロほど離れた南風原へ。ガマ(洞窟)にひそみ、ろうそくすらない生活が3カ月続いた。
ある日、ガマで赤子が泣き出した。日本兵は「あやしてくる」と、その子を抱き取って外へ。しかし、日本兵は一人で戻ってきた。
母親は日本兵に詰め寄り、気も狂わんばかりに赤子の名前を叫び続けていた――。その光景は忘れようもない。そして、二度と思い出したくもないものだった。
胸に閉じ込めていた体験を語るようになったのは、「信心をしているから」と平良さんは言う。
沖縄の友にとって、信仰と平和は不可分のものだ。
平良節子さん(圏副女性部長)は、「語り部」として自らの戦争体験を伝える。学校や児童館での平和学習の一環となっている。
米軍の本土上陸を一日でも遅らせるため、県民は根こそぎ動員されて、戦場に送られた。“この世の地獄を全て集めた”ともいわれる地上戦である。
平良さんが体験を語る場で、とりわけ力のこもる場面がある。
――1944年、那覇を襲った「10・10空襲」。サイレンが鳴り響き、防空壕に駆け込んだ時のこと。辺り一面は火の海と化し、焼け焦げた死体やケガ人が。「助けてー」「連れて行ってー」との叫びがこだまする中を、無我夢中で走った。那覇を焼け出され、歩いて10キロほど離れた南風原へ。ガマ(洞窟)にひそみ、ろうそくすらない生活が3カ月続いた。
ある日、ガマで赤子が泣き出した。日本兵は「あやしてくる」と、その子を抱き取って外へ。しかし、日本兵は一人で戻ってきた。
母親は日本兵に詰め寄り、気も狂わんばかりに赤子の名前を叫び続けていた――。その光景は忘れようもない。そして、二度と思い出したくもないものだった。
胸に閉じ込めていた体験を語るようになったのは、「信心をしているから」と平良さんは言う。
平良節子さん
平良節子さん
一人親家庭で戦後も暮らしは厳しく、米軍の配給で食いつないだ。ずっと裸足で、本土から引き揚げてきた家の子が靴を履いているのがうらやましかった。
平良さんが信心に取り組んだきっかけは、重いぜんそくと腎臓炎だった。病のため、子は望めないといわれ、結婚後も「何でそんな人が嫁に来たんだ」と周囲から罵倒された。義理の母に折伏され、学会活動に奔走する中で病気を克服。「祈りとして叶わざるなし」の確信を深めた。子宝にも恵まれ、今は孫10人に囲まれる。生き別れた父と22年ぶりの再会を果たすこともでき、世界各地を旅行するまでに経済革命も成し遂げた。
「私はもともと無口。引っ込み思案で、よく人の後ろに隠れていました。それが信仰のおかげで、人前でもしゃべれるようになった」
平良さんは戦争体験を伝える一方で、地域では民生委員や警察補導員としても尽力してきた。
「昔は“自分の子さえよければ”と思っていたのが、いつの頃からか、子どもたちをたまり場から連れてきては、食事を作って諭してあげて――。子どもたちのためならと、何でもさせてもらってます。もし信心していなかったら、余計なことと思って、やらなかったかもしれません」
平良さんの部屋には、子どもたちから寄せられた感謝のハガキや手紙の山が。一つ一つが宝物と、笑顔をにじませる。
一人親家庭で戦後も暮らしは厳しく、米軍の配給で食いつないだ。ずっと裸足で、本土から引き揚げてきた家の子が靴を履いているのがうらやましかった。
平良さんが信心に取り組んだきっかけは、重いぜんそくと腎臓炎だった。病のため、子は望めないといわれ、結婚後も「何でそんな人が嫁に来たんだ」と周囲から罵倒された。義理の母に折伏され、学会活動に奔走する中で病気を克服。「祈りとして叶わざるなし」の確信を深めた。子宝にも恵まれ、今は孫10人に囲まれる。生き別れた父と22年ぶりの再会を果たすこともでき、世界各地を旅行するまでに経済革命も成し遂げた。
「私はもともと無口。引っ込み思案で、よく人の後ろに隠れていました。それが信仰のおかげで、人前でもしゃべれるようになった」
平良さんは戦争体験を伝える一方で、地域では民生委員や警察補導員としても尽力してきた。
「昔は“自分の子さえよければ”と思っていたのが、いつの頃からか、子どもたちをたまり場から連れてきては、食事を作って諭してあげて――。子どもたちのためならと、何でもさせてもらってます。もし信心していなかったら、余計なことと思って、やらなかったかもしれません」
平良さんの部屋には、子どもたちから寄せられた感謝のハガキや手紙の山が。一つ一つが宝物と、笑顔をにじませる。
■自信と誇り
■自信と誇り
「平和のために、“沖縄の心”を伝えるために、戦争体験の証言集を残してほしい」――74年2月、名護会館(当時)で池田先生は沖縄の中高生に語った。
当時、高校1年生の外間純子さん(県副女性部長)は、提案にうなずき、その場で参加を決めた。
戦争体験の聞き取りは、取材できる人を探すことから始まった。なかなかインタビューに応じてくれる人が見つからず、やっと見つかったのは伊江島の人。学会員ではないが快い返事をもらえ、泊まりがけで聞き取りに向かった。
外間さんの両親には、沖縄戦での捕虜経験がある。父から折々に話を聞いていたこともあり、外間さんにとって、戦争というと壮絶な南部戦線の印象があった。だが取材した北部にも、そして沖縄のどの地にも、言葉に尽くせない辛苦があることを突き付けられた。
当時、戦争経験者はまだ若く、人によっては戦時中の人間関係が継続していた。沖縄戦では、住民同士のスパイ行為や密告が、日本兵による粛清にもつながっている。戦争は何一つ思い出したくないと、口を閉ざして当然だった。
二度と戦争をさせないために、自分ができることを考えて祈り、体験を集める――。証言集の一文一文は、どれもが真摯な祈りと信頼の上に紡がれた結晶である。
沖縄青年部は丸2年をかけて体験を収集し、沖縄戦終結の日である74年の6月23日、『打ち砕かれしうるま島』を発刊していた。続いて外間さんら中高生による聞き取りを収録した『血に染まるかりゆしの海』が、76年6月23日に刊行。この反戦出版は沖縄を第1号として、日本全国で100冊を超えるシリーズとなっていく。
「平和のために、“沖縄の心”を伝えるために、戦争体験の証言集を残してほしい」――74年2月、名護会館(当時)で池田先生は沖縄の中高生に語った。
当時、高校1年生の外間純子さん(県副女性部長)は、提案にうなずき、その場で参加を決めた。
戦争体験の聞き取りは、取材できる人を探すことから始まった。なかなかインタビューに応じてくれる人が見つからず、やっと見つかったのは伊江島の人。学会員ではないが快い返事をもらえ、泊まりがけで聞き取りに向かった。
外間さんの両親には、沖縄戦での捕虜経験がある。父から折々に話を聞いていたこともあり、外間さんにとって、戦争というと壮絶な南部戦線の印象があった。だが取材した北部にも、そして沖縄のどの地にも、言葉に尽くせない辛苦があることを突き付けられた。
当時、戦争経験者はまだ若く、人によっては戦時中の人間関係が継続していた。沖縄戦では、住民同士のスパイ行為や密告が、日本兵による粛清にもつながっている。戦争は何一つ思い出したくないと、口を閉ざして当然だった。
二度と戦争をさせないために、自分ができることを考えて祈り、体験を集める――。証言集の一文一文は、どれもが真摯な祈りと信頼の上に紡がれた結晶である。
沖縄青年部は丸2年をかけて体験を収集し、沖縄戦終結の日である74年の6月23日、『打ち砕かれしうるま島』を発刊していた。続いて外間さんら中高生による聞き取りを収録した『血に染まるかりゆしの海』が、76年6月23日に刊行。この反戦出版は沖縄を第1号として、日本全国で100冊を超えるシリーズとなっていく。
沖縄の青年部と婦人部(当時)が編さんした反戦出版物。これらに加えて2020年、沖縄未来部員が戦争体験の聞き取りをして、まとめた証言集『私がつなぐ沖縄のククル(心)』が発刊された
沖縄の青年部と婦人部(当時)が編さんした反戦出版物。これらに加えて2020年、沖縄未来部員が戦争体験の聞き取りをして、まとめた証言集『私がつなぐ沖縄のククル(心)』が発刊された
外間さんの原点は、小説『人間革命』をはじめとする池田先生の著作である。特に沖縄人の気質や文化を掘り下げる著述に、沖縄に脈打つ平和の魂を学んだ。
例えば、本土では床の間に刀などを飾るが、沖縄では三線を飾る伝統がある。先生は、そうした背景に触れながら、「人間を分断する『武器』ではなく、人間を融合させゆく『楽器』を大切にして、『暴力』に屈せぬ『文化の力』を重んじてきたのが、沖縄の生き方である」(「沖縄タイムス」2003年12月2日付への寄稿)等と折々につづってきた。
「沖縄に生きる自信と誇りに気付かせてもらえた」と、外間さんは振り返る。
明治から戦後にかけて、沖縄では「標準語励行」が掲げられた。外間さんも、方言を使うと罰せられた世代である。「特に私たちの先輩は、本土に就職や進学したものの、言葉や差別の壁が厚くて挫折したという話をよく耳にしました。沖縄に自信が持てなかった。でも先生のおかげで、沖縄にどんどん自信が持てた。これで救われた人、立ち上がれた人は多かったはずです。沖縄に限らず、どんな地域の人にとっても、一番良い部分を引き出してくれるのが池田先生なんだと思います」
外間さんの原点は、小説『人間革命』をはじめとする池田先生の著作である。特に沖縄人の気質や文化を掘り下げる著述に、沖縄に脈打つ平和の魂を学んだ。
例えば、本土では床の間に刀などを飾るが、沖縄では三線を飾る伝統がある。先生は、そうした背景に触れながら、「人間を分断する『武器』ではなく、人間を融合させゆく『楽器』を大切にして、『暴力』に屈せぬ『文化の力』を重んじてきたのが、沖縄の生き方である」(「沖縄タイムス」2003年12月2日付への寄稿)等と折々につづってきた。
「沖縄に生きる自信と誇りに気付かせてもらえた」と、外間さんは振り返る。
明治から戦後にかけて、沖縄では「標準語励行」が掲げられた。外間さんも、方言を使うと罰せられた世代である。「特に私たちの先輩は、本土に就職や進学したものの、言葉や差別の壁が厚くて挫折したという話をよく耳にしました。沖縄に自信が持てなかった。でも先生のおかげで、沖縄にどんどん自信が持てた。これで救われた人、立ち上がれた人は多かったはずです。沖縄に限らず、どんな地域の人にとっても、一番良い部分を引き出してくれるのが池田先生なんだと思います」
外間純子さん
外間純子さん
外間さんはこうも言う。
「社会や制度が変われば民衆は救われるのかといえば、それは違う。一人一人の宿命や悩みを救えなければ、本当の意味での平和とはいえない。私が頑張れるのは、広宣流布の活動全てが平和に直結していると感じられるから」
「命どぅ宝(命こそ宝)」や「イチャリバチョーデー(行き会えば、皆、きょうだい)」といった言葉に象徴される“沖縄の心”も、人の悩みと共にある中で、真価が発揮されると確信する。
3年前、外間さんは、未来部員の戦争体験の聞き取り活動を支える側になった。それは証言集『私がつなぐ沖縄のククル(心)』として、2020年に発刊された。
外間さんはこうも言う。
「社会や制度が変われば民衆は救われるのかといえば、それは違う。一人一人の宿命や悩みを救えなければ、本当の意味での平和とはいえない。私が頑張れるのは、広宣流布の活動全てが平和に直結していると感じられるから」
「命どぅ宝(命こそ宝)」や「イチャリバチョーデー(行き会えば、皆、きょうだい)」といった言葉に象徴される“沖縄の心”も、人の悩みと共にある中で、真価が発揮されると確信する。
3年前、外間さんは、未来部員の戦争体験の聞き取り活動を支える側になった。それは証言集『私がつなぐ沖縄のククル(心)』として、2020年に発刊された。
■誰よりも幸せに
■誰よりも幸せに
池田先生の沖縄への思いは一貫して変わらない。
「一番苦しんだところが一番幸せになる権利がある。これが仏法の慈悲の精神である。ゆえに、沖縄にこそ、最高の『平和の楽土』を、『幸の都』を築かねばならない。築きたい。そして沖縄の人々こそが、誰よりも幸せになっていただきたい。そのためには何でもして差し上げたい」
「『沖縄の心』を時代精神に高めた時、平和な社会が訪れる」
この先生の信念と激励に応え、わが人間革命に生き抜く中で、沖縄の友は、自らの平和の使命をも自覚し、自身の役割を果たしながら、次の世代へと伝えていた。
いかなる時も自他共の幸福を願い、人と人とを結びゆく実践に、「沖縄の心」はより輝きを増し、平和の広がりと継承に確かな力をもたらしている。
池田先生の沖縄への思いは一貫して変わらない。
「一番苦しんだところが一番幸せになる権利がある。これが仏法の慈悲の精神である。ゆえに、沖縄にこそ、最高の『平和の楽土』を、『幸の都』を築かねばならない。築きたい。そして沖縄の人々こそが、誰よりも幸せになっていただきたい。そのためには何でもして差し上げたい」
「『沖縄の心』を時代精神に高めた時、平和な社会が訪れる」
この先生の信念と激励に応え、わが人間革命に生き抜く中で、沖縄の友は、自らの平和の使命をも自覚し、自身の役割を果たしながら、次の世代へと伝えていた。
いかなる時も自他共の幸福を願い、人と人とを結びゆく実践に、「沖縄の心」はより輝きを増し、平和の広がりと継承に確かな力をもたらしている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。ご感想をお寄せください。
kansou@seikyo-np.jp
ファクス 03-5360-9613
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