“公害との戦いの原点”の地――連載〈SOKAの現場〉 ルポ・水俣に生きる㊤
“公害との戦いの原点”の地――連載〈SOKAの現場〉 ルポ・水俣に生きる㊤
2023年2月4日
祈りと同苦の郷土で 不屈の友が出した答え
祈りと同苦の郷土で 不屈の友が出した答え
創価学会員の「価値創造の挑戦」を追う連載「SOKAの現場」では、上下2回の取材ルポと社会学者・開沼博氏による寄稿を掲載する。今回のテーマは「水俣に生きる」。「水俣病」が起きた熊本県水俣は“公害との戦いの原点”の地とも呼ばれる。尊い命が失われ、さまざまな症状に苦しむ患者が多く出ている。1953年に第1号患者が発病し、今年で70年。患者認定を巡る訴訟は、今も続く。この地で創価学会員はどのように信仰を実践してきたのか――。(取材=掛川俊明、小野顕一。次回のルポは9日付3面に掲載予定)
創価学会員の「価値創造の挑戦」を追う連載「SOKAの現場」では、上下2回の取材ルポと社会学者・開沼博氏による寄稿を掲載する。今回のテーマは「水俣に生きる」。「水俣病」が起きた熊本県水俣は“公害との戦いの原点”の地とも呼ばれる。尊い命が失われ、さまざまな症状に苦しむ患者が多く出ている。1953年に第1号患者が発病し、今年で70年。患者認定を巡る訴訟は、今も続く。この地で創価学会員はどのように信仰を実践してきたのか――。(取材=掛川俊明、小野顕一。次回のルポは9日付3面に掲載予定)
「魚湧く海」――熊本県南部の水俣湾に面する不知火海はかつて、そう呼ばれていた。温暖で栄養分に恵まれ、魚が湧いてくるような豊かで美しい海だった。
「魚湧く海」――熊本県南部の水俣湾に面する不知火海はかつて、そう呼ばれていた。温暖で栄養分に恵まれ、魚が湧いてくるような豊かで美しい海だった。
水俣湾の夕日
水俣湾の夕日
湾の漁村に異変が起こり始めたのは、1952年ごろ。猫が踊るような奇妙なしぐさを見せ、鳥が空から落ち、魚が海面に浮かんだ。
やがて住民の中にも原因不明の症状が。手足のしびれやつまずき、言葉のもつれなどが現れ、伝染性の奇病とうわさが飛び交った。
「公害の原点」といわれる水俣病の発生である。
53年、湾を望む岬に生まれた金子親雄さん(先駆長〈ブロック長〉)は1歳半で歩き出してすぐ、よろめいて倒れるように。すぐ下の弟は生後29日で亡くなり、もう一人の弟・雄二さんも同じ症状に見舞われた。
母は幾つも病院を回るが治療の手だてはない。父も全身にけいれんを起こし、ついに息を引き取ってしまう。劇症型水俣病だった。
公式に水俣病が確認されたのは56年。原因は化学工場から排水されていたメチル水銀である。それが魚やエビ、カニ、貝などに吸収されたり、食物連鎖を通じたりして蓄積された。
高濃度のメチル水銀を含む魚介類を日常的に多く食べることで、中毒症状が起きたのである。
湾の漁村に異変が起こり始めたのは、1952年ごろ。猫が踊るような奇妙なしぐさを見せ、鳥が空から落ち、魚が海面に浮かんだ。
やがて住民の中にも原因不明の症状が。手足のしびれやつまずき、言葉のもつれなどが現れ、伝染性の奇病とうわさが飛び交った。
「公害の原点」といわれる水俣病の発生である。
53年、湾を望む岬に生まれた金子親雄さん(先駆長〈ブロック長〉)は1歳半で歩き出してすぐ、よろめいて倒れるように。すぐ下の弟は生後29日で亡くなり、もう一人の弟・雄二さんも同じ症状に見舞われた。
母は幾つも病院を回るが治療の手だてはない。父も全身にけいれんを起こし、ついに息を引き取ってしまう。劇症型水俣病だった。
公式に水俣病が確認されたのは56年。原因は化学工場から排水されていたメチル水銀である。それが魚やエビ、カニ、貝などに吸収されたり、食物連鎖を通じたりして蓄積された。
高濃度のメチル水銀を含む魚介類を日常的に多く食べることで、中毒症状が起きたのである。
■力が湧いた
■力が湧いた
後に母も水俣病と診断されたが、病身を押して働き、一家を支えた。当時、胎盤は毒物を通さないというのが通説であったが、親雄さん、雄二さんの存在と母の指摘が、胎児性水俣病の発見につながっている。
金子さん兄弟は、治療とリハビリのため、少年期を病院で過ごす。中学校を卒業した親雄さんは、水俣病の原因企業で働いたが、成人しても会話や読み書きに不自由し、「仕事が遅い」とつらく当たられた。
転機となったのは創価学会員の妻・雅子さん(地区副女性部長)との出会いである。77年に入会。「友達はあんまりおらんかった」という金子さんを、学会の同志は温かく迎えた。
男子部の先輩が自宅に通い、経本を一文字ずつたどって勤行を。御書の一節を何度も書いて教えてくれた。題目を唱えると「力が湧いてくるのを感じた」。
会合では学会歌の指揮を執り、男子部の人材育成グループ・牙城会で会館警備の任務にも就いた。
休みがちだった仕事の姿勢が変わっていった。
後に母も水俣病と診断されたが、病身を押して働き、一家を支えた。当時、胎盤は毒物を通さないというのが通説であったが、親雄さん、雄二さんの存在と母の指摘が、胎児性水俣病の発見につながっている。
金子さん兄弟は、治療とリハビリのため、少年期を病院で過ごす。中学校を卒業した親雄さんは、水俣病の原因企業で働いたが、成人しても会話や読み書きに不自由し、「仕事が遅い」とつらく当たられた。
転機となったのは創価学会員の妻・雅子さん(地区副女性部長)との出会いである。77年に入会。「友達はあんまりおらんかった」という金子さんを、学会の同志は温かく迎えた。
男子部の先輩が自宅に通い、経本を一文字ずつたどって勤行を。御書の一節を何度も書いて教えてくれた。題目を唱えると「力が湧いてくるのを感じた」。
会合では学会歌の指揮を執り、男子部の人材育成グループ・牙城会で会館警備の任務にも就いた。
休みがちだった仕事の姿勢が変わっていった。
水俣湾沿いの遊歩道を歩む金子親雄さん㊧と妻・雅子さん。現在はサンゴも確認されるが、かつて、この湾に水銀を含んだ工場排水が流された
水俣湾沿いの遊歩道を歩む金子親雄さん㊧と妻・雅子さん。現在はサンゴも確認されるが、かつて、この湾に水銀を含んだ工場排水が流された
患者だからと特別扱いせず、何でも言い合える同志の励ましを支えに、親雄さんは定年まで勤め上げた。
治療やリハビリを重ねても、水俣病の症状が消えることはない。雅子さんは、「水俣病の悲劇は今も続いています」と話す。「でも幸せも感じます。昔は夫が私の信心に後ろからついてくるようだったのが、今は私の方が夫の純真さに引っ張ってもらっています」
2019年に開催された水俣病犠牲者慰霊式では、患者・遺族の代表として、親雄さんが「祈りの言葉」を述べている。雅子さん、3人の娘と一緒に作り上げた、ひらがな書きの原稿を握り締めて登壇した。
「今、私たちに何ができるのか? 年月が流れても決して忘れてはなりません」
大人数の前で話すのは初めてのこと。詰まりながらも、言葉を継いだ。
「もう二度と同じような悲劇で、多くの人が苦しまないよう、どうかどうか見守ってください。『一番苦しんだ人が、一番幸せになれる』。その強い心をもって、私たちは、困難に負けずに生きる姿で、人に勇気を与える人生を、これからも歩んでいきます」
患者だからと特別扱いせず、何でも言い合える同志の励ましを支えに、親雄さんは定年まで勤め上げた。
治療やリハビリを重ねても、水俣病の症状が消えることはない。雅子さんは、「水俣病の悲劇は今も続いています」と話す。「でも幸せも感じます。昔は夫が私の信心に後ろからついてくるようだったのが、今は私の方が夫の純真さに引っ張ってもらっています」
2019年に開催された水俣病犠牲者慰霊式では、患者・遺族の代表として、親雄さんが「祈りの言葉」を述べている。雅子さん、3人の娘と一緒に作り上げた、ひらがな書きの原稿を握り締めて登壇した。
「今、私たちに何ができるのか? 年月が流れても決して忘れてはなりません」
大人数の前で話すのは初めてのこと。詰まりながらも、言葉を継いだ。
「もう二度と同じような悲劇で、多くの人が苦しまないよう、どうかどうか見守ってください。『一番苦しんだ人が、一番幸せになれる』。その強い心をもって、私たちは、困難に負けずに生きる姿で、人に勇気を与える人生を、これからも歩んでいきます」
■苦悩の景色を
■苦悩の景色を
過去に水俣の学会員がまとめた文集を開くと、さまざまな思いがつづられている。「どんなに世の中を恨んだことか」「この世に生まれた私を幾度恨んだか」という赤裸々な吐露もある。
あまりに過酷で理不尽な現実を、水俣の人々は、どのように受け止めてきたのか。坂本直充さん(副本部長)を訪ねた。
坂本さんは6歳まで歩くことができず、言葉も出にくかった。地域には似た症状の胎児性水俣病の子どもたちがいたが、水俣病についての診察は受けたことがなく、「脳性まひ」と診断された。「父も原因企業に勤めておりましたし、私も公害被害の現実を引き受けることができなかった」
水俣病は人々を分断し、対立を生んだ。最大の雇用先である原因企業の影響を受ける市民。病気が全国に知られ、魚介類が売れなくなった漁民。そして患者や家族への差別……。補償を求めた裁判闘争には「怨」の旗が掲げられた。
水俣の問題を世に知らしめた『苦海浄土』という小説がある。作家・石牟礼道子氏が患者のもとに通い詰めて著した魂の記録だ。
小説を読み、坂本さんは“あなたは水俣をどうするのか?”と、突き付けられたように感じたという。
「水俣を変えたい」との思いから市役所職員になるものの、緊張して言葉が出ない。電話を取る時は、いつも不安で悩んでいた。
過去に水俣の学会員がまとめた文集を開くと、さまざまな思いがつづられている。「どんなに世の中を恨んだことか」「この世に生まれた私を幾度恨んだか」という赤裸々な吐露もある。
あまりに過酷で理不尽な現実を、水俣の人々は、どのように受け止めてきたのか。坂本直充さん(副本部長)を訪ねた。
坂本さんは6歳まで歩くことができず、言葉も出にくかった。地域には似た症状の胎児性水俣病の子どもたちがいたが、水俣病についての診察は受けたことがなく、「脳性まひ」と診断された。「父も原因企業に勤めておりましたし、私も公害被害の現実を引き受けることができなかった」
水俣病は人々を分断し、対立を生んだ。最大の雇用先である原因企業の影響を受ける市民。病気が全国に知られ、魚介類が売れなくなった漁民。そして患者や家族への差別……。補償を求めた裁判闘争には「怨」の旗が掲げられた。
水俣の問題を世に知らしめた『苦海浄土』という小説がある。作家・石牟礼道子氏が患者のもとに通い詰めて著した魂の記録だ。
小説を読み、坂本さんは“あなたは水俣をどうするのか?”と、突き付けられたように感じたという。
「水俣を変えたい」との思いから市役所職員になるものの、緊張して言葉が出ない。電話を取る時は、いつも不安で悩んでいた。
坂本直充さん
坂本直充さん
そんな坂本さんを気にかけ、仏法を勧めたのが、信心を始めていた同級生たちだった。10年越しの折伏の末、坂本さんは83年に28歳で入会。学会に飛び込むと、水俣病患者も原因企業で働く人も、立場や境遇に関係なく、励まし合う姿に衝撃を受けた。
「対立するのではなく、とことん話し合う。それが学会でした」。入会後、坂本さんもさまざまな立場の人と会い、水俣の未来を求めて対話を続けてきた。学会活動に励む中で、自然と言葉も出るようになった。
「水俣は、人として奪われたものを取り戻す“人権闘争”でもあったわけです。でも、恨みや憎しみを持ち続けるのは、ものすごくきついこと。一人一人が生命の尊厳を根本に据えて、欲望に振り回される宿命を転換していくしかない」
坂本さんは患者支援施設「ほっとはうす」の設立等に携わり、2011年から2年間、水俣病資料館の館長を務めている。高齢化する患者や家族の問題に取り組み、「語り部」と共に自らも「伝え手」となって、水俣病の現実を伝えてきた。
苦悩の景色が一気に変わるわけではない。「それでも学会で、多くの人が生きようとする姿を見てきました」と言葉に力を込める。
そんな坂本さんが、入会時に最も感動したと語るのが、「学会に『水俣の日』があると知ったことでした」。
そんな坂本さんを気にかけ、仏法を勧めたのが、信心を始めていた同級生たちだった。10年越しの折伏の末、坂本さんは83年に28歳で入会。学会に飛び込むと、水俣病患者も原因企業で働く人も、立場や境遇に関係なく、励まし合う姿に衝撃を受けた。
「対立するのではなく、とことん話し合う。それが学会でした」。入会後、坂本さんもさまざまな立場の人と会い、水俣の未来を求めて対話を続けてきた。学会活動に励む中で、自然と言葉も出るようになった。
「水俣は、人として奪われたものを取り戻す“人権闘争”でもあったわけです。でも、恨みや憎しみを持ち続けるのは、ものすごくきついこと。一人一人が生命の尊厳を根本に据えて、欲望に振り回される宿命を転換していくしかない」
坂本さんは患者支援施設「ほっとはうす」の設立等に携わり、2011年から2年間、水俣病資料館の館長を務めている。高齢化する患者や家族の問題に取り組み、「語り部」と共に自らも「伝え手」となって、水俣病の現実を伝えてきた。
苦悩の景色が一気に変わるわけではない。「それでも学会で、多くの人が生きようとする姿を見てきました」と言葉に力を込める。
そんな坂本さんが、入会時に最も感動したと語るのが、「学会に『水俣の日』があると知ったことでした」。
■仏土の海
■仏土の海
1・24「水俣の日」。
その淵源は1974年の同日、「水俣友の集い」が開かれたことにある。出席した池田先生は当時のことを回想しながら、こうつづっている。
「強く、強く、強く、生きて、生きて、生き抜いてください」「苦しみをかみしめてきた皆さんには、幸福になる権利がある」
当時、大学進学で東京にいた下鶴康治さん(圏総主事)は「聖教新聞を見てびっくりしました」と。集いでの池田先生の激励や水俣の同志の喜びが、1面から3面にわたって大きく報じられていた。
1・24「水俣の日」。
その淵源は1974年の同日、「水俣友の集い」が開かれたことにある。出席した池田先生は当時のことを回想しながら、こうつづっている。
「強く、強く、強く、生きて、生きて、生き抜いてください」「苦しみをかみしめてきた皆さんには、幸福になる権利がある」
当時、大学進学で東京にいた下鶴康治さん(圏総主事)は「聖教新聞を見てびっくりしました」と。集いでの池田先生の激励や水俣の同志の喜びが、1面から3面にわたって大きく報じられていた。
1974年1月24日、第1回「水俣友の集い」に出席した池田先生は、この日を「水俣の日」と定め、“毎年の互いの成長を刻む節に”と提案した(当時の九州総合研修所で)
1974年1月24日、第1回「水俣友の集い」に出席した池田先生は、この日を「水俣の日」と定め、“毎年の互いの成長を刻む節に”と提案した(当時の九州総合研修所で)
水俣で生まれ育った下鶴さんは、住民が分断され、いがみ合う姿を目の当たりにしてきた。
「例えば原因企業の組合一つとっても、立場の違いから、第一組合と第二組合が対立していて、『第一組合の子とは口を利くな』と注意され、身も心も断絶させられていったんです」
故郷を離れて感じた偏見もあった。原因企業の名が記されたビニール袋を手に取った友人が、「うわっ」と飛びのいたこともある。
つきまとう公害病のイメージから、自分の出身地が水俣であることを伏せる人も多く、下鶴さんもそうしていた。「そんな後ろめたい思いを、先生が吹き飛ばしてくれたんです」
卒業後は故郷に戻り、水俣に生きる誇りを胸に、仕事と学会活動に励んだ。
水俣で生まれ育った下鶴さんは、住民が分断され、いがみ合う姿を目の当たりにしてきた。
「例えば原因企業の組合一つとっても、立場の違いから、第一組合と第二組合が対立していて、『第一組合の子とは口を利くな』と注意され、身も心も断絶させられていったんです」
故郷を離れて感じた偏見もあった。原因企業の名が記されたビニール袋を手に取った友人が、「うわっ」と飛びのいたこともある。
つきまとう公害病のイメージから、自分の出身地が水俣であることを伏せる人も多く、下鶴さんもそうしていた。「そんな後ろめたい思いを、先生が吹き飛ばしてくれたんです」
卒業後は故郷に戻り、水俣に生きる誇りを胸に、仕事と学会活動に励んだ。
下鶴康治さん
下鶴康治さん
物質的な欲望を肥大化させた果てに起きた公害。
「それを乗り越えるためには、一人一人の生命の中に豊かな思想と生き方を築くしかない。池田先生は水俣を『仏土の海』と呼んでくださいました。私たちの手で、そうつくりあげていく――この地の使命を確認し合うのが、毎年の『水俣の日』なんです」
下鶴さんが言葉を継ぐ。
「ある時期の水俣は、一言間違えば“敵か味方か”というような、神経をすり減らす世間でした。ただ学会には、企業も患者もなくて。“共に頑張って幸せになろう”という変革の途上で、深い生命の次元で接するから、つらい思いをした人ほど安心できた」
作家の石牟礼氏は、取材に足を運ぶ中で、多数の学会員を目にしている。
「今まで水俣にいて考えるかぎり、宗教も力を持ちませんでした。創価学会のほかは、患者さんに係わることができなかった」(『石牟礼道子対談集 魂の言葉を紡ぐ』河出書房新社)
そこには、生命の次元に生きる実感、そして池田先生との誓いの絆があった。
物質的な欲望を肥大化させた果てに起きた公害。
「それを乗り越えるためには、一人一人の生命の中に豊かな思想と生き方を築くしかない。池田先生は水俣を『仏土の海』と呼んでくださいました。私たちの手で、そうつくりあげていく――この地の使命を確認し合うのが、毎年の『水俣の日』なんです」
下鶴さんが言葉を継ぐ。
「ある時期の水俣は、一言間違えば“敵か味方か”というような、神経をすり減らす世間でした。ただ学会には、企業も患者もなくて。“共に頑張って幸せになろう”という変革の途上で、深い生命の次元で接するから、つらい思いをした人ほど安心できた」
作家の石牟礼氏は、取材に足を運ぶ中で、多数の学会員を目にしている。
「今まで水俣にいて考えるかぎり、宗教も力を持ちませんでした。創価学会のほかは、患者さんに係わることができなかった」(『石牟礼道子対談集 魂の言葉を紡ぐ』河出書房新社)
そこには、生命の次元に生きる実感、そして池田先生との誓いの絆があった。
■病の解明へ
■病の解明へ
「毎年の『水俣友の集い』が一番の励みでした」と振り返るのは、宮本謙一郎さん(支部長)。水俣病研究を代表する一人である。
水俣市に隣接する芦北町の農林高校を卒業後、上京して専門学校へ。「故郷の力になりたい」と臨床検査技師の資格を取得。帰郷して国立水俣病総合研究センターに勤務した。
医療の現場で初めて見た水俣病患者の姿が目に焼き付いて離れない。“研究者になって、水俣病の解明に取り組もう”と腹が決まった。男子部の先輩は「どうせやるなら博士号を目指そう!」と鼓舞してくれた。
「けれど博士号なんて雲の上の話です。大学の先生も『99・9%無理です』と素っ気なかった」
「毎年の『水俣友の集い』が一番の励みでした」と振り返るのは、宮本謙一郎さん(支部長)。水俣病研究を代表する一人である。
水俣市に隣接する芦北町の農林高校を卒業後、上京して専門学校へ。「故郷の力になりたい」と臨床検査技師の資格を取得。帰郷して国立水俣病総合研究センターに勤務した。
医療の現場で初めて見た水俣病患者の姿が目に焼き付いて離れない。“研究者になって、水俣病の解明に取り組もう”と腹が決まった。男子部の先輩は「どうせやるなら博士号を目指そう!」と鼓舞してくれた。
「けれど博士号なんて雲の上の話です。大学の先生も『99・9%無理です』と素っ気なかった」
宮本謙一郎さん
宮本謙一郎さん
まずは創価大学の通信教育部に入学し、9年かけて卒業。その後、部外研究生として大学医学部へ。
多忙な仕事、地区部長としての学会活動に全力投球しながら、深夜に研究に打ち込む毎日。メチル水銀中毒により、なぜ神経細胞死が起こるのか、そのメカニズムの解明に挑んだ。
苦闘の末、2002年に医学博士号を取得。通信教育部の入学から20年、通教生として初の博士号取得だった。研究は水俣病解明の糸口をつかむ重要な成果として、世界保健機関(WHO)でも紹介されている。
宮本さんはブラジル・アマゾンに7度派遣され、金採掘に伴う水銀汚染調査に携わってきた。「世界の各地で水俣と同様の問題が起こり、今も分断と対立が生まれています。水俣に関わる一人として、こんな悲劇は二度と繰り返させない」と、決意をにじませる。
◇
第1回「水俣友の集い」で池田先生は、公害の原点である水俣の悲惨な現実が忘れ去られてはいけないと述べ、「20年後、50年後、百年後に、水俣がどうなっていったかを見続けていくことは、日本の全国民の義務でもあります」と語った。
翌年以降も、先生は1・24が巡り来るたび、「スクラムとスクラムを組んで、黄金の水俣・常楽の水俣・仏法の水俣を合言葉に、生き抜くことの尊さと偉大さを日本国中に、否、世界中に示していただきたい」等と励ましを送り続けている。
第1回の集いでの激励から、およそ半世紀。水俣の友は、生き抜く尊さと偉大さを、そして公害の原点の地に生きる意味を、自らの姿で示し続けている。
まずは創価大学の通信教育部に入学し、9年かけて卒業。その後、部外研究生として大学医学部へ。
多忙な仕事、地区部長としての学会活動に全力投球しながら、深夜に研究に打ち込む毎日。メチル水銀中毒により、なぜ神経細胞死が起こるのか、そのメカニズムの解明に挑んだ。
苦闘の末、2002年に医学博士号を取得。通信教育部の入学から20年、通教生として初の博士号取得だった。研究は水俣病解明の糸口をつかむ重要な成果として、世界保健機関(WHO)でも紹介されている。
宮本さんはブラジル・アマゾンに7度派遣され、金採掘に伴う水銀汚染調査に携わってきた。「世界の各地で水俣と同様の問題が起こり、今も分断と対立が生まれています。水俣に関わる一人として、こんな悲劇は二度と繰り返させない」と、決意をにじませる。
◇
第1回「水俣友の集い」で池田先生は、公害の原点である水俣の悲惨な現実が忘れ去られてはいけないと述べ、「20年後、50年後、百年後に、水俣がどうなっていったかを見続けていくことは、日本の全国民の義務でもあります」と語った。
翌年以降も、先生は1・24が巡り来るたび、「スクラムとスクラムを組んで、黄金の水俣・常楽の水俣・仏法の水俣を合言葉に、生き抜くことの尊さと偉大さを日本国中に、否、世界中に示していただきたい」等と励ましを送り続けている。
第1回の集いでの激励から、およそ半世紀。水俣の友は、生き抜く尊さと偉大さを、そして公害の原点の地に生きる意味を、自らの姿で示し続けている。
水銀を含んだ汚泥を取り除き、埋め立てによって封じ込める事業が進められ、1990年(平成2年)に58ヘクタールの水俣湾埋め立て地が完成。現在は環境と健康をテーマにした公園「エコパーク水俣」となっている
水銀を含んだ汚泥を取り除き、埋め立てによって封じ込める事業が進められ、1990年(平成2年)に58ヘクタールの水俣湾埋め立て地が完成。現在は環境と健康をテーマにした公園「エコパーク水俣」となっている
最後までお読みいただき、ありがとうございます。ご感想をお寄せください。
kansou@seikyo-np.jp
ファクス 03-5360-9613
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