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〈Seikyo Gift〉 もしかして「叱る依存」になってない?――臨床心理士・村中直人さん 2022年6月5日

  • 連載「WITH あなたと」 インタビュー

 子育てや介護の現場、または職場や学校で起きる、日常的な「悩み」。つい叱っては反省し、けれどもまた叱ってしまう。人は、「叱らずにいられない」依存的な状態に陥ってしまうことがあるようです。

 現代の多様な関心事や悩みを考える電子版連載「WITH あなたと」。今回は、『〈叱る依存〉がとまらない』(紀伊國屋書店)の著者で、臨床心理士の村中直人さんに聞きました。(取材=宮本勇介、掛川俊明、5月7日付)

■「叱る」は学びにつながらない

 ――“「叱る」という行為を避けるべき理由は、倫理的、道徳的なものではなく、「単純に効果がない」から”と村中さんの著作に書いてあって衝撃を受けました。

 叱られる人の学びや成長ということを目的とするならば、それはもう「効果はないですよ」と言い切っていいんじゃないかと思います。

 「言葉を用いてネガティブな感情体験(恐怖、不安、苦痛、悲しみなど)を与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為」

 これを「叱る」と定義した場合、そうしたネガティブな感情を道具として使うやり方は、学びや成長に寄与しないばかりか、むしろ阻害要因となる――これ自体は何ら別に目新しい情報ではありません。
 我々、臨床心理士や行動科学系の研究者など、対人支援の専門家からしてみると、すでに議論が終わっていることだと思います。

 問題なのは、専門家の中では常識になっていることが、うまく社会とリンクしていないという点でしょう。

 ――叱った相手が言動を改めてくれた。こういう経験がある人からすると、「叱ることに効果がない」と言われても実感が湧かないのかもしれません。

 危険な行為をやめたり、「ごめんなさい、もうしません」と相手が言ったりした時、叱る側の立場からすると、望んだ結果が得られたと感じるでしょう。
 ただ、叱られた人にとって、実はこれは、単なる「苦痛の回避」にすぎません。本来、その場では何が求められていて、どう考え、どう振る舞うべきなのかという、本当の意味の学びにはなっていません。

■「叱る」という行為は快楽を生み出す

 ――頭では納得していても、時間や心に余裕がないと、叱ってしまうケースはあると思います。例えば、親が子どもを叱って考えを正そうとしたり、行動を促そうとしたり。余裕のない人からすると、「そんなの理想論だ、きれい事だ」という声も聞こえてきそうですが。

 私にも8歳の息子がいるのでよく分かります。私自身、本に書いたことを全てパーフェクトにできる、すごく素晴らしい父親なのかと言われたら、全然そんなことはありません。

 ただ、叱るか否かという以前に、まず知っておいてもらいたいのは、叱るという行為は、自分の欲求を満たす「快楽のための行為」でもあるんだということ。これを社会常識として皆が知っている状態をつくりたいと思っているんです。

 自著『〈叱る依存〉がとまらない』の今までにないところは何かというと、「叱る」という行為の問題を「アディクション(依存)」の視点で捉え直したところです。
 薬物依存やギャンブル依存で生活が成り立たないとか、そこまでのレベルではないかもしれませんが、叱るという行為には、それらの依存症と似た構造があります。

 気持ちに余裕がなくて、叱ってしまう。このことを頭の中で“相手のためなんだから仕方ない”という前提に立ってしまっている限り、叱る側が自らを省みることもなければ、行動変容する可能性も限りなく低くなります。「自分をどう変えるか」ではなくて、「相手をどう変えるか」ということにしか意識が向かないからです。

 ですから、まずは、「自分の欲求を満たすため、自分のしんどさを忘れるために、今、叱ってしまっていないか」と省みるといいと思います。

■あるべき姿のズレ

 ――相手を叱ることで、「やってしまった」と後悔し、それこそ今度は自分を叱ってしまうというパターンもあります。これもダメなんですよね?

 ダメというよりは、「それをしたところで解決にはならないですよ」ということなんです。
 今この瞬間、叱ろうとする自分を我慢すること。何とか自分で抑止しようとか、力まないようにしようというのは、その努力自体がダメだとは言いませんが、あまりうまくいかないんです。
 それよりも、そもそも叱りたいと思う気持ちはどこから来るんだろうか、この部分に向き合ってみる。

 なぜ、叱りたいと思ったのか。それは、自分の考える「あるべき姿」と、目の前の人の姿が「ズレている」からですよね。そういった意味で、叱ることで悩んでいる人というのは、「無自覚な権力者」といえます。あるべき姿を決める権限を持っているから叱ることに悩めるわけです。

 ですから、「自分の考えるあるべき姿が、本当に相手にとって望ましい、必要なことなのか」ということを自分に問うことが、本質的な“解”につながっていくんだと思います。

 「部屋の片付けができていないじゃない!」とか「まだ宿題やってないの!」と叱っている場合、部屋の片付けがどれくらいできていることがあるべき姿なのか。
 宿題をするということに、どこまで価値を置いて、どこまですることがあるべき姿なのか。

 こういうことって、実はもうちょっと自分の考えに疑問を持ってもいいところなんだと思います。でも、そこが揺らぎ始めた時、叱る側にとっては自分の今までの価値観を崩すことになるので、すごくしんどいことです。

 けれども、双方が納得し満足できる“解”は何なのかを問い続けていくと、私の実感ですが、叱るという行為が自然と半分ぐらいまでは減っていきます。私はこれを「叱るを手放す」と表現しています。

■「あなたはどう思う?」

 ――「双方が納得できる解」を得るためにはどんなことが大事になるでしょうか?

 もちろん、理想や未来像は、当然、誰もが持っていていいものです。「『私は』こういうふうに望んでいるんだよ」と、「I(=私)メッセージ」で伝えること自体は大事なことだと思います。

 しかし、「あなたのためなのよ」「このままでは世の中では通用しないよ」「大人になったらどうするの」と、「普通・常識・当たり前」を押しつけ始めると、主語が「私」から「あなた」にコロッと入れ替わる。この権力構造が、生きづらさを生むんだと思います。

 「叱られる人」の意図や願いをどこまで尊重できるか。「私はあなたにこれを願っているんだけど、あなたはどう思う?」と聞いていけるといいのかもしれません。

■「叱る依存」から見た組織の未来

 ――会社でもスポーツでも、一つの組織体を運営していく以上、ある程度のコントロールは必要になります。「叱る依存」と組織運営についてはどう思いますか?

 『多様性の科学』(マシュー・サイド著)という本に面白いことが書いてありました。
 組織内の上意下達をどれぐらい強力にすれば組織が成長するか。実は、やるべきことが明確で困難が大きくない状況であれば、ヒエラルキー(階層)がはっきりしている方が組織は強くなるそうです。

 ただ、こういう組織は変化に対してものすごくもろい。では、どうすればいいかというと、組織に多様性がきちんと確保できているかどうかが鍵になります。

 けれども、多様性が大事だといって、グーグルが一度、組織内の階層をなくしたんです。管理職も減らして、「みんな平でいこう」みたいな。

 一時期、日本でも「なべぶた組織」がはやりました。できるだけ階層をなくして、そうすることで多様性が促進されて先進的な取り組みができるのかと試したんですけど、それは見事に、失敗しました。

 分かったことは、階層自体は必要だということでした。でも、階層には弊害があって、硬直化、つまり豊富なアイデアが出にくくなる面がある。
 結局、階層を保った中で、いかにみんなが活発に意見とか、アイデアを出せるのかということが勝負で、その時に「心理的安全性」(役職や地位にかかわらず、誰もが率直な意見や素朴な疑問を交わすことができる環境のこと)が注目されるようになってきました。
 そして、その心理的安全性を担保する上で一番の“敵”は何かというと、多様性を脅かす「叱る依存」になるんです。

 「叱る依存」を考えるということは、「困難な時代を生き抜く組織をどうやってつくり上げていくのか」という問いにそのままつながります。

■和気あいあいの当事者コミュニティー

 ――村中さんは、どのようにして、そうした多様で、柔軟なものの見方を身に付けていったんですか?

 仕事を通じて、グレーゾーンを含む発達障害の子どもたちや保護者の方と深く関わってきた経験が大きいと思います。

 例えば、自閉スペクトラム者にとって当たり前の感覚というのは、それ以外の多数の人にとって当たり前ではないことが多い。

 それぞれが思う「当たり前」や「あるべき姿」があるわけで、それが数の差になった時に、多数派のあるべき姿が「暴力」にもなるわけです。
 自閉スペクトラム者を多数派のあるべき姿に近づけようとする。そうした中で叱るという行為が起きることに、私は違和感を覚えました。
 持って生まれた脳や神経由来の価値観、感覚みたいなものを他と同等に尊重したい。「文化」として表現し、捉えていきたいと思っているんです。

 最近、私は自閉スペクトラムの成人当事者20人ぐらいとコミュニティーをつくって、毎月座談会をしているんです。
 たまにツイッターで公開版をアップするんですが、自閉スペクトラムについて、そんなに詳しくない方が我々のコミュニティーの会話を聞かれたら、びっくりすると思います。

 なぜかというと、通常、「自閉症」の特徴というと、「対人関係に問題があり、双方向のコミュニケーションができない、会話が続かない」などと言われますが、この座談会では、ものすごくスムーズにコミュケーションができて、参加者が楽しそうに和気あいあいとしているからです。

 そして、公開している会話を他の自閉スペクトラム当事者が聞いたらどうなるか。ツイッターでのリアクションは、共感の嵐だったりします。

 自閉症というのは、「共感の病」とか、「共感の能力の欠如」といわれることがあるんですけど、何のことはない。

 “多数派の価値観、感覚と違うから共感できないだけの話なんだ”――こういう体験を日々してきました。だから、私は、自閉症をコミュニケーションの障害、共感の障害とは思えなくなっています。

■「レンガ型」から「石垣型」モデルへ

 ――話を聞いていて、「他者に関心を持つこと」の重要性を感じました。

 今、日本で求められているのは、すでに組織の中にいる人の多様性をいかに理解するかだと思っています。私はそれを、「レンガ型のモデル」から「石垣型のモデル」にチェンジしましょう、と表現しています。

 レンガは同じ形に練る、もしくは、いびつな形のものを同じ長方形の形に切り出してつくります。レンガの利点は、入れ替えが可能であることとか、組み上げが簡単であることです。

 一方で石垣は、石同士、接着剤なしで何百年、何千年と崩れず頑丈です。そこには高い技術が必要になりますが。

 本当は、その人独自のやり方や感覚があるんだけれども、周りがそうしているから自分も無理をして合わせてしまう。「発達障害」と診断されている人たちに話を聞くと、ほとんどの人が社内では自分の診断名や特性を伝えていないことが多い。「不利益を被ったことが多いから怖くて言えない」と考える人が多いのです。

 ごつごつした岩を、均一の形をしたレンガに切り出してしまっているんです。切り出すってことは「小さくなる」ということでもあります。本来の伸び伸びとした自分の能力を発揮できていない人って、日本中にたくさんいると思います。

 だから、イノベーションを起こすためには、新しい人をよそから引っ張ってこようとする発想の前に、「今、自分たちの目の前にいる仲間で石垣を組みましょう」と伝えたいですね。
 一人一人の生きやすさと組織の成長を両立させることができる、それがこれからの時代に求められることだと思います。

【プロフィル】

 むらなか・なおと 1977年生まれ。臨床心理士・公認心理師。一般社団法人子ども・青少年育成支援協会代表理事。Neurodiversity at Work株式会社代表取締役。人の神経学的な多様性に着目し、脳・神経由来の異文化相互理解の促進、および働きかた、学びかたの多様性が尊重される社会の実現を目指して活動。2008年から多様なニーズのある子どもたちが「学びかたを学ぶ」ための支援事業「あすはな先生」の立ち上げと運営に携わり、現在は「発達障害サポーター’sスクール」での支援者育成にも力を入れている。著書に『〈叱る依存〉がとまらない』、『ニューロダイバーシティの教科書――多様性尊重社会へのキーワード』(金子書房)がある。

 
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 ファクス 03―5360―9470

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1971年、静岡県生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。金沢大学法学部助教授などを経て、2007年から現職。地方選挙を中心に、世論調査のデータなどを用いて現代政治を分析。東日本大震災と地方自治についても研究している。著書に『電子投票と日本の選挙ガバナンス』(慶應義塾大学出版会)、『東日本大震災からの復興過程と住民意識』(編著、木鐸社)などがある
 

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