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〈Seikyo Gift〉「共に思いやる」ことから「ケア中心の社会」をつくる――インタビュー 兵庫県立大学准教授 竹端寛さん 2024年2月4日

  • 〈危機の時代を生きる 希望の哲学〉

  
 今、日本には「ケア」が足りていないと、兵庫県立大学准教授の竹端寛さんは語ります。「子育てを通じて生き方が変わった」と言う竹端さんに、豊かな関係性に基づく「ケア中心の社会」について聞きます。
 (聞き手=掛川俊明、村上進 2023年12月22・23日付)
  

■妻と夫の間に育まれる「同志のような連帯感」

  
 ――竹端さんの近著『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマー新書)では、子育ての経験についても書かれています。実は、記者も子どもが生まれたばかりで、育児真っ最中です。
  
 私は、42歳の時に娘が生まれてから6年間、それまでとは別世界を生きるような日々を送ってきました。
 まず、夫婦という「二者関係」から、子どもを加えた「三者関係」になりました。それは「1人増えただけ」ではありません。
  
 「妻と夫」という一つだけだった関係性が、「妻と夫」「妻と子ども」「夫と子ども」、さらに「夫婦に対する子ども」「妻と子どもに対する夫」「夫と子どもに対する妻」と、6パターンもの関係性になるんです。
  

竹端さんの主な著書
竹端さんの主な著書

  
 生まれたばかりの赤ちゃんも、言葉は話せなくても「泣く」という表現で意思表明をしています。子どもと親の関係性の中で、さまざまなコミュニケーションが始まるのです。
  
 私の経験から、パパになった人に伝えたいのは、生後間もない最も大変な時期の苦労を、ママと子どもと一緒に共有してほしいということです。
 私たち夫婦は、親が遠く離れて住んでいたので、子どもが生まれてすぐの頃は、二人で悪戦苦闘の毎日でした。
 泣きやまない娘を抱っこして、子守歌を歌い続けた夜中。「いつまで、この大変さが続くのだろう」と、つらい気分になる時もありましたが、小さい命を守ろうと必死でした。
  
 こうした大変な時期を夫婦で共にくぐり抜けたからこそ、妻との間に「同志のような連帯感」が育まれたと思います。
  

■失敗と反省を超えて――ケアとは「苦労を共にする」こと

  
 ――そうした子育ての経験が、ケアについて本を書いた、きっかけになっているのでしょうか。
  
 そうですね。娘の育児を経験して、ケアは「弱者とされる人たちのための特別な営み」ではない、と感じました。
 誰もが、赤ちゃんの時から大人になるまで、膨大な「お世話」を受けてきています。私たちの身の回りには、ケアが、そこかしこにあるのです。
  
 ケアは、ある意味で「苦労を共にする」ことです。それは、とても時間がかかり、面倒なことでもあります。
 私自身、社会福祉の研究者でありながら、実は、ケアを避けてきた部分がありました。けれど、育児をする中で、ケアについて突き付けられた瞬間が、何度もありました。
  

  
 一日中、育児と家事をして、ふと「今日、なんもしてへんな……」とつぶやいた時、妻から「何言ってるの? 娘の面倒を見て、洗濯も掃除もやったやん!」と言われました。
 私の中で「何かをする」ことが、仕事などの労働に限定されていたと気付かされたのです。育児や家事といった活動を「何もしていない」ことだと思っていたのかと、反省しました。
  
 確かに、子どもが生まれるまでの私は、仕事中心の生活でした。就職先が2年間見つからなかった経験もあり、やっと採用された勤務先で「とにかく業績を残して、研究者として生き残らなければ」と。
 いつの間にか、労働や成果が全てかのような「生産性至上主義」に染まっていたのです。
  
 またある時は、早く帰れない仕事が重なり、育児の負担が妻に偏ることが続きました。
 帰宅した際、ふとしたやり取りの中で「こっちだって仕事で疲れて帰ってきたのに」と言いかけた自分に、ハッとしました。
  

  
 反省を込めて、正直に告白すれば、「賃金労働で稼いでいるのは私」という不遜な思い込みがあったのです。
 働いているという意味では、仕事も家事も同じはずであり、仕事は賃金が支払われる労働で、育児や家事は無給の労働です。
 私が言いかけた言葉の背景には、家事・育児は賃金労働より価値が低いかのような、恐ろしい思いが刷り込まれていました。
  
 仕事をすることで「食材を買う」ことはできても、幼い娘に「ご飯を食べさせる」には、料理し、お皿に盛り付け、スプーンで口に運ぶことなどが必要です。
 もちろん、生産性を求める仕事を否定するわけではありません。ただ、仕事を適切にしている状態と、仕事依存症のような働き方は違うと感じたのです。
  
 こうした日々を通して、仕事中心だった私の生活は、妻と子どもとケアし合う生活へ変わっていき、生きる姿勢を書き換えるような経験をしました。
  

■「生きづらさ」を感じたら「自分へのケア」を大切に

  
 ――近著では、大学で接する学生たちを見て、「自分自身へのケア」が不足しているとも指摘されています。自分へのケアとは、どういうことでしょうか。
  
 大学で働いていると、「相手の顔色をうかがいすぎる」学生が多いと感じます。幼い頃から、「周囲に迷惑をかけてはいけない」「ちゃんとしなさい」などと言われる中で、大人が認める「いい子」になろうとしてきたのだと思います。
  
 他人の顔色をうかがってばかりいると、「自分のしたいこと」ではなく「嫌でもしなければならないこと」を優先することになりやすい。そうした義務を果たし続けるのは、しんどいことです。
  

  
 障がい者文学の研究者である荒井裕樹さんは、「苦しみ」と「苦しいこと」の違いについて、次のように説明しています。
 「苦しみ」とは、「自分は○○がしんどい」というふうに、苦しさの内実を自分で理解し、言語化できること。一方で、苦しみを言語化できないとき、人は「苦しいこと」を別の形で表現します。
  
 大学でも、卒業論文の提出を前に音信不通になる学生や、ゼミで白紙のリポートを提出する学生など、さまざまな形で「苦しいこと」を表現しようとする様子を見てきました。
 どう表現したらいいか分からないけれどつらい、という「苦しいこと」があるとき、身近な人に話を聞いてもらえたら、少し楽になります。
  
 育児で悩んでいる人なら、パートナーやママ友、パパ友などの間で、そのしんどさを話せる機会があれば、自分自身がケアされます。ただ、日本社会では、そうしたケアが足りていないとも感じます。
  

  
 振り返ると、私も自分自身へのケアが欠けていたと思います。私が、ずっと気にし続けてきたのは「他者との比較」と「他者からの評価」だったからです。
 例えば、私は小学校の頃、自分はどんくさいと思っていて、友達とサッカーや野球などをすると、皆に迷惑がかかると思い込んでいました。誘われても、私よりもスポーツが得意な弟に行ってもらったことさえあります。
  
 他者と比べたり、学歴や職場での評価を気にしたり。そうしたことに躍起になると、ますます「他人に迷惑をかけてはいけない」と、空気を読み、同調圧力に身を任せるようになります。
 そうすると、自分自身への気遣いや配慮という「自分へのケア」が欠けていってしまいます。
  
 最近、学生の相談に乗っていると、「こんな話をして、迷惑ではないですか?」と聞かれることがあります。確かに、簡単に終わらないという意味では、こうした相談ごとは、面倒くさいとも言えます。
 「でもね」と、いつも言葉を続けています。自分の中に苦しいことをため込むばかりでは、いつかそれは暴発しませんか、と。
  

  
 日本社会の「生きづらさ」は、表面的に物事をスムーズに進めるために「迷惑をかけたくない」と思うあまり、その裏側で、どんどんたまっていくものだと思うのです。
  
 自分をそこまで傷つけるくらいなら、他人に迷惑をかけてもいい。
 そう言うと、過激なメッセージにも聞こえます。けれど、私がこう思うようになったのも、娘の育児を経験してきたからです。
  
 赤ちゃんは、親や大人がお世話しなければ生きていけません。つまり、「他人に迷惑をかけるしかない存在」です。
  
 そんな赤ちゃんの育児は私たち夫婦にとって、迷惑をかけられ、振り回される毎日でした。
 娘は本当にかわいいけれど、同時に手のかかる、面倒くさい存在でもあります。にもかかわらず、私たちは、娘をケアすることで、娘からもケアされるという「ケアし合う関係」をつくってきました。
 それは、ある意味で「迷惑をかけ合う」毎日なのですが、そこには豊かな世界が広がっていたと感じます。
  

■「about-ness」と「with-ness」の考え方の違い

  
 ――「ケアし合う関係」の中で得られる豊かさとは、どんなものでしょうか。
  
 育児を始めた当初は、「親が子どもをケアしてあげている」と思っていましたが、徐々に「親も子どもからケアされている」ことに気付きました。
 子どもは、四六時中お世話やサポートが必要な「か弱い存在」であると同時に、親をはるかに超える「強さを持った存在」でもあるのです。
  
 例えば、娘と公園に出かけると、必然的に仕事から離れざるを得ません。強制的に仕事の時間を断ち切ってくれる娘のおかげで、私は自分がいかにワーカホリック(仕事中毒)的に働いてきたかに気付きました。
 また、子どもと里山に登ったり、サッカーをしたり、一緒に汗をかくうちに、親が大人になる過程で忘れてきた、純粋な喜びや面白さ、ワクワクする気持ちを取り戻せました。
  
 子どもをケアし、一緒の時間を過ごすことで、親も大切な何かを受け取っています。ケアは、一方通行ではないと感じたのです。
  

  
 政治学者のジョアン・トロントは、ケアには5種類あると書いています。
 ①関心を向けること、②配慮すること、③ケアを提供すること、④ケアを受け取ること、そして⑤共に思いやること、です。
  
 ①~④は、これまでも「ケア」について言われてきたことです。そこに、五つ目の「共に思いやる」ことを加えたのが、大切なポイントだと思います。
 ケアの喜びは、「生産的なこと以外の喜び」とも言えます。それは、家事や育児だけでなく、近所のお祭りの手伝いをしたり、家の庭仕事を買って出たり、友人を呼んでホームパーティーを催すことなども含まれます。
 そこには、「具体的な他者」との関わりがあります。
  
 こうしたケアには、お金をかけて外部委託すれば、手間を省けることも多く含まれています。けれど、手間や苦労を含めて、他者と「共にする」ことにも意義があるのです。
  

  
 心理療法家のジョン・ショッターは「アバウトネス(about-ness)」と「ウィズネス(with-ness)」という考え方の違いを説明しています。
  
 「アバウトネス」な考え方とは、「○○について考える」というやり方。問題を対象化して、客観的に分析するような思考のことです。
 常に問題を細分化して、人ごと化しやすい側面があり、「それは△△が悪い」と、上から目線で指摘しやすいものです。
  
 他方、「ウィズネス」な考え方は「○○について、あなたと私が共に考え合う」という姿勢のことです。
 これは、一方的な助言や指導、アドバイスではありません。共に考え合うためには、まずは相手の悩みや苦しいことを、最後まで、じっくり聞くことが求められます。
 その中で、おかしいなと思うことがあっても否定せず、まずはそっくり丸ごと受け止めます。
 その後、話を聞いた自分は、どう感じたのかを、「私」を主語にして話してみるというアプローチです。
  
 学校、職場、SNSなどを思い返しても、今の日本は「アバウトネス」の話が、あふれかえっているように感じます。
 一方で「ウィズネス」のアプローチが増えれば、それぞれの苦しいことを、じっくり受け止めてもらえます。そういう具体的な他者との関わりが、ケアしケアされる関係をつくっていくことになります。
  
 大学のゼミや面談でも、そういう場をつくろうと心がけていると、学生は「ちゃんと聴いてもらえて、うれしかった」「初めてこんなことを話せた」といった感想を言ってくれます。
 自分のしんどさを丸ごと受け止めてもらえる経験を通して、自分の言葉を取り戻したり、自分の本当の思いを大事にしたりする。そうした経験をできる場所が、もっと必要なのだろうと思います。
  

■無駄に思えても、一緒に“いる”ことには価値がある

  
 ――インタビューの前半では、子育てを通じた「ケア」の経験や、「ケアし合う関係」が生み出す豊かさについて、語っていただきました。そうした関係をつくるためには、どのような実践が求められるでしょうか。
  
 ケアには、圧倒的に「時間」がかかります。例えば、育児でいえば、子どものご飯を準備する、一緒に遊ぶ、ほかにも「お父ちゃん、これ見て!」と言われるたびに、今やっていることを中断して話を聞くなど、多くの時間が必要になります。
  
 引き続き、また私の失敗談からお話しすることにします。
 育児を始めた当初、1日数時間ほど娘の面倒を見たら、“やったつもり”になっていました。子どもが寝ている時や、妻が娘を見ている時など、「この時間も含めて、私も家におらなあかんの?」と思ってしまったのです。
  

©Davin G Photography/Moment/Getty Images
©Davin G Photography/Moment/Getty Images

  
 それを話すと、妻からは「いてくれるだけで、安心できる」「ちょっと声をかけたら来てくれるのが大事なのよ」と言われました。
 ここでも、私がいかに仕事ばかりに集中してきて、賃金労働を中心にした考え方をしているか、ということに気付かされました。
  
 仕事などの労働における時間の使い方は、具体的な「○○する」という、作業を中心にした「する時間」です。
 一方で、ケアでは「いる時間」、つまり存在を共にしている時間に価値があるのです。
 一見すると無駄に思える時間も、そこに一緒にいることが、インタビューの前半でお話しした「あなたと共に考え合う(ウィズネス)」という姿勢につながります。
  

■変わらないといけないのは「指導する側」

  
 ――また先ほど、ワーカホリック(仕事中毒)的な働き方をしていた経験を話していただきました。そうした生活と、「ケアし合う関係」に基づく生活では、何が異なるのでしょうか。
  
 ケアし合う関係は、お互いを必要とする関係性であり、こうした相互依存的な関係性こそが、ケアの醍醐味だと思います。
 「相互依存の世界」の意義は、その対極にある「自己利益の世界」を考えると分かりやすいです。自己利益を追求するだけという弱肉強食の論理では「次に追い落とされるのは自分かもしれない」という不安と恐怖が生まれます。そこには、競争に負けるのは自分の責任という、強迫的な自己責任の論理があります。
  

  
 それとは違い、妻や子どもと一緒にいる相互依存的な関係性は、自分中心主義では成り立ちません。子の体調、やりたいことを優先しつつ、親自身の考えと折り合いをつける日々は、親の自己利益のみでは完結できません。子どもを中心に回る生活は、親にとっては利他的というか、没我的な関係でもあります。
  
 私の場合、自己利益の世界観を超えることで、「責任」に関する感覚の転換がありました。自己利益の世界でいわれる「自己責任」には、懲罰的な響きがあります。自分でしたことなんだから、自分で責任を取らなければならない、という義務の論理です。
 一方で、子どもの養育は、親にとって義務でもありますが、同時に喜びでもあります。懲罰的な自己責任とは違った、より肯定的な責任を引き受ける感覚があるのです。
  
 政治学者のヤシャ・モンクは、育児や困窮状態の親類の世話について、それも一つの社会貢献であると述べ、肯定的責任像を提起しています。
  
 私も、家事や育児の責任を引き受ける中で、自分には父親として生きる意味や価値があるのだと、自身の存在を丸ごと肯定的に感じられるようになりました。娘へのケアは、私を力づけてくれることでもあったのです。
 ケアし合う関係は、ケアを試みる側の人間的な成熟にも、大きな役割を果たします。かつて、仕事の成果や他人との比較でしか自分を評価できなかった私自身が、娘へのケアを通して、生きる姿勢が大きく変わっていったのです。
  

  
 こうした変化は、親子だけに限りません。私自身の学生との関わり方も変わりました。
 以前は、リポートの提出期限を守れない人を「ダメな学生」と思い込んでいました。けれど、今は「言語化できない苦しいことがあるのかも」と、考えるようになりました。
 自己責任の論理で見れば、「期限を守れないと、社会では通用しないよ」と、責めたくなります。しかし、本当は社会が許さないのではなく、「私があなたを許せない」と言いたかったのかもしれません。
 弱肉強食の論理の中で、これまで「ちゃんとやってきた」自分の成功体験に引き当てると、一人一人の事情に思いをはせた関わりが、できにくくなります。
  
 だからこそ、変わらないといけないのは「指導する側」だと思います。
 ケアし合う関係性をつくるために、子どもでなく親が、生徒でなく教師が、部下でなく上司が、変わることが求められているのです。
  

■「違いを知る対話」と「決定のための対話」

  
 ――ケア関係を友人や同僚などにも広げようとすると、多様な考え方を持つ人同士で、相いれない場面もありそうです。具体的には、どう接していけばよいでしょうか。
  
 他者が持つ、自分には理解しきれない性質を「他者の他者性」と呼びます。
 友人や同僚はおろか、妻や子どもといった家族であっても、完全には理解できません。どんなに頑張っても、私は妻や娘にはなれないし、私の理解し得ない他者性が残り続けます。
 例えば、妻とは結婚して20年たち、毎日会話していますが、今でも「そんなこと知らなかった」という気付きがあります。
  
 他者には、想像もつかない他者性があるため、他者と意見を完璧に一致させることは、無理だとも言えます。
 それでは、物事を決める時には、どうすればよいのでしょうか。オープンダイアローグという精神療法の提唱者であるトム・アーンキルは、「違いを知る対話」と「決定のための対話」を分けるやり方を教えてくれます。
  

  
 彼が勤めていた研究所では、方針を決定する時などに、まずテーマについてお互いの思いをざっくばらんに語り合う「違いを知る対話」に時間をかけます。
 それを経て、お互いを理解した上で、「では、どうするか?」という「決定のための対話」を行うと、方針がうまく決まりやすいそうです。
  
 「違いを知る対話」で大切なのは、相手の言っていることを、そのまま「理解しよう」とすることです。これは、「許し」や「共感」とは違います。相手の主張が自分の考えと合わない場合でも、無理して許さなくていいし、共感しなくてもいいのです。
 たとえ「訳が分からない」と思ったとしても、相手がなぜそう考え、そう話しているのかを「理解しよう」とすることが、相手とつながる根拠になります。
  
 つまり、ありのままのその人の存在を丸ごと承認するのが「違いを知る対話」なのです。それを経て「決定のための対話」を行えば、決定の質がより良いものになります。
 これは、とても面倒なことでもあります。けれど他者には、自分が想像し得ない他者性があることを見つめていくと、それと同時に、自分自身にも「己の唯一無二性」ともいえる、他者と違う固有の性質があることに気付きます。
 こうした対話のプロセスが「共に思いやる」「ケアし合う」関係性の基盤になるのです。
  

■「できない100の理由」より「できる一つの方法論」

  
 ――完全には分かり合えない他者だからこそ、対話を続けることが必要なんですね。
  
 完璧には分かり合えない他者を相手にするわけですから、「引き裂かれそうな葛藤」に直面することもあります。私の家庭でいえば、6歳の娘は、本人の思いをグイグイぶつけてきます。親としては、理解するより「ちゃんとしてよ!」と叱って、強制的に従わせたくなる時もあります。
 けれど、そうした葛藤が最大化する場面こそ、「他者の他者性」に出あう最大のチャンスなのです。
 娘をケアする中で痛感するのは、「他人と過去は変えられない。変えられるのは自分の未来だけ」ということです。
  

  
 父である私が何と言おうと、しっかりした意思を持った娘は、すがすがしいくらいに反発してくれます。まるで娘が「私には、お父ちゃんとは違う、他者性があるで!」と言っているかのようです。
 同時に、そうやって自己表現ができるのは、父親に表現したら理解してくれるという安心感を持っているからだとも感じます。こんな時、父である私は、イライラする自分をいったん脇に置いて、何とか娘の自己表現を読み解こうと奮闘する毎日です。
  
 こうやって相互承認を繰り返す中で、娘との信頼関係ができていき、お互いの尊厳を大切にできるようになっていきます。これが「共に思いやる」というケア関係なのだと思います。
  
 ――創価学会でも、日常の活動の中で、さまざまな「対話」の場面があります。苦悩や葛藤を共に経験する中で、「共に思いやる」関係ができていくということは、実感として納得できます。
  
 悩みや葛藤を抱えながら、それに「共感」「共苦」するというのは、本来、宗教のコミュニティー(共同体)が果たしてきたことでもありますね。
 現代社会においては、そうやって多様な一人一人をそのまま受け入れてくれるコミュニティーを複数持つことが大切だと思います。私自身も、子育てコミュニティーにも所属しつつ、同時に趣味の合気道でつながっているコミュニティーもあります。
  
 そうしたケア中心の生き方が広がれば、自己責任の論理で誰かを排除するのではなく、誰もが生きやすい社会に、少しずつ近づいていくと思っています。
  

  
 そのために、今日からできるケアの実践は、具体的な誰かと会って、「違いを知る対話」を通して関係性をつくっていくことです。
 他者には、自分には分かり得ない部分が必ずあります。けれど、分からないからこそ、対話ができるという希望があるのだと思います。
  
 イタリアの医師バザーリアは「○○だから、できっこない」と、やる前に諦める姿勢を「理性の悲観主義」と言いました。それより大事なのは、「実践の楽観主義」だと唱えたのです。
 言い換えれば、「できない100の理由」を探すより、「できる一つの方法論」を共に考え合うということです。例えば、目の前で赤ちゃんが泣いている時に、「今はケアできない理由が……」などと言っている暇はありません。
 「ケアは実践ありき」なのです。具体的な他者と関わり、対話的な関係を結ぶこと。そうした楽観主義的な実践が、ケア中心の社会につながっていくと信じています。
  

  
 たけばた・ひろし 1975年、京都市生まれ。兵庫県立大学環境人間学部准教授。専門は、福祉社会学、社会福祉学。子育てをしながら、福祉やケアについて研究。著書に『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマー新書)、『家族は他人、じゃあどうする?――子育ては親の育ち直し』(現代書館)など。
  
  
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 kansou@seikyo-np.jp
 ファクス 03-5360-9613
  
こちらから、「危機の時代を生きる」識者インタビューの過去の連載の一部をご覧いただけます。

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