〈正義の旗高らかに〉第3回 「狂言訴訟事件」
〈正義の旗高らかに〉第3回 「狂言訴訟事件」
2025年2月21日
- 2023年3月15日付創価新報を再掲
- 2023年3月15日付創価新報を再掲
「訴権」――誰もが裁判所に訴訟を提起できる国民の権利のこと。それを「濫用」――その権利をみだりに用いたとして、裁判所が訴えそのものを却下した事実無根の「狂言訴訟事件」が、27年前に起こった。
“狂言”の主は、悪質な金銭貸借トラブルを起こして学会役職を解任され、自ら脱会した北海道・函館市の信平醇浩・信子夫婦である。
「訴権」は、憲法32条に「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」と保障されているため、「訴権の濫用」に当たるか否かは極めて慎重な判断が要求される。事実、「訴権の濫用」を理由に訴えが却下されたこの種のケースは、日本の裁判史ではあまりにも少ない。「100万件に1件」といわれる極めて稀な判決が下されたのである。
信平夫婦が起こした「狂言訴訟事件」が、いかに「異常」かつ「悪質」であったか。164ページにもわたる東京地裁の判決文(2000年5月)を読むと、夫婦の主張を厳格に審理した上であらわになった虚構性、それを取り巻く卑劣な“謀略の構図”さえも浮き彫りになってくる。
「訴権」――誰もが裁判所に訴訟を提起できる国民の権利のこと。それを「濫用」――その権利をみだりに用いたとして、裁判所が訴えそのものを却下した事実無根の「狂言訴訟事件」が、27年前に起こった。
“狂言”の主は、悪質な金銭貸借トラブルを起こして学会役職を解任され、自ら脱会した北海道・函館市の信平醇浩・信子夫婦である。
「訴権」は、憲法32条に「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」と保障されているため、「訴権の濫用」に当たるか否かは極めて慎重な判断が要求される。事実、「訴権の濫用」を理由に訴えが却下されたこの種のケースは、日本の裁判史ではあまりにも少ない。「100万件に1件」といわれる極めて稀な判決が下されたのである。
信平夫婦が起こした「狂言訴訟事件」が、いかに「異常」かつ「悪質」であったか。164ページにもわたる東京地裁の判決文(2000年5月)を読むと、夫婦の主張を厳格に審理した上であらわになった虚構性、それを取り巻く卑劣な“謀略の構図”さえも浮き彫りになってくる。
ウソはこうして作られた!
ウソはこうして作られた!
事件の経緯
事件の経緯
1996年2月、信平信子の“手記”なるものが、「週刊新潮」(同年2月22日号)に掲載された。
その内容は、信子が学会の函館研修道場で、「73年6月」「83年8月」「91年8月」の3回にわたって暴行を受けたというもの。あまりにも荒唐無稽な内容であり、“でっち上げ”に過ぎなかった。
同誌は“手記”の真実性、客観性について何の裏付け取材や事実確認もすることなく、スキャンダラスに掲載。新聞広告や電車の中吊り広告等でも、内容を大きく喧伝した。同誌の記者たちは、当初から信平夫婦と結託し、騒動の成り立ちそのものに深く関与していたことが分かっている(詳細は「メモA」)。
そして同年6月、信平夫婦は悪質な作り話をもとに池田名誉会長を陥れようと、損害賠償を求めて東京地裁に提訴するという暴挙に及んだのである。これらの“事件”なるものが、いかなるウソであったか。事実を基に検証してみたい。
1996年2月、信平信子の“手記”なるものが、「週刊新潮」(同年2月22日号)に掲載された。
その内容は、信子が学会の函館研修道場で、「73年6月」「83年8月」「91年8月」の3回にわたって暴行を受けたというもの。あまりにも荒唐無稽な内容であり、“でっち上げ”に過ぎなかった。
同誌は“手記”の真実性、客観性について何の裏付け取材や事実確認もすることなく、スキャンダラスに掲載。新聞広告や電車の中吊り広告等でも、内容を大きく喧伝した。同誌の記者たちは、当初から信平夫婦と結託し、騒動の成り立ちそのものに深く関与していたことが分かっている(詳細は「メモA」)。
そして同年6月、信平夫婦は悪質な作り話をもとに池田名誉会長を陥れようと、損害賠償を求めて東京地裁に提訴するという暴挙に及んだのである。これらの“事件”なるものが、いかなるウソであったか。事実を基に検証してみたい。
1973年6月――克明なメモが証拠
1973年6月――克明なメモが証拠
“手記”では、その日付と時間を「6月27日」の「夜9時」と明記していた。だがその夜、名誉会長は常に同行幹部らと行動しており、その模様は聖教新聞の同行記者が克明なメモを残している。
特に「夜9時」という時刻は、同行幹部との勤行や懇談のさなかであり、夫人も一緒だった。いずれの点からも、その時間帯に“事件”など起こりようがないのである。
このウソが暴かれた後に出してきた訴状で信平側は、「6月27日頃」と「頃」を付けた上、「夜9時」としていた時間を、単に「夜」と曖昧にしてきた。
さらに信平側は、学会側が日時を明確にするよう求めると、「6月26日または同月27日」と日付自体を変更。具体的な時間についても「日没から午後12時までの間」と、答えにならない回答をしてきたのである。
そもそも当時、研修道場には建物は一つしかなく、そこには東京や札幌の幹部ばかりか、多くの役員が宿泊しており、そんな中で“事件”など起こる余地は全くないのである。
“手記”では、その日付と時間を「6月27日」の「夜9時」と明記していた。だがその夜、名誉会長は常に同行幹部らと行動しており、その模様は聖教新聞の同行記者が克明なメモを残している。
特に「夜9時」という時刻は、同行幹部との勤行や懇談のさなかであり、夫人も一緒だった。いずれの点からも、その時間帯に“事件”など起こりようがないのである。
このウソが暴かれた後に出してきた訴状で信平側は、「6月27日頃」と「頃」を付けた上、「夜9時」としていた時間を、単に「夜」と曖昧にしてきた。
さらに信平側は、学会側が日時を明確にするよう求めると、「6月26日または同月27日」と日付自体を変更。具体的な時間についても「日没から午後12時までの間」と、答えにならない回答をしてきたのである。
そもそも当時、研修道場には建物は一つしかなく、そこには東京や札幌の幹部ばかりか、多くの役員が宿泊しており、そんな中で“事件”など起こる余地は全くないのである。
1973年6月の池田名誉会長の行動を克明に記した聖教記者の取材メモ。6月27日の夜、名誉会長は常に幹部や夫人らと一緒におり、午後11時半まで懇談していたと記載されている
1973年6月の池田名誉会長の行動を克明に記した聖教記者の取材メモ。6月27日の夜、名誉会長は常に幹部や夫人らと一緒におり、午後11時半まで懇談していたと記載されている
1983年8月――存在しない「場所」
1983年8月――存在しない「場所」
“手記”では、“事件”とやらの場所が函館研修道場内に建てられた「プレハブ建て」の「喫茶『ロアール』」と書いていた。
そもそも、このプレハブの建物は、行事に合わせて82年6月に臨時に設置されたもので、行事終了後の同月下旬に撤去されている。その証拠に、学会側は林野庁が撮影した航空写真等の客観的証拠を提示し、当時そこに、そのような建物など存在しなかった事実を明らかにした。
すると信平側は、訴状で「プレハブ建て」という表現を削除し、「喫茶室『ロアール』」としてきた。またその場所は、「函館研修道場の敷地の東部に建築された仮設の建物」という、より曖昧な表現に変更してきたのだ。
しかも、“事件”なるものの日時についても、当初は「8月19日」だったものが、訴状では「8月19日頃」とぼかしてきた。学会側から釈明要求を受けると、今度は「8月18日から同月20日の間」と変更してきたのである。
極め付きは、信平側が出してきた“けがの証拠”と称する医師の診断書。それが何と、“事件があった”という日から2カ月も後の日付であり、ただ信子が自転車事故に遭ってけがをした診断書を“偽装”したものだったのである。
訴えを起こした原告側が、裁判の大前提となる日時や場所を曖昧にし、さらに証拠の“偽装”まで行ったこと自体、信子の言う“事件”なるものの虚偽性を自らさらけ出したものにほかならなかった。
“手記”では、“事件”とやらの場所が函館研修道場内に建てられた「プレハブ建て」の「喫茶『ロアール』」と書いていた。
そもそも、このプレハブの建物は、行事に合わせて82年6月に臨時に設置されたもので、行事終了後の同月下旬に撤去されている。その証拠に、学会側は林野庁が撮影した航空写真等の客観的証拠を提示し、当時そこに、そのような建物など存在しなかった事実を明らかにした。
すると信平側は、訴状で「プレハブ建て」という表現を削除し、「喫茶室『ロアール』」としてきた。またその場所は、「函館研修道場の敷地の東部に建築された仮設の建物」という、より曖昧な表現に変更してきたのだ。
しかも、“事件”なるものの日時についても、当初は「8月19日」だったものが、訴状では「8月19日頃」とぼかしてきた。学会側から釈明要求を受けると、今度は「8月18日から同月20日の間」と変更してきたのである。
極め付きは、信平側が出してきた“けがの証拠”と称する医師の診断書。それが何と、“事件があった”という日から2カ月も後の日付であり、ただ信子が自転車事故に遭ってけがをした診断書を“偽装”したものだったのである。
訴えを起こした原告側が、裁判の大前提となる日時や場所を曖昧にし、さらに証拠の“偽装”まで行ったこと自体、信子の言う“事件”なるものの虚偽性を自らさらけ出したものにほかならなかった。
林野庁が1983年8月に函館研修道場の上空から撮影した航空写真。82年6月に白い円内の位置にあった「プレハブ建て」の「喫茶『ロアール』」は同月下旬に撤去され、存在していない
林野庁が1983年8月に函館研修道場の上空から撮影した航空写真。82年6月に白い円内の位置にあった「プレハブ建て」の「喫茶『ロアール』」は同月下旬に撤去され、存在していない
1991年8月――「日にち・時間」が破綻
1991年8月――「日にち・時間」が破綻
“手記”では、信子が91年の「8月16日」「朝7時半頃」に襲われたと書いていたが、そもそもその時間に、本人は研修道場に到着していなかった。
当日、信子を車で研修道場まで送った二上姓子さんがこう証言している。
「16日朝に主人を職場に送った後、午前8時ごろに信子の家まで迎えに行って、現地に到着したのは9時半ごろでした。当時、乗せてもらう人がガソリン代として500円を支払う慣例があったので、その日の私の家計簿にも、はっきりと『500円』と書いていました」
この事実を突きつけられて反論できない信平側は、訴状で「8月17日頃」と1日ずらし、「頃」と不明瞭にしてきた。
学会側から客観的証拠に基づいて反証されると、今度は「8月16日から同月18日の間」と変更。時間についても「5時半より7時半頃までの間」と曖昧にし、ウソを言い繕おうとしたのである。
また信子は当初、額が大きく腫れ上がり、服がボロボロになったと主張していたが、16~19日に聖教新聞のカメラマンが撮影した写真のどれを見ても笑みを浮かべる信子が写っており、当然、額にけがなどなく、衣服に全く異常もなかった。日にちも時間も全ての主張が破綻した。
そもそも、信子の言う“事件”が起きた「銀月門を入って数メートルの場所」というのは、公道から丸見えであり、当時は24時間の警備態勢まで敷かれていた。また朝6時ごろから役員が門扉の内側のテントで任務についており、“事件”めいたことが起こるわけがないのである。
さらに信平夫婦は、またもや“偽装工作”を行う。もともと夫婦は“92年5月に2度、事件に抗議する手紙を出したから学会役職を解任された”などと言っていた。その証拠として出してきたのが「書留郵便物受領証」と「手紙の下書き」なるもの。だが実際、“抗議の手紙”など存在しないのだ。学会側は、受領証と同じ日付、引き受け番号のついた“本物の手紙”を証拠として提出。抗議とはおよそ真逆の内容だった。結局、夫婦が出した「手紙の下書き」とやらは、信子が捏造して書いた偽物だったのである。
“手記”では、信子が91年の「8月16日」「朝7時半頃」に襲われたと書いていたが、そもそもその時間に、本人は研修道場に到着していなかった。
当日、信子を車で研修道場まで送った二上姓子さんがこう証言している。
「16日朝に主人を職場に送った後、午前8時ごろに信子の家まで迎えに行って、現地に到着したのは9時半ごろでした。当時、乗せてもらう人がガソリン代として500円を支払う慣例があったので、その日の私の家計簿にも、はっきりと『500円』と書いていました」
この事実を突きつけられて反論できない信平側は、訴状で「8月17日頃」と1日ずらし、「頃」と不明瞭にしてきた。
学会側から客観的証拠に基づいて反証されると、今度は「8月16日から同月18日の間」と変更。時間についても「5時半より7時半頃までの間」と曖昧にし、ウソを言い繕おうとしたのである。
また信子は当初、額が大きく腫れ上がり、服がボロボロになったと主張していたが、16~19日に聖教新聞のカメラマンが撮影した写真のどれを見ても笑みを浮かべる信子が写っており、当然、額にけがなどなく、衣服に全く異常もなかった。日にちも時間も全ての主張が破綻した。
そもそも、信子の言う“事件”が起きた「銀月門を入って数メートルの場所」というのは、公道から丸見えであり、当時は24時間の警備態勢まで敷かれていた。また朝6時ごろから役員が門扉の内側のテントで任務についており、“事件”めいたことが起こるわけがないのである。
さらに信平夫婦は、またもや“偽装工作”を行う。もともと夫婦は“92年5月に2度、事件に抗議する手紙を出したから学会役職を解任された”などと言っていた。その証拠として出してきたのが「書留郵便物受領証」と「手紙の下書き」なるもの。だが実際、“抗議の手紙”など存在しないのだ。学会側は、受領証と同じ日付、引き受け番号のついた“本物の手紙”を証拠として提出。抗議とはおよそ真逆の内容だった。結局、夫婦が出した「手紙の下書き」とやらは、信子が捏造して書いた偽物だったのである。
公道から丸見えの「銀月門」内部の様子。裁判所に1991年当時の状況を理解してもらうため、役員がついていたテントを再現し、門扉からの距離を数字(メートル)で示している
公道から丸見えの「銀月門」内部の様子。裁判所に1991年当時の状況を理解してもらうため、役員がついていたテントを再現し、門扉からの距離を数字(メートル)で示している
「100万件に1件」という「訴権の濫用」として断罪
「100万件に1件」という「訴権の濫用」として断罪
この「狂言訴訟事件」の悪質性、異常性は、少しでも裁判を長引かせるための“ウソ”を作ったことも、その一つとして挙げられる。
民法は、損害賠償請求権を「3年間」行使しない場合、時効で消滅すると規定している。信子が言う3回の“事件”なるものが仮に存在したとしても、その日時から「時効」が成立することは明らかだった。つまり信子だけが原告であれば、裁判はすぐに終了してしまう。
そこで信平側は、何とか時効を逃れて騒ぎを拡大するため姑息な手段に出る。夫の醇浩が“最近になって事件の話を聞いて精神的苦痛を受けた”として、醇浩も原告となったのだ。
しかし当然ながら、東京地裁(98年5月)と東京高裁(99年7月)は「時効」である信子の訴え全てと、「除斥期間」(不法行為から20年経過により損害賠償請求が失効する制度)を過ぎた醇浩の訴えの一部を請求棄却。信平側は上告を断念し、敗訴が確定した。
残されたのは、醇浩が賠償請求した「83年8月」と「91年8月」の2件のみ。それらも前述のように、学会側の明快な反証によって、苦しい言い逃れや偽装を繰り返すばかりに終始した。
1審(2000年5月、東京地裁)は、「本件訴えを却下する」と主文を言い渡した。通常の民事訴訟で訴えを退ける場合、「原告の請求を『棄却』する」となるところである。それが「却下」となったのは、そもそも裁判制度の利用が許されないほど悪質で、「訴訟を起こしたこと自体が不当である」と判断したことを意味する。
判決は、信平夫婦が狂言訴訟を起こすに至った経緯や、夫婦の「個性、人柄」にまで踏み込んだ(信平夫婦の異常性については「メモB」)。
そして審理の結果、「原告(=信平側)の主張する権利が事実的根拠を欠き、権利保護の必要性が乏しい」と指摘。「本件訴えは、訴権を濫用するものとして不適法」であり、「このまま本件の審理を続けることは(中略)原告の不当な企てに裁判所が加担する結果になりかねない」と厳しく断罪したのだ。
これに対して信平側は控訴するも、東京高裁(01年1月)は「当裁判所も、控訴人の本件訴えの提起は、訴権の濫用に当たり不適法であるから、本件訴えを却下すべきものと判断する」と一蹴。信平側は最後の悪あがきで上告したが、最高裁は同年6月、高裁判決から5カ月弱という早さで「上告棄却」を決定した。
前代未聞の狂言裁判が、「訴権の濫用」という誰の目にも明らかな形で完全決着を見たのである。
(「狂言訴訟事件」の時代背景はこちら)
(同事件に関する証言はこちら)
この「狂言訴訟事件」の悪質性、異常性は、少しでも裁判を長引かせるための“ウソ”を作ったことも、その一つとして挙げられる。
民法は、損害賠償請求権を「3年間」行使しない場合、時効で消滅すると規定している。信子が言う3回の“事件”なるものが仮に存在したとしても、その日時から「時効」が成立することは明らかだった。つまり信子だけが原告であれば、裁判はすぐに終了してしまう。
そこで信平側は、何とか時効を逃れて騒ぎを拡大するため姑息な手段に出る。夫の醇浩が“最近になって事件の話を聞いて精神的苦痛を受けた”として、醇浩も原告となったのだ。
しかし当然ながら、東京地裁(98年5月)と東京高裁(99年7月)は「時効」である信子の訴え全てと、「除斥期間」(不法行為から20年経過により損害賠償請求が失効する制度)を過ぎた醇浩の訴えの一部を請求棄却。信平側は上告を断念し、敗訴が確定した。
残されたのは、醇浩が賠償請求した「83年8月」と「91年8月」の2件のみ。それらも前述のように、学会側の明快な反証によって、苦しい言い逃れや偽装を繰り返すばかりに終始した。
1審(2000年5月、東京地裁)は、「本件訴えを却下する」と主文を言い渡した。通常の民事訴訟で訴えを退ける場合、「原告の請求を『棄却』する」となるところである。それが「却下」となったのは、そもそも裁判制度の利用が許されないほど悪質で、「訴訟を起こしたこと自体が不当である」と判断したことを意味する。
判決は、信平夫婦が狂言訴訟を起こすに至った経緯や、夫婦の「個性、人柄」にまで踏み込んだ(信平夫婦の異常性については「メモB」)。
そして審理の結果、「原告(=信平側)の主張する権利が事実的根拠を欠き、権利保護の必要性が乏しい」と指摘。「本件訴えは、訴権を濫用するものとして不適法」であり、「このまま本件の審理を続けることは(中略)原告の不当な企てに裁判所が加担する結果になりかねない」と厳しく断罪したのだ。
これに対して信平側は控訴するも、東京高裁(01年1月)は「当裁判所も、控訴人の本件訴えの提起は、訴権の濫用に当たり不適法であるから、本件訴えを却下すべきものと判断する」と一蹴。信平側は最後の悪あがきで上告したが、最高裁は同年6月、高裁判決から5カ月弱という早さで「上告棄却」を決定した。
前代未聞の狂言裁判が、「訴権の濫用」という誰の目にも明らかな形で完全決着を見たのである。
(「狂言訴訟事件」の時代背景はこちら)
(同事件に関する証言はこちら)