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「共に思いやる」ことから「ケア中心の社会」をつくる――インタビュー 兵庫県立大学准教授 竹端寛さん㊤ 2023年12月22日

  • 〈危機の時代を生きる 希望の哲学〉

  
 今、日本には「ケア」が足りていないと、兵庫県立大学准教授の竹端寛さんは語ります。「子育てを通じて生き方が変わった」と言う竹端さんに、豊かな関係性に基づく「ケア中心の社会」について、上下2回で聞きます。
 (聞き手=掛川俊明、村上進 ㊦は明23日付に掲載予定)
  

■妻と夫の間に育まれる「同志のような連帯感」

  
 ――竹端さんの近著『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマー新書)では、子育ての経験についても書かれています。実は、記者も子どもが生まれたばかりで、育児真っ最中です。
  
 私は、42歳の時に娘が生まれてから6年間、それまでとは別世界を生きるような日々を送ってきました。
 まず、夫婦という「二者関係」から、子どもを加えた「三者関係」になりました。それは「1人増えただけ」ではありません。
  
 「妻と夫」という一つだけだった関係性が、「妻と夫」「妻と子ども」「夫と子ども」、さらに「夫婦に対する子ども」「妻と子どもに対する夫」「夫と子どもに対する妻」と、6パターンもの関係性になるんです。
  

竹端さんの主な著書
竹端さんの主な著書

  
 生まれたばかりの赤ちゃんも、言葉は話せなくても「泣く」という表現で意思表明をしています。子どもと親の関係性の中で、さまざまなコミュニケーションが始まるのです。
  
 私の経験から、パパになった人に伝えたいのは、生後間もない最も大変な時期の苦労を、ママと子どもと一緒に共有してほしいということです。
 私たち夫婦は、親が遠く離れて住んでいたので、子どもが生まれてすぐの頃は、二人で悪戦苦闘の毎日でした。
 泣きやまない娘を抱っこして、子守歌を歌い続けた夜中。「いつまで、この大変さが続くのだろう」と、つらい気分になる時もありましたが、小さい命を守ろうと必死でした。
  
 こうした大変な時期を夫婦で共にくぐり抜けたからこそ、妻との間に「同志のような連帯感」が育まれたと思います。
  

■失敗と反省を超えて――ケアとは「苦労を共にする」こと

  
 ――そうした子育ての経験が、ケアについて本を書いた、きっかけになっているのでしょうか。
  
 そうですね。娘の育児を経験して、ケアは「弱者とされる人たちのための特別な営み」ではない、と感じました。
 誰もが、赤ちゃんの時から大人になるまで、膨大な「お世話」を受けてきています。私たちの身の回りには、ケアが、そこかしこにあるのです。
  
 ケアは、ある意味で「苦労を共にする」ことです。それは、とても時間がかかり、面倒なことでもあります。
 私自身、社会福祉の研究者でありながら、実は、ケアを避けてきた部分がありました。けれど、育児をする中で、ケアについて突き付けられた瞬間が、何度もありました。
  

  
 一日中、育児と家事をして、ふと「今日、なんもしてへんな……」とつぶやいた時、妻から「何言ってるの? 娘の面倒を見て、洗濯も掃除もやったやん!」と言われました。
 私の中で「何かをする」ことが、仕事などの労働に限定されていたと気付かされたのです。育児や家事といった活動を「何もしていない」ことだと思っていたのかと、反省しました。
  
 確かに、子どもが生まれるまでの私は、仕事中心の生活でした。就職先が2年間見つからなかった経験もあり、やっと採用された勤務先で「とにかく業績を残して、研究者として生き残らなければ」と。
 いつの間にか、労働や成果が全てかのような「生産性至上主義」に染まっていたのです。
  
 またある時は、早く帰れない仕事が重なり、育児の負担が妻に偏ることが続きました。
 帰宅した際、ふとしたやり取りの中で「こっちだって仕事で疲れて帰ってきたのに」と言いかけた自分に、ハッとしました。
  

  
 反省を込めて、正直に告白すれば、「賃金労働で稼いでいるのは私」という不遜な思い込みがあったのです。
 働いているという意味では、仕事も家事も同じはずであり、仕事は賃金が支払われる労働で、育児や家事は無給の労働です。
 私が言いかけた言葉の背景には、家事・育児は賃金労働より価値が低いかのような、恐ろしい思いが刷り込まれていました。
  
 仕事をすることで「食材を買う」ことはできても、幼い娘に「ご飯を食べさせる」には、料理し、お皿に盛り付け、スプーンで口に運ぶことなどが必要です。
 もちろん、生産性を求める仕事を否定するわけではありません。ただ、仕事を適切にしている状態と、仕事依存症のような働き方は違うと感じたのです。
  
 こうした日々を通して、仕事中心だった私の生活は、妻と子どもとケアし合う生活へ変わっていき、生きる姿勢を書き換えるような経験をしました。
  

■「生きづらさ」を感じたら「自分へのケア」を大切に

  
 ――近著では、大学で接する学生たちを見て、「自分自身へのケア」が不足しているとも指摘されています。自分へのケアとは、どういうことでしょうか。
  
 大学で働いていると、「相手の顔色をうかがいすぎる」学生が多いと感じます。幼い頃から、「周囲に迷惑をかけてはいけない」「ちゃんとしなさい」などと言われる中で、大人が認める「いい子」になろうとしてきたのだと思います。
  
 他人の顔色をうかがってばかりいると、「自分のしたいこと」ではなく「嫌でもしなければならないこと」を優先することになりやすい。そうした義務を果たし続けるのは、しんどいことです。
  

  
 障がい者文学の研究者である荒井裕樹さんは、「苦しみ」と「苦しいこと」の違いについて、次のように説明しています。
 「苦しみ」とは、「自分は○○がしんどい」というふうに、苦しさの内実を自分で理解し、言語化できること。一方で、苦しみを言語化できないとき、人は「苦しいこと」を別の形で表現します。
  
 大学でも、卒業論文の提出を前に音信不通になる学生や、ゼミで白紙のリポートを提出する学生など、さまざまな形で「苦しいこと」を表現しようとする様子を見てきました。
 どう表現したらいいか分からないけれどつらい、という「苦しいこと」があるとき、身近な人に話を聞いてもらえたら、少し楽になります。
  
 育児で悩んでいる人なら、パートナーやママ友、パパ友などの間で、そのしんどさを話せる機会があれば、自分自身がケアされます。ただ、日本社会では、そうしたケアが足りていないとも感じます。
  

  
 振り返ると、私も自分自身へのケアが欠けていたと思います。私が、ずっと気にし続けてきたのは「他者との比較」と「他者からの評価」だったからです。
 例えば、私は小学校の頃、自分はどんくさいと思っていて、友達とサッカーや野球などをすると、皆に迷惑がかかると思い込んでいました。誘われても、私よりもスポーツが得意な弟に行ってもらったことさえあります。
  
 他者と比べたり、学歴や職場での評価を気にしたり。そうしたことに躍起になると、ますます「他人に迷惑をかけてはいけない」と、空気を読み、同調圧力に身を任せるようになります。
 そうすると、自分自身への気遣いや配慮という「自分へのケア」が欠けていってしまいます。
  
 最近、学生の相談に乗っていると、「こんな話をして、迷惑ではないですか?」と聞かれることがあります。確かに、簡単に終わらないという意味では、こうした相談ごとは、面倒くさいとも言えます。
 「でもね」と、いつも言葉を続けています。自分の中に苦しいことをため込むばかりでは、いつかそれは暴発しませんか、と。
  

  
 日本社会の「生きづらさ」は、表面的に物事をスムーズに進めるために「迷惑をかけたくない」と思うあまり、その裏側で、どんどんたまっていくものだと思うのです。
  
 自分をそこまで傷つけるくらいなら、他人に迷惑をかけてもいい。
 そう言うと、過激なメッセージにも聞こえます。けれど、私がこう思うようになったのも、娘の育児を経験してきたからです。
  
 赤ちゃんは、親や大人がお世話しなければ生きていけません。つまり、「他人に迷惑をかけるしかない存在」です。
  
 そんな赤ちゃんの育児は私たち夫婦にとって、迷惑をかけられ、振り回される毎日でした。
 娘は本当にかわいいけれど、同時に手のかかる、面倒くさい存在でもあります。にもかかわらず、私たちは、娘をケアすることで、娘からもケアされるという「ケアし合う関係」をつくってきました。
 それは、ある意味で「迷惑をかけ合う」毎日なのですが、そこには豊かな世界が広がっていたと感じます。
  

■「about-ness」と「with-ness」の考え方の違い

  
 ――「ケアし合う関係」の中で得られる豊かさとは、どんなものでしょうか。
  
 育児を始めた当初は、「親が子どもをケアしてあげている」と思っていましたが、徐々に「親も子どもからケアされている」ことに気付きました。
 子どもは、四六時中お世話やサポートが必要な「か弱い存在」であると同時に、親をはるかに超える「強さを持った存在」でもあるのです。
  
 例えば、娘と公園に出かけると、必然的に仕事から離れざるを得ません。強制的に仕事の時間を断ち切ってくれる娘のおかげで、私は自分がいかにワーカホリック(仕事中毒)的に働いてきたかに気付きました。
 また、子どもと里山に登ったり、サッカーをしたり、一緒に汗をかくうちに、親が大人になる過程で忘れてきた、純粋な喜びや面白さ、ワクワクする気持ちを取り戻せました。
  
 子どもをケアし、一緒の時間を過ごすことで、親も大切な何かを受け取っています。ケアは、一方通行ではないと感じたのです。
  

  
 政治学者のジョアン・トロントは、ケアには5種類あると書いています。
 ①関心を向けること、②配慮すること、③ケアを提供すること、④ケアを受け取ること、そして⑤共に思いやること、です。
  
 ①~④は、これまでも「ケア」について言われてきたことです。そこに、五つ目の「共に思いやる」ことを加えたのが、大切なポイントだと思います。
 ケアの喜びは、「生産的なこと以外の喜び」とも言えます。それは、家事や育児だけでなく、近所のお祭りの手伝いをしたり、家の庭仕事を買って出たり、友人を呼んでホームパーティーを催すことなども含まれます。
 そこには、「具体的な他者」との関わりがあります。
  
 こうしたケアには、お金をかけて外部委託すれば、手間を省けることも多く含まれています。けれど、手間や苦労を含めて、他者と「共にする」ことにも意義があるのです。
  

  
 心理療法家のジョン・ショッターは「アバウトネス(about-ness)」と「ウィズネス(with-ness)」という考え方の違いを説明しています。
  
 「アバウトネス」な考え方とは、「○○について考える」というやり方。問題を対象化して、客観的に分析するような思考のことです。
 常に問題を細分化して、人ごと化しやすい側面があり、「それは△△が悪い」と、上から目線で指摘しやすいものです。
  
 他方、「ウィズネス」な考え方は「○○について、あなたと私が共に考え合う」という姿勢のことです。
 これは、一方的な助言や指導、アドバイスではありません。共に考え合うためには、まずは相手の悩みや苦しいことを、最後まで、じっくり聞くことが求められます。
 その中で、おかしいなと思うことがあっても否定せず、まずはそっくり丸ごと受け止めます。
 その後、話を聞いた自分は、どう感じたのかを、「私」を主語にして話してみるというアプローチです。
  

  
 学校、職場、SNSなどを思い返しても、今の日本は「アバウトネス」の話が、あふれかえっているように感じます。
 一方で「ウィズネス」のアプローチが増えれば、それぞれの苦しいことを、じっくり受け止めてもらえます。そういう具体的な他者との関わりが、ケアしケアされる関係をつくっていくことになります。
  
 大学のゼミや面談でも、そういう場をつくろうと心がけていると、学生は「ちゃんと聴いてもらえて、うれしかった」「初めてこんなことを話せた」といった感想を言ってくれます。
 自分のしんどさを丸ごと受け止めてもらえる経験を通して、自分の言葉を取り戻したり、自分の本当の思いを大事にしたりする。そうした経験をできる場所が、もっと必要なのだろうと思います。
  
●インタビューの㊦は、こちらからご覧いただけます。
  

  
 たけばた・ひろし 1975年、京都市生まれ。兵庫県立大学環境人間学部准教授。専門は、福祉社会学、社会福祉学。子育てをしながら、福祉やケアについて研究。著書に『ケアしケアされ、生きていく』(ちくまプリマー新書)、『家族は他人、じゃあどうする?――子育ては親の育ち直し』(現代書館)など。
  

  
●ご感想をお寄せください。
 kansou@seikyo-np.jp
 ファクス 03-5360-9613
  
こちらから、「危機の時代を生きる」識者インタビューの過去の連載の一部をご覧いただけます。
  
  

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1980年東京都生まれ。文筆家、「桃山商事」代表。早稲田大学第一文学部卒業。ジェンダー、恋愛、人間関係、カルチャーなどをテーマにさまざまな媒体で執筆。朝日新聞beの人生相談「悩みのるつぼ」では回答者を務める。著書に『おしゃべりから始める私たちのジェンダー入門──暮らしとメディアのモヤモヤ「言語化」通信』(朝日出版社)など多数。女子美術大学非常勤講師。

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