• ルビ
  • 音声読み上げ
  • シェア
  • メール
  • CLOSE

沖縄本土復帰から50年を経て――悲劇の地を平和の砦へ 島から人類史の転換を 2022年12月3日

  • 連載〈SOKAの現場〉 ルポ・沖縄に生きる㊤
恩納村の沖縄研修道場で、地元の同志がにぎやかに
恩納村の沖縄研修道場で、地元の同志がにぎやかに

 創価学会員の「価値創造の挑戦」を追う連載「SOKAの現場」では、取材ルポと社会学者・開沼博氏による学会の原動力を探究した寄稿を掲載する。今回のテーマは「沖縄に生きる」。“最も苦しんだ人が最も幸福に”との池田大作先生の信念は、本土復帰から50年を経て、どう沖縄の友の心に広がり、今に受け継がれているのか。話を聞いた。(取材=野村啓、小野顕一)
  
  
  

■残された核ミサイルの発射台

 沖縄有数のリゾート地として知られる恩納村。
 
 サンゴ礁が輝き、柔らかな海風がそよぐ。マリンレジャーを楽しむ人で、辺りはにぎわいを見せる。
 
 高台に立つ沖縄研修道場に足を踏み入れると、そこには巨大なコンクリートの壁が。六角形のくぼみが、等間隔に八つ並んでいる。
 
 この一つ一つが、かつてアメリカの核ミサイル「メースB」の発射口だった。米軍基地の跡地が整備され、沖縄研修道場が誕生したのである。
 
 この地で生まれ育った宮里清要さん(県長)は、ミサイル発射口が残っていた当時の光景を今も鮮明に覚えている。両親は研修道場の管理人を務めていた。
 
 「コンクリートむき出しの異様な廃虚で、いつになったら取り壊されるのだろうと、ずっと思っていました。重機でも、びくともしなくて。ここにあったという核ミサイルが、あわや発射寸前の状況だったとは、知る由もありませんでした」

宮里清要さん
宮里清要さん

 メースBの射程距離は2400キロ。1発が広島型原爆の約70倍の威力である。沖縄全体に発射施設は4カ所あり、32基ものメースBが配備されていた。
 
 現存する発射台は、研修道場に残るのみである。
 
 米ソの全面核戦争が危惧された60年前のキューバ危機では、メースBの発射命令が誤って出されたものの、現場指揮官の判断で発射されなかったことが、後に明らかとなった。

撤去される米軍の中距離核ミサイル「メースB」(1969年12月、恩納村で=時事)
撤去される米軍の中距離核ミサイル「メースB」(1969年12月、恩納村で=時事)
■平和を考える原点の場所に

 当初、研修道場の建設に際し、廃虚と化したミサイル発射台は撤去される計画だった。
 
 しかし、池田先生の発想は違っていた。
 
 「基地の跡は永遠に残そう。『人類は、かつて戦争という愚かなことをしたんだ』という、ひとつの証しとして。沖縄には、平和を考える原点の場所として、ひめゆりの塔もある。健児の塔もある。それとは別の意味で、日本はもちろん世界の平和を考える原点の場所としよう」
 
 発射台の上には、6体のブロンズ像が設置され、1984年、「世界平和の碑」として新たに生まれ変わったのである。

沖縄・恩納村の沖縄研修道場にある「世界平和の碑」
沖縄・恩納村の沖縄研修道場にある「世界平和の碑」

 「発射台が残されると聞いて驚きました」と、宮里さんは振り返る。
 
 その後、研修道場では、学会主催で地域に開かれた“恩納フェスティバル”などが開催され、宮里さんもバンド仲間を誘って一緒に盛り上がった。皆、発射台跡に感嘆し、池田先生の平和への理念にうなずいた。
 
 池田先生の研修道場訪問は10回を数える。沖縄の友との語らいの場であり、やがて世界の同志や海外の要人が相次いで訪れる、交流の舞台となっていく。
 
 「毎年、先生のご来島が待ち遠しくて」と語るのは名嘉眞ウメ子さん(県副女性部長)。先生と同志の間で交わされる、朗らかなやり取りを見つめてきた。
 
 1960年の沖縄初訪問以来、先生は同志の輪の中に入り、悩みに同苦し、共に喜び舞うのが常だった。語られる戦争の体験や苦闘の近況に耳を傾けながら、「最も苦しんだ人が、最も幸福になる権利がある」と励ましを送ってきた。
 
 「この小さな村に世界中から人が集まるようになりました。恩納村も発展し、沖縄でも有数のリゾート地になっています」

名嘉眞ウメ子さん
名嘉眞ウメ子さん

 名嘉眞さんは自治会や婦人会の友人と連れ立って、研修道場に足を運ぶ機会も多い。発射口跡の一つに平和展示が設けられている。
 
 「思想や主義などが異なる人も、平和の尊さという一点で、この場所から踏み出していける。池田先生が“ミサイルの発射基地”を“平和の発信地”に変えてくださった重みを、月日とともに感じます。研修道場は、私たちの誇りであり、使命そのものなんです」
 
 恩納村に隣接するうるま市に住む冨里悟さん(支部長)も、たくさんの友人を研修道場へ案内してきた。
 
 長年、地元の区の審議委員を務め、現在は委員長として奮闘する。率先して地域行事や清掃の企画・運営を担い、2019年には自治会の研修会で沖縄研修道場へ。区長ら十数人の役員と、展示等を見て回った。
 
 「景観や利便性を考えたら取り壊して当然なのに、よく残してくれた」「今では“遺す”という選択肢も思い浮かぶが、あの当時にそんな判断ができるとは」等々の声が聞かれた。
 
 アメリカの資料公開で新事実が明らかになり、メディアで特集されるたび、研修道場への訪問者は増え、平和の起点として人と人がつながる場となっている。

冨里悟さん
冨里悟さん
■生命の叫び

 1972年5月15日。
 
 沖縄は27年に及ぶ米国施政下から日本へ復帰した。
 
 ドルから円に通貨が変更され、車両が右側通行から左側通行に変わるなど、県民の日常は一変した。
 
 桃原正義さん(総県総主事)は「もちろん復帰は大きな喜びでした。本土へ行くのに、パスポートや身分証明書、検疫の必要もなくなりましたから」と述懐する。
 
 生活の向上が望まれた一方で、本土との経済格差や米軍基地の存続など、期待と失望が入り交じった。
 
 “核抜き本土並み”という約束も、いつしかほごにされ、基地面積の割合も本土に比べ、徐々に増えていく。“本土並みといっても、まやかしじゃないか”。人々の心は引き裂かれ、不満は高まる一方だった。
 
 「反対運動のデモなんかは、必ずといっていいほど負傷者が出たんです。石や火炎瓶を投げたりして」と、桃原さんは回想する。騒動に巻き込まれ、頭を殴られて流血したこともあった。
 
 経済も基地の問題も、全てが暮らしに影響する。だが、基地がなくなれば全てが解決するわけでもない。
 
 社会の不満が募る中で、憎悪や暴力ではなく、いかに平和への思いを高めていくか――。「池田先生が初めて沖縄に来られて以来、沖縄の同志はそのことを一貫して教わってきました」と桃原さんは語る。
 
 「創価学会の平和運動とは、人間一人一人が幸せになることです。だから先生は宿命転換を訴えられ、沖縄の一人一人を徹底して激励してくださったんです」

桃原正義さん
桃原正義さん

 64年12月2日、池田先生は、この沖縄の地で、小説『人間革命』を起稿した。
 
 冒頭には「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない」と。
 
 ある折には“あなたたちの悲願が喚起せしめた、我が生命の叫びなのだ”とつづり残している。
 
 『人間革命』起稿のその日、学生部員だった桃原さんは先生と初めて出会う。沖縄本部(当時)での学生部員会の席上、先生は訴えた。
 
 「沖縄の歴史は、悲惨であった。宿命の嵐のごとき歴史であった。だからこそ、ここから、幸福の風が吹かねばならない。平和の波が起こらねばならない」
 
 先生の期待に応えるように、沖縄青年部は戦争体験の聞き取りや反戦出版への取り組みなどを通して、平和運動を推進していく。
 
 桃原さんは言葉を継ぐ。「今や、沖縄の創価学会は平和推進の運動団体であるとの社会的認知が定着しています。その一歩一歩が、“信心の戦い”でした」
 
 社会的にも政治的にも、人間の絆が断ち切られる中で、学会の平和運動は、より深い次元で人間と人間を結ぶものだった。

■信心の戦い

 沖縄青年部はピースフォーラムや平和意識調査をはじめ、さまざまな活動に取り組んでいる。
 
 証言集の継続的な出版とともに尽力してきたのが、戦争体験者に当時の過酷な様子を描いてもらう「沖縄戦の絵」の収集である。沖縄戦の写真のほとんどは米軍側が撮影したもので、沖縄の人々の側からの記録は皆無に等しかったからだ。
 
 当初、数カ月たっても絵は1枚も集まらなかった。そこで戦争体験者を訪ねては平和継承を訴え、約700枚を集めることができた。
 
 85年に「沖縄戦の絵」展が始まり、全国を巡回。複製したパネルは、平和教育の資料として、県内の学校等で今も活用されている。
 
 そして今年、新たにスタートしたのが、沖縄戦体験者への聞き取りをもとに制作した「沖縄戦の紙芝居」の貸し出しである。シナリオ作成と作画は、青年部の美里雄貴さん(男子部副部長)と、藤田毬音さん(県池田華陽会サブキャップ)が中心的に担った。
 
 美里さんも藤田さんも平和祈念公園(糸満市)の近隣の出身で、幼い頃から平和への意識があった。2人は創価大学に進学。上京していた時、県外の人が6月23日の沖縄「慰霊の日」を知らないことに衝撃を受けた。
 
 「修学旅行でたくさん来ているし、報道もされているのに」――戸惑いつつも、藤田さんは伝え続けていく大切さを感じたという。
 
 また美里さんは「残念ですけど、平和学習はどうしても受け身になってしまいがちです。私自身、展示を見聞きした後、感想欄を埋めることばかり考えていたこともありました」と。

美里雄貴さん
美里雄貴さん

 今回の紙芝居は2年をかけて作成。“平和の大切さを実感してもらうために、どう伝え、どう描くべきか”――繰り返し話し合い、沖縄戦を経験した婦人に何度も話を聞いた。完成した紙芝居は小学校等に貸し出され、高く評価されている。
 
 美里さんは「作成を通して、自分たちが一番の学びを得た」という。「誰かに伝えようとすることで初めて能動的に取り組むことができ、前よりも“継承”という実感が持てた」と。
 
 さらに美里さんは語る。
 
 「平和運動にはさまざまな形がありますが、自分の実感を通して戦争の悲惨さを知り、心から平和を願えるようになることが、一つの鍵ではないでしょうか。その主体的な意志は、“人のために祈り、行動する”信心の戦いの中で、大きく育まれるように感じます」
 
 藤田さんも、日頃の学会活動を通して平和への思いを育んできた実感がある。自身が納得して取り組めるまで、足しげく通ってくれた未来部担当者や地域の学会員に感謝は尽きない。

■一番苦しんだ人が一番幸せになれる

 池田先生は記している。
 
 「核も、戦争も、人の心から生まれた。ならば、まず人の一念の『発射の向き』を変えよ! その逆転の作業を! 『碑』はその象徴である。人類史の悲劇が、この小さな島に集約された。ゆえに、人類史の転換を、この島から起こすのだ」
 
 研修道場のミサイル発射台も、忌まわしき戦争の記憶も、さらには戦後も続く分断の荒波も、沖縄の同志は自らの宿命転換の実践の中で使命の道へと変えてきた。その根底にあるのは、先生が沖縄でつづった「人間革命」の哲学である。
 
 「一番苦しんだ人が、一番幸せになれる」――その信念が自らの実感として強く息づいているからこそ、学会の平和運動は、大勢の人々の共感を得ながら、次代に引き継がれていく。
  
  
  
 最後までお読みいただき、ありがとうございます。ご感想をお寄せください。
 kansou@seikyo-np.jp
 ファクス 03-5360-9613
  
  
 「SOKAの現場」の過去の連載はこちらからご覧いただけます(電子版有料会員)。

動画

SDGs✕SEIKYO

SDGs✕SEIKYO

連載まとめ

連載まとめ

Seikyo Gift

Seikyo Gift

聖教ブックストア

聖教ブックストア

デジタル特集

DIGITAL FEATURE ARTICLES デジタル特集

YOUTH

劇画

劇画
  • HUMAN REVOLUTION 人間革命検索
  • CLIP クリップ
  • VOICE SERVICE 音声
  • HOW TO USE 聖教電子版の使い方
PAGE TOP